2021年10月10日 主日礼拝「つまずきの石」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  18番「聖なるみかみは」1節と3節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  280番「わが身ののぞみは」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙9章30〜33節
説 教  「つまずきの石」佐藤伝道師
讃美歌  333番「主われをば」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙9章30〜33節

説教題

「つまずきの石」

今週の聖句

これは試みを経た石、堅く据えられた礎の尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。

イザヤ書28章16b節

訳してみましょう

2136 All food is clean, but it is wrong for a person to eat anything that causes someone else to stumble.

2137 Jesus, give me the grace to give way on things that don’t contradict the gospel truth and the love to put the feelings of others above my own.

説教「つまずきの石」

ローマ人への手紙9章30〜33節

 お祈りをいたします。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。これまでの歩みが守られ、今朝もこうして御前に召し出され、集められていることを覚えて感謝いたします。多くの恵み、あわれみを受けつつも、それらに十分に応えて生きることができない時もありました。どうぞお赦しください。私たちの罪を、イエス様の十字架のゆえに赦してくださり、聖めてくださって、私たちの身と霊をもってあなたを礼拝することができますよう、お守りください。今必要なみことばをどうぞ祝福してお与えください。聖霊様がお一人おひとりに臨んでくださって、それぞれの必要をそれぞれの心にお語りくださいますようにお願いをいたします。あなたのみことばが、それぞれの内で御霊の実を結ぶことができますように守り、お導きください。神さまの愛とあわれみがこの場を支配してくださっており、愛とあわれみによってお語りくださることを信じます。語るこの者の上にも臨んでくださり、聖めてくださり、あなたのみことばを語ることができますようにお守りください。感謝して、主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 ローマ書を続けて見て来ておりますが、ローマ書は講解説教、連続講解説教の形をとらせていただいております。この良い点というのは、やはり神さまのみことばを偏りなく聞くことではないかと思います。はじめから読み進めて行きますと、神さまはこのようなことを言われていたんだなどという新しい発見があったりします。また難しさを覚えて、あるいは自分には関係ないのではないかと、できれば飛ばしてしまいたいという誘惑にもかられます。けれどもそのようなみことばも神さまが私たちに語ろうとしておられるところですし、つっかかってしまうような難しいところこそ、私たちに必要な語りかけであったりして、そこで示されたことがそれからの歩みの中で重要なものとなること、そこで与えられたみことばに支えられて歩まされることもしばしばです。

 9章に入り、パウロはイスラエルの救いについて語ってきました。前にも申しましたが、1章から8章までは救いについて、12章から16章までは倫理について述べられており、この2つの間に9章から11章までの部分が挿入されているようになっています。それはイスラエル人と異邦人をめぐる神さまの救済計画についてパウロが旧約聖書に問い、悩み、考えて論じている所です。昔からなかなか難しい所だともいわれており、同時に議論の分かれる所でもあります。最近知ったことなのですが、多くの学者は、信仰によって義とされるという教えこそローマ人への手紙の中心部分だといいますが、別のある学者は、「この9章から11章こそがその中心部分だ」と言います。そうなると付録のように感じていたこの3つの章が、俄然脚光を浴びることになります。

 本題に入りますが、パウロの同胞であるユダヤ人は、神さまの特別な恩寵を受けた特別な民族でした。神さまに選ばれ、特別に愛され、慈しまれ、恵まれた民族でした。9章4節でパウロは彼らユダヤ人を「彼らはイスラエル人です」と言っています。彼らは神の民「イスラエル人」であると言っています。今日の箇所では「ユダヤ人の未信者」を指して言っています。また異邦人は異邦人クリスチャンを指しています。

 少しさかのぼりますが、

9章4節 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
9章5節 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

 イスラエル人が、神さまの子とされること、栄光も、つまり神さまが彼らとともにおられるという臨在のしるしも、その他諸々の特権が数え上げられていますが、それらすべては彼らのものでした。しかしそれらすべて、イスラエル人が何か苦労して手に入れたものでも何でもなく、ただ神さまの側から「わたしは恵もうと思うものを恵み、あわれもうと思うものをあわれむ」と、ただ神さまの恵みとあわれみによって与えられたものでした。彼らはその特権を誇りとしていました。自分たちは特別な民なのだと。また、父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブたちも彼らの誇りでした。ところが、パウロが「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」とほめたたえているキリストだけを、多くのイスラエル人は認めることができなかったのです。このキリストに、多くのイスラエル人はつまずいてしまったのです。神さまが約束してくださった救いの完成への道の途中で、このキリストを通して救いが完成する、それを目の前にしながら、このキリストが障害となってよろけてしまった、失敗してしまっていたのです。救いに到達できずに挫折してしまっていたのです。救いはすでに神さまによって、イエス・キリストを通して成就した。それでもなお、彼らは気付かなかったのか、認めなかったのか、それで苦労していた。きゅうきゅうと生きていた。こんなはすではと恥をかいていた。慌てふためいていたのです。パウロはそのことに心から痛みを覚え悲しんでいました。そして「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」と、イスラエル人にも何とか福音が届いて救われるようにと心から願っていました。

