2024年11月3日 主日礼拝「イエスは苦難を担われた」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌483「両手いっぱいの愛」
      新聖歌99「馬槽の中に」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇148篇1〜6節
讃  美  讃美歌8「きよきみつかいよ」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌134「いざいざきたりて」
聖書朗読  マタイの福音書27章27〜44節
説  教  「イエスは苦難を担われた」
讃  美  讃美歌136「ちしおしたたる」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌206「主のきよきつくえより」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 イザヤ書53章6節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書27章27〜44節

説教題

「イエスは苦難を担われた」

今週の聖句

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

イザヤ書53章6節

説教「イエスは苦難を担われた」

マタイの福音書27章27〜44節

人は「地獄」という言葉を軽々しく用いるということが良くあります。何か苦しいことがあると「もう、地獄だわ」と。私はそれを聞くと、「地獄がその程度だったら良いね」と言ってしまい、無情だと叱られます。ちなみに聖書には「地獄」という言葉は存在しません。厳密に言うと地獄と訳されたギリシア語がⅡペテロ2章4節に1回だけ登場しますが、そこは堕天使の場所とされています。しかし人間の死者が一時的に(イエス・キリストが再臨される時まで)全員行くべき場所があります。そこは新約聖書では「ハデス」とも呼ばれ、新改訳2017からは「よみ」と訳され、旧約聖書と統一されました。旧約聖書で「よみ」という所は曖昧なのですが、そこにはどうやら下の方向(地)にあり、2種類の性格の場所が存在しています。善人のための場所と、悪人のための場所。また、至福の場所と、苦しみの場所です。それがイエス様がこの世に降られ、十字架につけられて死んでよみがえられてから、その曖昧な場所は明確なものとなりました。悪人のための苦しみの場所はそのままに、善人のための至福の場所は「パラダイス」となったのです(ちなみに天国〈ヘブン〉という言葉も聖書には存在しません)。イエス様はご自身を信じた者に言いました。「あなたは今、わたしとともにパラダイスにいます」と。イエス様は今、天におられる父なる神の右の座に着いておられます。つまりパラダイスは天にあるということです。善人と悪人との差ははっきりと「天と地」ほどの差があることが明確になりました。

また、イエス様ご自身がルカの福音書16章19〜31節の中で悪人のための場所が「苦しみの場所」であることもはっきりと示しておられます。そしてその「苦しみ」と訳された語の意味から推察するに、それは肉体的ではない、精神的・霊的な苦痛を指す語が用いられているのです。しかもその精神的・霊的な苦しみは、神から直接的に与えられたものではなく、ある人の行動が原因で生じてしまう苦痛、あるいは自分自身の経験によって自分自身を苦しみもだえさせる苦痛であることが分かるのです。日本語の「苦」という漢字の意味を調べてみても「精神的・肉体的につらい【思い】をする。味が苦い」と説明されていることからも分かりますね。苦々しい思い。そもそも罪や咎というのは、イザヤ書53章に記されているとおり、神に背を向けて自分勝手な道に自ら出て行ってしまうというものです。「罰」というのも、日本の文化の中では「バチが当たる」などと言い、神から与えられるものとして言われますが、聖書の中での「罰」の性格は、自分で投げたブーメランが自分の所に戻って来るというイメージのものです。罪、その先に苦しみの場所がある。自分で選択し、自分でそこに向かって歩いて行く。当然の結果を自ら招く。

どうでしょうか。精神的・霊的な苦痛、それがどれほど苦しいものか、私たちが全く想像できないものではないでしょう。また肉体的な痛みも、つまりはそのまま精神的・霊的な苦痛に直結するものです。私が神学校の卒論で、いわゆる「地獄の苦しみ」というのはそのような本当に悲惨なものであり、それが永遠に続くのだと思うと、これは大変だと、車の窓を開けて「今すぐイエス様を信じてください!」と隣の車の人に言いたい衝動に駆られたことを思い起こします。それと全く同じだとは言いませんが、人間が永遠に苦痛を味わうことを、神は愛ゆえに避けて欲しいと願われるのです。そしてイエス・キリストを罪人の身代わりとして十字架につけられ、苦難に遭わせられたのです。その姿をすべての人間に見せるのです。そしてすべての人間が罪を悔い改め、神に向き直って、神の元に自ら歩き出すことを願われるのです。両手を力いっぱい思いっ切り広げて、あなたを赦そう、あなたに祝福を与えたいと待っておられるのです。

