2021年8月15日 主日礼拝「パウロの祈り」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  6番「われら主を」1節と3節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  224番「勝利の主イエスの名と」1節と4節
聖 書  ローマ人への手紙9章1〜5節
説 教  「パウロの祈り」佐藤伝道師
讃美歌  493番「つみの淵におちいりて」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙9章1〜5節

説教題

「パウロの祈り」

今週の聖句

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

ローマ人への手紙9章2節

訳してみましょう

2120 God’s grace was so powerfully at work in them all that there were no needly person among them.

2121 Thank You, God, for all You’ve given to me, including Your grace. Help me toextend Your grace to others.

説教「パウロの祈り」

ローマ人への手紙9章1〜5節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め心より賛美致します。今日まで守り導いてくださり、そして今朝も私たち一人ひとりの名を呼んでくださり、こうして神さまの御前に召し出してくださっておられることを覚えて感謝致します。自分自身を顧みるならば、主がこのような私たちを知り、それでも私たちを愛し、選び招いてくださっておられることへの感謝を覚えます。その愛に依り頼み、今このひととき一切の重荷、疑問や思い煩い等を主にお委ねし、ひたすらにこの身も霊をもお献げし、礼拝をお献げできますようにお守りください。みことばを通して主との深いお交わりをいただき、霊肉ともに整えられ、愛と喜びと力に満たされて、任されたぞれぞれの場所へとお遣わしくださいますようにお願いを致します。語るこの者を聖めてくださり、主のみことばが語られますようにお願いを致します。私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈りを致します。アーメン。

 今日、8月15日は「終戦の日」です。第二次世界大戦における世界の被害者、犠牲者の数は5000万〜8000万人、8500万人とする統計もあるようです。当時の世界の人口の2.5%以上の大切な命が犠牲となりました。皆さんはこの8500万人の命に、どれほどの重みを感じられるでしょうか。もちろん、一人ひとりの命の重さに違いがあるとは決して考えませんが、けれども、例えばこの8500万人のうち、日本人の犠牲者が260万〜310万人であると聞くとどうでしょう。また310万人の中に身内の方や親しい方がおられたらどうでしょうか。私の祖父はフィリピンのミンダナオ島で戦死しました。ここで死んだのだろうという現地のジャングルまで行ったことがあります。そこでやはりそれまではあまり実感できなかった奪われた命の重さ、悲惨さというものをひしひしと感じました。今、私たちがこうして安全で不自由ない所で礼拝している時も、世界では大小様々な対立、争いや災害によって命が奪われていたり、日本国際飢餓対策機構によれば1分間に17人の命が飢餓によって奪われているということです。果たして実感が湧くでしょうか。どれくらい真実に肌身に感じて心痛めることができるでしょうか。しかしその一人の命がもし自分の親の命であったり、兄弟の命であったり、伴侶の命であったり、自分の子どもの命だとしたら。それこそ自分が押しつぶされてしまいそうなほどの命の重さというものが心に迫ってくるのではないかと思います。一人ひとりの命は創造主であられる神さまに覚えられています。一人ひとりのいのちに、我が子に対する目が注がれています。終戦の日を迎え、図らずもローマ書が9章に入る所で、このようなことを考えさせられました。

 前回ローマ書8章の終わりのところで何か一つの区切りを終えたような気がします。パウロは1章から8章までを書き終えて、感動のただ中にありました。パウロはこれまで、万物の創造主であられる主に背き、死に定められていた全人類に対して、イエス・キリストを信じる信仰によって無償で与えられる義の賜物、悲惨な罪と死の奴隷状態からの解放、神さまとの平和な関係、救いを語ってきました。神さまを求め始めるその人に聖霊を注がれ、ご自身とイエス・キリストによる罪の赦しを知らせ、信じる信仰を与えられ、赦しと救いを宣言される。さらにはこの地上を歩む上で罪に打ち勝つ手段をも与え、やがて実現する救いの完成に至るまでの神さまの至れり尽くせりのアフターケアについて語ってきました。

