2020年7月19日 主日礼拝「良い行い」
本日の聖書箇所
使徒の働き9章36〜43節
説教題
「良い行い」
今週の聖句
このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
使徒の働き9章42節
訳してみましょう。
2213 Your parents brought you up, don’t let them down.
2214 No Christian is an island.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 11番「あめつちにまさる」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 153番「わがたまよ、きけ」
聖 書 使徒の働き9章36〜43節
説 教 「良い行い」佐藤伝道師
讃美歌 365番「わが主イエスよ」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
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説教「良い行い」
佐藤伝道師
誰かに自分を愛させることはできるでしょうか。こちらから要求して強制的に自分を愛させることなどできるのでしょうか。また逆の立場に立ってみても、愛されたからといって、相手から何かの見返りを要求されたりするようなものでもないでしょう。そんなことをされたら嫌な気分になります。そのような愛の中には、お互いの間に心からの喜び、嬉しいとか、ありがとうとかはありません。愛とは相手からの一方的で、何の見返りも求めない無償の贈り物、与え尽くす贈り物であるべきです。だからこそ愛される者を喜びや平和で満たすものではないでしょうか。そして人はそのような本物の愛を求めているものだと思います。もしそのような本物の愛を見出すなら、自分から引きつけられるようにその愛を求めて自ら向かって行き、その愛に自ら応えようとするのものではないでしょうか。
先週は「思い出しなさい、覚えていなさい」と、かつては神さまを知らない異邦人、神さまから遠く離れ、自分の罪と罪過との中に死んでいた私たちの内に、ただ恵みによって、イエス・キリストを通して成し遂げられた神さまの愛のみわざを見ました。このキリストにあって私たちは、ただ恵みによって、賜物によって神さまのもの、神さまの作品とされている教会であるところを見ました。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」という私たち教会に対する神さまの目的も示されたところでした。
私たち教会、それはただ建物を指すのではなくて、そこに集う一人ひとりが教会として立てられているのですが、その教会を通して、すべての人が福音を聞き、キリスト・イエスの十字架を信じることによってのみ救われる。ユダヤ人も異邦人も、つまり世界中すべての人がともに、キリストの十字架から続いている、唯一神さまに至る道を通って、神の御国、天国への道をいつも平和と、喜びと祈りと感謝をもって歩み、やがて天国に入れられたなら、神さまと一緒に永遠に平和に過ごす。この神さまの御心をこの世で証しし、人々を導くことが、教会に備えられている目的、良い行いとされているものです。
その良い行いについてイエス様は、神を賛美し、みことばを世に宣べ伝えるだけでなく、実際の良い行いを通しても異邦人が神さまを崇めるように、神さまを信じるようにすることを示しておられます。
本朝与えられましたみことばは、先ほど拝読いたしました使徒の働き9章36節からです。短い箇所です。ここにはタビタという女性の弟子が登場します。ペテロも登場してきて重要な働きをしますが、今朝は主にタビタに焦点を合わせて見てまいりたいと思います。彼女の姿を通して「良い行い」について教えられたいと願っています。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。本朝もこのようにして愛する兄弟姉妹ともどもに礼拝をお献げできます幸いを心から感謝致します。今朝もみことばを祝福してお与えください。聖霊様が満ちていてくださり、お一人お一人にお語りくださいますようにお願いをいたします。神さまの愛と御心を悟ることができますように、お導きください。先に祈られました司会者の祈りに合わせて、救い主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。
「あなたのためにこれをしてあげるから、代わりに私にあれをして頂戴よ」。このような対価を期待するような考えは、商売においても、人付き合いにおいても、基本となっている考えではないでしょうか。私たちのベースにはこの考えが深く根付いているものだと思います。そしてそれは「愛すること」「愛されること」においても、知らずして影響されているものかもしれません。
