2021年1月17日 主日礼拝「なだめの供え物」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙3章25〜26節

説教題

「なだめの供え物」

今週の聖句

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ローマ人への手紙3章25節

訳してみましょう

2061 I think some things are better left unsaid. And I usually think that right after I said.

2062 Do not return evil for evil or reviling for reviling: but on the contrary bless, for to this you have been called, that you may obtain a blessing.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  12番「めぐみゆたけき主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  257番「十字架の上に」
聖 書  ローマ人への手紙3章25〜26節
説 教  「なだめの供え物」佐藤伝道師
讃美歌  324番「主イエスはすくいを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/jct21og44Y8

説教「なだめの供え物」

ローマ人への手紙3章25〜26節

佐藤伝道師

 私の息子は、中学の吹奏楽部でホルンを吹いています。そのホルンにまつわる思い出があります。私も中学の頃、吹奏楽部に所属していました。中学3年生の時のことです。吹奏楽部の顧問の先生、まだ当時20代だったのかなぁと思うのですが、理科の先生で宿題とか忘れ物をすると定規でお尻をぴしゃりと叩く怖い先生でした。その先生も学生の頃から吹奏楽をやっていて、先生はホルン吹きでした。先生は自分のためにとても高価なホルンを買ったと自慢していました。コンクールのための練習が始まった頃、少しでも良い演奏ができるようにと、その高価なホルンを中学の吹奏楽部でホルンを吹いていた女子に使わせたのです。ある日の放課後、渡り廊下でその女子がホルンの練習をしていたところを私が通りかかり、通りすがりに少しふざけてホルンのベル(ラッパの広がったところ)の先端を手で摘まんでグイッと曲げる真似をしたのです。そうしたら何とグニャンと曲がってしまったのです。まさか曲がるとは思っていなかったのです。慌てて元の状態に戻そうと思っても、まぁ無理でした。しばらくしてようやく謝りに行く決心をして先生の所に行きました。すると、なんと「しょうがない、形あるものは壊れるから」と言って赦してくれました。中学生だった私は赦されたことにただホッとして、良かった良かったと。衝撃的な事件だった割には、それから特に気にして過ごした記憶はありません。しかし35年も経った今ですが、息子のホルンを吹いている姿を見ると思い出すのです。主にお祈りして、経済的な痛みを覚えながら、ほとんど奇跡的に何とか用意することができた息子のホルン。少しベルが凹んだなどと聞くと、もっと大切に扱えと怒ります。そうすると思い出すのです。あぁ、私はあの時なんてことをしてしまったのだろう。そして赦してくださった先生に対して、心からの申し訳なかったという思いと、赦してくださったことに対して心からの感謝の思いが湧いてくるのです。

 私はたくさん人に赦されて生きてきました。赦しても来ました。皆さんもそうかと思います。そして何よりも、今朝もこうして主に礼拝をお献げし、主の親しい交わりが赦されているのも、主が恵みによって私を赦してくださったからです。心からの感謝を覚えて、今朝も御前に礼拝をお献げする者でありたいと願わされます。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今朝もこうして、ただ恵みによって礼拝をお献げできる者とされていることを覚えて感謝いたします。主のみことばを今朝も祝福してお与えください。聖霊様のお導きのもと、御心が良く分かるように、語るこの者の上に、聞くお一人お一人に臨んでくださり、助け導いてください。感謝して主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。

 前回、私たちはローマ人への手紙3章21節から24節を見ました。本朝は続きの25節、26節を見てまいりましょう。実はたった6節のところですが、ここには私たちの救いに関する、極めて重要な教えが次々と語られています。ある先生は、この箇所だけで5回にわたって説教されたと聞いています。実際に準備をしてみると5回でも足りないくらいだと思わされています。やはり未熟者ゆえ、語り尽くせないところがあります。救いに関する極めて重要な教えですから、これからも度々、また違った形で語られることもあるかと思いますので、今朝は主によって導かれたところを語らせていただきたいと思います。

