2021年11月28日 主日礼拝(アドベント第1週)「異邦人信徒への警告」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  8番「きよきみつかいよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  96番「エサイの根より」
聖 書  ローマ人への手紙11章16〜24節
説 教  「異邦人信徒への警告」佐藤伝道師
讃美歌  506番「たえなる愛かな」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙11章16〜24節

説教題

「異邦人信徒への警告」

今週の聖句

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。

ローマ人への手紙11章22a節

訳してみましょう

2150 The thief comes only to steal and kill and destry; I have come that they may have life, and have it to the full.(John10:10)

2151 Jesus, as I consider the full and abundant life You’ve provided for me, please help me resist turning from You to things I think will satisfy me.

説教「異邦人信徒への警告」

ローマ人への手紙11章16〜24節

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。一週間守られ、今朝もこのようにして私たちを御前に召し出してくださり、礼拝を献げられる者とされていることを覚え心から感謝致します。今年もアドベントを迎えることができました。どうぞ私たちを今、主を待ち望む者としてふさわしく整えてください。私たちのうちに、体調のすぐれない方、霊と肉に痛みを覚えている方、疲れている方、重荷を負っている方がおりますから、あわれんでください。すべてから解放していただき、このひととき主のみことばに聞くことができますようお守りください。聖霊様が満ちていてくださり、みことばが分かるようにお守りください。そしてみことばの実を結ばせてくださいますようにお願いを致します。その実をもってそれぞれの任された場所へと遣わされて行き、そこで主のご栄光を現していくことができますように。語るこの者の上に臨んでくださり、主が全能なる御力によってこの奉仕を聖めてお用いくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 今日からアドベントが始まりました。教会暦を重んじる伝統的な教会では、今日から新年が始まります。つまり私たちは先週、年末を過ごしたというわけです。どのような一年の締めくくりができたでしょうか。どのような思いで新しい一年を迎えられましたか。などと言っても、ピンと来ないと思います。「先に言っておいてよ」そう言われると思います。しかし同じように、イエス様のご降誕は誰もが今日だと気付かない時に訪れたのです。また、先週はローマ書11章15節のところで、パウロは唐突に終末について、イエス様がお約束してくださったとおりに再びこの世に来られる「再臨」について述べました。パウロの視点は常にいつ訪れるか分からないイエス様の再臨の時、そして神さまの御心の成就、すべての人が救われるという救いの成就に置かれ、そこに向かっていることが分かります。私たちはどうでしょうか。私たちの視線の先には何があるでしょうか。目標、目的は何でしょうか。今の時期はクリスマスでしょうか。だとしたらクリスマスが終わったらどうしますか。自分が天国へ行くことでしょうか。だとしたら、天国へ行くことが確実にされている私たちは、もうあとはどうでも良いのでしょうか。

 パウロはこの先12章から、救われた者の生活の実践部分について語ろうとしています。そこに向かっていく途中、今日の箇所には「異邦人クリスチャンへの警告」が述べられています。

 ところで、皆さんはクリスマスはお好きですか。

 私たちはいわゆる異邦人教会ですが、以前、異邦人教会が犯した大変な過ちがあったことをご存知でしょうか。それはユダヤ人殺しでした。クリスチャンはユダヤ人を「キリスト殺し」と罵り、そして殺しました。信じられないことですが、クリスマスにキリストを殺したユダヤ人を殺せば神さまが喜ばれるのだと、そんな考えが広まっていました。ですからユダヤ人はクリスマスが嫌いで怖かったのです。それは神さまの恵みによって救われたはずの異邦人クリスチャンの高ぶり、高慢が原因ではないでしょうか。もちろん神さまはかたくななユダヤ人、かたくなにイエス・キリストを信じようとしない人たちを殺せ、排除しろ、そのようなことは決して望んでおられませんでした。神さまは私たちに、他人の神さまに対する背き、反抗、不従順、つまずき、違反、失敗、またキリスト殺し、そのようなものを責めるようにと求められたのではなく、和解のことば、平和の福音を委ねられたのです。私たちは「あなたたちはなっていない」と誰かを見下すのではなく、私たち自身が神さまの恵み、福音、クリスマスの恵みに与って救われて、恵みによって、信仰によって幸いな者とされていることを覚えたいと思います。アドベントを迎えた今朝もまた、私たちの視線を未来の救いの成就へと向けつつ、今日の箇所で語られている異邦人クリスチャンへの警告を通して教えられたいと思います。

