2021年9月19日 主日礼拝「残された者が救われる」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌 7番「主のみいつと」1節と4節(※今週の讃美歌)
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 534番「ほむべきかな主のめぐみ」(※今週の讃美歌)1節と3節
聖 書 ローマ人への手紙9章19〜29節
説 教 「残された者が救われる」佐藤伝道師
讃美歌 502番「いともかしこし」(※今週の讃美歌)1節と3節
献 金 547番「いまささぐる」(※今週の讃美歌)
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」(※今週の讃美歌)
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙9章19〜29節
説教題
「残された者が救われる」
今週の聖句
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
ローマ人への手紙9章24節
訳してみましょう
2129 When I am alive, God is may comforter, when I am nothing, God is my everything, when I am sad and lonely, God is my song and my joy, when I am weak and helpless, God is my strength.
2130 If I die, I’ll be with Jesus. If I live, He’ll be with me. So if I live or if I die, I am the Lord’s.
説教「残された者が救われる」
ローマ人への手紙9章19〜29節
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今日まで守られ導かれ、今朝もこうして私たち一人ひとりの名を呼び、御前に召し出してくださったことを感謝致します。神さまの恵み、あわれみに十分に応えられずに過ごして来たことをお赦しください。今朝もみことばを祝福してお与えください。みことばに教えられ、神さまの御心を少しでも分かるように聖霊様が臨んでいてくださいますようにお願いを致します。語るこの者の上にも臨んでくださり、全能なる主が聖めて用いてくださいますようにお願いを致します。みことばの実がそれぞれの内に結ばれて、またここから私たちをそれぞれの場所に遣わしてください。あなたの救いを喜び楽しむ者としてください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
パウロの愛する同胞は、彼らのかたくなさの故に本当に神さまに見捨てられてしまったのか。いや、神さまのみことばが無効になったわけではない。ならば神さまに不正があるのか。不真実な者にも真実を尽くされる神さまであったのに、民の裏切りによってすっかり変わってしまわれたのか。その問いに15節から17節で、旧約時代にモーセとパロそれぞれに語られた神さまのみことばから考え、苦しみながらも一つの答えを出しました。「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(ロマ918)。神さまはどもまでも神さまであられ、そのなさることに間違いはない。だから神さまの愛とあわれみにすがるしかない、そのような思いの延長線上で、あなたと言う人は問います。
9章19節 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
「私は神さまの愛とあわれみにすがるしかない。それなのになぜ、あなたは人を責められるのですか」。原文では「なぜ、神は“なおも、その上に”人を責められるのか」と言っています。なぜ人を責められるのか。非難するために欠点を見つけて、そして裁こうとされるのか。そう問う人はイスラエルの現実を見て、やはり彼らは神さまに責められているのではないかと感じているのでしょう。その心は、かたくなにされている愛する同胞に向いている。あるいは同時に、かたくなになっている自分にも向いているのかもしれません。
しかし“神さまが”人をかたくなにされると言う時、そこに神さまの罪人を愛する故の広く、長く、高く、深い御心があるのです。
【かたくな】そう訳されている語の第一の意味は「頑固になる、その場に居座る」という意味です。ところがもう一つ、「鍛える、エクササイズ(健康増進を目的とした運動)」という意味もあります。神さまが人をみこころによってかたくなにされると言う時、それは本当に厳しい裁きを意味するのでしょうか。それともあわれみなのでしょうか。その目的とは何でしょう。