 前回は、私たちは「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ324)というところを見ました。

 パウロは「贖い」という言葉を用いて私たちの救いの根拠を示しました。贖いとは何だったでしょうか。「贖い」と日本語で訳されているギリシャ語にははっきりとした意味があるのですが、何だったでしょうか。それは「身代金の支払いによる解放」でした。素直に訳すと「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの身代金の支払いによる解放のゆえに、価なしに義と認められるのです」となるのでしょう。何からの解放だったのでしょうか。罪からの、罪の奴隷からの解放でした。キリスト・イエスの贖いによる罪からの解放。それが私たちが神さまから義と認められるために、救われるために、神さまがしてくださったことでした。そしてその救いは、信じるすべての人に、価なしに、ただ神の恵みによって与えられるという、神さまの約束でした。

 「価なしに、恵みにより」。「罪から来る報酬は死である」と聖書にはありますが、私たちはイエス様の贖いによって、イエス様ご自身が身代金となって罪の代価を、そのいのちをもって支払ってくださったゆえに、私たちは私たちのいのちを差し出すことなく、価なしに、Free「無料(ただ)」で、そしてFree「神さまの自由、つまり恵みによって」、神さまに義と認められました。しかも、「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と聖書にある通り、価なしに永遠のいのちを与えてくださいました。また、神さまの義認という出来事が、赦しが、救いが、今も、日々、価なしに、信じる私たちに起こっているのだというところも見ました。そして私たちが何の迷いもなく、永遠のいのちをもってやがて約束の地へと辿りつくまで、この地上の人生を有意義に生きていくためには、この神さまの約束を信じきること、依り頼むことが重要であることを見ました。

 改めて前回のみことばを振り返りましょう。

3章21節      しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました
3章22節      すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3章23節      すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3章24節      ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 しかし、この24節までですべて良しとしてしまうならば、何か人間中心の救いの出来事のようになってしまうような気がします。私たち罪人が義とされた。赦された。救われた。あぁ良かった良かった。果たしてそれで良いのでしょうか。

 本朝みてまいりますみことばは、この24節からの続きです。

3章25節      神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃してこられたからです。
3章26節      それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 パウロは、私たちが恵みによって、価なしに、キリスト・イエスの贖いによって義とされた、救われた、良かった、感謝だという、それだけにとどまっていません。

 今日の25節、26節を注意深く見ますと、主語がすべて神さまであることが分かるのではないでしょうか。人間が主語ではないのです。前回は私たちはキリスト・イエスの贖いによって義とされたことが示されました。そして今日の箇所では、私たちがキリスト・イエスの贖いによって義とされるために、神さまがどれほどのことをなされたかが示されています。それは私たちが是非とも知っておくべきことなのではないでしょうか。

 25節には「なだめの供え物」という語が出てきます。新共同訳では「罪を償う供え物」、また口語訳では「贖いの供え物」と訳されていますが、ここはやはり「なだめの供え物」とするのが良いのではないかと思います。「なだめる」。何をなだめるかと言ったら、罪人に対する神さまの怒りをなだめるという意味だからです。神さまは愛なるお方です。しかし罪人に対する怒りという感情をもお持ちであることが分かるのではないでしょうか。

 パウロはローマ人への手紙の冒頭、1章18節から「すべての人は罪人である」ということを論証するにあたって、まず初めに「神の怒り」について語りました。神さまは人格的なお方です。神さまは罪人に対しては怒られるお方であるということです。罪に対して目をつぶることは神さまの正義に反することです。罪に対してきちんと怒られることもまた、神さまの正義です。罪人が赦されるためには「罪の償い」、「贖い」だけでは足りません。償いとか贖いは、物とか行為についてだけ言われるものだからです。罪人を赦すためには、怒りという感情も解決されなければなりません。怒りという感情がなだめられるという解決もなければなりません。怒りの感情が完全に解決されなければ、神さまとの関係は見せかけだけの平和な関係になってしまうのではないでしょうか。ですからパウロはここで、その神さまご自身が自らの怒りをなだめるために、キリスト・イエスを「なだめの供え物」として立てられたのだと言います。