今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書27章27〜44節です。イエス様はご自分に敵対するイスラエルの指導者たちと群衆によって死刑判決を受けました。そして総督の兵士たちに引き渡され、十字架の苦しみを受けて蔑まれます。総督の兵士たちのひどい言動によって能力や人格が劣る者、価値の低い者とみなされ、傷つき、人々の前で恥をかかせられています。十字架につけられ、周りの人々に馬鹿にされ、悪く言われ、名誉を傷つけられています。何よりも、あのゲツセマネ以降、父なる神が出て来ません。御使いも出て来ません。確かにイエス様は父なる神に対する全き信頼がありました。しかし私たち人間はその信頼、信仰が大きければ大きいほど、まるで神に見捨てられているのではないかという不安もまた大きく膨らんで行くものではないでしょうか。それがどれほどの霊的な苦難、苦痛、試練であるか。

27章27節    それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。

ピラトがイエス様を十字架につけるために鞭打ちの刑罰を与えた後に兵士たちに引き渡した後、兵士たちはイエス様を総督官邸の中に連れて行きます。官邸には総督を護衛する兵士たちが宿営する屋外に設けたテント張りのような営舎がありました。そこはユダヤ人の群衆の目につかない所。そこにイエス様を連れて行き、イエス様の周りに全部隊を集めました。全部隊というギリシア語は、ローマ1軍団(6,000人)の10分の1を表す単位で、つまり600人です。相当数の兵士が集まったということです。この「総督の兵士たち」という総督を護衛するための兵はローマ軍団の兵士ではなく、外人部隊でした。周囲の地域のユダヤ人でない住民から募って集めたもので、ユダヤ人に対する愛のない者たちでした。それはそうでしょう。何かあったらユダヤ人をこてんぱんにやっつけなければならないのですから。そしてこてんぱんにやっつけてやろう、何か機会があればやっつけたい、ただ暴れたいという思いがある者たちが集まって来ていたのかもしれません。ですから「ユダヤ人の王」を思うがままに扱えるなど、こんな歓迎すべき機会はないとなったのでしょう。全部隊(600人)がこのようなめったにない楽しみのために集まったというわけです。そして別の聖書の訳では「全部隊が一緒になって、彼(イエス)の前を行進した」と訳しています。つまり何かの儀礼の際に国賓等の前後にたくさんの護衛兵が隊列を組んで行進する、その真似をしたのです。パロディーです。滑稽に、おもしろおかしく馬鹿にするように模倣したのです。ユダヤ人の目につかないところでイエス様をからかったわけです。

27章28節    そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。

映画などで衣服が鞭打たれた時に流された血で固まり、肉に密着し、それが剥がされる時の非常な肉体的痛みが描かれているのを見たことがありますが、実際にその通りだったのでしょう。しかし聖書はその身体的痛みのことは記しません。

彼らはイエス様が着ていた物を脱がせ、代わりに緋色のマントを着せました。この緋色のマントはローマの兵士たちが着用する物で、皇帝の紫色の礼服(長くてゆったりとしたローブ)のパロディーです。これをイエス様に着せて、ローマ皇帝を拝するパロディーをしました。からかったのです。

27章29節    それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
27章30節    またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。

茨で編んだ冠もまた皇帝の王冠のパロディーです。当時の硬貨には王冠を被った皇帝が刻まれていたのですが、その王冠には太陽光線のような放射線状の線が付いていました。また右手に持たせた足の棒もまた、王の統治権を象徴する王笏を真似たもの。そしてイエス様の前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかったのもまた、皇帝に対する歓喜「皇帝万歳」を模したもの。すべてがイエス様を馬鹿にし、見下し、からかい、あざけって笑いものにするためのパロディー(滑稽な模倣)でした。

ここでもまたイザヤの預言を思い起こします。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザ533)。「病を知っていた」とありますが、この「病」というヘブル語は病気の他に「吐き気」という意味もあり、イエス様は人々から蔑まれる(能力・人格の劣る者、価値の低い者とみなされる。見下される。馬鹿にされる)ことによる悲しみ、吐き気をもよおすほどの嫌な気持ちを経験された、その姿を聖書はここに記すのです。ここの全体として聖書が描いているものは、拷問、肉体的な痛みというよりは、おもに嘲り、侮辱、馬鹿にされ、悪く言われ笑われ、辱められ、名誉を傷つけられたりすることなどによるイエス様のひどい霊的・精神的な痛みや苦しみです。

