2018年4月29日 主日礼拝「あのペテロに」

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書21章1〜19節

説教題

「あのペテロに」

今週の聖句

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

ヘブル人への手紙12章2節
 
 
訳してみましょう。
1981 If you want to master temptation, let Christ master you.
(あなたが誘惑を克服したいなら、キリストにあなたを支配させなさい。)
1982 Hold loosely the things of earth. — TEN BOOM
(地球の事柄を緩やかに保持なさい。〔この世のことに捕らわれるな〕テン・ブーム)
 
 

説教メモ

1.水の上を歩くペテロ

使徒とは、使者とか大使とか、特別な使命を帯びて派遣された者という意味合いで用いられています。イエス様によって直接弟子として任命された人たちのことです。いわゆる「十二使徒」と呼ばれる表現ですが、一人、イスカリオテ・ユダが脱落しましたから11人です。後にパウロが入りましたので12名となりました。その彼らに使徒という名を付けて任命されたのはイエス様です。使徒たちはイエス様と寝食を共にして、三年半の間イエス様から直接指導を受けました。イエス様の宣教命令を受けて、その昇天後に教会の基礎を築いて世界宣教を進めたのはこの使徒たちでした。弟子たちの筆頭と言われたのがシモン・ペテロでした。ガリラヤ湖の漁師でした。本来の名はシモン。ペテロとは、イエス様と初めて会ったときにイエス様が彼に付けたニックネームです。「岩」という意味を持ちます。非常に性急で失敗の多い彼が岩と名づけられたことは、イエス様のペテロの将来に対する期待でもあったのかと思います。
ある時、弟子たちが湖を舟で行ったとき、激しい大風が吹き、前進することができなくなりました。弟子たちの多くが元々漁師だったことを考えるなら、彼らが悩まされたその大風は相当なものだったことが予想されます。彼らが困難を覚えている中、イエス様は湖の上を歩き弟子たちが乗っている舟に近づいてきました。常識ではあり得ない方法で近づいてくださる主イエスの姿は、神の子であるにもかかわらず人となられた存在である事実を示していると思います。
ところが弟子たちはイエス様を幽霊だと思い、恐れ惑いました。それは、信仰を働かさなければ神さまのみわざに気付かなかったり理解できなかったりといった私たちの体験を物語っています。弟子たちは助けに来られたイエス様に怯えてしまいました。私たちもともすれば、試練の中で神さまが助けが与えられても、その事実に気付かずに怯えていることがあります。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。
(マタイ14:27〜33)

このように、ペテロは実際に水の上を歩きました。
「わたしだ。恐れることはない」とイエス様は言われました。「わたしだ」とはギリシャ語で「ἐγὼ εἰμί(エゴー エイミ)」と言います。出エジプトの時に主がモーセの前に現れた時「わたしはあるという者だ」とご自身を紹介したところを思い起こします。「わたしは、あって、ある者だ」と仰った。イエス様がその声をかけてくださったことに弟子たちは喜びました。しかしペテロは自分が湖の上を歩いて主のもとに行くことを願いました。これはマタイの福音書だけが記していることです。何故ペテロが水の上を歩きたいと思ったのでしょうか。その動機を聖書は明らかにしていません。イエス様の一番弟子だということを自認し、いつも他の弟子たちよりも先んじたいという彼の性格の表れまもしれません。しかし彼の言葉はイエス様に対する信頼に満ちたものでした。また、ペテロ以外の弟子たちには彼のような発想はなく、単純にイエス様が近づいてこられたことを喜んでいるだけでした。そして、ペテロは自分の力で歩くことを願ったのではなく、イエス様のご命令でそこまで歩いて行けるはずだという信仰を働かせていることも分かります。事実ペテロはイエス様の命じられた通りに、水の上を歩く体験をしました。主のことばと権威と力を信じる信仰の本質がここにはあります。しかしながらペテロは、吹きすさぶ嵐に目を奪われ、イエス様から目をそらしてしまいました。すると彼は段々と沈んで行ってしまいました。
弟子たちの安心はイエス様が来られたということに基づいており、問題が解決したわけではないことに気付くわけです。なおも湖の上は強い風が吹いていました。ここで分かることは、問題は嵐に遭っていたとき、イエス様がそこにおられなかったということです。自分の力で事に当たろうとした弟子たちには問題を解決する力はありませんでした。しかし風も波も従わせられるイエス様が来られた。問題があってもそれを問題としない心を弟子たちにお与えになりました。そしてイエス様が舟に乗られると、嵐は止みました。これはとても象徴的なことです。
ペテロはイエス様から目を離してどんどん沈みかけました。即座にイエス様に助けを求めました。イエス様は即座に助けられ、ともに水の上を歩いて舟の上に上がられました。何歩あるいたのでしょうか。ペテロに投げかけられたおことばは、

