2018年2月4日 主日礼拝「アモス」
本日の聖書箇所
アモス書7章
説教題
「アモス」
今週の聖句
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
イザヤ書1章18節
訳してみましょう
1957 God’s love is persistent but never pushy.
(神の愛は永続的ですが、決して押しつけません。)
1958 God can use life’s setbacks to move us ahead.
(神は私たちを先に進めるために人生の挫折を用いることができます。)
説教メモ
1.終末時計
先週3月26日のニュースをご覧になった方はおられますでしょうか。終末時計のことが報じられていました。終末まであと2分となりました。終末時計とは、1947年に広島、長崎に原子力爆弾が落とされたことがきっかけとなったのですが、原子力科学者たちの機関誌があり、その中に終末時計が掲載されました。その時計は11時45分を指していました。12時になると世の終わりだという意味です。この時計は地球が滅びるまであと何分かを示しているわけです。その終末時計が昨年は2分縮められたということでした。前年は残り2分30秒でした。30秒縮められたことになります。原因はアメリカのトランプ大統領だと言われています。夕べのニュースではロシアが小規模の爆弾を開発し、アメリカも負けじとそれに力を入れようと、それが原因で30秒縮められました。去年が2分だったので、このまま行けば今年はもっと縮められることになろうかと思います。小規模爆弾と言いますが、実は長崎広島の原爆よりも20〜30倍もの威力があるものです。
以前、1954年に同じ2分まで縮められたことがありました。それは第五福竜丸の事件でした。南太平洋で漁をしていた時に、アメリカの水爆実験に巻き込まれ死の灰をかぶってしまった。そしてその船長がしばらくして亡くなってしまった。その年に終末時計は2分になりました。それは今までで最短の時間でした。
逆に一番長くなったのは、ソ連が崩壊した1990年頃でした。残り17分まで長くなりました。
終末時計は、毎年この時期になると出てくるものですから、皆さんも気にしてみてください。
2.エリヤのその後
先週は第一列王記18章から、エリヤのことを見ました。エリヤがバアルの預言者とアシェラの預言者、合わせて850人の預言者を相手に一人で対決し、そして勝利しました。その後のエリヤはどうだったのか。第一列王記19章をお開きください。
ここを見ると、それまでのエリヤとは別人のような姿が描かれています。18章では力強い姿でしたが、19章では弱々しい姿です。
福音版の1月号をご覧になりましたか? エリヤのことが記されています。
私たちは時として自分のことは自分が一番よく知っていると思うことがありますが、そうは言い切れません。では他人ならば分かるのかと言えば、これまた人の心は単純にはいきません。「この人にこんな面があったんだ」、「あんなことで悩んでいるとは知らなかった」と思うことがあります。
どうしても言葉や行動を通して大きく外に表れている印象が脳内に残ります。これは聖書の人物についても同じであって、大きな出来事や事件を巡る物語などの印象が強く、そうでない部分は隠れやすいものです。その代表的な人物の一人は預言者エリヤかもしれません。
彼は「炎の預言者」などと形容されることがありますが、それを強く印象づけている物語の一つは偶像神バアルの預言者との戦いでした。彼はイスラエル王国分裂後の北王国の預言者ですが、そのころ王国は政治的安定を失っており、宗教的にもいかがわしい祭儀を伴うバアル礼拝が取り入れられるなど、非常に堕落していました。エリヤは過去最悪の七代目の王アハブの時代に登場しますが、強烈な印象を残したのが、アハブ率いる450人の預言者との対決でした。これは祭壇に雄牛を置いて、それぞれの神の名を呼ばせ、火をもって応えた神を本当の神とするというものでした。エリヤはこの戦いに大勝利します。神は彼の祈りに答え、火は彼の祭壇を焼き尽くしたのです。
