2025年7月6日 主日礼拝「荒野を旅したイスラエルの民からの教訓」

賛  美 
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇66篇5〜7節
讃  美  讃美歌10「わがたまたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌322「神よ、おじかの」
聖書朗読  コリント人への手紙第一 10章1〜13節
説  教  「荒野を旅したイスラエルの民からの教訓」
讃  美  讃美歌380「たてよ、いざたて」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌204「すくいの君なる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 10章11節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一 10章1〜13節

説教題

「荒野を旅したイスラエルの民からの教訓」

今週の聖句

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

コリント人への手紙第一 10章11節

説教「荒野を旅したイスラエルの民からの教訓」

コリント人への手紙第一10章1〜13節

  • パウロがイスラエルの民の実例を通して示している、具体的な教訓とは何でしょうか。
  • パウロがイスラエルの民に起こった出来事を通して明確にしている、教会と聖徒に与えている警告とは何でしょうか。

1、兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
2、そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
3、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
4、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
5、しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6、これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
7、あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
8、また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
9、また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
10、また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。
11、これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12、ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
13、あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

はじめに——身体に良いものを食べていますか?

身体に良いものを食べていますか。私たち人間の身体は約37兆個の細胞からできており(神に創造されており)、その細胞は常に入れ替わっています。その材料となるのが食べ物から摂取する栄養です。その栄養によって日々新たにされます。そして今の自分の身体を造っています。一般的に、皮膚や肝臓、腎臓は約1ヶ月、血液は約4ヶ月、骨は約2年、脳の細胞は遅くとも約1年で大部分が入れ替わるそうです。そして人間の身体の細胞は4年でほとんど新しいものと入れ替わり、「別人のように」なるのだそうです。完全に別人になるのではありません。神経細胞や心筋細胞などは、ほとんど入れ替わらないのだそうです。そうだとしても、今まで食べてきたものが今日の私を作っており、今日食べるものが4年後の私の身体を造ると言って良いでしょう。たとえ私たちが何を食べたかを忘れてしまったとしても、食べたものが確実に将来の自分を造るのです。私たちが普段食べているものがいかに大切であるかということが分かります。

その私たちは、神に創られた霊的な存在でもあります。旧約聖書の原語であるヘブル語で「魂」は「喉」とも訳せることを何度か申し上げていますが、この魂もまた身体と同じように飢え渇きを覚え、また日々新たにされ続けるために、将来のために良い栄養を必要としているのです。詩篇の記者は歌います。「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩5110)と。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハ33-5)と。そして聖書は言います。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ517)。「古い人を脱ぎ捨て、霊と心において新しくされ続け(るように)」(エペ422)と。そして「あなたがたが新しく生まれた(生まれる)のは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです」(Ⅰペテ123)。私たちの霊においても、いかに良いものを摂取することが大切であるかということが分かるのではないでしょうか。そしてそれは、神のみことばであるのです。イエス・キリストのうちにあり、イエス・キリストを通して守られる神の約束であるのです。

私たちは今朝も、明日、また何日、何ヶ月、何年後かの私のために、「日毎の糧を今日もお与えください」と天の父なる神に祈り求めつつ、神のみことばである聖書に聞いてまいりましょう。

イスラエルの民の特権

コリント人への手紙第一の講解は進み、10章に入りました。9章でパウロは、事と場合によっては福音のために自分の権利や自由を行使せずに、また聖徒の手本として、「神が上に召してくださるという、その賞をいただくため」に、自分を打ちたたくと語りました。続く今朝の10章では、未熟さ(途中で失格してしまった者)の標本として、旧約のイスラエルの民の高慢と自制力の欠如を取り上げて、勧めを与えます。

10章1節      兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10章2節      そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
10章3節      みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10章4節      みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

1節のギリシャ語本文の文頭には、「なぜなら」という重要な語があります。それはつまり、この1節の「あなたがたが知らずにいること、無知のままでいること」が、9章27節の「失格者になるかもしれない」ということの根拠だということです。そしてすでにお気づきかと思いますが、ここはイスラエルの民の「出エジプト」を標本(調査や研究のために保存されたもの)にしています。イスラエルの民が400年という長い期間、エジプトで本当に辛い奴隷生活を過ごし、偶像礼拝の中で生き、ついに叫びが神に届き、神がエジプトから助け導き出され、イスラエルの民を約束の地へと導くところを標本として示しています。また、ここには「みな(皆)」が5回も繰り返されていることも注目したいところです。パウロはイスラエルの民が出エジプトでの荒野で経験したことをもとにして、コリント教会の聖徒たちが神のみことばを聞き、神が行われた偉大なみわざを直接経験したのにも関わらず、高慢のままで信仰に至れないときに起こることについて、つまり「失格者になるかもしれない」ことについて、「あなたがたには知らずにいてほしくありません」と、懇願にも似た警告をするのです。