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
(マタイ14:31)

でした。信仰が無いということではなく、薄いと仰いました。これはペテロにとっても慰めだったのではないかと思います。「からし種ほどの信仰でも山を動かすことができる」とイエス様は仰いました。その主が、薄いながらもペテロの中にある信仰をお認めになりました。大切なことはイエス様から目を離さずに歩くことなのです。
今週の聖句、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12:2)

 
 

2.イエスを三度否認するペテロ

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
(ルカ22:31〜34)

これは最後の晩餐の時に、他の弟子たちが聞いている中でシモン・ペテロに語られたおことばです。
イエス様は弟子たちに向かい、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける」と仰いました。麦をふるうとは、ふるいという道具を使って何回も麦をふるいにかけて、良いものとそうでないものを分けるものです。大きな試練によって信仰が揺さぶられることを意味しています。ここでイエス様ご自身がペテロのために祈ったと仰っています。それは試練にあわないようにとか、苦しみにあわないようにといったようなことではなく、信仰がなくならないように、との祈りでした。すでに祈られていました。そして「立ち直ったら」と語られたことは、後のペテロにとってどれほどの慰めになったか分かりません。イエス様はペテロが立ち直ることをあらかじめ預言しておられました。それに対してペテロは、おのれの現実と弱さを自覚していない者の姿そのものでした。イエス様は彼のことを「ペテロ」と呼ばれたことは、ルカの福音書ではここだけです。自分で岩となろうとするペテロに対するメッセージがここにあります。

彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。
(ルカ22:54〜62)

有名な箇所です。
とても自分から岩になろうという思いは、ここでは微塵も感じられません。イエス様が捕らえられ、イエス様の後を追って大祭司の庭まで行ったペテロ。「全部のものがつまずいても、私はつまずかない」「イエス様を知らないなどとは言わない」との宣言の通り、恐れながらも主についていったペテロの姿がここにあります。
第一回目の否認は女中であり、そのことはすべての福音書に共通しています。しかし後の二人に関しては異なります。「この人も、イエスといっしょにいた」という証言にペテロは仰天し、即座に否認してしまいました。冷静に考えればそのことが後の逮捕につながるわけではないのですが、彼のうちに一瞬でも恐れが入り、そこで彼が語ったことはイエスを知っていることの否定でした。これはさきほどのルカの福音書22章34節でイエス様が仰った通りのことでした。
第二回目の否認は、他の男による指摘を受けてのことでした。第三回目はまた別の男が、ペテロのガリラヤ訛りを私的したことからの否認でした。ヨハネの福音書では、訛りを指摘した男は、少し前のゲッセマネの園でペテロによって耳を切り落とされたマルコスの親類だったと記されています。彼は厳しい眼差しでペテロを注視していたのではないでしょうか。ペテロは三度目の否認にのろいをかけて誓いました。すると鶏が鳴きました。その瞬間にイエス様は振り向いてペテロを見つめられました。イエスはペテロがそこに居合わしていたこともご存知でした。イエス様はどのような眼差しでペテロを見つめられていたのでしょうか。鶏の声とイエス様の眼差しは、ペテロに前夜の会話を思い起こさせたことと思います。すべてを知っていたという慈しみと憐れみに満ちた眼差しだったのでしょう。ペテロはいたたまれなくなりその場から逃げ出し、そして激しく泣きました。
後にこの出来事を証言したのは、ペテロ自身でした。なぜなら彼以外には、イエス様の眼差しの意味に気付かないからです。それは彼自身がイエス様の愛と祈りと、圧倒的な赦しの中で生かされ用いられていることの証しでもありました。
イエス様の祈りと眼差しこそが、ペテロを再び立ち直らせることに繋がっていったのだと思います。
 
 

3.ペテロの再献身

さて、今朝皆さんとご一緒に読みましたヨハネの福音書21章の前半では、イエス様の復活の後、弟子たちのガリラヤの湖畔での出来事が記されています。

シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
(ヨハネ22:2〜14)

これがガリラヤ湖畔での出来事でした。
イエス様と弟子たちは、イエス様が用意してくださった魚とパンを食べました。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
(ヨハネ21:15〜17)