注目したいのはこの後です。敗北のニュースを知った王妃イゼベルは激怒し、エリヤを殺すと伝えてきたのです。これを聞いて、何とあのエリヤが恐れて荒野に逃げ、エニシダの木の陰で死を願い、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから」と弱さを露呈するのです。エリヤの心に生じたこの希死念慮というべきものの原因は何でしょうか。戦いの疲労が極度に達して燃え尽きたのでしょうか。イゼベルの迫力に怖じ気づき自信を失ったのでしょうか。いずれにせよこの消沈した心理状態は、それまでのエリヤの力強い言動からは想像できないほどのうつ状態です。彼はバアルの預言者との戦い以前にも、アハブ王に「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」と挑戦的、対決的に語っているのですが、その時のエリヤの勢いからも「私のいのちを取ってください」は、とても想像できません。
ここで考えてみたいことは、エリヤほどの落ち込みは稀であるにせよ、人間には外側からの印象からは判断出来ない、それも強さや明るさなどが前面に出ている状態からは想像もできないような心の領域があることを知っておきたいということです。それが人間であり、条件さえ揃えばエリヤのようにもなり得るのです。ですから外側から「この人はこういう人だ」とか、「強い人だ」「弱い人だ」などと単純に言えません。
スイスの精神医学者ポー津・トゥルニエは「人間には“強い人”と“弱い人”という二種の人間がある」という考えは幻影であって「すべての人間は弱い」といっていますが、その通りだと思います。こう考えると、「どうしてあのエリヤが」と考えなくてもよいのではないでしょうか。人は強さに覆われた弱さを抱えて生きているのです。
この物語、この後に感動します。神は絶望してエニシダの木の下に横たわるエリヤに「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と励まします。すると彼は起きて食べ、飲み、神の山ホレブに向かって旅立ちますが、私たちが絶望的になった時にも。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」といって励ましてくださる、それが聖書の語る神なのです。「エニシダの木の陰」に伏すことがあっても、立って旅を続けることはできるのです。
最後にエリヤがしたことは、一言で言えば弟子のエリシャを次の預言者に任命した、彼に油を注いで預言者として立てたことです。
エリヤの強い面と弱い面を見てまいりましたが、私たちの自分自身の信仰を見てみても、霊的な意味で、神さまにすべてをささげて歩んでいる自分の姿と、またちょっとしたことで弱くなってしまい、どうしたらよいか分からなくなる、時には信仰さえ捨ててしまいたくなる。そんな思いに駆られることもあるかと思いますが、皆さんはどうでしょうか。
3.雪のように白くなる
アモス書を開いてください。
さきほど7章を交読しました。アモスはもともと預言者でも預言者の仲間でもありませんでした。彼は農夫でした。アモスは紀元前8世紀の最初の預言者です。アモスが激しく糾弾の声を上げたのは、ヤロブアム二世という北イスラエルの悪名高き王様に対してでした。このヤロブアムはイスラエルの領土をほとんどダビデ、ソロモンの時代の領域にまで回復しました。英和は繁栄をもたらし、繁栄は贅沢をもたらしました。宗教も盛んになり、各地の聖所は人で溢れました。しかしこうした外見的な特徴と並んで、国は重大な社会的、道徳的な腐敗に苦しめられていた。アモスはあらゆる領域に告発すべき悪を見出した。法廷では裁判官たちが貧しい者を足蹴りにしていた。金がなければ正義は得られなかった。市場では商人たちがエパ(量り枡)を小さくして、シェケル(神殿にささげる献金)を重くした。そのような罪を犯していた。上流階級の住まいでは贅沢な生き方や食べ物、酒におぼれ、貧しい者たちの貧乏には目もくれなかった。聖所では礼拝に来た人たちが礼拝が終わることを待ち焦がれていた。なぜでしょうか。早く商売に戻りたかったからです。
アモスの教えの中で特徴的なものが恐らく一つあります。それは「特権は責任を伴うものであって、神の裁きを免れることはできない」ことを強調しました。アモスは近隣の六つの国に対して神の裁きを語っています。シリヤ、ペリシテ、ツロ、エドム、アモン、モアブの六つの国に対して警告しています。
しかしアモスは突然、ユダとイスラエルに対しても神の裁きがやがて来るのだという警告を発しました。確かにユダとイスラエルは神がお選びになった契約の民です。しかしこの民に裁きが下される。決して他人事ではありません。それは私たちに対する厳格な警告でもあります。
今朝読みました箇所では、ある時アモスの前に主が立たれたところ。
主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた。
