2021年7月25日 主日礼拝「御霊のとりなしによって」

音声のみとなります。

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  179番「よろこびあふるる」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙8章26〜30節
説 教  「御霊のとりなしによって」佐藤伝道師
讃美歌  520番「しずけき河の」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


本日の聖書箇所

ローマ人への手紙8章26〜30節

説教題

「御霊のとりなしによって」

今週の聖句

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

ローマ人への手紙8章26節

訳してみましょう

2114 Look up at the sky and count the stars.

2115 Loving heavenly Father, thank You for caring about even the most intimate details of my life. Help me to stay close to You in prayer today.

説教「御霊のとりなしによって」

ローマ人への手紙8章26〜30節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。本朝も私たち一人ひとりの名を呼ばれ、御前に集めてくださり感謝いたします。今、主の御前にへりくだり、一切をお委ねし、霊とまことをもってあなたを礼拝することができますように、私たちの心、霊を守り、そして肉体にも痛みや不調を覚える所があるならばそこからも解放してくださり、導いてくださいますようにお願いを致します。主の御霊、聖霊様がこの場に満ちていてくださって、私たちを包み込んでくださって、信仰をもって、神さまのみことばに耳を傾けることができますようにお守りください。主の御心が本当に分かるようにお守りください。語るこの者の上にも主が臨んでくださり、みことばを正しく語ることができますようにお守りください。感謝します。私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 いよいよオリンピックが始まりました。先日、あるニュース番組を見ておりましたら、バドミントンのオリンピック選手の方のインタビューがされていました。その中でこう仰っていました。「感謝と初心を忘れずにいれば、どんなことでも乗り越えられる」と。厳しいトレーニングに耐えて、ついに迎えたオリンピック。厳しかったのは肉体的なトレーニングだけではありませんでした。良い成績をおさめていく中で、彼はひとつの社会的な罪を犯してしまいました。そのために無期限の競技会出場停止処分を受け、日本代表からも外され、出場予定であったリオデジャネイロオリンピックの出場権が剥奪されてしまい、さらに世の中からの非難の目が注がれました。処分が解かれて数年後には交通事故に巻き込まれ、選手生命が危ぶまれたこともありました。そんな試練のような出来事をいくつも経験して迎えた東京オリンピックを前に、こう仰っていました。「私はたくさんの人たちに本当に迷惑をかけた。それでもこんな自分を見放さずに見守り、助けてくれた人たちに対する感謝と、初心を忘れずにいれば、どんなことでも乗り越えられる」。それを聞いた3度のオリンピック出場経験のある陸上選手のコメンテーターが仰いました。「アスリートというものは、自分が何者であるかを知った時に、本当に強くなれるのだ」。苦しい極限のトレーニングを乗り越え、また極限の精神的な試練をも経験した人が心から実感する境地なのでしょう。パウロは信仰者の地上での歩みを陸上競技、レースに喩えていますけれども、正に色々な経験をしてきた私たちも、この地上の長い生涯の間、「感謝と初心を忘れずにいれば、どんなことでも乗り越えられる」「自分が何者であるかを知った時に、本当に強くなれる」、この言葉になるほどとうなずけるのではないでしょうか。またすでにメダリストが誕生していますが、彼らが口を揃えて言うことが、「私ひとりでは成し遂げられなかった。監督、コーチ、応援してくれた人たちのおかげ」というものでした。このこともまた、私たちの霊的な歩み、レースにおいても言えることだと思わされます。