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」。

 25節の「公にお示しになりました」というギリシャ語の意味は、「計画し、提供された」という意味です。私たち人間は、神さまが計画し、提供してくださった救いの方法に従ってこそ、従ってのみ、救われるのです。その計画され、提供された救いの方法というのが、キリスト・イエスを、血による、また信仰によって受けるべき宥めのささげ物とすることでした。しかもそれは、はるか昔、旧約の時代、創世記の初めからすでに計画され、提供されていた贖いの方法、救いの方法だったのです。

 それは第一に、「血による」贖いでした。「血」というのは、旧約における動物犠牲の血と直接繋がる言葉です。罪のためのいけにえとして献げられる動物は聖所で屠られ、その血は祭壇に注がれました。屠る(体を切り裂く、切り殺す)という手段と、それによって体の外に流れ出る血。その二つが動物犠牲においては必ず要求されます。動物が屠られる、解体される様子は決して気持ちの良いものではありません。現代の私たちは見る機会もないし、できれば見たくはないものでしょう。しかしそのような光景は、屠られる動物が罪を犯した者の身代わりとして刑罰を受けていることと、この刑罰は神の御怒りを表す恐るべきものであることを人間にまざまざと示す行為でした。目を逸らしてはならないのかもしれません。キリストの十字架の死は、まさにこのような意味での死でした。十字架の死は、動物を屠る場合とは違って、一瞬のうちに傷口から血がほとばしるという光景はなかったかもしれません。しかしイエス様は痛めつけられ、苦しめられました。先ほど賛美した讃美歌では「十字架の上に屠られたまいし神の子羊」と、イエス様を表して歌っています。旧約の動物犠牲の用語を用いることによって、イエス・キリストの死が、贖いとなだめのための死であったことを明らかにしています。

 さらに、旧約における動物犠牲の血の意味を最も明白に教えているのは、レビ記17章11節です。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である」。新約の時代では、それはキリスト・イエスの十字架における血として表されています。ヘブル人への手紙9章22節では、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と言われています。それが神さまが、人間の罪が赦されるために、恵みによって定められた規定でした。

 第二に「信仰による」贖いでした。動物犠牲によって神の怒りがなだめられる。贖われる。それによって罪が赦される。それを神の恵みとして受け入れる心が、動物犠牲を献げる者の側にないと、この規定の一切は無効に、意味のないものなってしまいます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル116)同じ事がイエス・キリストの十字架と私たちの関係についても言えるのではないでしょうか。キリストが十字架で死なれたのは私の罪のための身代わりとして死なれたのであり、それによって神の怒りがなだめられたということは、ただ信仰によってのみ、私たちが信じることによってのみ受け入れられることなのです。

 第三に、「なだめの供え物」という言葉。新改訳2017の欄外注には説明されているのですが、そこには「別訳『贖罪のささげ物』『宥めの蓋』」とあります。また今現在、一番新しい翻訳聖書である聖書協会共同訳では「贖いの座」となっています。新改訳で「なだめの供え物」と言われる言葉が、ここでは「贖いの座」と言われ、また「宥めの蓋」とも言われます。

 旧約時代のイスラエル民族においては、「贖いの座」「宥めの蓋」とは、至聖所の中に置かれた契約の箱の蓋のことで、それは神さまの臨在と栄光の象徴でした。年に一度の贖いの日に、大祭司は罪のためのいけにえの血をこれに振りかけて、自分と民の罪の贖いをしました。その行為によって民に注がれている神の怒りが宥められ、取り除かれ、神さまとの和解が回復されました。これは、キリストの十字架の血による贖いをあらかじめ型として示したものでした。ヘブル人への手紙の著者がこのように記しています。「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物ではない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によってただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブ911−12)旧約の動物犠牲は何度もなされましたが、キリスト・イエスの十字架の血による贖いは、ただ一度だけで十分なのです。

