2020年4月12日 イースター礼拝「空っぽの墓」
本日の聖書箇所
ヨハネの福音書20章1〜18節
説教題
「空っぽの墓」
今週の聖句
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
ヨハネの福音書20章9節
訳してみましょう。
2185 The resurrection is a fact of history that demands a response of faith.
2186 God forgives our sins completely to restore us to His presence and servece.
礼拝式順序
- 開 祷
- 賛美歌 146番「ハレルヤ」
- 主の祈り
- 賛美歌 154番「地よ、声たかく」
- 聖 書 ヨハネの福音書20章1〜18節
- 説 教 「空っぽの墓」佐藤伝道師
- 賛美歌 152番「よみのちからは」
- 献 金 547番「いまささぐる」
- 頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
- 祝 祷 北村牧師
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説教「空っぽの墓」
おはようございます。2020年、イースターの朝を迎えました。皆さんはどのような中で、どのような朝を迎えられたでしょうか。
ご存知の通り、長野市で金曜日、新たに2名の新型コロナ感染者が確認されました。そのため私たち長野聖書教会は大事をとって礼拝をお休みとすることを急遽決定しました。礼拝はいわば「必要緊急」なことです。しかし世の中で感染に備えて、多くの命を守るために様々な活動自粛が行われています。そのような中で大勢の人が教会に集まって集会を持つことは、神さまが愛して止まない教会に集う人々の命、また神さまが愛して止まない世の多くの人々の命を守ることにおいて、さらに宣教、伝道の面においても色々と考えさせられます。礼拝において、神さまのご栄光をあらわすためにはどうすれば一番良いのか、恐らくそれぞれにお考えがあるかと思います。ですが、長野聖書教会は本朝の礼拝をお休みすることにしました。「神と隣人を愛せよ」と言われる主イエス様の御心を求め、祈り、決定したことです。すべてのことを益としてくださる主が、この決定を様々なかたちで、私たちの思いも寄らないかたちで祝福してくださることを信じます。
このような状況ではありますが、きょうは主イエス・キリストの復活を記念し祝うイースターです。礼拝の中で選曲した讃美歌154番は、聖歌の170番と同じメロディーで、歌詞も主のよみがえりを歌ったものです。その歌い出しはこうです。「主のよみがえり 地よ寿(ことほ)げ」。寿(ことほ)げとは「お祝いを述べる」という意味です。私たちも今朝、主のよみがえりを覚え、互いにお祝いを述べましょう。「わたしはすでに世に勝っている」と言われる主イエス・キリスト、最後の敵である死に打ち勝ってよみがえられた主イエス・キリストにあって、離れてはいてもお互いに、心からの挨拶をしましょう。「イースター、おめでとうございます!」
どうしても恐れや戸惑いを覚えてしまうこの朝ではありますが、主のよみがえりの朝の出来事を記すみことばに聞いて、今も生きておられる主の前に進み出て参りましょう。お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美いたします。今年も主の復活を祝うイースターの朝を迎えることができました。しかし私たちは、それぞれに様々な状況の中でこの朝を迎えています。自らの心に目を向けると、どこか心が晴れない、悲しみや不安の中にいる。そのような方もおられると思います。世界に目を向けてみても、新型コロナウイルスの影響が日ごとに増してきており、私たちの身近にまで迫ってきています。決して喜んでばかりいられない状況の中におりますけれども、どうぞこのひととき、私たちの目と心を高く上げ、復活の主を見上げ、みことばより力と慰め、喜びを受け取ることができますようにお守りください。聖霊様がそれぞれにお語りくださり、そこに御霊の実を結ばせてくださいますようにお願いをいたします。その実をまた主にお献げし、主に喜ばれ、受け入れられる礼拝となりますように導いてください。そして私たちの喜びを、私たちの内に留めておくのではなく、主が愛してやまない、世の多くの人々のところに届ける者として整えてくださいますようにお願いを致します。私たちの救い主、よみがえりの主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。