冒頭でも申しました通り、誰かに自分を愛させることはできるのか。こちらから要求して強制的に自分を愛させることなどできるのか。どう思われますか? できないと思います。
しかし今すぐにでも出来ることがあります。何でしょう。
誰かに自分を愛させることはできないけれども、自分が誰かを愛することはできるのです。私たちはイエス・キリストを通して無償の愛を注がれ、そのありがたさ、喜び、嬉しさを実際に経験して知っています。その愛がどのような性質のものであるのか、どんなやり方でといったところも、私たちは聖書を通して知らされているので、イエス様を見本として今すぐにでも真似することができます。
イエス様は、この世を生きていく中で神を愛することと同じほどに隣人を愛することが重要であると言われました。では隣人とは誰かということになりますが、有名な「善きサマリヤ人」の喩えで、イエス様は何を言われたかったのでしょうか。それは恐らく、隣人だから愛するのではない。愛するから隣人になるのだ、ということでしょう。
ここに無償の愛によって多くの隣人を獲得した一人の女性が登場します。彼女は多くの人を自分と近い者として、一緒に神さまの御前に立たせました。その多くの隣人を獲得した手段は、「良い行い」によってでした。
9章36節 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せばドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
ヨッパはギリシヤ系の人が多く住む町でした。この町にもキリストを信じる群れがありました。彼らは迫害によってエルサレムから逃げ延びたキリスト者でした。その群れの中にタビタというアラム語の名前を持つ女の弟子、つまりクリスチャンの女性がいました。「ギリシヤ語に訳せばドルカス」とわざわざ注釈が付いていますが、これは単に記者のルカがつけた翻訳ではありません。39節に「ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着」とある通り、確かにヨッパのギリシヤ語を話す人々からは「ドルカス」というギリシャ語の名前で親しく呼ばれていたのです。タビタもドルカスも「かもしか」という意味で、旧約聖書では「美しい、やさしい、すばやい者」の比喩に使われています。彼女が醸し出す雰囲気が、かもしかのように愛らしい、やさしくて、きびきびした婦人だとして、ヨッパの人々から親しみを込めて「ドルカス、ドルカス」と呼ばれていたのではないかと思います。私たちのまわりにもそのような人が思い当たるのではないでしょうか。私も「あの人みたいな人かな」と思い浮かぶ人がいますが。
その彼女が、キリスト・イエスを信じる群れの中で、つまり教会で「多くの良いわざと施し」を積極的にしてきたのです。その相手は夫を亡くしたやもめたちでした。
41節では「聖徒たちとやもめたち」とわざわざ区別されていることから、恐らくタビタが良いわざと施しをしていた相手とは、キリスト者ではないやもめたちだったようです。また、タビタが死んだ時に家族が登場してこないので、タビタ自身もやもめだったのかもしれません。
タビタがどの時点でやもめになったのかは分かりません。しかし彼女もまた人生の中で突然訪れた苦難、深い悲しみを経験したのでしょう。そこで何かをきっかけにして、やはり“先にキリストに召された誰か”を通してキリストの深い愛に触れ、経験し、そしてイエス・キリストを信じてクリスチャンになったのでしょう。さらに迫害によってヨッパの町に逃れてきた。そんな苦難の連続のような人生であってもなお、隣人を愛することができる。それはキリストの愛を経験した者にこそできる、キリストの愛をその身をもって表現する生き方だったのではないでしょうか。これこそタビタの「良いわざ」だったのでしょう。
そして良いわざと同時に積極的に行ってきた「施し」のことも記されています。施しとは慈善、チャリティー、奉仕、見返りを求めない無償の愛の実際の表現です。タビタは自分に与えられている針仕事という特技を用いて、やもめたちのために衣服を作りました。自分に与えられている特技を神さまからの賜物、ギフトとして認めて、それを積極的に神さまと隣人のために用いました。
当時、女性が男性と同じように働いてお金を稼ぐことができる時代ではありませんでした。夫を亡くしてしまった女性は、基本的に収入のない生活になってしまって、誰かに頼って生きていくしかなく、大変貧しく、心細いものでした。そんな中、タビタが作ってくれた衣服はとてもありがたかったことでしょう。そればかりではありません。タビタが死んだ時の様子がこう記されています。