私たちは神さまのみこころを十分に理解できずにいながら、神さまをすぐに責めてしまうものです。
あなたと言う人はこう言います。「だれが神のご計画に逆らうことができましょう」。これは、よくよく気をつけなければならない言葉だと思います。これは神さまに素直に従う敬虔な言葉に聞こえますが、その奥に潜む思いは、自分の非を棚上げして自分を弁護する居直りである場合もあるのです。神さまへの全面降伏は一見信仰的に見えますが、実は神さまに対するおごり高ぶった態度、へりくだる気持ちがない、開き直り、居座り、かたくなさとなってしまう場合もあるのです。私たちの本当の心が敬虔なのか不信仰なのか。実はどちらなのかを、神さまは時にお取り扱いを通して私たちの心の内を明らかに示そうとされます。
どんなに祈っても神さまが何も答えられない。今の自分自身と自分の周囲の状況から、神さまはもう私たち愛しておられないのだと決めつけ、罪のない私たちを殺そうとしている神さまこそ有罪だと、心をかたくなにして訴える。しかし人間には全知全能の神さまのみこころとみわざのすべてを知ることができないのです。神さまのみわざとみこころを自分勝手に解釈し、神さまが自分を、あるいは同胞を愛しておられないと断定してしまうのは私たちの高ぶりではないでしょうか。私たちはへりくだって、神さまがなさることはすべて正しく、そして28節にもある通り、神さまの愛のご計画はすべて完全に、しかも敏速に実現される(ロマ928)ことを心から信じる者であって欲しいと願われているのです。
パウロは続けて言います。
9章20節 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
パウロは、同胞の今の悲惨な状態は誰の責任なのかを神さまに問おうとするその質問には一言も答えません。むしろ問いを発する人間そのものについて語っていきます。
「しかし、人よ」は、直訳ですと「ああ、人間よ」となります。味わい深い呼びかけだと思います。人間とは何でしょうか。「ああ、人間よ。神に造られた人間よ。神に言い返すあなたは、一体何ものだと思っているのか」。人間は神さまによって、神さまのかたちに似せて形造られた者です。その人間が「なぜ私をこのようなものにしたのですか」と問うことは、神さまご自身のご性質をも否定してしまうことにならないでしょうか。そもそも自分勝手に背を向けて、神さまから離れて行ったのは誰の責任なのでしょう。神さまはひとりの人を創造されて「見よ、非常に良い」と言われました。その人に常に目を注ぎ、たくさんの愛を注ぎ、配慮し、あわれみをもって守られ、神さまはいつもその人と一緒にいたいと願ってくださっていました。やがて神さまが恵みによって与えてくださった自由意思を用いて、人は神さまに背を向けて自分勝手に出て行ってしまったのです。注がれる愛を拒み、あわれみを拒み、自分の力に頼り、自分の欲望を叶えるためには神さまは邪魔だと言わんばかりに離れて行ってしまいました。それなのに「こんな私に誰がした」などという人間の問いは、高慢で自分勝手と言わざるを得ないでしょう。
またもう一方で、神さまはそんな人間の弱さ、至らなさ、罪をも覆われる、信じられないほど大きなご計画、意図をお持ちのお方なのです。それがどれほど広く、長く、高く、深いのかを、私たちは全く理解できないのです。神さまのみこころとみわざを1から100まで理解できない私たちが、勝手に決めつけて、「なぜ、こんな私にしたのか」とか「何をされるのか」と神さまを告発して罪に定めようとすることなどできないのではないでしょうか。
その理由をパウロは旧約の預言者たちがよく使った陶器を作る者と土のかたまりのたとえを使って説明します。心に留めておきたいことは、21節から語られていることは神さまの主権、何ものにも支配されたり影響されたりすることのない権力についてであり、またその絶対的な権力の底に常に流れているのは、神さまの豊かなあわれみであるということです。
9章21節 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
答えは明確でしょう。神さまは権利をお持ちです。イザヤは言うのです。
【イザヤ書】
29章16節 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
45章9節 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った者には、手がついていない」などと言うであろうか。