 前回は、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」というパウロの言葉から教えられました。「今の時」というのは「しばらくの間」、必ず終わりがあるということでした。「終わりの時」、それはイエス様が再臨されてキリスト者が復活させられるとき、すべての被造物も苦しみと滅びから解放される。その救いの完成の時を、人間も、人間以外の被造物も、傷つけられ、うめきながら、産みの苦しみを味わいながら待ちわびていると。しかしこの苦しみは、神さまが直接手を下されて与える厳しい罰ではなく、人間の罪、貪り、神さまに背を向けて欲望のままに突っ走ってきた当然の結果です。それに対する神さまのさばきは、「人間の心を欲望のままに汚れに引き渡される」(ロマ124)こと、なすがままに任せられること。けれどもその背後には、造り主なる神さまのもの凄い親心が注がれている。その親心、神さまの私たちに対する愛、慈しみ、忍耐、寛容、それらが私たちを本当の悔い改め、本当の救いへと導く」(ロマ24)のだということ。御霊の初穂、御霊という救いの完成の保証、手付金をすでにいただいている私たちは、その救いの完成を心悩ますほどに憧れて、その時を心から待ち望んでいる。そして現にその望みによってすでに今、救われているのだと。私たちはその目に見えない素晴らしい将来を望んでいます。であるならば、私たちは忍耐をもって熱心に待つのです。これこそ信仰というもの。信仰というのは、神さまの愛をどこまでも信じること。いつどんな状況であっても、どこまでも神さまの私に対する愛、御心、私たちのために立ててくださっている神さまの良いご計画を信じ切ること。それが信仰というものではないだろうかという所を見たわけです。どうでしょうか。過ぐる一週間、この信仰によって生きて来られたでしょうか。

8章26節        御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 あのパウロでさえ、自分を「弱い」と言っているのですから、私たちなどどれほどの者でしょう。イエス様の十字架と復活によって罪から解放されてもなお、この地上に生きる限り、神さまに背こうとする罪の力によって、神さまの愛を信じ切れない、内からも外からも「神さまの愛を信じて良いのか、大丈夫か」と耳元で囁く声が聞こえ、色々な影響を受けて、そして弱くされてしまっている、敗北の呻き声を漏らす私たちです。

 私たちが弱さを覚える時、苦しむ時というのはどんな時でしょうか。先が見えない時、この苦しみがいつまで続くのだろうかと考える時、神さまの御心が分からない時、神さまの御心が自分の願いとまるでかけ離れていると感じる時。それで孤独を感じる時。なぜ今、私はここに置かれているのだろうかと悩む時。置かれているというのは、置かれている場所、人間関係、状況、自分の思い、試練。色々な意味でその中に置かれているということ。その意味は? 目的は? 御心とは? そういったことが分からない時、見失っている時、私たちは本当に虚しさを感じたり、苦しさを感じて、それこそどのように祈ったら良いのかさえも分からなくなってしまうのでしょう。

 聖書は言います。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」。私たちの内に住まわれる御霊も、弱い私たちと同じようにして弱い私たちを助けてくださいます。まだ見ていないものを、将来の栄光を、自由を、解決を、活き活きと生きる自分自身の姿を、御霊も私たちと同じように忍耐をもって熱心に待ち望んでくださっていて、私たちのためにとりなしてくださっている。祈れない私たちの代わりに人知れず祈っていてくださる。私たちの傷ついた心と同じ思いで、忍耐と熱心の中でギュッと絞られて滲み出るような深いうめきによって「どうか神さまの御心がなりますように」と祈っていてくださる。私たちは心の底から「自分の思いではなく、神さまの御心がなりますように」とはなかなか祈れないのかもしれませんが、御霊が代わりにそのように祈ってくださり、私たちを助けてくださっているのです。全知全能なる神さまの御心が最善なのですから。これが聖書に記されている神さまの確かな約束です。本当に感謝なことではないでしょうか。

 そして「助けてくださいます」とありますが、原語のギリシャ語では「受ける・得る」「続けて・繰り返し」「ともに」、この3つの単語が1つにされた特別な語なのです。その意味は、中断されることなく、途切れることなく、一緒に味方になる、ずっと協力する、共同で作業するなどの意味を持つ語です。ここ語に示されていることは、御霊の執り成し、御霊の助けというのは、私たちが助けを求めた時だけというものではないということです。常に、いつも、御霊は言葉にならない深いうめきによって、私たちの代わりに神さまに祈っていてくださる。私たちが大きな病気にかかったり、人間関係で悩んだり、愛する人との別れがあったり、将来の栄光、望みに対して私たちがつい忍耐を失い、熱心さを失ってしまっている時でさえ、御霊は神さまに助け、問題の解決、救いを、忍耐をもって熱心に待ち望み、絶え間なく祈ってくださっている。しかも「神さまの完全な御心がなりますように」と声を絞り出すようにして祈ってくださっている。私たちはこの御霊によって生かされているのです。実は自分一人の力で生きているのではないのです。もし自分ひとりの弱い力だけで生きていかなければならないのであるなら、苦難とうめきに忍耐する「今の時」を、決して耐えて生き抜くことはできないでしょう。幸いなことに御霊が常に私たちの味方となり、協力者となり、私たちとともに歩みながら助け導いてくださいます。私たちはこの御霊によって生かされているのです。