9章39節 やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
新共同訳では「一緒に作ってくれた」と訳されており、また「見せる」は「自ら見せる」という言い方で、恐らく「今着ているこの下着も、ほら、今着ているこの上着も、みんな彼女のおかげなのですよ」と言って、涙にくれつつペテロに次々と見せたのでしょう。タビタは自分の特技を惜しげもなくやもめたちに教え、やもめたちに生きる術を身に着けさせて、少しでもきちんと生活できるように教えようとしたように思います。目先のことだけではない、ずっと先を見据えて相手のことを真剣に考えて行動する。素晴らしい愛の実践だと思います。
やもめたちにとって、とても辛く苦しく生きにくい世にあって、同じやもめであるタビタが、やもめで、しかも迫害から逃れて来た地で、それこそかもしかのようにいつも元気にぴょんぴょんはねて動き回っているような、嬉しそうな姿。さらに他人への優しさに溢れた生き方はには、どこか惹かれるものがあったことでしょうね。自分が愛したからと言って、相手に何の見返りを求めないそんな彼女の無償の愛に、本物の愛を見出したのでしょう。だからやもめたちは彼女を「ドルカス・かもしかのような人」と親しみをもって呼んで、彼女の回りに引きつけられたのではないでしょうか。そしてそれらの源は何なのだろうかと、不思議に思うところもあったのではないかと思います。
イエス様はマタイの福音書で、私たちクリスチャンは地の塩、世界の光とされているのだとしてこう言われました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ513−16)。
タビタはまさにイエス様のお言葉に従順に従った人であったと思います。神の作品として、その目的をしっかり果たしていた人であったと思います。
ところが、と37節では、突然の不幸な出来事が記されています。神さまにとっても、教会にとっても大きな痛手であると思われる、「神さま何故ですか」と思わず問いたくなってしまうような出来事が起こりました。
9章37節 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
9章38節 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。
9章39節 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
タビタは病気になりました。聖徒たちは必死に祈ったことでしょう。その姿を見て、未信者であるやもめたちも自然と一緒に祈ることへと導かれたのではないでしょうか。その甲斐なくタビタは死んでしまいました。しかし、皆どこか諦めてしまった様子は見えてきません。
普通、この地方では、死体は当日、死後数時間で葬るのですが、タビタの死体は屋上に安置されました。死体は洗われましたが、埋葬の準備である油は塗られていませんでした。
偶然と言いますか、神さまには必然だったのでしょう。ヨッパに近いルダという町にペテロが来ていて、そこでペテロは一人の人の病気を奇跡によって癒した、その話しをヨッパの人々は伝え聞いていました。急いで使いをペテロのところに送って、「すぐに来てください」と嘆願しました。どういうつもりでペテロを呼んだのか。ペテロが到着するのはどんなに早くても翌日か翌々日のことです。しかし皆はペテロの到着を待ちました。ここで注意して心に留めておきたいことは、聖徒たちもやもめたちも、タビタの死という出来事の中で、何かを期待していたというところです。みことばの慰めを求めるにせよ、何かの奇跡を期待するにせよ、ペテロの到着を待つことによって、聖徒たちは神さまに望みを置き、また未信者であるやもめたちも、神さまにある望みをどこか仰ぎつつあるというところです。
9章40節 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9章41節 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
招かれて来たペテロはひざまずいて主に祈りました。ひざまずいて祈る姿勢は、ゲッセマネの園でイエス様が父なる神さまの御心を必死に祈り求めた姿勢でもあります。この祈りによってペテロに、タビタを生き返らせる主の御旨を知りました。「タビタ。起きなさい」と呼びかけました。そしてタビタは主の御旨のままに、目を開けて起き上がりました。ペテロは手を貸して彼女を立たせました。手を貸して、タビタいや、タビタの死において働かれた主こそ主人公であることを示そうとするように、聖徒たちとやもめたちとを呼んで、ご覧なさいとばかりにタビタを皆に示しました。自分は後ろに控え、タビタを通して御業をなされた主を指し示しましたのです。
その結果どうなったでしょうか。