 パウロは続けて16節からも、イスラエルの救いの可能性が断たれたものでは決してないのだということを説明するために、さらに新しいテーマに移ります。

11章16節 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

 16節は、民数記15章17〜21節の規定によると、収穫された麦の粉の最初の部分を神さまにささげることによって粉全体が聖別されるということです。パウロはここを引用して具体的にイスラエルの最初のものとしてのアブラハム、イサク、ヤコブといった族長のことを考えています。「根」についても同様です。そして、「聖い」というのは道徳的な評価に使うことばではなく、あるものが神さまのものとして献げられていると言う意味で使われています。「聖」という語自体に「神さまのものとして取り分けられる」つまり「聖別」の意味があります。イスラエルはその初めから神さまによって神さまのものとして、そして良い目的のために特別に選ばれて、この世の民の中から取り分けられた民族です。ですから、真実な神さまはご自身の真実のゆえに、決してイスラエルを見捨てられないことを、ここでも言っているのです。

 ところで、聖書は今の私たちのことも「聖なる国民」(Ⅰペテ29)と呼んでいます。

【ペテロの手紙第一】
2章9a節 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

 私たちもまた神さまによって、神さまのものとして良い目的のためにこの世から取り分けられている者たちなのです。ついでにⅠペテロ2章9節の続きを見ると、その良い目的とは、

2章9b節 それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

 主のすばらしいみわざ。原語ではθαυμαστός(marvelous・素晴らしい、気高い、奇しい)主のみわざ。実に私たちが救われること、救われたことは素晴らしくて気高い奇跡です。私たちを暗闇の中から、主の光の中に、救いに、天の御国に招いてくださった、主の素晴らしくて、気高くて、奇跡のみわざを、あなたがたが告げ知らせること、それが神さまが私たちを選び、神さまのものとされた目的だと言われています。私たちが高慢になって、誰かを見下して、憎んで、殺すことでは決してないのです。人間は心から出てくる言葉や態度で簡単に人を霊的に殺すことができてしまうのです。いつも私たちの内なる人を見張っていなければと思わされます。

 16節で「根と枝」を持ち出したパウロは17節へと進み、ここから異邦人クリスチャンへの警告が語り始められます。それは「自らを誇らず、高ぶらず、かえって恐れなさい」というものです。

11章17節 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、

 枝と根、養分。ここで詩篇1篇を思い起こさせます。

【詩篇】
1篇3節 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 この詩篇は、神さまによって選ばれ、神さまによって一番良い整えられた水路のある場所に移植された1本の木に喩えて、神の民、イスラエルの幸いを歌っているところです。水路のそばに植えられ、神さまにいつも目を注がれ、お世話していただいて守られ育まれている幸いな木。その根がいのちの水、豊かな養分を絶えず取り込んでいます。木は、根の豊かな養分を枝に提供している祝福の源ということです。ローマ書でパウロが言うには、それはアブラハム、イサク、ヤコブといった族長たち。枝はその子孫、イスラエル。根は何でしょうか。根本的なもの、神さまを求めるように根を伸ばす信仰。

 そばに折られた枝があります。パウロが言うのは神さまの愛、イエス・キリストの福音に対してかたくなで不従順な一部の(大半の)イスラエル人。彼らが神さまによって折られてしまったのです。折られたまま放っておかれてしまった。そして枝に残っているもともとの枝に混じって、野生種のオリーブである「あなた」が、つまり異邦人クリスチャンである「あなた」が、祝福の源であるオリーブの木に接ぎ木されて、祝福に与っている、イスラエルの子孫とされているのだと言います。