8章27節        人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしてくださるからです。

 父なる神さまは、私たちの心を探り窮めるお方です。神さまの霊、心である御霊が私たちのうちに住まわれるからです。神さまの霊が私たちの霊をとことん知ってくださっている。誰にも完全に理解してもらえないであろう私たちの心の思いを、感情を、すべて神さまがその心で分かってくださっている。子を思う親の心で、心から理解してくださっている。これほど心強いことはありません。

 この御霊はキリストの霊でもあります。イエス様は私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。ですから、私たちに対する憐れみのお心をお持ちです。憐れみのお心をもって、神さまの御心、ご計画の通りの完全な結果、救いの完成に至るまで、絶え間なく熱心に求め、私たちに代わって祈っていてくださっています。なんと慰めに満ちていることでしょうか。救いの完成とは、近くのことを言えば一つの目の前にある問題の終わりの時、つまり解決の時であるだろうし、もっと将来を見据えるならば、イエス様が再臨されて終わりの時を迎えること、それはつまり素晴らしい神の国が完成する時のこと。その間ずっと御霊は私たちの味方となり、私たちと共におられ、歩み、助け導いてくださいます。

8章28節        神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 「私たちは知っています」と言われているように、この28節は私たち先に救われた者、キリスト者の真実の経験を語っています。

 「すべてのこと」とは何でしょうか。これは神さまの御心、意志、ご計画に従って起こる、世のすべてのことを指します。その中にはもちろん喜びもあれば、悲しみもあります。成功もあれば失敗もあります。私が強い時も、弱い時も。順風満帆な時もあれば、吹き荒れる逆風に悩まされる時もあります。神さまはそのすべてを、神を愛する人々、神さまのご計画、御心に従って召されたすべての人々のために、益としてくださいます。すべてが益のために、すべてが益に向かって力を合わせて進められて行く。決してこれらのものが自動的に働いて、棚からぼた餅的な益を生み出すわけではありません。不可能なことなどひとつも無い神さまがすべてを益に導かれるのです。導いてくださったのです。これからも神さまがすべてを益として用いられて、約束の救いの完成まで守られ、導いてくださるのです。そして「益」という原語を調べて見ると、「そうであるかどうかにかかわらず良い」という意味でした。しかも注釈があって「この意味を持つすべての単語の中で最も広くて最も無色である」と。ギリシャ語で「ἀγαθός」。単語の中に「αγάπη・無償の愛」が見え隠れしています。「益」というのは何となくそのようなものであることが分かります。

8章29節        なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 「知っておられる」とありますが、これは単に知的に知るだけではなく、むしろ「愛する」という意味です。ヨハネの手紙第一にはこのようにあります。

【ヨハネの手紙第一】
4章10節        私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 また、同じヨハネは福音書の中でイエス様のおことばをこう伝えています。

【ヨハネの福音書】
15章16節      あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 先に神さまが私たちを愛してくださり、私たちを選んでくださったのです。救いは私たちからではなく、神さまから始まりました。そして神さまが愛され、神さまによって選ばれた者は、必ずキリストに似る者となるようにと定められています。私たちはキリストに似る者となるようにと、神さまが定めておられるのです。神さまがそのように期待されておられるのです。私たちは神さまに信頼され、期待されています。期待されるだけではなく、そのための力をも与えてくださっています。御霊です。キリストは真の神の子であり、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって、神の家族に養子として受け入れられました。神の子とされました。神の子とされた私たちに、父なる神さまは子に対する父の愛を注いでくださったのです。私たちは注がれる父の愛、御霊によって力を得て、地上の生涯を全うし、神の国に至るまで守られ、導かれて行くのです。神さまの約束です。私たちはいつでもどんな時でもこの約束を、神さまの愛を信じ切ることができるでしょうか。イエス様は一切を父なる神さまに委ねられました。地上での生涯を終えるその最後まで「父よ」と叫び求めるようにして、父なる神さまの愛、御心、ご計画、お約束を信じ切られました。そしてまた、人を愛し抜かれました。ご自分を十字架に架けた人たちさえも愛し抜かれました。私たちはこのイエス様に似る者とされることが期待されています。神さまに信頼され、期待されているのです。もし自分はクリスチャンだと良いながら、何かあるとすぐに神さまを疑ったり憎んだり、また他の人の揚げ足を取ったり、そのような人を誰がクリスチャンだと認めるでしょうか。神さまは私たちがキリストに似る者となるようにと心から信頼し期待し、遠くから見守っているだけではありません、もうひとりの助け主、御霊を送ってくださり、そのための力や知恵をも与えてくださっているのです。

