2021年12月12日 主日礼拝(アドベント第3週)「待ち望む者の幸い」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  97番「あさひはのぼりて」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  111番「かみのみこはこよいしも」
聖 書  ルカの福音書2章21〜38節
説 教  「待ち望む者の幸い」佐藤伝道師
讃美歌  112番「もろびとこぞりて」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ルカの福音書2章21〜38節

説教題

「待ち望む者の幸い」

今週の聖句

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

ルカの福音書2章25節

訳してみましょう

2154 I resolved to know notjing while I was with you ecept Jesus Christ and him crucified.

2155 Father, please help me to see Your heart in the sacrifice of Your Son.

説教「待ち望む者の幸い」

ルカの福音書2章21〜38節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、尊い御名を崇め心から賛美致します。今日まで守られ、今朝もこうして御前に集められ、主を礼拝できます幸いを心から感謝致します。全地全能なる主が、私たちのすべての罪を十字架のゆえに赦し、聖めてくださり、身も霊も整えてくださり、この礼拝を、また私たちを主が喜ばれ受け入れてくださるものとしてくださいますようお願いを致します。みことばを祝福してお与えください。みことばとともに働かれる聖霊様が満ちていてくださり、みことばが分かるようにお守りください。それぞれに今必要なことをお語りください。それぞれが主が望まれるみことばの実を結び、またこの場から主が遣わしてくださいますように。語るこの者の上にも臨んでくださり、この奉仕をお守りくださいますようにお願いを致します。感謝し主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 アドベントも3週目を迎え、今朝は3本目のキャンドルに火が灯されました。4本のキャンドルが立てられていますが、それぞれに込められている意味が語られることがあります。

1本目は「預言のキャンドル」と呼ばれ、「希望」を表す。……聖書は預言者を通して「救い主が来られる」と預言していました。それは人々の希望でした。
 2本目は「天使のキャンドル」と呼ばれ、「平和」を表す。……救い主のご降誕を告げたのは天使たちでした。そのとき天使たちは「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美しました。
 3本目は「羊飼いのキャンドル」と呼ばれ、「喜び」を表す。……救い主のご降誕が最初に告げられたのは羊飼いたちでした。羊飼いたちは飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当て、天使たちが告げた通りだと喜びに満たされました。
 4本目は「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「愛」を表す。……神さまの人間を愛する愛は、ベツレヘムにおいてイエス様のご降誕によって、この地上に実現しました。昔からの預言が、神さまと神さまに罪を犯してしまった人間との平和が、仲直りが、その喜びが目に見える形で現実となったのです。そしてイエス様が成長し公の生涯が始められた時に言われました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ115)。いよいよ人間の目にはっきりと分かるかたちで神さまの愛の完成、救いの完成、神の国の実現に向かって動き出したのです。それはベツレヘムから始まりました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ114)。ベツレヘムにおいて神さまのみことば、預言、約束、人間の希望、平和、喜び、そして愛は完成し、現実のものとなり、そして今なお、完成しつつあるのです。

 アドベントについても確認しておきたいのですが、アドベントとは「到来、到着」、「やって来る、近づいてくる」という意味を持つラテン語から来ており、争いや、憎しみや、汚れに満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光として来てくださる。私たち人間のすべての罪を赦し、神の子どもとしてくださるために、神のひとり子が人となってやって来られる。その出来事を待ち望む時を「アドベント、待降節」と呼びます。救い主の到来、到着、近づいてくることを、キャンドルを1本、また1本と灯しながら心待ちに待ち望む。今年もはじめに希望の火が灯され、平和の火が灯され、そして今日、喜びの火が灯されました。私たちの心にも、神さまの愛の実現を信じる信仰によって、希望の火が灯され、平和の火が灯され、そして今朝、喜びの火が灯されるならば幸いと思います。

 ところで、聖書に登場する燭台はお皿とか容器に油が注がれていて、そこに差された芯が燃えるというものです。油は聖書では「聖霊」を意味していますけれども、私たちの心に灯される火も、聖霊によって、聖霊を通して注がれている神さまの愛によって灯されているのです。そして聖書は、その火を絶えず灯し続けているように、油、聖霊に満たされているようにと私たちに教えています。どのような人が油、聖霊に満たされるのでしょうか。