 パウロが宣べ伝える福音。キリストこそ福音です。その福音、キリストは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に、救いを得させる、救いの中へ入れることができる神の力、神さまの圧倒的な力です。それなのに、どうしてイスラエル民族は神さまに見捨てられたような状態にあるのだろうか。福音の外に放っておかれているのだろうか。イスラエル民族が福音に対してかたくなな故に、パウロは異邦人へと遣わされてしまった。異邦人がキリストの福音を信じて、イエス様の十字架と復活を信じて次々に義とされて行っている。これまで神さまと全く関係なく生きてきた異邦人たちが、神さまのあわれみを受けて次々と救われていく。神さまのあわれみはイスラエル民族から取り去られてしまったのだろうか。イスラエル民族は置いてけぼり、神さまに見放されてしまったのだろうか。

 パウロはイスラエル人の救いについて、6節から29節では神さまのみわざ、神さまはどういったお方なのか、神さまのなさることに重点を置いて、旧約聖書の証し、神さまのみわざの歴史を根拠にして論証してきました。そこで明らかになったことは、イスラエル人がどのような者であっても、神さまはご自身の約束、また選びを決してなかったことにされたり、変更されたりすることのないお方であるということでした。神さまには不正はない。神さまは何があっても、どこまでも神さまであり、そのご性質は変わらない。人間の裏切りだとか、不真実によっても、神さまのご性格は壊れたりねじれたりされないのだということでした。神さまには何の問題もない。だとしたら、神の民イスラエル人の救いに関して、何が問題なのでしょうか。

 9章30節からは「では、どういうことになりますか」と仕切り直し、これから10章に向かって新しいテーマについて述べて行きます。新しいテーマというのは「人間の責任」についてです。

9章30節 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

 ここで義とは、これまでの不義、神さまに対する不義理、不真実、悪行をすべて赦していただいて、神さまにすべて良しとされて、私たちのすべてを神さまに受け入れていただくことです。すべてを受け入れていただいて、神さまに抱き寄せられて、その懐に力強く抱きしめていただく、そして神さまの子としていただくことです。神さまによって義と認められた人はどうなるのでしょうか。すべて受け入れられ、抱きしめられる人はどうなるのでしょうか。救われるのです。すべてが赦されるのです。そしていのちが与えられるのです。あの放蕩息子のように、神さまに背いて罪の限りを尽くし、死んだような人生であったのにもかかわらず、悔い改めて神さまを信じ、神さまのもとに帰るやいなや、抱きしめられ、綺麗な服に着替えさせもらい、指輪まではめてもらって、そこから子としてまた生きることになるのです。プラマイゼロどころではない、恵みの大逆転です。

 生きるとはただ長生きするといったようなことではありません。充実した生活、生きがいを感じて生きる生活、喜びを持って生き続けるということです。聖書はそれを救われた者の生活であると言います。人は誰しもそのような生活、人生を心から望んでいるのではないでしょうか。さらに神さまは、神さまが義とお認めになった人には、人が想像しうる地上での幸いな人生ばかりにとどまらず、もっと広くて大きくて、深くて高くて、しかもそれがこの地上の生涯にとどまらず、永遠に続く幸いないのち、人生を与えてくださるのです。神さまは私たちがこの地上で流した涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない神の国に迎え入れてくださり、父なる神さまとともに神さまの完全なご配慮の下で永遠に生き続けることができる。それがどれほどの祝福であり、どれほど素晴らしく、幸いなものであるのか、私たちはまだ聖書を通してうっすらと知るだけで、すべてを知ることができないほどのものです。そのような義を、パウロの時代、なんとそれまで救いの外にいたと思われていた異邦人が得たのです。これまで義を追い求めてこなかった異邦人が義を得たのです。

 どのようにしてでしょうか。ただ信仰によってでした。宣べ伝えられた福音を信じることによってでした。ただ神さまの愛とあわれみによって、愛と憐れみを、人に見える姿でこの世に与えてくださった、しかも無力な赤ん坊の姿で、むさい馬小屋にお生まれになった。やがて成長され、十字架に架けられ死んで葬られ、しかし3日目に確かによみがえられたという、このお方をただ信じるだけで救われるのだという、なかなか信じるのに難しさを覚える、つまずきを覚えるであろう福音を、ただ信じて素直に受け取って、それで約束通り神さまに義と認められ、幸いないのちを得ることができたのです。