パウロはイスラエルの民が受けた4つの特権について説明します。1つ目に「雲の下にいて導きを受けました」ということ。これは出エジプト記13章17〜22節を指しています。「さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。『民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。』それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。……主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」。出エジプト、約束の地を目指す旅の全行程は、たとえ回り道をさせられたとしても、嫌だな、どうしてですかと考えてしまうようなことがあっても、神の愛によるご配慮、守り、導き、最善のもとにあったということです。

2つ目に「神はモーセを用いて葦の海を分け、イスラエルの民に葦の海を渡らせました」(出1422)ということ。約束の地に入るためには、どうしても罪の解決が必要でした。罪があるままでは約束の地に入ることはできません。先ほども申しましたが、エジプトでの400年にも及ぶ辛く厳しい奴隷生活の中で神につぶやき、また神に背き、神を見失い、神を忘れ、礼拝はおろそかになり、そして多くの罪を重ねてしまったことでしょう。イスラエルの民はいつしかエジプトに当たり前のように存在する偶像礼拝にもいつの間にか染まってしまいました。神はイスラエルの民のすべての罪を解決するために、モーセという神が立てられた指導者を用いて葦の海を分け、イスラエルの民に葦の海を渡らせたのです。バプテスマとは「洗礼」です。洗礼は水で洗って綺麗にされるなどというものではありません。本来の意味は「水葬」です。水による葬りです。水に沈められて一度死ぬことです。死によって罪も死に、罪が解決され、そして水の中から引き上げられ、そこから神の約束の地へと進んで行くのです。

そしてパウロはこの2つの出来事が「キリストにつくバプテスマを受ける」こととよく似ていること、見分けがつかないほどに共通点があることだと解釈します。全部、私たちがイエス・キリストを信じ、恵みによって罪が赦され、新しく生まれ変わり、そこから神の国、天の御国、約束の地に向かって進んで行く、帰って行くという私たちの「型」なのです。しかしその旅の道中にも色々あるのです。

イスラエルの民が受けた3つ目の特権は「みな、荒野で霊的な食べ物を食べたこと」。これは出エジプト記16章を指しています。食べ物というのはただ食べるだけではなく、栄養を摂取し、何かしら食べた者の身になるものです。そしてイスラエルの民は40年間、荒野で神が与えられたマナを食べ、マナによって養われました。神はマナを与えるに際し、このようなことを命じられました。「毎日、その日の分を集めなければならない。これは、あなたがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである」(出164)。これは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口からでるすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるため」(申83)でした。

4つ目に「みな、荒野で霊的な飲み物を飲んだこと」です。荒野での旅の中で、イスラエルの民が喉の渇きを覚える時には、神はオアシスへと導かれたり、岩から水を出してくださったりなどして、必要ないのちの水を与えてくださいました。

このように天の父なる神は、荒野を旅するイスラエルの民の口からマナを絶やさず、彼らが渇いたときには水を与えられました(ネヘ920)。彼らが飢えたときには、天からパンを与え、渇いたときには、岩から水を出し、彼らに与えると誓われたその地に入ってそこを所有するよう、彼らに命じられました(ネヘ915)。これらは実際のからだのために必要な食べ物、飲み物が与えられたことと同時に、霊的に必要な食べ物、飲み物をも神は与えてくださったこと。そしてあなたがたはそれらによって養われ、必ずあなたを天の御国に入れよう、必ず天の御国に入るようにという神の良い約束、神の命令、神の期待を表しています。

パウロはイスラエルの民が受けたこのような祝福が意味する特権を明らかにしながら、コリントの聖徒がこのすべての特権にあずかっていると説明しています。神が恵みによって罪に満ちた世から私たちを救い出され、私たちの罪を赦し、私たちが約束の地、神の国、天の御国に至るまで、すべてを愛によってご配慮くださり、必要を満たし、守り、導いてくださる、その霊的なしるしであることを語っています。

