2015年9月13日 主日礼拝「十字架のことばの宣教」
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一2章1節〜16節
説教題
「十字架のことばの宣教」
今週の聖句
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(Ⅱテモテ3章16節)
訳してみましょう
1727 Dont’t be a Christian in name only.
(名ばかりのクリスチャンになるな。)
1728 Never underestimate the value of one soul.
(一つの魂の値打ちを、過小評価してはならない。)
説教メモ
神のみを見よ
今日の箇所を学んで行く前に、先週示された一つのことを、まず皆さんにお願いしたいと思います。
それは、「神のみを見よ」ということです。
私がアメリカでクリスチャンになった頃、私の祖母の弟のお嫁さんで、107歳まで生きた「北沢きよさん」という人がいました。
その叔母が私に口癖のように言ってくれた言葉があります。
一度だけではなく、何度も何度も言ってくれました。それは、
「教会へ行っても、人を見てはダメよ。人を見たらつまづくよ。」
ということでした。
「教会は神さまを礼拝しに行くのだから、しっかり神さまを礼拝しなさいよ。」と忠告してくれました。
それはとてもありがたい忠告でした。
皆さんもお分かりのように、教会には色々な人が集います。
大人も、子どもも、教育のある者、そうでない者、健康な人もいれば病気の人もいます。
そういうところが教会です。
決して理想的な人々ばかりが集っているところではありません。
クリスチャン同士という横のつながりはもちろん大切です。
しかし教会は、神さまのみを礼拝する場所です。
何年も教会に集っておられる方にお願いします。
それは「自分の信仰のはかりによって、他の人を見ないでください。」ということです。
他人の信仰を見て裁いてはいけません。
信仰の態度、度合いなどはその人自身のものです。他人に裁かれるものではありません。
信仰歴が浅かったり、色々な試練や問題で信仰が弱ってしまっている人を、自分の信仰のはかりによって裁いたり、見下すようなことをしてはいけません。
「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」(Ⅰコリント10章23節)
「あなたがのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(コロサイ4章6節)
私たちが何か言ったことに対して、聞いた人がどう受け止めるか。
それはなかなか私たちにはわかりません。
決して人を裁くようなことを言ってはいけません。
そして、自分の信仰の度合いによって人を見てはいけません。
私たちは相手の徳を高め、励ますことのできる言葉を語りましょう。
宣教
それでは、Ⅰコリントに戻りましょう。
まずは「宣教」ということです。
宣教とは、十字架の福音を宣べ伝えることです。
それがクリスチャンのひとつの働き、仕事です。
羽鳥明先生が何度もお証ししていることですが、弟の羽鳥純二先生が救われた時のお話です。
羽鳥純二先生は、今は立派な牧師先生ですが、救われる以前は東大を出て後、コチコチの共産党員となりました。
羽鳥明先生はいつかそんな弟が救われることを心から願っていました。
ある日、宣教師が牧会し、言葉の関係で毎週色々な先生をお招きしメッセージを語ってもらってた教会の礼拝に弟の純二先生を連れていきました。
しかし、その日の先生の、そしてメッセージにとてもがっかりしたそうです。
その日語られた先生は、老いぼれており、腰のベルトからタオルをぶら下げているような格好で見るからに弱々しく、言葉も東北なまりがありました。
メッセージの内容も、知的な内容は少しもなく、とても簡単なメッセージでした。
十字架のイエス様、そして三日目のよみがえりを淡々と語られた内容だったそうです。
東大出で知的な、しかも熱心な共産党員の弟が、こんなメッセージで救われるはずがないと、羽鳥明先生はとてもがっかりしました。
ところが、その田舎牧師がメッセージの最後に「このイエス様を信じる人は手を挙げなさい。」との招きに、
弟の純二先生は手を挙げ、応えたのです!