 しかし、多くの神の民イスラエルは・・・。

9章31節 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
9章32節 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
9章33節 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 しかし、多くの神の民イスラエルは、異邦人とは違い、神さまに義とされることを追い求めて来たのです。それも熱心に追い求めて来たのです。神さまに受け入れていただきたい、そう熱く求めて来たのです。しかし到達できなかった。義とされなかった。受け入れていただけなかった。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからでした。キリストの恵みに頼ることなく、自力で義の律法、モーセの律法を完全に守り行うことによって神さまに義と認めていただこうとしたからです。律法の要求に到達しようと求めることは間違ってはいませんでした。それはイエス様も求めておられることだからです。ただ求める方法が間違っていたのです。神さまの愛に応えて、自分は神さまに喜ばれる子どもであろうとすることは必要なことで、神さまもとても喜ばれることでしょう。けれども、これだけ頑張ったのだから受け入れてくれ、あなたの子どもとしてくれ、抱きしめてくれと、赦していただく側のこちらから要求するのは間違っています。しかも人は行いによっては決して義とされない。すべての人は罪人で、神さまの義に達することはできないのだから。それが聖書の教える神さまの基準です。そもそも律法は神さまが人を義とするための条件としたものではなくて、人にいのちを与えるもの、人を活き活きと生かすためのものでした。その律法を自分たちが義とされるための条件としてしまった。そうしてしまった気持ちは私たちにも分かるところだと思いますが、自分の力で義としていただこう、神さまに認めていただこう、そして受け入れていただこうと、そのように求めたのが失敗だったのです。その失敗は、つまずきの石につまずく失敗でした。あなたが恥をかいてしまうよ、失望することになるよという失敗でした。

 パウロはこの「石」、また「岩」を、キリストとして用いています。そのキリストは、人を愛し、人を義としたいと心から願われる神さまの愛とあわれみの現れなのです。キリストという石につまずいてしまった。それは神さまの愛とあわれみにつまずいてしまった、信じられないということでした。それがあなたがたが失望している原因、未だ義とされることを求めて慌てふためいている原因だと。

 つまずきの石は明らかに障害物です。ところで、どうして障害物である石につまずくのでしょうか。石が見えていなかったからでしょうか。よそ見をしていたからでしょうか。大きな岩さえも、なんと眼中になかったということでしょうか。

 神の民イスラエルは、神さまの義を得るために、自分の行い、自分の努力、自分のやり方に一生懸命で、神さまが人間に求めておられる義とされる第一条件である信仰を見失ってしまっていたのでしょう。神さまの愛とあわれみが見えなくなっていたのでしょう。神の民イスラエルをあわれみ、常に彼らを受け入れようとしておられる神さまが彼らとともにおられるのに、御腕を伸ばされておられるのに、当のイスラエル人は神さまの義を得るために、自分の行い、努力、やり方、知恵を頼りにして慌てふためいていた。神さまの愛とあわれみ、キリストを見失っていた。途中で見失ってしまったのか、そもそも最初からそのようなもの必要としていなかったのか、あてにしていなかったのか。それで見ようとさえしなかったのでしょうか。見えていなかった石に、彼らはおっとっとと、つまずいてしまったのです。迷い、悩み、右往左往、慌てふためいていた。そしてなおも努力し続けていたのです。

 神さまは勝手に私たちを救うことはできません。義としよう、受け入れよう、抱きしめようとしてくださっているのに、私たちが自分の力の方を頼りにして、神さまの愛とあわれみを拒んでしまうなら、神さまは私たちを救うことはできないのです。神さまの愛とあわれみを信じることができず、見ようともせず、私たちがそっぽを向いて、かたくなに体を反らして抵抗して、私は自分の力で何とかしなければと、じたばた慌てふためいているならば、神さまは私たちを抱きしめる腕を緩めなければならないでしょう。愛とあわれみの故に離さなければなりません。神さまの腕の中で私たちが締め付けられて、痛みを感じて、苦しむのを神さまは見るからです。あるいは「なすがままに任せる」という神さまのやり方でしょうか。私たちを支え守るはずの神さまの腕が離されてしまって、よろけてしまって、倒れそうになって、失敗して、挫折する、神さまのご計画が頓挫する、成し遂げられない、義とすることができない、すべて受け入れることができない、子とすることができない、豊かないのちを与えられないのです。

 こうして原因は神さまにあるのではなく、人間の側にあることが分かるのです。

 イスラエルは何をすれば良かったのでしょうか。本当にしなければならなかったことは何だったのでしょうか。

 神さまの愛をただ信じることだったのです。神さまの愛を信頼して、ただ身を委ねることだったのです。神さまの腕の中で安らいで、体の力を緩めて、神さまの懐のぬくもりを感じることだったのではないでしょうか。神さまが愛とあわれみによってイスラエルを抱き寄せようと、伸ばされた御腕が、イエス・キリストでした。イスラエルの目の前に置かれた石がイエス・キリストでした。それは福音でした。

