2015年11月8日 主日礼拝「終末を迎える準備」

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章32~51節

説教題

「終末を迎える準備」

今週の聖句

「この天地は滅びます。しかしわたしのことばは決して滅びることがありません。」

 
訳してみましょう
1743 Worry is futile; faith is fruiful.
(心配は無駄です。信仰は実りがあります。)
1744 A fruitful life is a happy life.
(実りある人生は幸せな人生です。)
 
yasou34haruri
今、私たちが生かされているこの時代は、終末の時なのではないかということを、聖書を読まない多くの方々も、うすうす感じているのではないでしょうか。
聖書には終末の前兆のひとつである「地震」が記されています。
2000年前に比べ、現在地震の発生数は何倍にもなっています。
ほぼ毎日といって良いほど各地で地震が起こっています。
戦争と、戦争の噂」も聞いています。
米ソの冷戦が終わり、平和がもたらされるといった期待がありましたが、かえってそのことにより、民族が民族に、宗教が宗教に立ち向かう事態になっています。
これら終末の前兆と思われる事柄は、決して目新しいことではありません
聖書にはっきりと記されていることです。
 
みなさんに聖書の次の2箇所を開いていただきたいと思います。
旧約聖書の最後は何でしょうか。
それは「マラキ書」です。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5-6)

「主の恐ろしい日が来る前に」と記されています。
これは終末のことです。
新約聖書の最後はどうでしょう。
新約聖書の最後は「黙示録」です。

「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。』」(黙示録22:20-21)

ここにも終末のことが記されています。
実は、聖書全体を通して終末が語られているのです。
 
終末はこれから起こることです。
本当にそれが起こるのか、皆さんは疑問に思っているかもしれません。
しかし、私たちは終末のメッセージを心して聞くべきです。
終末はまだまだ先のことなのではないか、と思ってしまいます。
しかし、

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24:29)

太陽が暗くなり光らなくなるなどの天体の異変、これは相当な異変です。
こんな信じられないような現象が起こるなんて、まだまだ先のことだと私たちは考えてしまいます。
そんな浅はかな思いが「サタンの攻撃材料、絶好のチャンス」となります。
再臨がいつ来るのか、それはおそらく多くに人たちの関心の的でしょう。
それ故に、これまで何度も「再臨は何年の何月に来る」などと偽の預言がされてきました。
今日は終末の学びの機会の最後となります。
今日のところを通して、私たちは終末のことを正しく理解できれば幸いです。
「いつ再臨が来るか」
それは私たちには知る必要のないことがお分かりになると思います。
イエス様は、終末がいつ来るか、弟子たちに知る必要はないとおっしゃいました。
イエス様ご自身も、終末がいつ来るかについては関心がないとおっしゃいました。
さらに、再臨がいつ来ても良いように、心の備えておきなさいとのメッセージを語っておられます。
 
●終末は絶対確実なこと
終末は確かにやってくることです。
 

「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(Ⅱテモテ2:2)

このように、過去の次代に「終末はすでに来たのだ」と言いふらす人たちがいました。
また、

「彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」(Ⅱテモテ2:18)

このように、「復活はすでに済んだのだ」と言いふらす人たちもいました。
ペテロはまた、

「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ3:2-3)

つまり、「天地創造のはじめから今日まで、何も変わっていないではないか。主の来臨の約束はどうなったのか。」などと馬鹿にし、自分たちの欲望のままに生活している人たちの姿を伝えています。
 
主が終わりのときに再臨されることは、絶対的、確実なことと聖書は私たちに告げています。

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)

いちじくの木のたとえです。
パレスチナのいちじくは葉よりも先に実がつきます。
つまり、葉が出るころ収穫の好機が近いことが分かります。
ルカもまた、

「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」(ルカ21:29-31)

このように伝えています。
収穫の好機を知ることができるように、夏が近づいたことに気づくように、
「神の国の完成の時」、「人の子が再臨される時」、「終末が近いこと」を私たちはあらゆる前兆を見て知ることができます

「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ24:34)

「これらのことがことごとく起こるまで」、これもひとつの、終末の前兆を表す現象です。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

ルカにもイエス様がおっしゃった、まったく同じ記述があります。

「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)

  • 天地が滅びるまでは律法はすたれない。
  • 律法は不動の天地よりも確かなものである。
  • その律法がすたれるよりも、天地が滅びる方が容易である。
  • これらのことが起こるまで、この時代は過ぎない。
  • この時代が過ぎ去るよりも、これらのことが起こる方が容易である。