先週までの受難節を通して、イエス様の十字架・受難を見て来ました。そして私たちは先週、実際に受難週を過ごしました。皆さんはどのように過ごされたでしょうか。みことばに触れ、これまで語られてきた説教を思い起こしたりされたでしょうか。黙想の中で、受難週の出来事を自分に重ねられた方もおられたのではないかと思います。あるいは、忙しさの中にあって気がついたら今日を迎えていたということもあるでしょう。
この朝与えられているヨハネの福音書20章には、受難週が終わって、新しい一週間の初めの日の朝が描かれています。
1節。
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早く暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
1節でマリヤは、「週の初めの日の朝まだ暗いうちにイエス様が葬られた墓に行った」と記されています。ヨハネの福音書だけではありません。他の福音書、マタイ、マルコ、ルカでも、「週の初めの日」が重ねて記され強調されています。そして「墓の入口を塞ぐ大きな石が脇へ転がされて、取りのけてあるのを見た」ということも重ねて記されています。今日取り上げたヨハネの福音書には記されていませんが、ルカの福音書にははっきりと、マグダラのマリヤと他の女たちは、まず墓の中に入って「墓の中が空っぽだったのを見た」と、このことも強調されているように思います。そして今日のヨハネの福音書の箇所では、この空っぽの墓をめぐる物語が大きく分けて二つ描かれています。空っぽの墓を見て信じた弟子。一方で空っぽの墓を見ても信じられなかったマグダラのマリヤ。どちらも私自身の姿に重なるように思えます。
福音書が重ねて強調している週の初めの日とは日曜日のことです。その日曜日の朝、墓が空っぽであった。イエス様の復活は日曜日の朝に起こったとされる起源がここにあります。ですから私たちがこうして集う日曜の朝。それは主イエス様のよみがえりの朝であり、よみがえられた主イエス様との出会いの朝なのです。
しかし福音書は最初に、復活されたイエス様の姿ではなく、空っぽの墓が描かれます。神さまから遣わされた主の使いが天から降りて来て、墓の入口を塞ぐ大きな石がわきへ転がし取りのけたのは、そこから復活されたイエス様が出て来て姿を現すためではなく、「空っぽの墓を私たちに見せるためだった」と言えるのではないでしょうか。
ところで、不思議なことに、ヨハネの福音書ではマグダラのマリヤ一人だけが墓に来たように描かれています。同じ復活の朝を描いた他の福音書では、複数の女性が墓に行ったことが描かれていますが、ここではマリヤ一人に焦点が合わされているようです。これはヨハネの福音書の特徴からであると言います。ヨハネの福音書は、はっきりとしたある目的を持って書かれました。それは「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ2031)。
ヨハネの福音書では、イエス様との一対一の出会いの中でイエス様を信じるか信じないかが問われ、信じる者がその救いにあずかる。信じる一人ひとりに永遠のいのちがあたえられる。そのことが念頭に置かれて記されているということを覚えておきたいと思います。私たちも今朝、共に集うことはできませんでしたが、こうして個人で、あるいは家族少人数でささげる礼拝によって、まさに個人として、イエス様との一対一の出会いの中でみことばを聞くことになりました。これもまた大きな恵みです。
そしてヨハネの福音書では、マグダラのマリヤに焦点が合わされて行きます。
1節で「マグダラのマリヤは」という主語で始まり、11節でも「マリヤは」とあり、最後の18節でも「マグダラのマリヤは」となっています。私は、このイエス様の多くの弟子のうちの一人であるマリヤの個人的な体験を見ると、私たちの信仰の成長を見る様な気がするのです。北村先生も前々回の説教の中で言われましたが、信仰は成長であると。階段を一段ずつ上がっていくようなものだと仰いました。今日の箇所のマリヤの姿からも、階段を一段ずつ上がっていく様に信仰が成長していく様子、最後には自分の弱さの中から、イエス様の復活の力によって、再び力強く立ち上がるマリヤの姿が見て取れると思います。