 このように神さまは、この方を、贖いとなられたキリスト・イエスを、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。それは神さまご自身の義を明らかにされるためでした。

 神さまは義であるゆえに、人間の不義、罪をそのまま容認することはできません。神さまは人間の罪を、ただ見過ごしておられたのではく、忍耐をもって見逃しておられたのです。誰にとっても罪はどうでもいいことではありません。ならばなおのこと、真に聖い神さまにとっては、どの罪も赦すことのできないものであったでしょう。神さまはそれを、忍びに忍ばれ、耐えに耐えて見逃しておられたのです。見逃すとは英語で「サスペンション」となっていました。車のサスペンションです。衝撃を吸収して逃がすものです。神さまには罪人に対する怒りの感情がおありです。その怒りの感情を忍びに忍ばれ、見逃され、その忍耐の末に神さまの義が現されたのです。罪は必ず裁かれ、そして解決されなければならないという神さまの義が現されたのです。

 それは「今の時に」、キリスト・イエスの十字架において現されました。神さまはこの時がくるのを待ちに待っておられたのです。罪を完全に裁く時を、そして人々の救いを待ちに待って、この時に、キリストの十字架を立ててくださったのです。神さまは義のゆえに怒りの感情をお持ちであると同時に、人が救われることを待ちに待たれる愛をもお持ちのお方なのです。

 詩篇の記者はこのように歌っています。「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立てるでしょう。しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます」(詩1303−4)。またこのようにも歌います。「義と公正は、あなたの王座の基です。しかし恵みとまことが御前を進みます」(詩8914)。神さまは義であり公正なお方。であるからこそ、真の神さまです。しかし神さまの義と公正による裁きには、恵みとまことが先立つのです。愛が先行するのです。

 もし、私たちが子どもがした悪を裁こうとするとき、どうするでしょうか。何かお仕置きをするでしょうか、弁償させるでしょうか。では赦そうとする時、私たちのうちにある怒りとか悲しみとかの感情はどうしたら宥めることができるでしょうか。決して諦めではないでしょう。この子ならきっと私の赦しの心、気持ちに応えてくれるだろうといった信頼、それは子に対する信仰と言っても良いかもしれません。また希望があるから赦すことができるのではないでしょうか。そして何よりも子を愛する愛があるから赦せるのではないでしょうか。子は親の信頼、信仰を裏切る事があるかもしれません。希望通りに行かないこともあるかもしれません。しかし愛は最後まで残るものなのではないでしょうか。この愛によって、愛があれば、子を赦すことができるのではないでしょうか。

 父なる神さまが子である私たちを取り扱われる時も同じではないかと思うのです。神さまは私たちを愛してくださる、その愛ゆえに赦してくださるのです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(コリ134−8)この完全な愛をお持ちの方が私たちの父なる神さまです。

 前回、そして今日の箇所では、私たちがキリスト・イエスの贖いによって義とされるために、神さまがどれほどのことをなされたかが示されています。それは私たちが是非とも知っておくべきことなのではないでしょうか。神さまがどれほどのことをしてくださったのかを知ってこそ、初めて本当の悔い改めへと、そして心からの感謝へと導かれ、そのようにして本当に救われるということになるのではないかと思うのです。

