2020年5月31日 主日礼拝「御霊の実による宣教」(ペンテコステ)
本日の聖書箇所
使徒の働き1章3〜11節
説教題
「御霊の実による宣教」
今週の聖句
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き1章8節
訳してみましょう。
2199 A world in darkness needs the light of the Gospel.
2200 Jesus’s blood washes away sin’s stain.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 23番「くるあさごとに」
主の祈り
讃美歌 352番「あめなるよろこび」
聖 書 使徒の働き1章3〜11節
説 教 「御霊の実による宣教」
讃美歌 183番「主のみたまくだりまし」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
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説教「御霊の実による宣教」
佐藤伝道師
今朝も福音派らしいご挨拶で始めます。シャローム、おはようございます。
ペンテコステの朝を迎えました。
イースターからペンテコステに向かって、聖書から聖霊、そして私たちは主に遣わされている、遣わされて行くのだということに少し重点を置いて語らせていただいてまいりましたが、一応今日が最終回といったところになります。
さて、私たちが所属する日本同盟キリスト教団では、毎年ペンテコステの日を「国外宣教デー」としています。今年は「新たな派遣に向けて」をテーマに掲げていますが、個人的にはちょっとかたくて分かりにくいなぁと思います。昨年のテーマはとても分かりやすかったです。「届けよう、伝えよう、福音を!地の果てまでに!」でした(エスクラメーションマークまで付いていて^^)。
それはさておき、毎年テーマを掲げて活動している国外宣教ですが、今年56周年を迎えたそうです。今年も様々な国に遣わされている宣教師の先生方からビデオレターが届いています。機会がありましたら是非ご覧ください。ビデオレターを見て、国外宣教のために、また働いておられる宣教師を覚えて、祈り支援してまいりましょう。今年はビデオレターを送ってくださった先生方全員が、やはり新型コロナウイルスの影響をお話ししておられました。教会に集えない。皆が揃って礼拝を献げられない。教会学校もできなくて子どもたちが心配、色々な活動ができないとか、私たちの教会の今の状況が、そのまま全世界の教会の状況なのかと思わされます。そんな宣教にとっても厳しい状況の中、それでも宣教師の先生方は、遣わされたその地に留まり、神さまとその地の人々を愛し、ご奉仕されています。
宣教は国外で働いておられる先生方のものだけではありません。宣教は教会に使命として与えられているものです。これまで何週間かにわたって見て来たところでもありますが、私たちは一人ひとりがこの宣教の業に召されていることをペンテコステを記念するこの朝、改めて覚えたいと思います。
お祈り致します。
愛する天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。約束の聖霊が弟子たちの上に降られた、ペンテコステを記念するこの朝をありがとうございます。聖霊なる神さまが、お一人お一人に満ち満ちてくださり、そしてお語りください。神さまの御心を知り、新たな力、慰め、決心をお与えくださいますよう導いてください。あなたの御名が崇められますように。十字架と復活の主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。
改めて「宣教」とは何でしょうか。
「福音派」と呼ばれる私たちにとって、かつて「宣教」とは、個人の回心、救いを中心とする「狭い意味での伝道」を指していました。しかし今、と申しましても、それは1974年のローザンヌ会議で結ばれた誓約なのですが、宣教とは従来の伝道とともに、もっと社会問題に関心を持って、関わりをもって、社会的責任を果たしていこう、社会に奉仕していこうではないか、というものになっています。宣教とは、伝道とともに、社会問題に関心を持って、関わりを持って、社会的責任を果たしていく。社会に奉仕して行くこと。
現在、私たちは昼食後に飢餓に苦しむ人々を覚えて、昼食代の他にそれぞれ自由に献金を献げていますね。指定献金をしてくださっている方もおられますが、そのような形で私たちはすでに宣教の業に参加しているわけです。