それにしても私自身、ヨハネの福音書20章とマタイ、マルコ、ルカの福音書のそれぞれ同じ日曜日の朝の出来事を描いている内容や順番、登場人物等にどうしても矛盾を感じずにはいられませんでした。皆さんは既に解決済みの方もおられるかもしれませんが、せっかくですからここで総合的に見て少し整理してみたいと思います。
女たち、それはマグダラのマリヤとヤコブ、ヨセフの母マリヤ、それとサロメという女性たちでした。ヨハネの福音書でマグダラのマリヤが一人で墓に来た様に描かれている理由は先ほどお話ししました。彼女たちは安息日が明けるのを待ってイエス様の体に塗る香料を買いました。それをもってまだ暗いうちに墓に向かい、明るくなった頃、目的地に到着しました。彼女たちは墓をふさぐ石をどうやって動かすか心配していましたが、すでに石は転がしてありました。それは天から降りて来た主の使いによるものでした。御使いが去って兵士たちは墓の中にイエス様の死体がないことを確かめてその場から逃げ出しました。その後、女たちが到着して、石が動かされていること、そして墓の中に入りイエス様の死体がなくなっていることを見たのです。
マグダラのマリヤは誰かがイエス様の死体を持ち去ってしまったのだと思い、すぐさま弟子たちに知らせに行きました。それが本朝の聖書箇所、ヨハネの福音書20章1〜2節です。マグダラのマリヤが墓から去り、墓に残っていたヤコブの母マリヤとサロメの前に御使いが現れました。御使いは女たちに「恐れてはいけません」と語りかけ、イエス様がよみがえったことを教え、死体が墓にないこと、墓が空っぽであることを確認するように促しました。そして復活したイエス様が先にガリラヤに行き、そこで彼らも会えるという約束を弟子たちに伝えるように命じました。女たちはしばらく恐ろしくて動けませんでしたが、間もなく御使いの指示通り、男の弟子たちに復活の知らせをもたらそうとその場を立ち去りました。弟子たちのいる所に向かう女たちは復活したイエス様と出会いました。マタイの福音書28章10節には、その時のイエス様のおことばが記されています。
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
イエス様はご自身を裏切り、逃げ去ってしまった弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、自分を見捨てた彼らに対する赦しを表してくださいました。私たちは今朝、新型コロナの影響の中で、決してイエス様を裏切り逃げ去ったわけではありませんが、御前に共々に集えない私たちに対しても変わらず「わたしの兄弟たち」と呼びかけ赦してくださる。イエス様が弟子たちにとっても特別な場所である、またそれまでの生活の場であったガリラヤへ先に行き、そこでまたわたしに会えるよと約束してくださる。これは何という喜びの知らせでしょうか。
ペテロともう一人の弟子、そしてマグダラのマリヤは、他の女性たちとは別の道を戻ってきたために、その喜びの知らせをまだ聞いていませんでした。ここからヨハネの福音書20章では、ペテロともう一人の弟子の個人的な体験、そしてマグダラのマリヤの個人的な体験に焦点が合わされて描かれていきます。
1節。
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早く、まだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
このマグダラのマリヤという人は、イエス様に7つの悪霊を追い出していただいて救われてから、イエス様を主として心から主を愛する者となりました。その熱い愛を実践する素晴らしい女性だったのだと思います。しかしこの一大事を前にして、マリヤは慌ててその場を離れ、他の弟子のところに知らせに走って行きました。その行動もまた、主を愛する愛ゆえの無我夢中の行動だったのでしょう。しかしそのせいで、他の女たちは復活の主にお会いして喜びの知らせを聞くという恵みに与れたのに、このマリヤだけはその恵みを逃してしまった。自分なりの熱い信仰によって、自分はこんな時こうすべきなのだという強い思いがかえって恵みを逃してしまう。そういうこともあるのだと思わされます。イエス様はどんな時でも父なる神さまに対して全き信頼を示されました。マリヤはその時もう少し落ち着いて、そんなイエス様の姿に倣わなければいけなかったのかもしれません。でも、イエス様は後に、そのようなマリヤに対してもふさわしい方法でご自身に対する全き愛を教えてくださいました。