9章42節 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
ヨッパという地に住むギリシヤ人、異邦人たちの間に知れ渡り、多くの人々がペテロでもなく、タビタでもなく、主を信じたのです。「知れ渡り」とありますから、誰かが話を伝えたのでしょう。もちろんそこに居合わせた聖徒たち、そしてやもめたちでした。そのやもめたちがペテロでもない、タビタでもない、主を証しし、多くの人々に主を信じさせたのです。そのように人々に主を証しさせた、すべての出来事を通して、目線を自分ではなくて神さまに向けさせた、それまでのタビタの生き様、証しが素晴らしいではないですか。これこそタビタの良い行いです。その良い行いは神さまによって備えられたもの、つまり恵み、賜物なのです。忘れてはならないことは、この同じ恵み、賜物が私たちにも与えられているということです。
さて、タビタにとって、生き返らされることは喜ばしいことだったと思いますか? 私は、再び罪とか苦難に満ちた煩わしいこの世に引き戻されることは幸せだったのだろうかと少し疑問に思います。しかしタビタはこう言うのではないかと思います。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。
キリストが生きるように生きる。キリストはこの地上で罪人を憐れみ、招き、実に十字架の死に至るまで福音を語り、神さまを証しし、貧しい人や虐げられていた人たち、病人、やもめ、親のいない子など、世では弱いとされている人々に無償の愛を示してこられました。多くの施しをされてきました。タビタはキリストが生きるように生き、そして死んで行った人だと思います。
神さまの愛、恵み、奇跡のような助け、また救いというものは、天から降ってくるようなものではありません。必ず人を通してなされるものです。人という作品を通して表現されるのです。タビタも、そして私たちも神の作品とされています。主がご自身の目的を達成されるために私たちを用いられるのです。
イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。枝はぶどうの木に繋がっていなければ生きられません。しかし逆に、ぶどうの木は枝なしには身を結べないのです。神さまの御業が実を結ぶためには、枝である私たちがどうしても必要であるということです。必要があって私たちを召された。ですから神さまは私たちのすべてに責任を持ってくださっています。
その時に私たちのなすべきこととは何でしょうか。私たちは作品に徹することなのではないでしょうか。神さまを心から信頼し、神さまの作品に徹する時に、神さまはタビタを自由に用いることができたし、私たちをも自由に用いることができるのです。
「作品に徹する」と聞いて、私たちはなにか不幸を思うでしょうか。何か不本意な、重荷のように感じるでしょうか。全く逆です。それはやはり神さまの恵みです。「作品に徹する」ことは不幸でも重荷でもなく、恵み、そして賜物です。神さまが私たちに注がれる思いやりであり、親切な行為です。不幸どころか、えこひいきされているほどに愛されている幸いです。なぜなら神さまは私たちの身に起こるすべての出来事、状況を作品であるがゆえに責任を持って益としてくださるお方だからです。私たちのあらゆる状況を用いて、ご自分の素晴らしい栄光が私たちから現れるようにすべて整えて下さっているからです。
人生には、私たちには理解できないことがたくさん起こります。しかしタビタが、実に生きることから死に至るまで、人生に起こったすべての出来事、夫をなくしてやもめとなったこと、病気にかかったこと、死んだこと、生き返らされてこの世に引き戻されたことなど、私たちには理解できないすべてのことを通して神さまによって用いられ、結果、多くの人々が主を信じたところを見る時に、あぁ、私たちはこのお方にすべてお委ねすることができる、ただ作品に徹することができるのだと確信するものではないでしょうか。作品に徹するなら、私たちの死や、死に値するような苦難や恥も、すべて主はご自身の栄光を現されるために用いてくださり、それは私たちにとっても益としてくださる。その確信によって、ようやく私たちは心に平安をいただき、人々に無償の愛を注ぐことができるでしょう。見返りを求めない本物の愛の手を差しのべ、また裏表のない愛の言葉を語ることができるのではないでしょうか。もしそこに確信がなく、作品に徹することができずに、自分の判断や思惑があったとしたらどうでしょうか。
そこで私自身、示されたことがあります。それは、ある人の救いを祈る時、私はどういった動機で祈っているのだろうかということです。イエス様は敵のために祈りなさいと言われましたが、私は、実際は敵でも何でもない相手を勝手に敵に見立てて祈っていると思いました。その時、私は本当の愛をもって相手の救いを祈っているのだろうか。相手に勝ちたいとか、ねじ伏せたいとか、自分の判断や思惑があって祈っているのではないだろうか。