宣教のわざによって、私たちが宣べ伝えていこうとしていること。それは、イエス様の十字架に表された罪の赦しの宣言、復活による尽きない希望、永遠のいのち、神さまの約束、神の国・天の御国への招きとその完成、神さまの愛、栄光、勝利など。私たちはこれらの素晴らしい良い知らせ、福音を知らされて実際に経験し、賜物として与えられた者たちです。それで、もれなく福音の証人として召されている私たちは、常に網を右側に、神さまの方向に降ろすことが望まれています。そして色々な形、やり方で、世の人々に神さまの愛と赦しを証ししていく。私たちの内側に注がれている霊的な良いもの、またこれまで結ばせていただいてきた御霊の実、見えない霊的な実を、私たちの人生を通して表に現していくのです。それを表現すると言います。
ここ何週間かにわたって、主の十字架と復活の証人として世の人々の間に遣わされていること、それは幸いな喜びと勝利の道であると同時に、患難に満ちた厳しい道でもあることも見て来ました。しかし主は最初から最後まで私たちを愛され、その愛を残すところなく示してくださる方であること、いつでもどんな時でも、たとえ死の陰の谷を歩くような時でさえ、私たちと共にいてくださることをも知らされました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」とは、イエス様が天に上られる時にされた大宣教命令の中で約束されたことを忘れてはなりません。
そしてその後、イエス様が祝福の姿勢をとられたまま天に上げられた時、天の御使いが言いました。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上っていかれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒111)。
きょうもし、イエス様が天に上られた時と同じ姿で、つまり祝福の姿勢のままで来られたとしたら、私たちは非常に喜ぶかもしれません。しかし、同じイエス様の姿を見て非常な恐怖に襲われる人々もいるのです。それは本当のイエス様を知らない人々。福音を聞かされていない人々です。神と隣人とを愛する私たちであるなら、そのような状況はどうでしょう。心から悲しむべき状況ではないでしょうか。愛する親しい人たちが恐怖におののく姿。平気でしょうか。すべての人が救われることを願われる父なる神さまです。はらわたがわななくほどの愛と憐れみと忍耐をもって人々が救われるのを、これまで待ってくださってきた神さまが、恐怖におののきながらご自分を見る人々の姿を見て心を痛められる。私たちは平気でいられるしょうか。
私たちは主が再びこの地上に来られるその約束の日まで、主から任された宣教のわざを行って行くのです。神さまは私たちを信頼し、宣教のわざを任せてくださっています。私たちは神さまの信頼に応えて行きたいものです。
使徒の働き1章3節。
1章3節 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
今日の箇所は、先週のルカの福音書24章の同じ内容を、ルカ自身が少し違った視点、時間軸から改めて記したものです。イエス様は十字架の死、そして復活の後、数多くの確かな証拠もって、それはご自身を弟子たちの前に現されてこともそうですし、旧約聖書全体がご自身について証ししていることをしても、ご自分が生きてなお生きておられること、生きて働かれていることを使徒たちに示されました。そして40日にわたって、使徒たちに「神の国のこと」を語られ、説明したのです。しかし、その時、使徒たちはまだ神の国に対する少し間違った理解をもっていたようです。イエス様はその状態のままで宣教に出て行くことを止められました。
1章4節 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1章5節 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
「わたしから聞いた父なる神さまの約束を待ちなさい」と聞いて、使徒たちはイエス様に尋ねました。
1章6節 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
使徒たちは、旧約聖書に親しんでいたはずですから、「父の約束」を知識として知っていたでしょうし、また、イエス様は、40日にわたって何度も神の国について語られたその中でも「父の約束」を語られたのでしょう。その約束とは何かと言いますと、それは旧約聖書のヨエル書に記されています。