3節からは一旦マリヤから離れ、マリヤとはある意味対照的と思えるペテロともうひとりの弟子を中心とした空っぽの墓物語りが描かれます。
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたまあになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
「そして、見て、信じた」。この言葉に目を留めたいと思います。弟子が見て信じたのは空っぽの墓でした。復活のキリストの姿ではなくて、空っぽの墓だったのです。彼は墓が空っぽなのを見て、「墓は空だ」と信じました。それが何を意味するのかをはっきりと知って、理解して、信じたわけではないけれども、それで良いのだと聖書は言っているのです。それで良しとして、それが信じることの始まりだと言うのです。空っぽの墓を見た弟子は、自分たちの理想のメシヤが死んでしまったという絶望の中に、どこか希望を見始めているのです。その希望が何であるのか、どのようなものであるのかは分からなかったのに、です。
しかし、ただ信じるということは決して易しいことではありません。信じないことは赤ちゃんでもできることでしょう。「ああ、墓は空だ」と信じた弟子は、私はすごいと思いますし、イエス様は「見ずに信じる者は幸いである」と言われましたけれども、見ずに信じた弟子に倣う者でありたいと思わされます。
そこで、5節には注意すべき言葉があります。それは「からだをかがめて」という動詞です。他の聖書の箇所、たとえばヤコブの手紙1章25節では同じ語が「一心に見つめる」、ペテロの手紙第一1章12節では「はっきり見る」となっています。この意味は「たとえ見て簡単に理解できないとしても、人が見たいと願っている重要なことがそこにある。そこから目を離さずに、一心に見る、はっきりと見出すようにしっかり見ようとする」ということです。弟子は空っぽの墓で何かを見出そうと一心に見つめました。そして自分が理想として描いていた救い主が死んでしまったという失望を表す空っぽの墓の中にかすかな希望を見始めた。絶望の中に何か希望を見始めている。失望や絶望を経験した者こそ、そこから希望を見出すことができる。そこから再び立ち上がる力が与えられる。これはなんという慰めでしょうか。これこそ主の復活を信じる信仰が私たちに与える力、私たちをどんな時でも生かす「いのち」なのではないでしょうか。10節。
それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
しかし、絶望の中に留まり、墓の前から立ち去れない弟子がいました。マグダラのマリヤです。11節。
しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
マリヤもまた、からだをかがめました。12節。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることが分からなかった。
マリヤはここで「私の主」と言いました。
以前、新潟のある集会の会場でクリスチャンの大学生の男女が集まり、何やら信仰的な議論をしていました。そこで女子大生の一人が激しい口調でこう言ったのです。「私のイエス様はそんなこと言わない!」。それまでの話しの内容はわからないのですが、どうやら彼女は、自分の希望と主の御心が一致しないことに対して何か友人から自分の気に入らないことを言われたようでした。そこで友人に対して「私のイエス様はそんなこと言わない」と。「私のイエス様」それだけを聞くととても信仰的のように聞こえます。しかし、「私のイエス様はそんなこと言わないから」、「私のイエス様は私の思い通りのことを言ってくれるはず」。そのような信仰で果たして主の最善のみこころ、本当のイエス様の姿が見えてくるでしょうか。見出せるでしょうか。これは、私自身にも問われることでした。