 これは水曜日の祈祷会で分かち合ったことですが、至れり尽くせりのアフターケア。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ828)。祈祷会では使徒の働きを学んでいますが、先日はパウロが同胞ユダヤ人に訴えられて窮地に立たされるところを見ました。ところがパウロはその状況をピンチとは見ずに、ユダヤ人に福音を語るチャンスだと捉えたのです。福音を語らせるために神さまが危機的状況を作ったのでしょうか。そうではありません。危機的状況を全能なる神さまが好機と変えてくださったのです。ピンチをチャンスに変えてくださった。神さまを愛し、愛するが故に神さまを第一として従う者に、福音のために生きる者には、神さまはすべてのことを働かせて益としてくださるのです。今、神さまを愛するが故に厳しい選択をされている方がおられるでしょうか。窮地に立たされておられる方がいらっしゃるでしょうか。神さまは神さまを愛し、その愛によって実際に生きる者には、責任をもって万全のアフターケアを約束しておられます。その約束が決して間違いのないことで、決して変わることがないことは、イエス様を私たちのために十字架にかけられたその大きな犠牲において現された神さまの愛が保証です。そして私たちに注がれた御霊が保証となっています。

 そのような救われた者の幸い、救いの素晴らしさ、キリストの福音の素晴らしさを説いて来たパウロは、迫害と困難の中にあっても神さまの愛に満たされ、その思いが、これまでの締めくくりである8章の最後で勝利の歌となり、賛美となり高らかに歌い上げました。その賛美に私たちも感謝と感動を覚えたところだったと思います。

 ところが9章に入ると、パウロは何か急にあらたまった厳粛な口調で語り出します。

 かなり前に確認したところですが、ローマ書は大きく二つ、前半と後半に分けられます。1章から11章が前半、12章から16章が後半です。内容的には前回見た8章終わりで何か一つのクライマックスを迎えた感じがします。先を進んで読んで行きますと当然12章へと繋がっていくのですが、12章1節はこのようにあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。前回見ました8章の終わりの勝利の歌、神さまへの感謝と賛美。その感動からそのまま12章1節へと繋がっても良いような印象を持ちます。その方が自然なような、分かりやすいように思います。ですから今日から読み進めていく9章から11章は、独立した内容を持っているようです。そしてその内容というものが「イスラエル民族の救い」についてです。文字通りのこの「イスラエル民族の救い」については、また機会がありましたら学びたいところですが、今回はそこへは立ち入りません。

 先ほど皆さんと拝読しました今日の箇所、最後にアーメンで終わっています。何かパウロの祈りのようではないでしょうか。9章でパウロは、パウロの同胞ユダヤ人への思いを綴っています。その思いは同胞ユダヤ人に対する嘆きであり、悲しみであり、パウロの心の痛みです。聖歌に「恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ」と言う賛美がありますが、パウロの心の動きというのはまさにこの通りではないかと思わされるところです。では私たちはこのパウロの思いから、私たちは何を汲み取るでしょうか。

 先に申し上げてしまうと、パウロはこれまで1章から8章を通して、人間の罪からの救いの問題を、そしてその素晴らしさを、これでもかというほどに私たち一人ひとりという個人のレベルに適用すべく扱って来ました。それが9章からは、一つの民としての救いの問題として語り直しています。私はこれほどまでの罪の悲惨から救われた、本当に幸いな者である。そして異邦人への伝道へと主によって召されている。けれども私はそこで満足してはいない、良しとしてはいないし、いられないのだという、そんなパウロの切実な思いが伝わってくるように思うのです。パウロの思いがこうして聖書に記録されている。それは単にパウロと言う人を紹介しているのではありません。それはそこに神さまが私たちに示そうとしておられる御心があるということではないでしょうか。