「うつろいやすい人の世代よりも、預言が事実となって成就する方が確かである。」
こういった意味合いで書かれているのです。
これは、期限を表すのではなく、かならず起こることの確かさを表しています
気温が上昇すると夏が近づいたことが誰にも教えられなくても気づくように。
ルカの福音書の中で言えば「木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわる」ように、
この確かさがあるので、「すべてこれらのことを見たならば」終末が近いことに「確かに」気づくのです。
聖書に書かれている前兆を見ると、確実に終末は近いということが他人に教えられなくても気づくことができるのです。
他人に言われる必要がないのです。
そこには、牧師であっても、教会の長老であっても、聖書学者であっても、私たちに終末がいつ来るのかという助言をする余地などありません。
そのことを心に留めておいてください。
 
●目をさましていなさい
終末が訪れることは確実なことです。
ですから「目をさましていなさい」と聖書は告げています。

「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)

先程も申しましたが、その時は誰も知りません。
イエス様さえもご存じないとおっしゃっています。
しかし、神の御子であり、子なる神、全知全能なる神ご自身であるイエス様が、まったく知らないということではありません。
それは、「知らなくても良い」ということなのではないでしょうか。
「知る」とはヘブル語本来の意味からすると「関心がある、興味がある」という表現なのです。
イエス様が「知らない」とおっしゃっているのは、「知りたくない、興味がない」という意味合いで使われているのです。
弟子たちがしつこくその時を聞き出そうとしましたが、イエス様は弟子たちの質問を退け、次のようにおっしゃっています。

「イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒1:7)

イエス様は「その日、その時」に関して、関心も、興味もないとおっしゃっています。
すなわち「教えるつもりはない」とおっしゃっています。
 

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)

次にイエス様は、ノアのことを引き合いに出しています。
ノアの時代に起こった大洪水で、全てのものが失われました。
それまで地上の人々は気づきませんでした。
洪水が起こった時、彼らが全てを失ってしまうことに気づかなかった原因は何でしょうか?
預言がされていなかったからでしょうか?
そうではありません。
ノアの時代、洪水が起こることは何年にもわたって預言されていました。

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」(創世記6:14)

神さまがノアにこのように命じてから、箱舟は何年もかけて造られました。
それを人々は見ていたでしょう。
こんな山の中の、水辺でもないところで舟を造る行為はとても奇異で目立っていたことでしょう。
それ自体、彼らに対する警告でした。
ノアは人々に語ったのではないでしょうか。
「自分のいのちを救いたい者は、悔い改めて、一緒に箱舟を造ろうではないか。そして箱舟に入って難を逃れようではないか」と。
これは「預言」となりました。
しかし人々はノアの話しには耳を傾けませんでした。
やがて洪水の7日前に

「わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去る」(創世記7:4)

このような神さまの予告もありました。
7日後、神さまの予告どいり、今までとはまるで様子が違う雨が降り出しました。
そして、ノアとノアの家族、動物たちが箱舟に入り始めました。
これは「前兆」となりました。
「預言」も、「警告」も、「前兆」も、ノアの時代には十分にありました。
しかし人々はどうしたでしょうか。

「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

つまり、世俗的なことばかりに関心がいっていました。
「預言」も「前兆」も効果なく、やがて人々は滅ぼされてしまいました。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)

 
続いてイエス様は、盗人と家の主人のたとえで説明されています。

「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」(マタイ24:43)

目をさまして、用意をしておく。
盗人がいつ、何時に来ると分かっていればこそ出来ることです。
終末に対しても、必ずくることが分かっているのだから、目をさまし、準備をして、その時を待ちなさいというメッセージです。
 
しかし、その時がいつであるかは、イエス様のように、私たちは無関心でいるべきです。
ただ、その日のために準備をしなさいとのイエス様からのメッセージです。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:4)
「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」(黙示録3:3)

これは眠っている人々に対して言われている警告です。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)

放縦や泥酔、世のわずらいの中にいるときに、心が鈍っている時に思いがけず再臨はやってきます。
何月、何日、何時、何分というものではありません。
それを聞いても信じないなら、聖書を読んでもそれを信じないなら、それは盗人のように不意にやってきます。
イエス様はさらに

「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(マタイ24:40-41)

とおっしゃいました。
なぜ一方がとられ、他方が取り残されるのか。
イエス様はその原因を教えておられません。
それはノアの洪水の事例のとおり、神さまのみことばを「信じるか、信じないか」の問題です。
そんなこと、起こるわけがないと侮っていると残されてしまうのです。
二人一組で仕事をしているということは、その二人は親しい間柄でしょう。
緊密な関係の二人の間でさえ、共にとられるわけではないのです。
家族単位、夫婦単位ではなく、個人的に信じているか信じていないかなのです。
 