ところで、4節の「彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです」という所は、なかなか難しさを覚えるところではないでしょうか。岩から水が出た出来事は、イスラエルの民が荒野を旅した記事の序盤(出176、エジプト脱出直後)と、終盤(民2011、約束の地カナンに入る直前)にあります。そして「ついて来た」という語の語源は「道」です。出エジプトの道中、ずっと岩がついて来た。恵みが追って来ていた。霊的な岩、それはキリスト。その霊的な岩、恵みであられるイエス・キリストは言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ146)。イエス・キリスト、神の恵みは私たちの最初から、約束の地、神の国、天の御国に至るまでともにいてくださる。私たちがどうであろうとも、決して見放されることなく、それどころか追って来てくださると言う、何という祝福でしょうか。

「しかし」とみことばは続きます。イスラエルの民は失敗してしまったのです。

イスラエルの民の失敗

10章5節      しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

イスラエルの民はみな、神から特権を受けました。しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野での旅の途中で滅ぼされてしまった。パウロは、過去の出エジプト時の民が全員、約束の地に入ったのではないことを取り上げます。「だれもすでにそれを得たということはできない」(ピリ312)と警告するのです。

彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされてしまった。その原因は何だったのでしょう。聖書は言います。「主は民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました」(ユダ15)。神を最後まで信じ切れなかった。神の約束を最後まで固く握りしめ、自分のものとしておくことができなかった。自分たちを罪と苦難の中から救い出してくださった神に対してつぶやき、不平を言い、「どうして私を救ったのか。私を苦しめるためか。滅ぼすためか」とまで神を責め、神を試みた。あの「地上のだれにもまさって非常に謙遜、柔和であった」(民123)と言われたモーセでさえも、約束の地を目の前にして神のみことば、約束を信じ切れずに、自分の知恵や力に頼り、高慢になり、失敗してしまい、約束の地には入れなかった。誰よりも謙遜な人と言われたモーセでさえも、40年という荒野の旅の中、神と民との間に立ち、その民には何度もつぶやかれ、責められ、試練や試みにあわされて知らず知らずのうちに何かが変化してしまっていたようです。人間の問題のほとんどは人間関係によるもの。1つの群れの中での様々な人間関係による失敗。それらはモーセにも難しかったことですから、当然私たちも難しいことで、危険なところでしょう。

10章6節      これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

貪るというのは、もう欲しくて欲しくてたまらない、切望する、飢え渇きをもって望むということです。イスラエルの民は荒野で激しい欲望にかられて神を試みました。神に不平を言うのは、自分の欲望、欲しくてたまらないものが手に入らないからです。自分の欲望への貪り。主は言われます。「貪りを殺してしまいなさい。この貪りが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです」(コロ35-6)と。私たちが本当に貪るべきものは、神の恵みでしょう。神の約束に対する渇望でしょう。霊的に本当に必要な良い栄養、水でしょう。私たちは皆、私たち一人ひとりが、そして私たち群れとしても、これまでの荒野の旅、約束の地を目指すこの世での旅の中で神が与えてくださった恵み、神の良くしてくださったことを忘れずに、またそれを求めて、神を信じて歩んで行かなければなりません。

10章7節      あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

これも私たちを戒める実例です。

モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出し、神から十戒を受けるためにシナイ山にとどまっていた間、イスラエルの民は待ちきれずに、アロンに自分たちを導く神々を作ってほしいと要求しました。するとアロンはそれに応じて、金の子牛を造り、イスラエルの民はその前で食べたり飲んだり、立ち上がって戯れました。神はそのような彼らを「うなじを固くする(反抗的で頑な、高慢な)民」と呼ばれ、彼らをすべて滅ぼして、モーセを通して再び神の民を造ろうと語られました。しかしモーセは神に祈りました。神はモーセのとりなしの祈りを聞き入れて民を滅ぼすことはされませんでしたが、モーセが偶像礼拝をした約3千人を断ち切りました。パウロはこの出来事を思い出させながら、偶像礼拝の罪、自分の願望を貪り、神を忘れ、神の戒めに背く罪を犯し、たとえ神は滅ぼされなくても、指導者によって滅ぼされてしまわれないように教えているのです。(パウロは「私によって滅ぼされないように」と言っているのか?脅しですか?しかしイエス様は教会を聖く保つために、教会に権威を与えておられます。)