箴言では「主を恐れることは知識の初めである」とあります。自分の知恵や知識よりも主を恐れ第一とすることが何よりも優っていて大事なことを教えています。
マリヤはこの時、墓の前で「私の主」と言いました。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってからうしろを振り向きました。するとそこにはイエスが立っておられて、その姿を見たのに彼女にはそれがイエス様であることが分からなかったのです。そして再び空っぽの墓に視線を戻しました。そのマリヤに、今度はイエス様ご自身が背後から声を掛けられました。15節。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女はそれを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。
自分の望みのすべてが絶たれた空っぽの墓を前にして、これはとても深い問いかけのように聞こえます。もし私たちが空っぽの墓を前にして、同じ問いかけがなされたら、何と答えるでしょう。空っぽの墓の前で「なぜ泣いているのか、一体誰を捜しているのか」。
この時のマリヤにはまだ、空っぽの墓を見てはいても、そこにイエス様の復活の信仰はありませんでした。マリヤにとってこの時の空っぽの墓とは、もしかしたら彼女自身の理想、こうであって欲しい、自分はこうしたいというものが打ち砕かれた心の象徴かもしれません。この時のマリヤは「私の主」「私のメシヤ像」「私にとっての救い」を見失い、イエス様が何ものであるかということさえも見失っていました。また、「私があの方を引き取ります」という言葉が示しているように、マリヤとしては、せめてイエス様の遺体にもう一度丁寧に油を塗って、それを正式に埋葬をし、イエス様に対する誠意を示したいと願っていました。日本的に言うならば、マリヤは尼になってイエスの菩提を弔いたい、死者の冥福を祈って供養したい、遺体を守り、遺体に仕えて生涯を過ごす以外にない、それが最善の方法、自分が救われる方法であると考えていたのでしょうか。
私たちは、これが一番良い考えだとか、こうするのが、こうなるのが良いのだといったような自分の理想というものを持っています。自分なりの知恵や知識を大事にしています。そこで異なった状況や他人の考え、あるいは感情に接するとき、驚きやストレスを感じることがあります。取り乱して周りが見えなくなる、真実が見えなくなってしまうことがあります。私たちは神さまに対して、自分の考え方や感じ方を理解して欲しい、できれば合わせてもらいたいと思っていることはないでしょうか。これは言い換えれば、神さまに仕えてもらいたいという願望に等しいものです。そのような姿勢でイエス様を捜し求めても、一生懸命からだをかがめてのぞき込んでみても、決してそこにイエス様を見つけることはできないでしょう。最善の御心を見出すことはできないのではないでしょうか。
復活されたイエス様はそんなマリヤとは正反対の場所、180度反対のところにおられるのです。
16節。
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち先生)」とイエスに言った。
ここは是非原文で味わいたいところなのですが、「マリヤ」とイエス様が呼びかけた名前はヘブル語(実際はアラム語)で「ミリヤム」で記されています。マリヤはイエス様に名を呼ばれて応答しました。姿を見ても分からなかった彼女が、いつも聞いていた自分の名を呼ぶ主の声を聞いてハッと振り向いて「ラボニ」と答えた。「マリヤ」と名前を呼ばれたその声で、マリヤはその方がイエス様だと分かったのです。私が捜していたあの方は、空っぽの墓にではない別の所、さっきからずっと私の後ろに立っておられた。
ある注解者はここに、ヨハネの福音書10章の羊飼いと羊のたとえを思い起こして、羊飼いの声を聞き分けてついて行く主の弟子の姿があると教えています。数々の理想が砕かれ、失望、絶望という混乱の中でイエス様を見失い、交わりを失っていたマリヤが、主との人格的な交わりを回復させられた。そのことのしるしであると説明しています。