「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリント2章4節)
無力で愚かに聞こえる十字架のことばには、神さまの力が宿っているのです。
パウロはコリントに行く前に、アテネを通りました。
アテネに滞在していた時に、アレオパゴスの議会の真ん中に立って大胆に語りました(使途17章参照)。
そこで語った内容は、アテネの学者たちにも通用するような立派な内容でした。
それから後にコリントに行き、そこで気付きます。
「私はアテネでは愚かに見える十字架のことをあまり強調しなかったなぁ」と反省したのです。
それで
「私は、あなたがの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2章2節)
と告白しています。
当時コリントは、アテネよりも文化的都市でした。
そのコリントで、ユダヤ人にはつまづきで、異邦人には愚かでしかない「十字架の福音」以外、語ることをしないとパウロは固く決心したのです。
「あなたがたといっしょにいたとき(アテネにいた時)の私は、弱く、恐れおののいていました。」(Ⅰコリント2章3節)
とも言っています。
しかし、パウロは、この弱さ(愚かに見える十字架のことをあまり強調しなかった)のうちにキリストの御力が完全に現れ「私が弱いときにこそ、私は強いのだ。」と後になって気づきます。(Ⅱコリント12章10節)
私たちが宣べ伝えることは「キリストの十字架」です。
私たちが宣べ伝える方法は、説得力と知恵のあることばによるのではなく、「御霊と御力」によってです。
パウロはとても立派な学者でした。
十二使途以上に学識があり、知的な宣教師でしたが、そのパウロが「人間の知恵にささえられず、神の力に支えられ」(Ⅰコリント2章5節)ながら、単純に十字架のことばのみを宣べ伝えようと決心したのです。
私たちもそのようにして語る十字架のことばに、人を救う神の御力が働きます。
神の奥義
さて、サタンはどのように働くでしょうか。
サタンは神の御子を十字架にかけて殺すことが自分たちの使命としていました。
イエス様が十字架にかけられ死んだ時、サタンたちは喜びました。
ところがそのキリストが三日目によみがえられ、サタンに勝利しました。
そのことを「隠された奥義としての神の知恵」だと聖書は言います。(Ⅰコリント2章7節)
十字架は一見敗北のようであったけれどもそうではありませんでした。
「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(Ⅰコリント2章8節)
「この世の支配者」とはだれでしょうか。
それは、ヘロデ大王であり、ピラトであり、またその背後に働く悪霊やサタンのことです。
「この知恵」とは、7節で語られた「隠された奥義としての神の知恵」つまり三日目のよみがえりによるサタンに対する勝利、そして十字架による神の救いの計画のことです。
この世の歴史上の支配者たちの背後に働くサタンや悪霊は、神さまの救いの計画を知りませんでした。
もし知っていたなら、いたずらにキリストを十字架にかけなかったでしょう。(Ⅰコリント2章8節)
それは自分たちにとってマイナスの結果を招くことだからです。
ですからかえって、何としてでもキリストを十字架にかけないようにしたでしょう。
十字架の御業はサタンを滅ぼし、その支配からこの世を贖い出す神さまの方法でした。神さまの方法とはどんなものでしょうか。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(Ⅰコリント2章9節)
と書いてあるとおりです。
さて、キリストの十字架が自分たちにとって敗北の原因であったと悟ったサタンは、それ以来、キリストの十字架によって救われる者が起こされることのないように妨害することに躍起になりました。
そのためにサタンが用いる方法は、「キリストの十字架が愚かで無意味だ」と思わせることです。
実際にキリスト以外を信仰する宗教は、神さまの知恵である十字架を否定しています。
そして信じているのは「人間自身の行いによる救い」です。
異端的なキリスト教も十字架を否定しています。
夕べもNHKで進化論が放送されていました。
私たち哺乳類は、以前は卵によって生まれていたのですが、ある日世界的な規模で天変地異があり、生き残るためにある日突然、卵ではなく孵化した状態で生まれてこられるすべを手に入れたという主張でした。
多くの人たちは、信じられないような「ある日突然」の生態の変化を、何の抵抗もなく受け入れます。
そのように、生まれながらの人間は、「この世の霊」に支配されているので、サタンの主張を抵抗なく受け入れることができます。
「神さまの奥義」は、「神さまの霊」によってでのみ悟ることができます。
それ以外に方法がないことを、パウロは
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(Ⅰコリント2章10節)
このように言っています。
御霊による啓示
私は子どもの頃、どちらかというと品行方正で、小学校の先生には可愛がられるような存在でした。
当時の先生に、私がアメリカに行くことを報告しに行くととても喜んでくださいました。
そして帰国後、牧師となって教会の奉仕をするということにもとても喜んでくださいました。
その先生に、私と家内は毎月クリスチャン新聞の福音版を送っていました。
私たちはそのような先生だから、きっと神さまを受け入れていて、いつか神さまを信じて救われるものと思っていました。
ところがある日急に「もう福音版は送らないでください」との申し出がありました。
とてもがっかりしました。
そのような経験をみなさんもされたことがあるのではないでしょうか?
パウロは
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2章14節)
神さまの奥義は、御霊によって啓示されて初めて知ることができます。
生まれながらの人間は神の御霊を受けていないので、神さまを知ることができないのです。
神さまの聖霊が与えられて初めて、私たちは霊的に生きた者とされます。神さまのことが分かるようになります。
人間はどんなに知恵があっても、どんなに努力をしても、それだけでは神さまを信じることができないのです。
「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12章3節)
聖霊は神さまの霊です。神さまから与えられる霊です。
召された者のうちに宿る神さまの霊です。
私たち受けた霊は、神さまを知ることのできる「啓示の御霊」です。
神さまが私たちに御霊を与えてくださった目的のひとつは、
「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」(Ⅰコリント2章12節)
とあるとおり、恵みによって私たちが賜ったものを、私たちが知ることです。
そして私たちが知った、「恵みによって賜ったこと」について他の人に伝える、つまり神さまを宣べ伝えるためには
「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」(Ⅰコリント2章13節)
とあるとおりです。
「御霊に教えられたこと」とは具体的に何でしょうか。
それは「神さまの霊感によって書かれた聖書のことば」です。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1章21節)
ペテロもそのことを裏付けています。
私たちが手にする聖書66巻の聖書のことばは、神さまからのメッセージです。
私たちが福音を証しする、宣べ伝えることは、御霊の教える聖書のことばを用いて、そして御霊によって導かれ、その福音を語らなければなりません。
それがパウロが私たちに託した宣教に対するメッセージです。
十字架と三日目のよみがえりの出来事を淡々と人々に証ししていく。
知恵のことばを用いるのではなく、神さまがいかに十字架を通してご自身の御愛を私たちに示してくださったか、そのことを淡々と語る。
これから私たちが神さまを宣べ伝えていくとき、そのようなことを心にとめておていいただきたいと思います。