27章31節    こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。

兵士たちがマントを脱がせて元の衣を着せたのは、官邸の外にいる群衆に自分たちの行為がバレないようにするためでした。また、普通犯罪人が十字架刑のために引き出される時には裸だったのですが、裸を不快に感じるユダヤ人の感覚を警戒してのことでした。ユダヤ人たちの感情を逆なでしないように、細心の注意を払ったというわけです。イエス様がメシアではなく、自称メシアだと裁判で認められたとはいえ、イエス様にユダヤ人の王のような格好をさせて兵士たちが嘲るという場面をユダヤ人たちが見たら、ローマに対する反感を感じる可能性が十分にあったからでしょう。それで嘲りが一通り終わると、ローマの兵士たちはユダヤ人の感情を逆なでしないように、イエス様を元の格好に戻して十字架刑を執行する場へと連れて行きました。この時「冠」が取り去られたかどうかは述べられていませんが、ユダヤ人の感情を考慮したことから、恐らく取り去られたのではないかと思います。ですから映画や絵画で茨の冠を被ったままのイエス様の姿が描かれていますが、それはイエス・キリストが味わわれた霊的・精神的な痛みや苦しみを表現するために意図されたものなのかもしれません。

27章32節    兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。

一般的に十字架の柱となる縦の木はあらかじめ刑場に用意されていて、十字架の横木だけを受刑者が負って行きました。ヨハネの福音書にも記されていますが、この時イエス様はご自分でご自分がつけられる十字架の横木を背負って歩かされていました。しかし長時間にわたる裁判と暴力を受けたイエス様にとって、横木だけでも十分に重く、担いで歩くには到底無理なことでした。そこで兵士たちはシモンという名のクレネ人に出会いました。「出会った」と訳されていますが、これは「探して見つける」という語です。偶然かもしれません。しかし兵士たちはクレネ人シモンを見いだしたのです。クレネはエジプトよりも向こう、北アフリカのリビアの海岸都市です。シモンはそこに住むユダヤ人で、この時エルサレムに巡礼に来ていました。ルカの福音書には「田舎から出て来た」と記されていますが、実はクレネは結構栄えていた都市でした。「田舎」と訳されている語は別に「耕作地、畑」という意味もあり、シモンは農場で働く農夫だったのかもしれません。そしてエルサレムから離れた所に住んでいたので、近頃そこで起こっているイエス様の噂にはあまり縁がなかったのかもしれません。何が起こっているのか知らずにそこを通りかかった、そのような様子のシモンを見つけて彼にイエス様の十字架を無理やり背負わせました。彼が丁度良かったのです。すべて事情が分かっている人に背負わせたら、何が起こるか分からない危険性があったからです。しかしこれも神の摂理だったのかもしれません。聖書にはこの後、この人がイエス様を信じたと思わせる記事がいくつか記されていますが、実際のところは分かりませんが、何も知らなかったこの人こそが、後にイエス様を見出し信じるとは、何とも素晴らしい神の知恵があるように思います。何よりもまず、隣を歩まれる苦難のイエスに何なんだろうと思っても目を留め、心を留めることです。

27章33節    ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、

ゴルゴタと皆が呼んでいる「どくろの場所」、それは処刑が行われた場所は、おそらくエルサレム市街の良く知られている公共の場所にありました。確実なことは言えませんが、聖墳墓教会の場所(ヘロデ時代のエルサレムの城壁の外にある)が最も可能性のある場所と言われています。公共の場所で十字架刑が行われていた。それは十字架刑が見せしめとして効果を発揮するためでした。イエス様はそこで人々への見せしめとして十字架につけられ処刑されるのです。

27章34節    彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。

彼らがイエス様に感覚を麻痺させる苦み(マコ1523では「没薬」)を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、十字架につけられる者が感じる苦痛を軽減するためのもの。しかし優しさでも、配慮でもありません。その逆です。感じる肉体の苦痛を和らげて、より長く十字架の上で苦しませようとするのです。精神的・霊的な苦しみを長く味わわせようとするもの。イエス様がそれを飲もうとされなかったのは、長く苦しみたくないというものではなく、十字架の苦しみを意識のある中ですべて受けるためだったのでしょう。痛みとともに苦しみも。なぜでしょうか。この世は自分の苦痛や悩みに向き合うことを何とか避けようとするものです。しかしそれは、神に向かわないことでもあります。そしてそれは神を知る機会を逃してしまうことでもあるのです。見せしめとして十字架につけられるイエス様は皆の前で、しっかりと神に向き合う姿を見せられるのです。