ところで、日本でも金や石、木で造った偶像に多くの人がひれ伏していますが、それは自分の欲望を成し遂げるためにです。しかもそれを悪い事とも思わずに。私たちはそのような人たちのために祈り、とりなす者でなければなりません。一緒になって同化してはならないのです。実はアロンが金の子牛を造り、イスラエルの民がそれを拝んだことを、悪いことだとは思っていなかったのです。彼らは神を拝んでいると思っていたのです。彼らが用いていた文字は象形文字でした。その最初にある文字は「牛」です。カナンの地での神々も「牛」でした。エジプトで当たり前のように親しんでいた神々にも牛がありました。ですから彼らは真の神を拝んでいると思いながら、実は偶像を拝んでしまっていた可能性が高いのです。これも私たちに対する実例でしょう。私たちもまことの神、主を礼拝していると思っていても、実は偶像礼拝をしているなどという恐ろしいこともあり得るのです。サタンの誘惑と知らずに、富や名誉、欲望、偶像を拝んでいる。サタンは巧妙に私たち教会をも惑わし、貪欲をあおって偶像礼拝の罪を犯させようといつも狙っているのです。私たちはその誘惑が常にあることを認め、その罪を犯さないようにいつも霊の目を覚ましていなければなりません。私たちの魂を、心を、神の良いものでいつも満たし、神の良いものによって造られ、造りかえられ続け、そして固く立ち続ける必要があるでしょう。

10章8節      また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

これは民数記25章に実例として記録されている「ペオルの事件」のことです。カナンにいたイスラエルの民は、モアブの女たちの誘惑に倒れ、モアブの神々のいけにえ(偶像礼拝)に参加して彼らと淫らな行いをし、神の怒りを受けました。彼らの間に疫病が広がり、2万4千人が死んでしまい、約束の地に入ることができませんでした。悪と交わると悪に染まるのです。悪を食べれば悪によって育つのです。悪によって私たちの身体、霊が出来上がってしまう。パウロは「私たちは彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう」と言います。

10章9節      また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

これも民数記21章に実例として記録されている事件です。イスラエルの民は、神とモーセに対し、なぜ自分たちをエジプトから連れ出して、荒野で殺そうとしたのかと恨み言を言いました。それはつまり、自分たちを悲惨な奴隷の苦しみ、偶像礼拝の罪から救い出してくださった神に恨み言を言ったことになります。神はそんな彼らに燃える蛇を送られたので、多くの者が死にました。

私たちはどうでしょうか。救われる前の方が良かったなどと神に申し上げたり、昔の罪を懐かしんだりすることなどはないでしょうか。これもまた試みる者のささやきでしょう。私たちが聞くべきは神の恵みの約束。私たちが懐かしむべきものは、神からいただいた数々の恵みです。

10章10節    また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

これもまた民数記16章に実例として記録されている事件です。レビの子らがルベン部族の数名と共謀して民を扇動し、250名余りの指導者らの同意を得て、全イスラエルの総責任者に立てられていたモーセとアロンに反逆しました。ルベン部族に属した人たちは、イスラエルの指導権が長子部族である自分たちになく、モーセらレビ族の手に握られていることを妬み、反感を持ちました。また、モーセ、アロンと同じケハテ族出身のコラは、祭司職がアロン一族にのみ任されていることに不満を抱き、不平を言いました。背景は異なりますが、それぞれ指導者に反逆し、神が定められた体制を壊そうとする、言わば権力闘争でした。これに対してモーセは、彼らに「幕屋の奉仕」という素晴らしい特権がすでに与えられているではないか。その特権の価値を見失い、そのような要求をすることこそ「分を越えている」「高慢である」と彼らをいさめました。モーセの注意喚起を聞かず、モーセを無視した彼らの「足もとの地面が裂かれ、地がその口を開いて、彼らを飲み込み、生きたままよみにくださせ」ました。集会の中から滅びうせてしまいました。翌日、反逆者が死んだのは神の罰によるのだということをはっきり認識しない者たちが大勢いて、彼らは「あなたがたは主の民を殺した」と、モーセとアロンに向かって不平を言いました。そして不平を言った者たちの上に、神の怒りが激しく下り、先の子らの事件で死んだ者とは別に、1万4千人が主の罰により滅んでしまいました。もし彼らが普段から、主が良くしてくださったことを何一つ忘れることなく、神の守り、導き、神の采配、立てられた秩序が神の最善の配慮、御心であると信じ信頼し謙遜に従っていたならば、このようなことは起こらずに、彼らはみな揃って約束の地に入れたのかもしれません。この事件をコリントの教会の対立に重ねて語っているのでしょう。