ヨエル書では、神さまは終わりの日、終末になされる敵の裁きとイスラエルの回復が終わった時に、「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と約束されています。イエス様が「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる」と言われた時、ついに自分たちを苦しめてきた敵国、ローマ帝国は滅ぼされる。まもなく実現するのだと、そんなふうに受け止めてしまったのです。
「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
使徒たちは皆一緒になってイエス様に質問しました。使徒たちは心を合わせ、同じ熱心さをもって、しかしずれた方向に「一致」してしまっていたのです。普段、私たちが何かを成し遂げようとする時、野心とか野望とかが原動力となることが常だと思います。しかしイエス様は、「宣教に関して」そういったものを原動力とするのをお許しにならず、使徒たちがそのままの状態で宣教に出て行くことを止められました。
私たちはどうでしょう。宣教に関して、教会として何によって一致しているでしょう。私たちの宣教の原動力は何でしょうか。今一度顧みる必要があるかもしれません。
こんな話しを聞いたことがあります。新潟のある教会に起こった出来事です。ある日の夜、教会に雷が落ちて火事になってしまいました。牧師はランニングシャツとステテコ姿で髪を振り乱して外へ出て来てオロオロするばかりでした。集まってきた地域の住民たちは、そんな牧師の姿と燃える教会を見て、口々に言ったそうです。「教会さんが私たちの災いを一気に引き受けてくれたんだ」。
私は素晴らしい事だと思いました。この評価の仕方が良いか悪いかは別として、もし地域の人々が教会から肉的な思い、野心、野望、敵意や争いや憤りや党派心とか、そういったものを少しでも感じていたなら、「教会さんが私たちの災いを一気に引き受けてくれたんだ」というような評価を受けられたかどうか。「ほらみたことか。バチがあたったんだ」などと言われてしまっては大変です。それまでの宣教の仕方がどこか間違っていたということでしょう。もし今日、私たちの教会に雷が落ちて火事になったとしたら、この地域の方々からどのような評価がされるでしょうか。
1章8節 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
聖霊によって与えられる力とは、キリストの証人となるための力です。パウロは言っています。「聖霊によるのでなければ、誰もイエスは主ですと、言うことはできません。」
あぁ、私はイエスは主ですと告白できる。それは私に聖霊が与えられている証拠なのだ。そう自分自身で確認できるものでもありますが、なおも私たちが人々の間に出て行って「イエスは主です」と告白する、証しすることこそ、実は自分の力ではなく、聖霊の力によって初めて可能となるのものなのです。そして「イエスは私たちの主です」という証しは、私たちの生活のあらゆる面で、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すため、キリストの香りを放つようにすることが求められています。患難に満ちたこの世にあって、常に網を右側におろすこと。私たちの働きをどんな時でも神さまの側ですること。それもまた、聖霊の力に頼るのでなければ決して出来ないことです。この後、いよいよ約束の聖霊が使徒たちの上に降った時、どうなったでしょう。使徒の働き2章3節で、「聖霊が一人ひとりの上にとどまると、使徒たち皆、聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」とあります。漁師出身の者もいました。スラスラと外国語を話せるほど語学を学んだとは思えません。聖霊とは、神さまの創造的な力です。それは人間の考えを遙かに超えた力です。人間の頭では不可能と思えることでも、そこに聖霊が働くと可能になるのです。
そして証し人としての働きは地の果てまで。まさに全世界へと出て行くことでした。
では、世界とはどこから始まるのでしょうか。世界とは私たちのまわりに広がっています。私のこの皮膚の外側、そこから世界は始まっています。主はエルサレムに留まっているように命じられました。そして「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と仰いました。証し人としての働きは、今私たちが置かれている、そこから始められ、順番に広がっていくのです。まずはこの場所にとどまり、腰を据えて生活をして、そこにいる身近な人々への宣教です。
さて、「わたしの証人となる」。原語的にも実際的にも、証人とはそのまま殉教者を意味すると申し上げました。殉教とは神さまのために己の命を捨てることです。