創り主である神さまは、土くれから私たちを形造られました。その土くれを尊いことに用いる器としてお造りになることもできますし、また、つまらないことに用いる器としてお造りになることもできます。尊いことに用いる器とは何でしょうか。それは神さまの栄光を現す器と言えるでしょう。栄光を現すのに用いる器とは、神さまがその器にあわれみを注がれるために用いられる器。それによって愛と義の神さまがその人とともにおられることが周囲の人に分かることです。そして神さまの素晴らしさが周囲に光のように輝かされることのために用いられる器でしょう。つまらないことに用いる器とは何でしょうか。尊い器の真逆を言うのでしょう。神さまがその器に怒りを注ぐために用いられる器でしょう。しかし、神さまは先ほどのイザヤ書であのヤコブほどの者に対して、ずる賢いヤコブのようなイスラエルの民に対してこう言われています。「わたしがあなたを造ったのだ」と。しかも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」と(イザ431-5)。そもそも尊くない、つまらないことに用いられる器など、神さまは造ることができても、造られていないのではないでしょうか。あの人は、また私は、つまらないことに用いられる器だろうか。怒りが注がれる器なのだろうか。そう悩む者に、神さまは「恐れるな」と言われるのです。
22節、そして23節も原文では「もしも、それでいて〜ならどうか」という仮定を語り私たちに問いかけます。
9章22節 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
神の民の歴史は神さまに背き、赦され、また背き、赦されの連続でした。その都度、神さまはご自分の愛を裏切る神の民を壊滅させることもお出来になるお方であるのにそうはされず、神さまの仕方で愛し抜き、あわれみを注がれ、寛容をもって忍耐し、大切にし続けてくださいました。
「滅ぼされる【べき】怒りの器」と言われています。【べき】と訳されている語は、あらかじめ神さまが滅ぼされようと最初から決めてその器である人間を造ったということを表していません。これは、尊い目的のために造られた器である人間が、造り主である神さまを拒絶し歩んで行くうちに、いつの間にか滅びという行き着くべき状態に行き着いてしまている、罪によって滅びに陥るに十分な状態の者となっているということです。その器を、本来ならば造り主である神さまは叩き付けて粉々に壊してしまうこともできます。私など先日、良かれと思って下駄箱の向きを変えたのですが、それが受け入れてもらえず、もし私が絶対的な権力を持っていたら怒ってぶち壊してしまうような心の狭い人間です。それなのに絶対的権力をお持ちの神さまは豊かな寛容をもって忍耐してくださっているとしたら、どう思うかと問われるのです。
怒りはただの怒りではなく激怒と訳される語です。また情熱とも訳される語です。神さまは激怒と言われるほどの同じ熱量の情熱、熱い情をもってその器にあわれみを注ぎ続けられ、寛容をもって忍耐してくださっているとしたら、どう思われるでしょうか。
9章23節 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです(知らせてくださるためだとしたら、どうでしょうか)。
神さまがご自身の栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器。この「あらかじめ用意しておられたあわれみの器」こそ、創造の時からこれらを愛そう、あわれもう、いつもわたしがともにいて守り祝福しようではないかと予め決めておられたすべての器、すべての造られた人間のことです。すべての人間にその豊かな栄光、神さまが人間の罪を赦し、なお人間を見放さず、あわれみを注ぎ、いつもともにいてくださる、その神さまの栄光を私たち人間に見せてくださるために、ある人をみこころのままにかたくなにされるのだとしたら、あなたはどう思うかと問われるのです。
また22節、23節は仮定で訳すこともでき、同時に断定的にも訳すこともできます。今や滅ぼされるべきすべての人間を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった、それも、すべての人間に対して、神さまは今もあなたを見捨てることなく、いつまでも一緒にいたいのだと神さまが情熱的に願っていてくださるのだということを私たちに見せて教えてくださるために。イエス・キリストの現れによって、それは私たちの目にはっきりと見ることができるものとなっています。
神さまはもしもという仮定を通して、そして重ねて「いや、これはすでに明らかだ」という断定をもって、すでにあわれみによって、恵みによって、ただイエス・キリストを信じる信仰によって神さまのもの、神さまの民とされている私たちに、神さまに対する文句とか異議申し立てではなく、すべてのすべてにおいて、神さまのあわれみに対する素直な感謝、その応答としての愛、確かな信仰、信頼を求めておられるのではないでしょうか。それはすべての人を祝福したいがためにです。信仰によって永遠のいのちを得て、永遠に神さまがすべての人とともにいたいと願ってくださっている故のことです。神さまがみこころのままに人をかたくなにされていることを、私たちはまるで神さまの厳しいさばきと捕らえているかもしれませんが、まるで逆の祝福、あわれみだと思われないでしょうか。