9章1節        私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

 パウロはこれから自分が述べることは真実であって、決して嘘偽りはありませんと言います。証し、証言というのは裁判においてなされるものです。どこかの国では聖書に手を置いて誓うようですが、証しというのは決して軽々しくできるものではありません。神さまの前で、命をかけて嘘偽りなく真実を語るものなのです。パウロはそのような証言をこれからすると言うのです。何に対する証言なのでしょうか。それはパウロの同胞、同じ国民、民族、兄弟姉妹、近しい人々であるユダヤ人に対するパウロの真実な思いに対する証言です。決してパウロに反対し、パウロを迫害する同胞に対する恐れによって自分を弁護するように語るものではない、パウロの同胞、近しい人々に対する真実の思い、それはパウロの同胞ユダヤ人に対する心の痛みを伴う思いと、本当の愛、自分を犠牲にすることも厭わないほどの真実な愛の思いでした。

9章2節        私には大きな悲しみがあり、私の心に絶えず痛みがあります。

 パウロには同胞ユダヤ人による迫害、命を狙われ、投獄され、石を投げられたり、鞭打たれて死にそうになったほどの痛みを、体にも心にも覚えていたことでしょう。体の痛みが疼いたりして覚えるときに、パウロの心もまた疼き痛みました。けれどもその痛みとは、恨みとか憎しみというような痛みではありませんでした。パウロはとっくの昔に自分を迫害する同胞の者たちを赦し、今も彼らを愛し、彼らのためにとりなさないではいられない、そのような心の痛みでした。

 この「大きな悲しみ」というのは圧倒されるほどの大きな悲しみのことです。「絶えず痛みがあります」というのは、絶えず激しく襲ってくる歯の痛みのようなものです。歯の痛みは本当に辛いものです。常に疼くような独特な痛みがあって、ものを食べられなくなってしまいますし、何かで紛らわそうとするならば少しは痛みが紛れるかもしれませんが、やっぱりいつも疼くように痛くて、ついそこに意識を向けてしまうならば、さらに激しく疼いて痛みを覚えるような、そのような痛みのことです。圧倒されるほどの大きな悲しみと絶えず襲ってくる心の痛みに、パウロは悩み苦しんでいました。それは同胞の不信仰が理由でした。パウロは自らの救いを思う時には勝利の歌を高らかに歌うことができたのですが、同胞の不信仰を考えるときに耐えられないほどの悲しみと痛みに襲われました。それこそものが食べられなくなるほどに。それは、同胞に対する真実の愛の故でした。

9章3節        もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

 パウロは異邦人への使徒であることを誇りとしていましたが、パウロの同胞、パウロが本当に親しみを覚える肉による同国人を限りなく愛していたのです。パウロに反対し命まで狙おうとする同胞を、自分を苦しめる同胞を、それでも限りなく愛していたのです。どれほど愛していたのでしょうか。自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願うほどでした。のろわれた者となることを願うほどに、パウロは自分の同胞を愛している、本当に大切に思っているのです。「のろわれた者」は本来「神さまに奉献されたもの、献げられたもの」という意味で、罪の解決のために屠られて殺される犠牲の動物のことです。同胞が救われるためならば、自分の命を捨てても良い。自分が犠牲となっていい。神さまから見捨てられても良いと。

 パウロの祈りにも似たこの叫びは、出エジプト記32章でモーセが祈ったことを思い起こさせます。モーセは罪を犯した民をとりなして祈りました。「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら———。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください」(出3232)。「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」。神さまに見捨てられて、キリストから引き離されて、自分の救いを捨てても本望だと。自分の救いを捨てる、それがどんなに深刻で重大なことであるかをパウロは十分に知っていたでしょう。にもかかわらず、それでも良いと言うのです。それほどまでにパウロは同胞を愛していたのです。大切に思っていたのです。またこの祈りはイエス様のゲッセマネの園での祈りにも通じるものでしょう。

 パウロは同胞ユダヤ人のことを「彼らはイスラエル人です」と言います。

9章4節        彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
9章5節        父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめららえられる神です。アーメン。