殉教などというと大げさに聞こえますが、例えば、私たちが生きているこの「時間」を神さまのために用いるとき、それは自分のためのいのちを献げているのと同じなのではないでしょうか。また、私たちをとりまく世界には様々な人がいます。世界の中、人々の間に出て行って宣教する時、そこでは信仰があるゆえの多くの迫害、試練や戦いが襲ってくることでしょう。家族、友達、ご近所さん、会社の同僚、たまたますれ違うだけの人。私たちを良く思わない人たち、反対する人たちもいます。すべての人に神さまの愛、赦しを語ろうとする時、あの人にはどうしても出来ないという思いに反してまでも、何か相手のために良いことをしようとする時、私たちは自分自身に死ぬことが要求されます。ただ神さまのためと。現実的にそれは試練となる場合もあります。
私たちの救いは洗礼を通して実現し、イエス様を通して聖霊は私たちに例外なく注がれました。「御霊はひとつ」。ペンテコステの時に弟子たちに注がれた同じ聖霊が、私たちにもすでに注がれています。その聖霊によって生きる時、生きている限り成長するもので、木が成長し実を実らせるのと同じように、私たちは霊的な成長を通して霊的な実、御霊の実を結んで行くのです。
成長するのはどんな時でしょう? 順風満帆な時でしょうか。恐らく私たちの信仰は、試練と、祈りと、黙想(デボーション・みことばをいただき、神さまがみことばを通して何を私に教えようとしているのか、それが今現在の自分とどのような関係があるのかを思い巡らすこと)によって成長するのではないでしょうか。試練の中で「神さま、何故ですか」と必死に祈り、神さまのお答えをいただくべく黙想する。その繰り返しが信仰を成長させます。そのようにして私たちは御霊の実を結んで行く。すでに結んでいるし、結びつつあります。
その御霊の実とは何ですか。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。そして、これら御霊の実は私たちの罪が変えられたもの。また、一番最初の愛が御霊の実であって、残りの8つの実は、その愛の具体的な現れとも考えられることも前に申し上げました。
イエス様はマタイの福音書7章で2度も仰いました。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」
人々は私たちの宣教の内に実を見る。判断する。何かを感じるのです。思い出してください。イエス様が十字架に架かられる前、弟子たちは自分たちのうちで誰が一番偉いかだのと議論しました。そこには敵意、争い、憤り、党派心、ねたみ…。肉の思いがありました。その時、弟子たちは悪霊につかれた一人の男の子を癒やすことができませんでした。救うことができなかったのです。しかしペンテコステの後、聖霊が注がれ満たされた時、人を癒やすことができました。救うことができたのです。ペンテコステの後の初代教会の様子を見てみますと、誰も自分のものを主張する者がなく、すべてのものを共有していた、と記されています。一見不思議な状況ではありますが、そのような肉の思いから出る行いが一切見られない教会の日常の生活の姿を見て、なんと「すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と記されています。改めて肉の思いとは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類いのもの。反対に、御霊の実による宣教、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。その御霊の実による証しは、人々に何か温かなものを与えるようなもので、人々がそれを感じ取るものではないかと思うのです。
好意などの良い評価は、力尽くで得るようなものではありません。
冒頭に、国外の宣教師の方々からビデオレターが届いていると申しましたが、これも何回か前の説教の中で申し上げたことですが、実はどこに誰が遣わされているのか、身の安全のために誰にも知られてはならないという厳しい、危険な環境の中で宣教されている先生方もおられます。そういった地での宣教の場合、伝道は厳しく禁じられており、現地の宣教師たちは、たとえイエス様のお名前、聖書のみことばを直接伝えられなくとも、社会奉仕、人々との交わりを通して宣教をし、神さまの愛を証ししているのです。いつその実は結ばれるのか。まるで気の遠くなるような、本当に信仰と忍耐が必要なお働きだと思います。