●忠実に働いて待ちなさい。
パウロはテサロニケの人々にむけて、

「もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪 ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなた がたをはずかしめるために、こう言っているのです。」(Ⅰコリント15:33-34節)

このように、刹那主義への警告をしています。
忠実に働く。
これが終末の時代を正しく生きる姿です。
 
さて、ペテロはイエス様のたとえが誰のためのものであるかと疑問を投げかけています。

「『主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。』」(ルカ12:41)

その答えとして、

「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:43-51)

「主人」に対する警告です。
「主人」とは、しもべたちの上に立てられた人のことです。
教会でいうなら、牧師、長老のような役員、そのような立場の人たちに対する教訓であり、一般の信徒には関係のなさそうなもののように思えます。
しかし、

「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると…」(マタイ24:49)

「仲間たち」が描かれています。
同僚としての立場のしもべたちが記されています。
さらに、

「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」(マルコ13:37)

ここではっきりと、すべての人々に言っていることだと明言されています。
つまり、すべてのクリスチャンがそれぞれの立場で、忠実に、思慮深く、目をさましているようにとが求められています。
「思慮深くいること」は、マタイの福音書25章に出て来る「花婿を迎える十人の娘のたとえ」から、
「忠実でいること」は、同じくマタイの福音書25章に出て来る「タラントのたとえ」から、来週くわしく見てまいります。
 
ところで、

「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)

なぜここで「悪いしもべ」ばかりに照準を合わし語られているのでしょうか。
このしもべの悪いところは

  • しもべをたたく=高ぶり
  • 酒飲みたちと飲んだり食べたりしている=世俗主義

なぜ彼ら(主のしもべ)は堕落し、ついには偽善者やパリサイ人、律法学者たちと同じように厳罰が与えられるのでしょうか?
その根本的な原因は「自分の主人は帰りが遅い、まだ帰らないだろう」という考え、油断です。
 

「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』」(エゼキエル12:27-28)

必ず成就するという神さまのおことばに対して、
遅い=来ない、成就しない、それは嘘である
そういった不信仰な考えや判断がクリスチャンたちを高ぶらせ、堕落させ、世俗化させるのです。
主の再臨はまだ来ない、遅れている、まだまだ先の事だ、などという「悪いパン種」には気をつけましょう。
 

「夜はふけて、昼が近づきました。」(ローマ13:12)
「時は縮まっています。」(Ⅰコリント7:29)
「主は近いのです。」(ピリピ4:5)
「かの日が近づいているのを見て…」(ヘブル10:25)
「主の来られるのが近いからです。」(ヤコブ5:8)
「万物の終わりが近づきました。」(Ⅰペテロ4:7)
「時が近づいているからである。」(黙示録1:3)

終末が近いこと、主の再臨が先延ばしにされることがなく、必ず成就するということが、これほどまでに口を酸っぱくするように語られています。
私たちは主の再臨が今か今かと不安に陥ったり、間違った生活態度の中で主の突然のお帰りを待つのではありません。
預言も、前兆も、十分に私たちに示されています。
それを信じ、「畑に行き」「臼をひいて」「仲間に正しく分配し」、そのように正しく、腰の据わった生活をしていく。
それが「目をさまして、用意をする」という終末の正しい生き方です。

「『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またお出でになります。』」(使徒1:11)

イエス様が天に昇られた後、弟子たちはどうしたでしょうか?
彼らは山を下り、祈り、伝道し、そして交わりをする生活を送りました。
「目をさまして再臨を待つ」
それは、ただ天を見上げるだけではなく、そわそわと苛立つ生活ではなく、主の預言の確かさを信じ、委ねられたそれぞれの働きに忠実に生きること。そして人々に宣べ伝えて行くこと。
これが終末の時代を生きる、私たちクリスチャンのあるべき姿でしょう。
そうした毎日の中で、主の再臨が起こるのです。
それが聖書が語る、私たちへのメッセージです。
 
 
本朝は、丸山鈴子姉が特別賛美をしてくださいました。

「神様の真実は変わらない」(水野源三さん作詞)

  1. 来る年も 来る年も
    さわやかな初夏には
    すずらんの花が咲くように
    神様の真実は変わらない
    神様の真実は変わらない
  2. 来る年も 来る年も
    澄み渡る秋には
    りんどうの花が咲くように
    神様の真実は変わらない
    神様の真実は変わらない
  3. 花の季節過ぎ行き
    人の心移り
    約束を忘れ去るとも
    神様の真実は変わらない
    神様の真実は変わらない

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