 イエス様は「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました。

【マタイの福音書】
11章5節 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11章6節 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。

 自力ではどうしようもない人が救われた。救われる。義とされて、いのちを得る。これこそ福音。この福音につまずかない人は本当に幸いな人なのです。

 けれども、福音につまずいた人もまた幸いなのです。なぜなら、それまで見失っていた、あるいは気付いていなかった、あるいは知らされていなかった、もしかしたら最初から求めてもいなかった福音を、ここで見出したからです。神さまの愛とあわれみに気付いたからです。そこから始められるからです。そのつまずきを信仰によって乗り越えることができるチャンスが与えられる人も幸いなのです。神さまはみこころのままに人をかたくなにされるからです。それも神さまの愛でありあわれみです。それがそこでなお信じられずにいるならば、つまずきはつまずきのままです。

 石につまずいて、石に気づいて、その石を信仰によって乗り越えて行く時、石の大きさの分だけ天に近づくことになるでしょう。また、つまずいて前のめりに倒れてしまうその先に、神さまが御腕を広げて受け止めてくださろうとしていたらどうでしょう。つまずきの石、その同じ石が私たちの礎となるのです。私たちを支える要の石となるのです。

【イザヤ書】
28章16節 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。

 神さまが礎として私たちの中に据えられておられた一つの石。私たちを支え、私たちを守る要石。その石は試みを経た石です。どのような欠陥、きず、割れ目もなく、どんな重圧にも耐えられるなどのテストを通られた「礎の、尊いかしら石」です。その石はキリストです。この石をしっかりと見つめ、この石に信頼し、この石の上に立つならば、私たちはもうつまずくことはありません。失望させられることはありません。慌てふためく必要はなくなるのです。そしてじっくりと神さまの懐のぬくもりを感じ、すっかり身を委ねることができるのです。活き活きと生きることに専念できるのです。なんという恵みでしょうか。それはただ信仰によるのです。神さまが唯一、義を与えることができる方法、それが福音を信じる、イエス・キリストを信じる信仰、神さまの愛をどこまでも信じて信頼する、信仰による義です。

 律法の行いでは義とされることのできる人は一人もいません。弱く不完全な自分にいつまでも頼り、神さまの愛とあわれみを見失ったまま、あるいは必要としないでいるのでは、義とされること、神さまに受け入れていただくこと、抱き寄せられ、抱きしめられ、子としていただいて、豊かないのちを得ることに成功することはできません。神さまの愛とあわれみを見失わせる、そのような自分に頼る頑なな心を捨て、恵みの信仰によって救いの恵みに満たされましょう。神さまの愛とあわれみ、そして伸ばされた腕、据えられた石、イエス・キリストを信じ、義とされて、神さまに受け入れていただける、その恵みを、これからも忘れずに、見つめ続けて、感謝してまいりたいと思います。

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。……あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、代々限りなくありますように」(ユダ120-25)。

 私たちは日々聖霊によって祈り、祈りの中で自分の罪と弱さを正直に告白し、神の愛、イエス・キリストの恵みに感謝して、信頼してまいりましょう。神さまを見上げ、頼り、ほめたたえてまいりましょう。再び主を見失い、主が眼中になくなって、主ご自身が妨げの石、つまずきの岩とならないために。失望して、もっと頑張らなくてはと慌てふためいて、きゅうきゅうと生きることにならないために。聖霊によって祈り、その日々を繰り返し、やがて迎える終わりの時、救いの完成を目指して、主を礎とし、要石として信頼し、勇気をもって、喜んで、励まされて、神さまが望まれる豊かないのちに満たされた道を活き活きと歩ませていただきたいと祈りましょう。

 お祈りをいたします。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。パウロの時代の、神の民であるにもかかわらず救われていない、未信者であるイスラエル人の姿から学ぶことができました。時に私たちはそれまで見えなかったもの、見てこなかったもの、見ようとしてこなかったものにつまずくことがあります。そこで気付くことがあります。その気付いたことが、気付かされたことが、私たちにとっては重要で、礎となるほどのものであることがあります。私たちのつまずきさえも、主はみこころのままに用いてくださる愛であり全能なるお方であることを感謝します。もし今、私たちの中に何かつまずきがあるならば、そのつまずきから重要なことを見出し、学び取りらせていただき、それをもって救いの完成に至るまで、活き活きとした豊かないのちに溢れた人生を歩んでいけるようにお守りください。今日からの歩みも、神さまの愛と憐れみを見失わずに、日々信仰によって義とされながら、ますます義とされていくことに感謝をしながら、感謝と信頼を忘れずに歩んで行くことができますように。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す