 「彼らはイスラエル人」。イスラエルというのは、もともと神さまがヤコブに与えられた名前です。それは民族的であるよりも、むしろ霊的な意味を初めから持っていました。その霊的な意味というのは、「神さまとの契約によって、神さまの祝福にあずかることのできる神の民」という意味です。彼らユダヤ人はイスラエル人だと。神さまによって選ばれた契約の民だとパウロは言っています。そして今、私たちは神さまによって選ばれ霊的なイスラエル人、つまり神さまとの契約、新しい契約、イエス・キリストの血による新しい契約によって、神さまの祝福にあずかることのできた神の民とされています。そしてさらに、私たちの周りにいる同胞は、やがて神さまに選ばれ霊的なイスラエル人、神さまとの契約によって、神さまの祝福にあずかることのできる、この場合可能性があると言うのでしょうか、そのような神の民とされているのではないでしょうか。そのことを覚えて、4節以下を見てみましょう。

 「子とされること」は、神の子とされること、神の養子とされることです。ここではイスラエル民族に関して使われていますが、イスラエルという言葉と同じように、やがてキリスト者を意味することばとして使われるようになりました。

 「栄光」。神さまの栄光、すなわち神さまの臨在がイスラエルの民の中にありました。神さまに召され、約束の地を目指すイスラエルの民にはいつも神さまご自身が共におられ、時には怒りや裁きを通して、時には愛と赦し、救いを表し、守り、導いて来られました。そのように神さまの栄光、臨在はイスラエルの民のただ中にあって、イスラエルの民の神さまに取り扱われるありのままの姿を通して、神さまはこの世にご自身を現されたのです。イスラエルの民は神さまを証ししながら、約束の地を目指して勝利の行進をしながら荒野を、異教の人々が多く住む地を旅する集団のようです。それはまさに私たちキリスト者とその群れ、教会の姿ではないでしょうか。その群れに一人二人と、私たちと近しい人が加えられて行く様を想像してみてください。

 「契約」。原語では複数形になっていて、神さまはイスラエルの民と諸々の契約を結ばれました。時代が進むとともに、新しい契約をもって追加・更新をしてこられました。しかし神さまの不真実な者に対する愛がどこまでも真実であるように、その契約の内容は追加・更新はあっても、少しも変更されることはありませんでした。やがてイエス様が来られ、今や私たちはイエス様の血による新しい契約が結ばれています。イエス様の血による新しい契約によって、神の民に新しい人が加えられて行くのです。

 「律法」。律法が与えられることによって、イスラエルは異邦人が虚しい偶像に従って歩むのとは区別されました。またイスラエルは、その律法に基づいて真の神さまを「礼拝」する方法を教えられました。また礼拝、動物のいのちを献げる犠牲による罪の赦し、救いの方法、そして神さまが定めてくださった方法によって救われるという確かな手段が与えられました。それがイエス・キリストとなりました。

 「約束」。神さまは土地、子孫、祝福、導き、救いなどに関する多くの約束を与えられました。それはそのまま、今の私たちに対する変わることのない約束でもあります。

 これらすべて、彼らのもの、霊的イスラエル人のものです。

 5節ではイスラエル民族の歴史的な特質が述べられます。「先祖たち」とは「父祖たち」とも訳せる語で、アブラハム、イサク、ヤコブ等のことです。彼らはイスラエル民族の族長であるだけでなく、イスラエル民族の誇りでもありました。そして彼らは多くの国民の、そして私たちの霊的な父ともなりました。