あわれみに対することばはさらに続きます。
9章24節 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
ここでの「あわれみの器」は、パウロが宣教しているユダヤ人を含む異邦人教会のことです。まさにあわれみです。文字通り今の長野聖書教会は異邦人教会です。そして私たちは異邦人です。神さまは旧約時代に契約を結ばれて約束されたユダヤ人の中からだけでなく、異邦人をもあわれみを注ぐ器としてくださり、そしてここに召してくださったのです。霊的に言うならば、神さまを知らされた民以外の、それまで神さまを知らず、真の神さまを愛することなく、神さま以外の偶像を愛してきた民をも愛し、そのような者にさえもご自身のあわれみを注ぐ器として召してくださいました。
パウロは25節からホセア書を自由に引用して一つの文章としています。ホセアが不信のイスラエルについて述べているのに対して、パウロは新約の光をあてて異邦人に適用して語っています。ホセアは、姦淫の妻の子どもを我が子として受け入れるという実際の行動を見せる形の預言によって、背信のイスラエルに対する神さまのあわれみを語りました。神さまの愛を裏切ったイスラエル民族を、しかし神さまはなおも愛して、神の民とされました。パウロはこの預言を今、異邦人に適用しました。この同じ愛をもって、神さまはこれまでご自分とは縁もゆかりもなかった異邦人を神の民として、限りなく愛しあわれまれるのです。真の神さまの愛、あわれみに何らかの形で出会い、イエス様と出会い、信じて信頼する者は、神さまと関係なく生きてきた者であろうと神さまは公平に愛しあわれんで、ともにいてくださるのです。
9章27節 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
9章28節 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
27節からはイザヤ書からの二つの引用によって、イスラエルについて語ります。そしてパウロの思いにはやはり、イスラエルの同胞たちへの思いがありました。私たちが霊的に受け取るとするならばどうでしょうか。新約を生きる私たちは霊的イスラエル人であり、私たちの同胞に対してあわれみをもってこのみことばが語られていることを覚えたいと思うのです。ここでもやはり、神さまの大きなあわれみ、人間の弱さ、至らなさ、罪をも覆われる、信じられないほど大きなご計画、意図をお持ちの神さま。それがどれほど広くて、長くて、高くて、深いのかを、私たちにあわれみをもって語ってくださっている所だと思うのです。
なぜかと申しますと、イザヤの叫びを通してパウロは叫びます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海辺の砂のようであっても、救われるのは、残された者である」と。残された者というのは、神さまのさばきに耐えて、最後まで神さまを信じる者、最後まで神さまにすがりつく者のことです。神さまは日常の様々な出来事を通して、その人を救いたいがために、その人の心にご自身に対する信仰を起こさせようとしてくださっておられるのです。人をみこころのままにかたくなにすることによって、人をなすがままにされることを通して、砕かれて、やわらかにされて、その人のうちに神さまに立ち返ろうという思いが起こることを豊かな寛容をもって忍耐してくださっているのです。ご自身のもとに帰ってくる人を一刻も早く見つけて、駆け寄って、抱きしめて、口づけして迎えたいと、情熱的に願ってくださっているのです。
28節ですが、新改訳2017ではこのように訳されています。「主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる」。こちらの方が原文に近い訳です。主はみことば、預言者を通して告げられた警告のことばを、完全に、かつ速やかに地上に成し遂げられます。それは終末、終わりの時、この世が終わり神の国が完成される時でしょう。敏速に、速やかにと訳されている語は、スピードではなく「切り詰めて」、「端折って」と訳す語です。義なる神さまが本当に完全に警告のことばを成し遂げられたなら、完全な信仰を求められたなら、きっと私たちは一人として残されることはないでしょう。しかし義なる神さまは同時に愛の神さまなのです。さばきを切り詰めて、端折ってくださるのです。私たちの中に神さまが求められる完全な全き信仰がなくても、それでも神さまはあわれみによって、私たちの内の不完全な信仰をも完全な信仰と認めてくださり、残された者、最後まで神さまを信じる者と認めてくださるのです。そのことによって私たちは救われているのではないでしょうか。人を救うのはただ神さまを信じる信仰です。その信仰を認められるのは私たちではなく神さまです。そしてその神さまは、まことにあわれみに満ちたお方です。
