2017年6月4日 主日礼拝「ペテロ」
本日の聖書箇所
ヨハネの福音書21章15〜19節
説教題
「ペテロ」
今週の聖句
わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカの福音書22章32節
訳してみましょう。
1899 Goodbyes are the law of earth; reunions are the law of heaven.
(さよならは地上の法則です。 再会は天国の法則です。)
1900 Own up to your sin and experience the joy of confession.
(あなたの罪を認めなさい。そうすれば告白の喜びを体験します。)
説教メモ
1.イエスを否認するペテロ
聖書を読んでいて、ペテロの性格というものが段々と分かってきているのではないかと思います。「私もペテロのようだ」とお思いの方もおられるかもしれません。
ペテロは年齢的にも弟子たちの一番上、頭の立場にいました。また、聖書を読んで行くと、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネと、この三人を主が特別扱いしておられるのが良く分かります。格別主はこの三人を特別扱いされているように思えるのです。イエス様の公生涯における重要な場面。例えば会堂管理者の娘を生き返らせた時、その時イエス様と一緒にいたのはこの三人だけでした。またガリラヤの山の上でイエス様が栄光の姿に変貌されたとき、それを目撃したのもこの三人でした。さらにゲッセマネの園でイエス様が悶え苦しみながら祈っていた時にもこの三人の名が記されています。他の弟子たちと同列ではなく、別扱いをされていました。なのでペテロは弟子たちを統率する立場に置かれていたのだろうと思います。
そのペテロが十字架を前にイエス様を三度否認しました。これはペテロにとっての大失敗です。彼の信仰がこの時、終わってしまったかのように思えるのです。イスカリオテ・ユダもまたイエス様を裏切りました。ある意味ペテロもこの時イエス様を裏切ったのです。イスカリオテ・ユダもペテロもあまり変わりがありません。二人ともイエス様を裏切ったのです。ところがユダは脱落しましたが、ペテロはその後もう一度イエス様によって信仰が与えられました。そして使徒たちの一番の責任者として、パウロが現れるまで初代教会において非常に用いられました。
今朝、皆さんはどのような状況からこの礼拝に来られたのでしょうか。中には失敗の連続といった状況の中に、今朝の礼拝があるかもしれません。人生の挫折を味わっておられる方ももしかしたらおられるかもしれません。
イエス様を否認するペテロの姿ですが、ヨハネ13章、18章、ルカの福音書22章のところに書かれています。
また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
(ルカ22:24)
十字架を前にしての前夜の出来事です。そんな時に弟子たちが話していたことはこんなことでした。そんな中、イエス様がシモン・ペテロに語られました。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(ルカ22:31〜32)
それに対してペテロはこのように言います。
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
(ルカ22:33〜34)
サタンがやって来ました。そして「あなたがたをふるいにかける」ことを願い、神さまに聞き届けられました。その実行を許されました。この箇所を読むと私はヨブ記を思い起こします。ヨブを試みることもまた、サタンが神さまに願い、神さまに聞き届けられたことでした。ここでもサタンはペテロを揺さぶりたいと神さまに申し出ました。神さまはそれを聞き届けられました。サタンが勝手にしていることではありません。そしてペテロは見事に脱落して行きました。
イエス様が捕らえられ、カヤパやアンナス、ピラトやヘロデ・アンテパスの前で合計6回もの尋問、簡単な裁判が行われました。そしてペテロが三回否認した時、鶏が鳴きました。
彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかしペテロは、「いや、違います。」と言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。
(ルカ22:54〜62)
これがイエス様を否認するペテロの姿です。
2.ペテロの再献身
ユダもペテロもイエス様を裏切ったことには変わりありません。また、二人ともイエス様と目と目が合った場面がありました。ユダの場合は具体的な記述はありませんが、ある聖画が残されています。ゲッセマネの園でユダが祭司長たちを率いてイエス様を捕らえに来た時に、イエス様は「「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」(ルカ22:48)と仰いました。その場面を描いた聖画では、イエス様とユダが接近し、目と目があっているところが描かれています。ペテロの場合は聖書にはっきりとその場面が描かれています。二人は同じ主のまなざしを体験しながら、何が違っていたのでしょうか。
ユダは銀貨30枚でイエス様を売ってしまったことを後悔しました。ペテロは三度イエス様を否認したことを後悔しました。そして悔い改めました。ここに同じ主のまなざしを体験した二人の違いがあるのだと思います。