27章35節    彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。

皆さん、驚かれないでしょうか。なんとイエス様が十字架につけられるシーンはこの1語で終わってしまうのです。なぜでしょう。

十字架刑という残忍な刑罰によって与えられる肉体的苦しみの詳細について、痛ましいほど詳細に語ることは容易なのかもしれません。キリスト教の説教ではしばしばそれが行われるようです。しかし、福音書の記者たちはそうはしないで、しかも驚くべきことにマタイは、実際にイエス様が十字架につけられることを、たった1つの語で片付けているのです。マタイの興味、関心、そして聖書を通して神が示される強調点は、前回の27〜31節と同様に人々による嘲り、それによって受けられる苦難、肉体的な苦痛のさらに先にある悲惨な「霊的な死」にあるのです。

処刑される者の所有物は何であろうと、普通、処刑担当者の分隊に渡されました。ここでイエス様の服を分けたことはひとつの儀礼的決まりではあったのですが、詩篇22篇18節の成就でもありました。ローマの処刑時の儀礼など明らかにされていたい時代に書かれた詩篇に、すでにこのことが預言されていた。「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします」(詩2218)。この世の流れの中で執行されていく十字架刑も、実はやはりどこまでも神のご計画のままに進められて行くのです。

27章36節    それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27章37節    彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。

ここで罪状書きをイエス様の頭の上に掲げたとありますが、この罪状書きにはピラトの手によってこのような罪状が書かれていました。ヨハネの福音書19章19〜20節にあるとおりです。「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには『ユダヤ人の王、ナザレ人イエス』と書かれていた。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」(ヨハ1919-20)。

実はこの罪状書きですが、通常、犯罪者が刑場に行く途中、犯罪者の前に掲げられつつ運ばれて行くか、犯罪者の首にかけられ刑場まで行くかして、それから十字架に取り付けられていました。このようにして多くの人々に犯罪者が犯した罪と、その罪を犯した結果の悲惨さを見せしめ、犯罪を抑止する効果を強めようとしました。それはもう《最大限のこれ以上ないというような宣伝効果》とともに実行されたのです。罪を犯した結果の悲惨さというのは、先ほども申しましたとおり、肉体的な苦痛と、そのさらに先にある悲惨な「霊的な死」。それを人々に見せしめ、自分はああはなりたくないよねと思わせるもの。そしてイエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人、世界中から巡礼に訪れるユダヤ人、あるいは神を信仰する者たちがそれ読んだのでした。

罪状を首にかけられ刑場に来て十字架につけられ、罪状書きを頭上に掲げられたその足もとで、百人隊長と、また百人隊長と一緒にイエス様を見張っていた者たちがいました。十字架につけられたイエス様を見張るのは彼らの義務でした。犯罪者の仲間が来て助け出したりしないように。あるいはちょっかいを出さないように。しかし遠くで誰かが見ている気配は感じても、実際誰も仲間らしき人は近寄って来ない。関心をもってちょっかいを出してくる者もいない。そのような中で彼らは腰をおろし、十字架につけられたイエス様の姿を見上げ、罪状書きを見て、どうしても考えてしまったことでしょう。色々と思い巡らしたことでしょう。このことを私たちは「デボーション」と言います。イエス・キリストを自分の人生に重ね合わせるようにして思い巡らせる。果たしてどうなのだろうかと。彼は何者なのかと。そしてその彼らが、後にイエス様が息を引き取られる際に起こった地震やいろいろな出来事を見て、「この方は本当に神の子であった」と告白したのです。

38節からは、十字架につけられてもなお侮辱されるイエス様の姿が記されます。

27章38節    そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27章39節    通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27章40節    「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27章41節    同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27章42節    「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27章43節    彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27章44節    イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

何と言うことでしょうか。イエス様は最後まで人々に罵られました。一緒に十字架につけられた人にも、ただの通りすがりの人にも、祭司長たちも、律法学者たちも、長老たちも皆一緒になってイエス様をののしり、嘲ったのです。このことについても聖書は言うのです。「あなたがたには関係がないのか。道行くすべての人よ、よく見よ。このような苦痛がほかにあるか。私が被り、主の燃える怒りの日に主が私を悩ませたような苦痛が」(哀112)。

しかし、マタイは記しませんが、ルカは1つの光を記します。イエス様と一緒に十字架につけられた2人の犯罪人のうちの1人が、午前9時に十字架につけられ午後3時に息を引き取られた、その十字架の上での6時間にも及ぶ中で、イエス様の悲惨な姿を間近で見て、何かをきっかけに思い直したのでしょうか、他の人たちの嘲り、ののしりの言葉の中から、はたと何かに気づいたのでしょうか。こんなことを言いました。「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』」(ルカ2339-43)。イエス様はこれまで一切口を開かれませんでした。しかしここで、イエス様の姿を見て、キリストの姿を見いだし、自分の罪を知り、罪人であることを認め、悔い改めた罪人の願いには答えられるのです。