10章11節    これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

パウロはイスラエルの民の実例を通して、具体的な教訓を説明します。貪ってはならない。偶像礼拝者になってはならない。淫らなことをしてはならない。主を試みてはならない。不平を言ってはならない。その目的を、11節ではずばり語っています。「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」であると。パウロは「私たち」と言い、決して自分を適用外だとはしていません。

旧約の出来事というのは、実例であり、世の終わりまで適用されるものです。通り過ぎた過去と言って片付けることはできないのです。パウロは終末に至るまで、世にあって常に繰り返されることだという教訓を、私たち教会に与えているのです。

教会に対する適用

10章12節    すから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

自分は大丈夫だとうなじを固くするのではなく、思い上がらずに、むしろ恐れなさい。今は終わりの時だから。闇は深まり、昼は近づいて来ている。それに伴い、試練は多くなる。サタンの試み、誘惑の手は巧妙さを増し、攻撃の手はますます激しくなる。そしてイスラエルの民に起こった出来事が、教会と聖徒に与えている警告を明確にして語ります。倒れないように気をつけなさいということと、試練に対する姿勢を語ります。

10章13節    あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

著名人が良くメディア等で引用するみことばですが、これは私たち神を信じ、神に信頼し、神の恵みをいただき、その恵みを覚え、神に聞き従う者、また教会にこそ与えられたみことば、約束です。エジプト脱出のイスラエルの民のように、約束の地を目指す荒野の旅、荒野のようなこの世の旅路の中で、自分を救ってくださった主を試みてはならない、不平不満を言ってはならないのです。しかし実際、世の旅路は神に不平不満を言いたくなることだらけかもしれません。しかし、その不平不満が将来の自分を造るのです。不平不満によって自分を育ててしまうことになるのです。そうではなく、私たちは神の愛、神への感謝、救われた喜び、将来の約束された希望、主が良くしてくださった数々の恵みにこそ目を留め、魂、心に蓄え、それによって自分を、また教会を育てて行くのです。日々新しくされ、建て上げて行くのです。すでに建て上げられているのです。また決して遅すぎることもありません。人間の細胞のほとんどが4年ですべて新しく入れ替わるのと同じように、霊的なからだも、たとえ今日からだとしても4年後には確実に新しく生まれ変わっているのです。

イスラエルの民が犯した偶像礼拝、姦淫、神を試す、神を恨むという4つの罪に、私たち教会も警戒しなければなりません。自分たちは全然大丈夫ではないのです。主を礼拝しながら偶像礼拝をしていることに気づいていないだけかもしれない。主への礼拝そのものが自分の欲望を追い求める偶像礼拝となっていることに気づいていないだけかもしれない。それは絶対に避けるべきことです。自分のうちに、悪い栄養素がないか顧みる必要があるでしょう。そして悪い栄養によってできてしまった細胞は、新しく良い栄養によって生まれ変わることができる。

私たちはみな「世の終わりに臨んで」います。これまでのすべての時代、世代を通して入念に準備されてきたクライマックスの時代に生きています。恵みの時代に生きています。そのような時代にどう生きるべきか。「賞を得られるように走りなさい」。「神が上に召してくださるという、その賞をいただくために」。イエス・キリストを信じる者は、必ずその賞は与えられます。神は真実はお方です。神は私たちがどうであろうとも、どう変わってしまおうとも、決してご自身の私たちに対する約束を取り消されることはなさいません。その恵みに感謝しつつ、私たちは今日からも「賞を得られるように」この世の旅路を歩んでまいりましょう。神を信じ、神の恵みに力づけられ、日々新しくされ、約束の地、神の国、天の御国を目指して走り抜きたいと思います。

この後、同じ霊的な食べ物、同じ霊的な飲み物に与る聖餐式を通し、神の恵み、イエス・キリストによる新しい契約を覚えたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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