主は私に仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が「重りなわです。」と言うと、主は仰せられた。「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。」
(アモス7:7〜9)
ここに重りなわがあります。紐の先に重りが付いていて、その先は針のように細くなっています。建築現場において、柱が地に対して垂直に立っているかを正確に計る道具です。神さまはこの道具をアモスにお見せになりました。そしてイスラエルの真ん中に垂れ下げると仰いました。神さまのみこころにかなっていない者たちは裁かれるのだということを仰いました。続いて8章では、
見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
(アモス8:11)
主のことばを聞くことのききん。そのようなことをアモスを通して神さまはお語りになりました。みことばを聞くことのききんとは、みことばを読んだり聞いたりすることが出来なくなる時が来るのだということです。神さまはモーセの時代もそうでしたが、もしイスラエルの民が神さまが仰ったことをすべて守り行うならば祝福し、そうでなければ呪う(祝福の反対の意味)と仰いました。何回も何回も仰いました。しかしイスラエルは何回も何回も失敗しました。ですから、おきてを守ることによっては救われないというのが、新約時代の聖書学者たちの考えでした。イエス様もそうでした。おきては無駄ではなかった。それによって神さまのおきてを知るわけですから。おきてを知らなければ罪も知らなかったわけです。
神さまが重りなわを垂れ下げているのは、アモスの時代だけではないと思うのです。今の時代にも神さまはそうされているのではないでしょうか。
アモスはユダとイスラエルだけでなく、近隣の6カ国に対して神さまの預言を語りました。預言者ではなかったけれども、主がそうしなさいと命じられ、アモスは従いました。そんなことを覚えて、私たちも終末時計にもありましたけれども、気をつけて今の社会を生きていかなければなりません。
旧約聖書の中に雪の白さに例えて、どんな罪でも清くされると神さまが宣言する記事があります。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
(イザヤ1:18)
これを書いたイザヤは紀元前8世紀から7世紀にかけての預言者でした。アモスの時代より少し後です。預言者の役割は、神のメッセージを人々に伝えることでした。当時イスラエルは、宗教儀式は守っていても道徳は荒廃し、社会的弱者は虐げられ、正義や公正がないがしろにされていました。それに対して神さまは、人々がいくら供え物をしても、儀式をしても喜ばれない。自分の罪をそのままにして
あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
(イザヤ1:15〜16)
このように、生き方を問われます。緋のように赤いとは罪の描写です。人を造られた神さまが本来こうあれと願われた状態から、人は反逆して離れてしまった。その罪がこの世の不幸、苦しみの根本的原因であると聖書は言います。しかしそれは、「おまえなどもう駄目だ」と断罪するメッセージではありません。本来あるべき所に帰って来なさいという招きです。「論じ合おう」と罪人を法廷に召喚した裁き主は、その不義の血にまみれたような罪も、「雪のように白くなる」と無罪を宣告しました。
この預言を成就したのがイエス・キリストです。キリストは人のねたみ、憎しみなど、一切の罪を身に負い、敵対する者さえも赦すほどの愛をもって受け入れてくださいました。私たちは罪の汚れから永遠に解放されたのです。
一つだけ条件があります。ヨハネの手紙の中で、
「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(Ⅰヨハネ1:9)
と言われています。それが一つの条件です。唯一の条件と言っても良いです。罪を懺悔して、そして心から悔い改めること。これが絶対的な条件です。そうすれば雪のように白くなる。これがイザヤのことばです。
私たちは皆、未完成であり欠けだらけの者であります。しかし罪に気付いた時、その罪を神さまに言い表すならば、神さまに赦しを願い求めるならば、神さまはそれを赦すと仰っています。ですから私たちは礼拝に来た時、いちいち告白しなくてもよろしいですが、神さまに懺悔してください。こうしなければならない、こうすべきだと分かっていながらも罪を犯してしまうのが私たちの日常というものです。そのことを素直に告白して神さまの赦しを請うていきましょう。