8章30節        神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 「召し」「義と認め(罪赦され、神の子とされ)」「栄光をお与えになる」。これは救いが実現する、救いが完成する過程(順番)を述べたことばです。先ほども申しましたが、それは目の前の一つの問題の解決においてもそう、終末においての救いの完成においても言えることでしょう。私たちの救いは、神さまの予定、ご計画から始まり、私たちを召され、救いの完成、終末において完全にイエス様に似るものとされるまで、そのすべてが神さまのみわざなのです。信仰の最初から最後まで、すべてが神さまの恵みのみわざなのです。神さまの愛が現されているのです。信じられるでしょうか。ここでは過去形の動詞を使うことによってそれがすでに起こったことのように、確実に起こることとして語っているのです。

 さらに聖書はこう言うのです。「神は義と認めた人々には『さらに』栄光をお与えになりました」と。「栄光」とは何でしょうか。ピカピカに光輝く素晴らしいものでしょうか。確かにそうかもしれません。しかし「栄光」とは、神さまの素晴らしさが現されることです。

 昔、神さまはご自身が選ばれた民、神の民、イスラエルの民を通してご自身を現されました。イスラエルの民の上に起こった様々な出来事を通して、イスラエルの民の姿を通して、神さまの厳しさ、怒り、裁きを、同時に神さまの愛、慈しみ、助け、赦しをこの世に現されました。イエス様がこの世に降られて、イエス様を通して神さまはご自身をこの世に現されました。そして今、神さまは神さまが召し、神の子とされた私たちを通して、ご自身をこの世に現されます。私たちの身に起こる様々な出来事、私たちの姿を通して、神さまの厳しさ、怒り、慈しみ、さばき、赦しを現されます。すべては私たちの救いの完成のため。私たちがキリストに似た者とされるためです。

 私たちとは誰のことでしょう。神さまがあらかじめ知っておられる人々のこと。神さまがあらかじめ愛しておられる人々のこと。教会の礼拝に集っておられる人だけでしょうか。そうではありません。神さまは神さまご自身が創造されたこの世を、この世のすべてのものを知っておられる、愛しておられるのです。ユダヤ人とか異邦人とかを越えて、さらに人類を越えてすべての被造物までも愛しておられる、それが創造主なる神さまです。まだ救われていない、神さまに知られ愛されていることをまだ知らない人々より少しだけ先に神の子とされた私たちに、神さまはさらに、次から次へと栄光をお与えになるのです。私たちがこの世の間で神さまご自身を現していくことになるのです。

 しかし「栄光」とは、直訳すると「非常に重いもの」という意味になります。私たちに重くのしかかるもの、それが栄光です。旧約時代、神の幕屋が重い雲に覆われて「神の栄光が幕屋に満ちた」と言われました。重くのしかかる雲を見て、遠くにいる者も、近くにいる者も、神さまが幕屋にご臨在くださったことを見て知ったのです。神さまが現されたのです。私たちのこの体は、御霊が宿る神の幕屋です。世は私たちに非常に重くのしかかるものを見て、人々は真の神さまを知ることになるのです。その中から神さまを信じる者、神さまの愛を求め信じる者が起こされて、ますます神の国の完成、救いの完成へと近づいて行くのです。それが神さまが定められたことなのです。神さまが定められたことであり、神さまがすべての責任を負ってくださることも確かなのです。