11章18節 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

 異邦人たちがどこか誇っていた雰囲気があったのでしょうか。パウロは異邦人であるあなたたちは誇ってはならないと言います。

 青年たちのバイブルキャンプでの一コマです。自由時間に青年たちが集まって話しをしていました。そこには1世クリスチャンと2世クリスチャンの両方が交じっていました。1世クリスチャンたちは熱く信仰を語り議論していました。2世クリスチャンたちは、何となくそういった熱い話は避けるように、世の中の何気ない話しを話しています。そのことに1世クリスチャンたちは不満げでした。「信仰がなっていない」と。しかし、これは長年キャンプに携わってこられた先生方が言われていたことですが、キャンプの回を重ねる毎に、一人、また一人と姿を消してしまうのは1世クリスチャンの子だと言うのです。普段の生活に戻って、教会の礼拝に続けて集うのは2世クリスチャンの子だと言うのです。1世クリスチャンもしっかりと信仰に留まっている子たちは、しっかり教会に繋がるものですが、やはり2世クリスチャンの青年たちは、小さな時から神さまに愛されていることを知り、また親の姿を通してとか、教会の兄弟姉妹との交わりを通して、実践教育ではないですが、その人たちの身の上に起こった色々な出来事の中に、神さまのみわざがあることを疑いながらも見て来た。その上でしっかりと、自覚はなくとも、木にしっかりとつながっているのだと思います。神さまとの関係が自然なのです。たとえ彼らの中の幾人かが教会から離れてしまったとしても、その信仰は多分消えることはないでしょう。私たちは教会を離れて行った方たちに対して、パウロのように関心を寄せているでしょうか。パウロは異邦人の使徒となっても、自分の隣人と友を忘れなかったのです。

 横道に逸れてしまいましたが、高ぶる雰囲気のあった、あるいは高ぶる危険性のあった異邦人クリスチャンに対して、パウロは「折られた枝、残された枝、両方のイスラエルに対して誇ってはいけない。たとえ誇ったところで、接がれた枝であるあなたが根を、信仰を支えているのではなく、根が木を支え、接がれた枝であるあなたがたはただ恵みによって木から養分をいただいているのだと言います。長い歴史の中で様々なことが起こり繰り返されながらも、なおも主はご自身のイスラエルに対する約束「あなたたちを絶対に守るよ、育むよ、救うよ」との約束に対する信仰の根が、根本的なものが、木を支え、枝を支え、その木に接がれた枝であるあなたをも支えているのだと。

 19節からまた少し違った質問をパウロ自身が差し出して問い始めます。

11章19節 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

 これもまた、パウロが想定した異邦人クリスチャンの高慢な考えです。同時に、「何か変だな」との思われないでしょうか。

 私は農業について詳しくないのですが、バラについては少しだけ知識があります。バラの接ぎ木の場合、品種改良したバラを、丈夫な根を持つ野生の野イバラに接ぎ木します。すると品種改良された弱いバラも野イバラの強い根の力によって病気や虫から守られて丈夫に育つというものです。つまり、普通だと病気や虫に強い野生種に、弱い栽培種の枝が接がれるのに、パウロは弱い栽培種に強い野生種の枝を接ぎ木されたのだと言うのです。だとしたらやっぱり強い野生種である異邦人が信仰を支えていると考えられるのか。けれども常識人であれば「そんなこと普通はあり得ませんよ」と言うでしょう。そこでパウロは自ら答えます。

11章20節 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたがたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。

 「そうです。そのようなことはあり得ない」とパウロは答えます。「野生種である異邦人、あなたたちが祝福の源に接がれたこと、救われたのは、あり得ないことなのです」とパウロは答えるのです。あり得ないことを可能にしたのはただ信仰によることでした。私たち異邦人は、主の素晴らしくて、気高くて、奇跡的な救いのみわざを信じる信仰によってのみ、木に、祝福の源に接がれているのです。接ぎ木されるために取られた枝には根がありません。木に接がれ、テープか何かで守られなければすぐに外れてしまいます。そのテープか何かが信仰なのです。外れないようにテープを神さまが巻いてくださった。私たちを守る信仰さえも恵みによって神さまから巻いていただいたものなのです。神さまの恵み、受けるにふさわしくない者の上に注がれた恵み、具体的には、私たちに注がれた聖霊によるのです。