しかし、御霊の実による宣教によって人々に与える何か温かなもの、蒔かれた種はやがて芽を出し成長し始めます。私たちが試練を通して成長するように、宣教の相手も、不意に訪れる試練を通して成長するのかもしれません。その時、自ら「私たちはどうしたらよいでしょうか」と私たちに問い始めるのではないでしょうか。その時ようやく「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と大胆に証しすることができるのではないかと思います。そしてその方が自ら求め、救われ、聖霊が注がれる時、新しい弟子が生まれる。そこから人生を通して成長し、御霊の実を結んで行き、その実をもってまた宣教していく。そのようにしてエルサレムから始まって、ユダヤの全土、サマリヤ、地の果てまで、十字架と復活の証人が広がっていくのではないかと思います。
お隣の町、坂城町出身の水野源三さんがこのような詩を書いています。「こんな美しい朝に」という詩です。
「空には 夜明けとともに 雲雀(ひばり)が鳴きだし 野辺には つゆに濡れて すみれが咲き匂う こんな美しい朝に こんな美しい朝に 主イエス様は 墓の中から 出てこられたのだろう」
こんな美しい朝に、こんな美しい朝に、私を愛される主イエス様、私が愛する主イエス様は、墓の中から出てこられたのだろうと思い巡らせている。黙想している。なんて素晴らしい詩なのだろうかと思います。水野源三さんは皆さんご存知のように、幼いときに脳性麻痺を患い、全身が動かなくなってしまい、まばたきによって詩を書いておられました。同じ詩集にはこんな詩もあります。「歯が痛む夜 咳が出る夜 けいれんが起こる夜は 夜明けが待ち遠しい」。辛さ、苦しさとともに夜明けを迎える、そんな朝もあったのです。一晩中、孤独を味わい苦しんだこともあったのです。それなのに朝を「こんな美しい朝」と感じ、「こんな美しい朝に 主イエス様は墓の中から 出てこられたのだろう」という、素晴らしい信仰告白、希望、賛美の詩が心から湧き出ることは、私は本当に凄い事だと思います。これも慰め主、助け主であられる聖霊なる神さまの業でしょう。同じ聖霊なる神さまは、私たちとも、いつでもどんな時でもともにおられ、すべてを教え、イエス様が私たちに話されたすべてのことを思い起こさせ、そして慰め、力づけて、主の業を行う者、証しする者としてくださいます。水野さんの詩には相手を無理矢理に説得するような言葉も、自分を大きく見せようとする言葉もありません。ただご自分が体験した恵みを感じたままに言葉にしている。自分のありのままの弱さをもって証ししている。そんな水野さんの言葉と姿に、今でも多くの方々は引きつけられ、癒やされ、そして神さまを求める魂が起こされています。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言われてから、イエス様は使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
イエス様が天に上げられて弟子たちの目には見えなくなってから、使徒たちは置かれた場所で、心を一つにして祈っていました。皆で心を合わせ、同じ熱心さをもって、同じ方向を向いて一致していました。10日間もの間、約束の聖霊を待ち望んでいました。次の日も、3日経っても、7日経っても何も起こらなかった。彼らもこの間は試みられたことでしょう。しかしイエス様が命じられた通り、使徒たちはじっとそこに留まりました。信仰に留まったのです。
私たちも心一つにし、同じ熱心さをもって互いに愛し合い、励まし合いながら、聖霊の満たしを望みつつ、十字架と復活の証人として、御霊の実を結んで行く、そんな祝福に満ちた歩みをしてまいりましょう。その歩みの歩幅、またスピードは人それぞれです。神さまはそれぞれの歩み方を愛し、尊ばれ、すべてを益として用いてくださる全能なるお方です。私たちの想像を遙かに超えたお力を持つこのお方を信じて、頼って、私たちのすぐそばに広がる世界に一歩踏み出して行くなら、さらに御霊の実を結んで行くことになり、生活のあらゆる面で神さまを証しし、神さまの栄光を現して行くことができるでしょう。
神さまは教会を、そして私たち一人ひとりを、聖霊によって宣教の働きにふさわしく整え、力を与え、用いてくださいます。ペンテコステに使徒たちに注がれた同じ聖霊に満たされて、一致して宣教に携わってまいりたいと思います。
お祈りいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝致します。今、宣教師として地の果てで働いておられる先生方のその尊い働きを、どうぞお守りくださいますように。また、私たちも宣教に召されていることを覚えます。私たちの口の言葉、生活の態度、心の思いや動機、実際の行い、すべての上に聖霊様が満ちていてくださいますように。今週も主の栄光を表していく歩みとなりますように守り、導いてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈り致します。アーメン。