 私たちの信仰の力だけでは、決して成し遂げられることではないでしょう。自分だけの力であるなら、私たちは目の前に置かれたレースを最後まで走りきることはできないでしょう。しかし私たちには神さまによって御霊が与えられています。御霊が助けてくださいます。この世に生きる限り、私たちが潰されてしまいそうなほどの重くのしかかることも襲ってくるでしょう。どのように祈ったら良いかわからないほどの苦難も襲ってくるでしょう。そのような時こそ、私たちは神さまに愛され、神さまによって召されているのだということを思い出したいと思います。御霊ご自身が私たちのために執り成してくださっている。神さまの霊である御霊が、私たちの霊、心が味わうすべてをご存じでいてくださり、しかも父の愛、父の心をもって分かっていてくださっている。すべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っているのですから、そんな時こそ思い出したいと思います。御霊はいつでもどんな時でも私たちの力となってくださっています。そのことを忘れないようにしたいと思います。心が渇ききって、暗闇の中にいるような時でも、私たちの代わりに、私たちのために祈ってくださる御霊に信頼し、神さまの愛を信じ切る力をもいただいて、御霊に導いていただきながら神さまに自分の心のすべてを打ち明けて、大胆に祈り求めましょう。

 私たちは日々直面する様々な状況の中で、時として幸せを、時として不幸を感じながら生きています。このような感情の変化ばかりに集中していると、ずっと先の将来のこと、すべてのことを通して神さまが成し遂げようとしておられることを見失ってしまいかねません。神さまはあらゆる状況を通して、私たちのための良い目的を成し遂げてくださいます。その良い目的とは、御子イエス・キリストに似せられていくことです。私たちに起こるすべての事の中で、この目的から外れているものは何もありません。そのことを信じるなら、不幸に感じられることも感謝へと導かれていくことでしょう。冒頭にご紹介した厳しい訓練をしてきたアスリートの言葉、「感謝と初心を忘れずにいれば、どんなことでも乗り越えられる」「自分が何者であるかを知った時に、本当に強くなれる」、この言葉が私たちの身にも迫ってくるのではないでしょうか。

 この後賛美します讃美歌520番「しずけき河のきしべを」に関する証しはあまりにも有名です。この讃美歌の作詞者であるホレーショ・ゲーツ・スパフォードという方は、ニューヨークで弁護士をしておられ、有名なムーディー牧師の働きの重要な支援者でもありました。彼は1871年、シカゴで起きた大火災で全財産を失い、その2年後にはヨーロッパ行きの船が沈没し、その船に乗っていた3人の子どもたちまで失うという大きな苦難に直面しました。しかし彼は、そんな大きな苦痛の中で、この讃美歌を作詞するに至りました。その後、彼は、妻とともに孤児や貧しい人たちを集めて共同生活をし、愛を実践する生活のために献身しました。

 もし私たちが彼と同じ目に遭ったとしたらどうでしょう。こんな詩が書けるでしょうか。なお神さまを信じ、神さまの愛を信じ切ることができるでしょうか。神さまはどんなに悪い出来事でも、聖徒のためには益となるようにしてくださるのだと告白できるでしょうか。私たちの力では絶対に出来ません。御霊の力に依り頼むのでなければ、決して出来ないことだと思わされます。スパフォードさんを再び立ち上がらせた同じ御霊が、私たちの内に住まわれ、いつも共にいてくださるのです。

 私たちの口は何を口ずさんでいるでしょうか。神さまへの賛美でしょうか。不平不満でしょうか。御霊に依り頼み、信仰が与えられ、神さまへの賛美がいつも私たちの口にあり、キリストに似た者とされた私たち、神さまを愛し抜き、人を愛し抜くその姿を通して、この世に神さまの素晴らしさを、栄光を現していく者としていただきましょう。私たちを含むすべての人の救いの完成を、神の国の完成を忍耐をもって熱心に待ち望んでまいりましょう。私たちの内に住まわれ、一番近くにいてくださる御霊が守り導いてくださいます。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。私たちを救いへと召してくださり、愛してくださり、どこまでも守り導いてくださる父なる神さま。様々な出来事がこの身に起こり、神さまの召し、神さまの愛を信じ切れなくなる時もありますが、御霊なる神さま、神さまの御霊が私たちの内に住まわれていること、御霊が私たちに信じる力を与え、また神さまに執り成しの祈りをしてくださっておられることを改めて覚えて感謝致します。私たちを通してどうぞ神さまの栄光を現してください。そして私たち、私たちの周りにいるすべての人々が、神さまが定めておられる救いの完成に向かって歩き出し、その道中も完成に至るまで守り導いてくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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