11章21節 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

 とても厳しい警告です。

 私たちが救われたのは奇跡的な主のみわざ、恵みを信じる信仰によるもの。イスラエルの多くは奇跡的な主の救いのみわざ、恵みを必要としなかった。その不信仰によって神さまは枝を折られてしまったのです。本来の枝を惜しまれなかった神さまは、接ぎ木された枝も惜しまれないのです。だから神さまの恵みに対して、また自らの信仰に思い上がることなく、高ぶらないで、むしろ恐れなさいと、パウロは異邦人クリスチャンである「あなた」に警告するのです。

11章22節 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

 見なさいと言います。何を見なさいなのか。それは神さまのいつくしみと厳しさです。倒れた者、つまずきのイスラエルの姿を通して、私たちは神さまの厳しさを見ます。それを見て私たちは、今の私たちの上にあるのは、神さまのいつくしみだということを知ります。「ただし」と警告がされます。「あなたがそのいつくしみの中にとどまってればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます」。せっかく救われたのに、私たちが高慢になり、信仰から離れて行くならば、神さまを必要ないとするなら、神さまは私たちを行くままに任せられます。そして神さまはイスラエルにされたように強制的にさばかれるのです。そのさばきは「かたくなにされる」ことです。その状態に放置されるというさばきです。活き活きと生きられなくなってしまう、霊的な死です。しかし忘れてならないことは、そのさばきというものもやはり、聖書の至る所で証しされているように、私たちを愛し、最終的には私たちを正すためのさばきなのだということです。

 私たちは神さまのいつくしみが大好きではないでしょうか。いつも聞いていたい言葉ではないでしょうか。パウロは気をつけなさいと言います。私たちがいつくしみだけを強調していくと、何でも良くなって行ってしまうのです。いつくしみの中に生かされていて、そのことに甘んじて、当たり前のようになって、なにもしなくても良いのだと、教会に行かなくても良いだろう、お祈りしなくても良いでしょ、好き勝手にしたいことをして良いのではないか、となって行ってしまう。「信仰によって救われる、恵みによって救われる」というものは、その人を生かしもし、死なせもする両刃の剣です。そこでパウロは神さまの厳しさをも見なさいと警告します。ガラテヤ書6章7節でも言われています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラ67)。しかし、厳しさだけを強調しても、私たちは萎縮してしまうでしょう。信仰に、救いに喜びがなくなってしまいます。それもまた神さまの御心ではないのです。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ516-18)と勧められている通りです。私たちは主のいつくしみと厳しさをバランス良く見て行けるように、霊的な知恵と視点をいただけるよう、「見る目と聞く耳」(ロマ118)を与えてくださいと、へりくだって祈り求めてまいりましょう。

11章23節 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は彼らを再びつぎ合わすことができるのです。

 彼ら、イスラエルであっても、再びつぎ合わされるのです。枝が折られ、放っておかれたその枝は、イスラエルはもう枯れて死んでしまっているのではないかと私たちは思います。枯れて死んでしまった枝を、再びつぎ合わされたところで生き返るのでしょうか。だとするならば、それは奇跡でしょう。

 主はエゼキエル書37章でこう預言されています。少し長いですが、見てみましょう。

【エゼキエル書】
37章1節 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37章2節 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
37章3節 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37章4節 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
37章5節 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

37章11節 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。

37章14節 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。--主の御告げ--」

 「これらの骨はイスラエルの全家である」(エゼ3711)。イスラエルに対する預言です。主は言われました。「干からびた骨よ。主のことばを聞け」(エゼ374)。主のことば、福音を聞け。「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(エゼ375)。息、それは霊とも訳せる語です。聖霊のことでしょう。「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」(エゼ3714)。聖霊が注がれるのはいつでしょうか。私たちが真の主を呼び求めた時。聖霊がはっきり注がれたことを知るのはいつでしょうか。イエス・キリストの十字架の福音を信じ受け入れた時です。信仰が与えられた時です。その時、主は奇跡をなさいます。イスラエルを救われるのです。折られて放っておかれ、枯れてしまった枝を接いで、再びいのちを与えて生き返らせるのです。あり得ないことです。しかし神さまにはお出来になるのです。パウロはローマ書の冒頭、1章16節でこう言っています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロマ116)。神さまは福音を通して信じられない奇跡をなさいます。「神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです」(ロマ1123)。神の力によって、神の力である福音によって一度死んだような者をも生き返らせてくださるのです。