 私は冒頭で、中学時代の失敗談をお証ししました。当時の失敗談を思い出しながら、35年も経った今になって、心から申し訳ないことをしてしまったという思いと、赦してくださった先生に対する心からの感謝の思いが湧いてくることをお証ししました。なぜそんな思いが湧いてくるのかと言いますと、謝りに行った時の先生の表情を思い出すからです。表情を思い出して、今ならどんな思いで私を赦してくださったのかが分かるからです。私が謝りに行き、壊れたホルンを先生に見せた時、先生は顔を真っ赤にして、歯を食いしばって、顔を横に傾けて、色々な感情を押し殺すようにしてしばらく耐えた後に「っく〜、しょうがない。形あるものは壊れるから」と赦して下さいました。高価なものが壊されたという経済的な痛み、また心のショック、悲しみ、怒り。今なら分かるような気がします。中学生の私を赦すために、先生がどれほどのものを犠牲にしたのか、押し殺したのか、我慢したのか、今なら分かるような気がします。分かって初めて、本当に申し訳ないことをしてしまった。赦してくださって本当にありがたいという思いが湧いてくるのです。いつかこの思いを伝えられたら良いと思います。私は先生のたくさんの犠牲によって赦されたのです。おこがましいことですが、先生が、あの時の先生の気持ちを少しは私が理解したことを知ってくださるなら、「何を今さら」などと言いながらも、きっと喜んでくださるだろうかと思います。そしてその時に改めて、あるいは本当に心の底から赦してもらえる、和解できるのだろうと思います。新しいもっと良い関係が築けるのではないかと思います。それが私にとって、私が犯してしまった罪の本当の解決、本当の赦し、救い、本当の喜びとなるのだと思います。

 皆さんもこれまで、たくさん誰かを赦してこられただろうと思います。そこで私たちがもし、誰か相手を赦そうとした時、何が問題になったかといったら、「怒り」とか「悲しみ」、あるいは「憤り」とか、そのような自分の感情というものがあったのではないでしょうか。相手を赦すためにはまず、ご自分の感情といった問題を解決しなければならなかったのではないでしょうか。そのことをご存じであるならば、神さまが私たちを義とされるために、どれほどのことをしてくださったのかが本当に分かるのではないでしょうか。

 そのことを知り、そして心からの悔い改めと感謝のいけにえを主におささげしましょう。

 私たちが救われるのは、自分のためであることに間違いはありません。しかし今日の箇所で聖書は、それだけに止まるのではなく、実は、神さまが正しい者とされ、すべてのことが神の栄光に帰せられるために私たちが救われるのであることを教えているのではないでしょうか。私たちが救われて義とされる、正しいとされるのは、私たち自身よりも、むしろ神さまである、というところに救いの本当の意味があり、また救いの確かさもあるのではないでしょうか。神さまが正しいとされ、神さまがあがめられるためにこそ、私たちは救われなければならないのです。罪を犯すことが、神さまに対して罪を犯すことであるというのであれば、救われることもまた、神さまに対して救われる。あえて言えば、神さまのために救われるということでなければならないでしょう。私たちが幸せになるためではなく、神さまがお喜びになるためと言っても良いでしょう。神さまが私たちの救いのためになしてくださったこと、払って下さった大きすぎる犠牲、痛み。そのことを知って、心の底からの悔い改め、そして湧いてくる感謝を言葉にして、主におささげしましょう。「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(ヘブ1315)。その時にこそ、私たちの救いは確かなものとなるでしょう。おこがましいことかもしれませんが、神さまも私たちが神さまのお気持ちを、御心を理解したことを知ってくださるなら、喜んでくださるのではないでしょうか。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天では喜びがわき起こるのです」とイエス様も言われました。そしてその時に改めて、あるいは本当に心の底から赦してもらえる、和解できるのだろうと思います。新しいもっと良い関係が築けるのではないかと思います。それが私にとって、私が犯してしまった罪の本当の解決、本当の赦し、救い、本当の喜びとなるのだと思います。またその喜びは、私たちの地上の人生の歩みを導いてくれることでしょう。その喜びに満ちた歩みをもってしても、神さまのご栄光を現し、神さまに喜んでいただく者、神さまを喜ぶ者とさせていただきましょう。

 最後に、ウエストミンスター教理問答の第一問を覚えて終わりたいと思います。問「人のおもな目的は、何ですか。」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝いたします。私たちが救われるために、どれほどの大きな犠牲が払われたのかを覚えることができ、ありがとうございます。神さまのお心のすべてを理解することはできないかもしれません。しかし、今のこの私たちが献げることのできる感謝と喜びをお献げしたく願います。また、日々、絶えずお献げする者でありたいと願います。今週も主のご栄光を現す喜びに満ちた歩みとなりますようお守りください。私たちの贖い主、キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。

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