このことも私たちが信仰生活をしていく上で、イエス様と私との関係を大切にしておくことが必要だということを教えているでしょう。思えば、神さまと出会う人はみな個人なのです。アブラハムよ、モーセよ。サウロよ、アナニヤよ。そのように名前を呼ばれて一人の人間として神さまの前に立たされる。そういう神さまとの一対一の交わりをマリヤは普段からしていたからこそ、「マリヤよ」というその声を覚えていたのでしょう。そういう神さまとの、またイエス様との交わりを普段から持っていると、たとえ困難や行き詰まりの時にも、イエス様からの語りかけを聞くことができるのです。
17節。
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに言って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
「わたしのすがりつくな」とイエス様は言われます。イエス様にすがりつくマリヤの姿。そこには、何としても主が私に仕えて欲しい、私の思い描く願いどおりにして欲しいとすがりつく私たちの姿が重なって見えるようです。けれどもイエス様はそのような私たちに「わたしにすがりついてはならない」と言われます。マリヤはすがりつくことをやめました。すがりつくことをやめた時、マリヤは変えられたのです。主の最善の御心が分かり、イエス様の本当の姿が見えました。そしてイエス様が死からよみがえられたという喜びの知らせを告げる者へと生まれ変わりました。
弟子たちにしてもマリヤにしても、一度で完璧な答えを出しているわけではありません。迷いながら、疑いながら、間違っていながらも、それでも一生懸命見えないものを見て、一生懸命御声を聞いて、そして一生懸命信じて行く。復活のイエス様との一対一の出会いの中でイエス様を信じるか信じないかが問われ、信じる者がその救いにあずかる。復活のイエス様との一対一の人格的な交わりの中で主の復活を信じる信仰が私たち一人ひとりに与えられて行き、そしてそれが力となる。空っぽの墓の中から真の希望、主の最善の御心を見出して行く。私たちをどんな時でも生かすいのちとなる。それがイースターの朝、主の弟子たちが私たちに示した信仰の姿なのではないでしょうか。
復活の主は言われました。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」。空っぽの墓、キリストのよみがえりは私たちと無関係な出来事ではありません。むしろ私たちのための出来事なのです。
空っぽの墓の向こうに主イエス様にある確かなよみがえりのいのちがある。主イエス様の復活のいのちは、私たちをも空っぽの墓の中から、失望や絶望の中から立ち上がらせ生かすいのちです。主イエス様にあって私たちもまた復活する。永遠のいのちはたとえこの世の命が尽きたとしても、天の御国まで続いているのです。それはイエス・キリストの十字架の故の約束です。間違ってはいけないのは、永遠のいのちは死後のものだけではない。私たちは今すでに永遠のいのちが与えられ、永遠のいのちを生きているのです。ですからどんな試み、悩み、痛み、悲しみ、不安、恐れの中にあっても、それでも私たちの主であるイエス様が死に打ち勝ってよみがえってくださったことにより、私たちもまたそのいのちに生かされている限り、決して「もうだめだ」ということはないのです。
よみがえりの朝に、空っぽの墓の現実、主イエス様の復活の事実は、復活の主との出会いは私たちに本当の希望を与えてくれる。そしてこの希望に生かしてくださる。今の様な世の中の状況ではありますが、私たちは心と目を高く挙げて復活の主の真の姿を仰ぎ見、希望に生きる歩みをこの朝からまた進み出してまいりましょう。
お祈りします。
愛する天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美いたします。このような形ではありますが、今年もイースターの礼拝を献げることができましたことを心から感謝致します。主イエス・キリストの十字架の故に、復活の故に、私たちには永遠のいのちが与えられていることを信じ感謝します。そのいのちに今、生かされている限り、もうだめだということはない。空っぽの墓の中に、私たちにとっては失望であり絶望である中に本当の希望がある。最善の主の御心がある。そのことを覚えて感謝いたします。今日からの私たち一人ひとりの歩みをどうぞ祝福しお守りください。再びともに集い礼拝をお献げできますようにお願いをいたします。今、寂しさや不安の中におられる方々とともにいてくださいますように。復活の主キリスト・イエス様の御名によりお祈り致します。アーメン。