どうしようもない自分の姿がペテロにはありました。それはもう十字架の直前の出来事でした。それからイエス様は十字架に架けられ死なれました。葬られて後、三日後にイエス様はよみがえられました。どの時点でイエス様が墓からいなくなったのかは誰にも分かりません。墓の中にイエス様の姿がない。その知らせを受けた時のペテロの心境はどうだったでしょうか。ほんの三日前、ペテロはイエス様を否認したのです。そのペテロが空っぽの墓の中を確かめに行きました。ペテロはまだ本当のイエス様の姿を捉えていませんでした。ペテロがイエス様の本当の姿を理解したのは、ペンテコステの時でした。それまでの彼の心の変化はどうだったのでしょうか。私は段々と変えられていったのではないと思います。悶々とした思いがペンテコステまでの50日間続いていたと思います。
2.ペテロの再献身
ヨハネ21章15節に戻ります。
14節までを読んでくだされば、色々な出来事が記されています。
そしてここで朝食を終えて十分に心の準備が整ったペテロに対してイエス様は呼びかけられました。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。」
(ヨハネ21:15)
「ヨハネの子シモン」と呼びかけておられます。
ヨハネの1章を見ると、初めてペテロが兄弟アンデレに連れて来られてイエス様のところに行った時、イエス様はペテロを見て、
イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
(ヨハネ 1:42)
と仰いました。
この最後の場面、ペテロの再献身の場面でイエス様は一度も「ペテロ」と呼んでおられません。「シモン」と呼びました。つまり、ペテロの最初の段階まで戻られたのです。この時のペテロはペテロではありませんでした。もしイエス様にペテロと呼ばれていたら、ペテロは困ってしまったかもしれません。この時のペテロはシモンだったのです。まだイエス様を知らないシモンであり、イエス様が期待を持ってペテロと呼んだ、そのペテロではなかったのです。ペテロはまた、自分をペテロと呼ばれなかったイエス様の心を感じていたのではないでしょうか。もう一度原点に戻って再出発を促すためであったと思います。
岩のような揺るがない信仰を求められながらも、ペテロはまだ砂のように崩れやすいシモンでした。三度「愛しますか」との問いは、三度「知らない」と否認した事実を否が応でも思い起こさせるものでした。
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに行った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あたたは、私があなたを愛することをしっておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
(ヨハネ21:17)
深くへりくだるペテロの姿があります。「わたしを愛しますか」との三度の質問に、心を痛めたペテロは、鶏が鳴く声を聞き我に返った時に見たイエス様のまなざしを思い起こし、いたたまれなくなりました。しかしそれを思い起こさせるイエス様の意図は、ペテロを完全に癒やすためでした。「わたしの羊を飼いなさい。」との奉仕の委託は、全き赦しを与え、愛の交わりを回復するしるしでした。イエス様は改めてペテロを使徒の職務に招かれました。「立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語られた言葉の意味をかみしめ、ペテロは再献身を誓っていくわけです。
この後、イエス様はペテロがこれからどのような歩みをするか予告しました。そして「わたしに従いなさい。」と仰いました。
イエス様はペテロに対して「あなたはわたしを愛しますか。」と三度迫りました。ギリシャ語の原語を見ると、その三度には使い分けがあります。イエス様はペテロに対して二度「アガペー」の愛を迫りました。それに対してペテロはアガペを使って答えられず、「フィレオー」をもって答えました。二度イエス様は「アガパオー」という言葉を使ってで迫られ、二度「フィレオー」で答える。そして三度目にはイエス様はペテロの位置までへりくだってくださり「フィレオー」というギリシャ語を使って「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」と言ってくださいました。そこにもイエス様のペテロの状態を把握してくださっていた姿があるのです。もう一度ペテロが立ち直るきっかけを作ってくださいました。
3.それぞれの人生
私たちはそれぞれの人生を歩んでいます。これまでのそれぞれの歩みの中で色々な失敗があったと思います。健康の面でも、仕事でも、友人や家族などの人間関係でも。夢がかなわなかったという挫折もあったでしょう。
人生をやり直すことは年齢を重ねるごとに難しく考えてしまいます。しかし、私たちは決して諦めてしまう必要はありません。特に神さまの前で人生をやり直すことは可能です。神さまが可能としてくださいます。失敗をやり直し、やり直しの人生をスタートさせることができます。ペテロの失敗と再献身から、そのことを覚えてください。
ヨハネにはヨハネに備えられた固有の人生がありました。他の弟子たちも同じです。キリストに従う人生は、皆が判で押したような同じ人生を歩むわけではありません。主に従う人生はそれぞれなのです。それぞれに整えられる人生があります。人をうらやんだり、自慢する必要はありません。それぞれが他の何ものをも愛するにも勝ってイエスを愛し、主に従って行く人生を歩んで行けば良いのです。
自分の人生は失敗だった。そのように思われる時は、ペテロのようにもう一度歩み出してください。前向きに歩んでください。
3.それぞれの人生