また、こんなことも考えました。教会に求道者が起こされるように、若い魂が救われるようにと祈ります。けれどもそれは本当に救われて欲しいと心からの愛に基づく祈りだろうか。若い人たちがずっと後になって、何も良いことがなかったと嘆くことがないように、あなたの若いうちにあなたの創造者を覚えてほしいと、本当の愛をもって祈っているだろうか。教会のプライドとか、若い労働力が欲しいとか、そんな動機が全くないだろうか。
私たちはともすると、自分の確信とか知恵とか力で人々を説き伏せて、有無を言わさずにイエスはキリストであると認めさせようとしやすいのではないでしょうか。でもそうすればするほど、反発を買ってしまうものです。身近な家族との間に、世の人々との間に隔ての壁、平和ではなく、敵意を生み出してしまいます。人々はそれを敏感に感じ取るでしょう。それでは人々が、私たちの証しする神さまの前に立つことができるでしょうか。
9章42節 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
私たちは力尽くで人々から愛されることなどできません。でも、愛することは今すぐにできることです。私たちに無償の愛が注がれていること、無償の愛が結ぶ実の素晴らしさ、喜びを、今日のタビタから改めて覚えたいと思います。
様々な出来事や状況の中で、自分の判断や思惑で生きるのではなく、主の判断や思惑をいつも気にして、それでもどうしても理解できないことが起こったら、ペテロのように主の前にひざまづいて御心を祈り求めたら良いのです。すべてを益としてくださる主は必ず御心を示し、力を与え、私たちを励まし用いて、多くの人々が主を信じるようにしてくださる。御心を成し遂げてくださいます。私たちはその喜びに与ることができるのです。
9章43節 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。
しばらくの間がどのくらいの期間かは分かりませんが、ペテロはこの町のシモンの家に滞在していました。そのシモンは皮なめしという職業に就いていた人でした。その仕事は、動物の死体に触るので汚れたものとされていて、シモンの家が海辺に押しやられたのはそのためでした。ペテロがシモンの家に宿泊することは、ユダヤ教の教えからはおよそ考えることのできないことでした。もしかしたらペテロは、タビタの死体が置かれたあの部屋でひざまづいて主に祈った時に、何かを示されたのかもしれません。そしてその後、多くの異邦人が主を信じた事実を目撃しました。多くの人が主イエス・キリストを信じ、救われて、永遠のいのちを得たことを、全くあきらめていた人々が、この世を超える永遠の希望を得たのを見たのです。ペテロはヨッパの町にとどまって、次に成すべきことを考え、主の御心を待ち望んでいたのでしょう。
私たちもまた、未だ天国に入ることは許されず、この罪と汚れ、苦難に満ちた世に残されています。私たちもこの町にとどまって、次に成すべきことを考え、主の御心を待ち望む者でありたいと思わされます。
昨日、また芸能界で一人の若者が、人知れず自らの命を絶ちました。本当に悲しいことです。信仰と希望と愛。その中で一番すぐれているのは愛です。もし誰かが、信仰も、希望も奪われてしまうような状況の中で、最後まで心に残るものは他の誰かに注がれた愛なのでしょう。その愛にまで裏切られてしまったらと考えるとどうでしょうか。もし本物の愛が注がれていたら、その愛に、愛の暖かさに助けられる命があるでしょう。人知れず救いを求めている魂が、私たちのすぐ隣りにいるかもしれません。隣人を愛しなさい。愛するから隣人になるのですとイエス様は言われました。私たちは今すぐにでも愛することができる。一人も滅びることなく永遠のいのちを与えたいと願われる愛の神さまの御心を見事に表現する作品となって、私たちは良いわざ、施し、良い行いを積極的にしてまいりましょう。私たち教会は、そのために先にキリストに召されたのです。
お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。私たちは神さまの作品として立てられ、神さまの愛を色々な形で表現する者とさせられています。私たちが良い行いに励むとき、私たちのすべてを益として用いてくださることを信じます。私たちの良い行いを、一人の魂を救いへと導くために主が全能の御力によって用いてくださることを信じます。主よ、あなたの御心が私たちを通してなりますように。どうぞ私たちに心から神を愛し、隣人を愛する真の愛を増し加えてください。キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。