11章24節 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

 「もとの性質に反して」、これを直訳すると「自然の仕方、やり方に反して」です。つまり、先ほども申しました通り、異邦人が接がれた接ぎ木の方法は、普通のやり方に反した方法によるものでした。それなのに接がれたのであれば、救われたのであれば、栽培種のもの枝、神さまの御手によって移植され、守られ、大切に育まれてきたイスラエルは、もっと簡単に自分の台木につがれるはず、救われるのだと、そうパウロは言っています。ですから私たち異邦人クリスチャンは、イスラエルを見下すのではなく、さばくのではなく、イスラエルの救い、それはそのまま私たち全人類の救いの完成のために祈っていかなければなりません。私たちを愛し、たくさんの犠牲を払ってくださっている神さまの御心成就のために祈っていかなければなりません。救いが完成するのはイスラエルの救いが満ちた時。イスラエルの救いが満ちるのは、25節にある通り、異邦人の救いが満ちた時です。私たちは聖なる国民、神の所有とされた民です。神さまによって、ただ恵みによって選ばれ、神さまのものとして良い目的のためにこの世から取り分けられている者たちなのです。その良い目的とは、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、奇しいみわざを、あなたがたが宣べ伝える」(Ⅰペテ29)ことです。日本人であるならば、まず日本人に。まず家族に。身近な人たちのために祈り、そして犠牲をもって愛して行くのです。

 今日は異邦人クリスチャンに対する「警告」を見て来ました。私たちが心に留めておくべきことは、今日の箇所で語られたことは「警告」であって、「宣告」ではないということです。「もし、神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう」(ロマ1121)。「もしも」です。「もし、イスラエルと神が結んだ契約が破棄されたとするなら、私たちの救いも破棄される可能性があるということ」。「もしも」です。パウロは何度も何度も言います。神さまは真実なお方。「絶対にそんなことはない」。神さまはイスラエルと一度結んだ約束を破棄したり変更したりなさらない。だから、私たちの救いの約束も破棄されることはないのです。

 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」。今朝はこのみことばを深く覚えたいと思います。

 私たちの救いが確実なのは、神さまが真実なお方だからです。約束されたことは全部必ず成し遂げられるお方だからです。今日からアドベントを迎えました。主を待ち望む時です。創世記のはじめに人間が罪を犯してしまった時から、神さまはあなたを赦すから、救うから、待っていなさいと約束されました。その約束を待ち望み、ついに救い主イエス・キリストがこの世にお降りになりました。私たちを救うために十字架にかけられ、死んで葬られ、今は復活されて天におられます。やがてイエス様は私たちの救いを完成させるために約束通り再びこの世に来られます。その時を私たちは今、待ち望んでいます。その時まで、神のいつくしみときびしさを見つめつつ、すばらしい救いに与ることを目指して、ただ神の恵みによって救われたことを忘れず、イエス様にとどまり、御霊の実を豊かに結んでまいりましょう。そのためにパウロは、イスラエルの失敗を反面教師として、失敗しないようにと私たちに語りかけました。イスラエルが誤った選民意識を持って高慢になり、失敗したのと同じようになってはならないという警告でもありました。パウロは神の恵みによる救いを確信しながら、自分がすでに捕らえたなどと考えずに、後ろのものを忘れ、前のものに向かって走り続けました。私たちも視線を先に向け、神のいつくしみときびしさから目を離さずに、聖霊に守られながらしっかりと歩んでまいりましょう。待ち望んでまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。どうぞ私たちに、主のいつくしみと厳しさをバランス良く見ることができる目と、聞くことができる耳をお与えください。主の恵みを当たり前のように考え、気付かぬうちに高慢になり、イスラエルのような失敗をすることがないようにお守りください。今日からアドベントが始まりました。私たちに主の救いを待ち望む信仰を、この時しっかりと再確認し、その信仰に留まっていられますように。聖なる国民とされていることを覚え、主の目的、みわざを成して行くことができますように。私たちの隣人をお救いください。今週の歩みも守り祝福してください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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