 しかしユダヤ人の最大の特権は、キリストが彼らの中から出られたということでした。そしてパウロはここで、このユダヤ人であるキリストこそ「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神である」と叫ばずにはいられませんでした。このキリストを認めないことは、ユダヤ人にとって本当にもったいないこと、計り知れない大きな損失であることを示したかったのです。イスラエルの少数だけが信じ、多数は信じていない。パウロはそのために悲しんで、愛する同胞のことを思ってその心を疼くほどに痛めているのです。パウロの愛する同胞が、目の前にあるキリストの福音を、無償の愛、差し伸べられている救いを、どうして受け入れないのだろうか。ただ恵みを恵みとして頑なに受け入れない所為で苦労し、苦しみ、平安がないのではないかと。近しい人々の実際の姿を見て、そのもどかしさを訴えています。そのもどかしさ、嘆きがパウロの祈りなのです。同胞を心から愛し同情するパウロの真実な祈りなのです。どうでしょうか、これは私たちの同胞、近しい人たちを思う心、祈りではないでしょうか。

 パウロは、未信者のユダヤ人の救いのためなら、喜んで自分のいのちまで投げ出す覚悟でいました。「キリストから引き離されて」死ぬ者となっても良いと言っています。これは自分の救いを捨てても良いということでしょう。救いを捨てる、それがどれほど大変なことか、どれほど恐ろしいことかをパウロは知っていました。それでも良いというほどに、同胞を愛していました。

 私たちはどうでしょうか。私たちは、私たちの同胞、近しい人たち、家族に対してこのような祈りがあるでしょうか。心からの痛みを覚えているでしょうか。私たちの同胞は時に私たちに反対するでしょう。私たちを苦しめるでしょう。しかし私たちは同胞を赦し、心から愛し、大切に思い、とりなしの祈りをしているでしょうか。同胞のために痛みを覚えて、真実なとりなしの祈りができる人とはどのような人でしょう。神さまの愛を知る者たちです。敵であった私をそれでも愛し、不真実な私に対して真実であられる方、その神さまを、まさにイエス・キリストの生き様を知る私たちです。救われたその幸いを本当に知る者、幸いを噛みしめ、幸いに生かされている私たちです。そしてまた、罪がいかに悲惨なものであるのか、罪の結果がいかに恐ろしいものであるのかを知る私たちです。

 私たちは、私たち一人ひとりに成し遂げられた救いの素晴らしさ、神さまの恵み、行き届いたアフターケアを存分に味わい、感謝し、喜び、楽しむと同時に、そこに留まることなく、同胞を、親しい人々に目と心を向けて、真実に祈ってまいりましょう。ヨハネはイエス様の御心を紹介しています。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかのひつじがあります。わたしはそれをもみちびかなければなりません」(ヨハ1016)と。囲いの外にいる人々を思うイエス様の御心です。囲いの外には多くの人々がいます。囲いの外のすぐ側には私たちの近しい人々、親しい人々もいます。またイエス様の御心は、当然囲いの中にいる人々にもあります。囲いの中にも弱っている人、迷い出そうな人がおられるかもしれません。そして私たちはこれらの人たちの命の重みをひしひしと感じる者たちです。ですから自分の置かれている所で、思いは高く広く全世界に向けて、壮大で素晴らしい全被造物の贖いの完成に心と目を向けて。同時に私たちの視界の中にいる人たち、手の届く範囲におられる親しい人たちに対して、私たちは真実に救われることを願って祈り、犠牲を伴う真実な愛をもって、出来ることはしてまいりましょう。そのことに必要な全てを、愛とか赦しとか霊的な必要も、また霊的以外の実際の必要も、環境もすべて神さまが備えてくださり、私たちが心から求めるならば聖霊を通して与えてくださいます。それが神さまの御心だからです。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。神さまが私たちと変わらずに、私たちの同胞、親しい人たちをも愛し、大切にしてくださっていることを覚えます。どうか神さま、私たちの同胞をお救いください。家族を、友人を、知人を、この教会の近くにおられる人たちをお救いください。私たちが自分の救いに満足することに留まることなく、その救いの素晴らしさを近くにおられる人たちに証しし、人々のために心を尽くして、痛みを覚えて、愛をもって祈るその祈りをもお与えください。実際の必要もお与えください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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