イエス様はヨハネの子シモンに初めて会われた時、ペテロと名づけられました。それは「岩」のように堅固な信仰をもって欲しいというイエス様の彼に対する願いでもあったのでしょう。しかしこの時、ペテロという名は使っておられません。そこには三度主を知らないと言ったシモンがいました。イエス様はそのシモンのレベルにまでへりくだってくださり語られました。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは泣きそうな声だったのではないでしょうか、イエスに言いました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」二度目もほとんど同じやり取りがされました。そして三度目に、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」とペテロに訪ねられ、ペテロはイエス様が三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエス様に向かって言いました。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」そしてイエス様はは彼に言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。
ペテロは三度、イエス様を知らない、何の関わりもないと強く否定しました。ペテロにとってはどうしようもないと思う状況の中でイエス様はペテロの前に現れてくださり、三度も念には念を押すかのように「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。他の弟子たちよりも、わたしを愛しますか」と問われました。迫ってくださいました。ペテロは自分が弟子たちの中でも年長者であり、何事に対しても先頭に立って行動してきたものですから、そのことを迫られて非常に心を痛めたのです。
新改訳聖書では、この箇所に三回出て来る「愛」について、ギリシャ語の原文から二種類の愛を表現されており、重要視されてきたこともありましたが、しかし当時は皆アラム語で会話されていたので、二種類に分けられた愛についてはそれほど固執しなくて良いのではないかという解釈もできると思います。
「あなたはわたしを愛するか」「私があなたを愛することは、あなががご存知です」。イエス様、あなたの方が私があなたを愛することをご存知ではないですか。イエス様は、ご自身を三度否定したペテロに、同じく三度迫ってくださいました。そこにイエス様の優しさがあります。

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
(ヨハネ21:18〜19)

ひとたび信仰から脱落してしまった者、信仰を自ら捨ててしまった者が回復されることは可能なのでしょうか。答えは「可能である」です。ペテロの例がそれだからです。
イエス様を否定した者に、もう一度チャンスが与えられるのか。
初代の教会は組織的な迫害に直面しました。その時、大勢の者が信仰を捨ててしまいました。その時、この問いによって多く悩まされました。棄教した者をどうしたら良いのだろうかというものです。棄教した者はもう一度救われるのだろうか。教会は赦しと厳格さの間を振り子のように揺れ動きがちです。
イエス様がペテロを見つめられ、その裏切りの後にどのように扱われたのかを今朝は見てまいりました。復帰や再任命の実例がここにはあります。
まず言えることは、イエス様はペテロの信仰の回復のために、最善の時と場所を注意深くお選びになったということです。イエス様はエルサレムですでにペテロに会っていました。しかしペテロが慣れ親しんだガリラヤの場所が最適の場所であるとイエス様は判断されました。そしてガリラヤの湖で会ってくださいました。再会を約束されたイエス様を待つ間、弟子たちは湖に漁に出ました。続いて起きた出来事は、かつての、魚が全く獲れなかった時、イエス様が別の場所に網を降ろしてみなさいと仰り、その通りにするとたくさんの魚が獲れた、あの出来事とそっくりでした。それは、岸辺の人物がイエス様であることを主が愛された弟子、すなわちヨハネが理解し、そしてペテロが服をまとい湖に飛び込んで岸まで泳ぎ出すのに十分でした。こうしたすべてによってペテロが最初に任命されたときと同じ舞台が注意深く用意されました。岸辺での朝食の後、ペテロの恐れていたイエス様との面談が始まりました。イエス様は三度ご自身を否定したペテロに、三度同じ質問をしてくださいました。「あなたはわたしを愛するか」。そしてイエス様はペテロを三度、再任命されました。「わたしの羊を飼いなさい」。
大切なことは、イエス様がペテロに「あなたはわたしを愛するか」と問われたことです。イエス様はペテロに、「過去のこと」ではなく「今のこと」を問われました。過去はともかくとして、「今」わたしを愛するかと。
より多く赦された罪人がイエス様への愛を最優先することは、聖書にも記されている事実です。一つ一つの愛の告白に応じて、イエス様は一つ一つ再任命のおことばをお与えになりました。ペテロ自身の規定が、それ自体がどんなに深刻なものだったとしても、ペテロを失格者とするものではなかったことは確かです。イエス様はペテロを神が愛される者として復帰させてくださいました。そればかりでなく、もう一度神さまに仕える者として再任命なさいました。
もし私たちの生涯の中で信仰を捨ててしまうような経験を通らされ、実際に信仰を捨ててしまうようなことがあるとしても、その時には是非今日の記事を思い起こしてください。そしてもう一度復帰していただきたいと願っています。

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