イエス・キリストは十字架に向かわれる中、そして十字架の上で、罪の刑罰としての肉体的な苦しみとしての死を経験しただけでなく、これまで見て来たとおり、これほどまでの霊的な死をも経験されました。それこそが、罪人が経験する罪の刑罰、罪がもたらす悲惨な結果であることを最大限の宣伝効果をもって人々に示されたのです。冒頭でも申しましたが、罪というのは自ら神に背を向け、神に背き、自分勝手な道に進んでいくことです。自ら神との関係を断絶するものです。その結果がイエス様が身をもってと言いますか、私たちの身代わりとなって罪を実際に負われ、その刑罰を受けられた姿に示される悲惨です。霊的な死です。この世の死も苦しみも、すべて神の関係を断絶することによって必ずもたらされる結果であるのです。

私たちは今一度、イエス・キリストが罪人を救うために十字架につけられ、これほどまでの苦難を、私たちの想像を絶するほどの恥辱と苦しみを受けられたことの意味を正しく知る必要があるでしょう。それは1つに、罪のもたらす結果がこのようなものであることを私たちが知るため。罪を持ったままでは、この結果は免れないのだということ知らしめるため。そしてその本当の悲惨さを知った上で、私たちが神の前に罪人であるということを認めるということ。先ほども申しましたが、この世は自分の苦痛や悩みに向き合うことを避けようとします。しかしそれは、神に向かわないことでもあり、まことの神を知る機会を逃すことでもあります。永遠のいのちへの第一歩、それは自分が神の前に罪人であるということを認めるということです。そして罪の結果の悲惨さを知り、神に心から救いを求めるということです。もし人が自分の罪と罪の結果の悲惨さを知らずにいたら、神を信じる必要性が分かりません。そして、もし人が罪を知った上で救い主を知らなければ、絶望のあまり滅びてしまうことでしょう。神は私たちを愛するがゆえに、罪を分からせ、罪の結果の悲惨さを分からせてくださるだけではなく、罪とその結果から私たちを救うために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハ173)。

イエス・キリストは私たちの身代わりとなって罪を負い、私たちの身代わりとなって罪の刑罰を受けられ、そして死なれました。神はイエス・キリストの十字架を通して、救いの約束が成就したことをも示してくださっています。アダムとエバが罪を犯した時、神は彼らに刑罰を与えられました。しかしそれと同時に、人間を愛して救いの約束をも与えられました。それ以来、旧約聖書にはこの約束がやがて成就することが示されてきました。その中心はイザヤ書53章にある、主のしもべの苦難の姿にあると言って良いでしょう。イエス・キリストの十字架の記事を、このイザヤのことばと対照させてみると、その意味がいっそう深く分かるのではないでしょうか。少し長いですが、今日はしっかりと味わう必要があると思います。

【イザヤ書53章】
1節                私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
2節                彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3節                彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4節                まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5節                しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6節                私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎(罪故に免れない刑罰)を彼に負わせた。(それは私たちが負うべき罪の悲惨な結果を私たちが本当に知るためでもあった。)
7節                彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8節                虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9節                彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10節              しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11節              「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識(研究・観察・経験などから得たかなりまとまった情報で真理・事実として確立したもの)によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
12節              それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

私たちの本当の救い、永遠のいのちとは、唯一の創造主である神と、神が遣わされたイエス・キリストを知り、自分の中に受け入れ、そして日々知って行き、ますます受け入れて行くことです。神はどのようなお方か、主はどのようなお方で、私たちの救いのために何をしてくださったのか知っていくのです。そしえイエス・キリストを心から信じ「主よ、どうぞ私の救いとなってください。あなたが教えてくださった罪の悲惨からお救いください」と心から祈ることです。そのようにするなら、イエス・キリストは私たちの救い主となり、私たちはイエス・キリストによる救いを受け取った者とみなされるのです。神がそのように約束されたからです。私たちは是非とも、改めて罪と罪の悲惨さを教えられ、イエス・キリストを自分の救い主として心から求め、信じ、受け入れたいと思います。そして今朝は聖餐式にも招かれていますが、イエス・キリストを通して注がれる神の愛、あわれみ、そして救いの恵みを覚えつつ、感謝してこれに臨みたいと思います。

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