9章29節 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちのうちに残された者、信じる者、小さな小さな信仰を認めてくださらなかったら、私たちは、また私たちの愛する同胞はソドムとゴモラのように徹底的に壊滅的に滅ぼされてしまうでしょう。主よ、あわれんでくださいと、祈らずにはいられません。
Ⅰ列王記に出てくるエリヤは、当時の偶像崇拝との孤軍奮闘の闘いで疲れ果て、弱さを覚えて神さまに「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と申し上げた時に、神さまは答えられました。「わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである」、そうエリヤを励まされました。私たちの知らない所で、神さまは残された者を残してくださっているのです。私たちの知らない所で、ある人の心の内にすでに小さくて不完全な信仰を完全な信仰と認めてくださっているのです。ある人はすでに、かたくな、そこに居座ることから解放されて、すでに主に向かって立ち上がっているかもしれません。神さまは絶対的な主権をもってそれを認めてくださっているかもしれません。私たちにとって、それは励ましではないでしょうか。
ところで、良く私たち福音派の弱点として、神さまの恵みを受けること、個人的な救いに重点を置いてしまい、その先のこと、つまり神の国の完成というビジョン、まぼろしに弱いと言われます。心に刺さる指摘です。
23節には「神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器」とありました。そこに付されている引照箇所を見ると、使徒の働き9章15節が引かれていました。主はアナニヤという人を通してパウロを使徒として召された時に、アナニヤに対してこのように言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒915)と。パウロはアナニヤからそのみことばを聞いていたことでしょう。また主はパウロに直接こう語りかけておられます。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒189-10)。パウロの耳にそれらの声はずっと残っていたのではないかと思うのです。その声は聖書を通して私たちにも聞こえてくるのです。私たちに対する励ましです。神さまが救いに召しておられる最後まで残される者が、私たちの知らない所にたくさんいるのです。ですから私たちは失望せずに語り続けましょう。神さまの愛、あわれみを覚えて、あわれみに依り頼んで、失望せずに絶えず主をほめたたえましょう。同胞を、あの人、この人を覚えましょう。恐れる時、疲れてしまった時、疑いが出て来る時には、敬虔を装って諦めるのではなく、神さまにすがりついて問いましょう。神さまは御心のままに人をかたくなにされるからです。神さまの御旨、御心、意図、ご計画を求める者を、神さまは喜んでくださいます。そして喜んで答えてくださることでしょう。
主はあわれみ深い御心をお持ちのお方。その主がなさることに間違いはない。すべて主に委ねる時、私たちは言いようもない平安、喜びが湧いて来て、すばらしいまぼろしが見えてきます。そこに至るまで、諦めずに主を信じ求め続けましょう。私たちは神さまのあわれみに依り頼み、あわれみを注いでくださる主を最後まで信頼し、あわれみを一杯に注いでいただきつつ、励まされ、残された者、主の栄光を現す歩みを続けてまいりたいと思います。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。主のみこころは深く、そのすべてを見極めることはできません。けれども主の愛のみこころの広さ、長さ、高さ、深さを知り、その愛のみこころに依り頼み、信じ、これからも人々の間で主の栄光を現す器として存分に用いられて行けますように整えてください。私たち自身が残された者でいられますように。そして私たちの愛する同胞もまた残された者でありますように。すでに私たちはあわれみを注がれ、気付いていなくとも主の栄光、御臨在を周囲の人々に現して行ける者としていただき、またすでに用いられていることをも覚え感謝致します。ますますそのように生きて行けますようお守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。