 これまで続けて見てきましたローマ書にはこのように記されていました。

【ローマ人への手紙】
5章1節 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5章2節 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで多いに喜んでいます。
5章3節 そればかりではなく、患難さえを喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5章4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5章5節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ここにも「希望、平和、喜び、愛」が登場しています。そして著者であるパウロの視線はどこに向いていたでしょうか。イエス様の再臨でした。

 ある先生が本の中でこのように言われています。「このような言葉は実際は存在しないけれども、あえて言うなら」と前置きして、「第一のアドベント」、そして「第二のアドベント」という言葉を用いておられました。

 「第一のアドベント」とは、旧約の人々が救い主の到来を待ち望んだ日々を指します。それはイエス様がこの地上にお降りになったクリスマスの出来事によってすでに満たされました。私たちはそれを記念し、感謝し、喜ぶことはあっても、備えるとか、待ち望むことではないはずです。私たちが備え待ち望むべき救い主イエス様の到来は、「第二のアドベント」、将来のイエス様、救い主キリストの再臨であるはずです。「主はかしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と私たちが私たちの信仰を日々自ら告白し、希望とし、待ち望んでいるこの救い主イエス様の第二の到来、再臨であるはずです。ですから私たちは毎日、第二のアドベントの日々を歩んでいるのです。私たちの生涯のすべてがアドベントであると言えるのではないでしょうか。私たちは日々、主を待ち望む、救いを待ち望む日々を過ごしているのです。ヘブル書の記者は言っています。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブ928)。その日を信じて、その日を心から待ち望み、その日に向かって喜んで歩むのが私たちキリスト者です。私たちは第一の到来であるクリスマスに備えて、クリスマスを実際に待ち望むということを通して、救い主キリスト・イエス様の第二の到来、再臨にそなえ、それを待ち望む信仰を、そして今主が近づいて来られているという希望、平安、喜びを深めていくこと。神さまの真実な愛を信じ切る信仰を深めていくこと。確信していくこと。それが毎年繰り返されるこの特別な4週間が持つ意味なのです。

 さて、今朝の箇所にはシメオンとアンナ、そして38節に「すべての人々」と書かれている人々が登場します。彼らは全員、「イスラエルの慰め」「エルサレムの贖い」を待ち望んでいた人たちでした。イスラエルの慰め、エルサレムの贖い、それはメシヤ、救い主によってもたらされる「救い」のもう一つの言い方です。他の箇所では「神の国を待ち望んでいた」という言い方もされています。彼らには、神さまが神さまの約束に従って送ってくださる救い主を心から待ち望んでいたという共通点がありました。

2章21節 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。体内に宿る前に御使いがつけた名である。

 まだ名前もない幼子はこの時、割礼が施され、そしてイエスと名づけられました。この幼子よりも少し早く老祭司ザカリヤのもとに生まれた幼子が「ヨハネ」と名づけられた時、その幼子の周りには近所の人たちなど大勢の人々が集まり、盛大に割礼と名付けの儀式が行われたようです。恐れさえ感じるヨハネの出生と儀式を見た大勢の人々、そして彼らがユダヤの山地全体に一部始終を語り伝えた、それを聞いたたくさんの人たちがみな心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と。それは主の御手が幼子ヨハネとともにあることを皆がはっきりと見たからだと、ルカは伝えています。ザカリヤは預言しました。「この子はメシヤ救い主ではない。いと高き方の預言者と呼ばれる。その道を備える者だ」。ではいと高き方はどこに、メシヤ救い主はどこに。そこから救い主を探し求め、待ち望む思いを持ち続けた人は、恐らく生涯の遅すぎないうちに救い主にお目にかかったことと思います。

 一方、もうひとりの幼子が割礼が施され、イエスと名づけられた時というのは、人知れず、ひっそりとした中での出来事でした。またこの「イエス」という名前も、当時のユダヤ人としてはありふれた名前だったようです。イエス、その意味は「主は救いである」。もし盛大な割礼と名付けの儀式が行われ、しかもその名前が唯一無二、特別な名前であったならば、誰でも「この方は救い主である」ということがすぐに分かったのかもしれません。すぐに語り伝えられ、ヨハネのように一躍一目置かれる存在となったのかもしれません。しかしそうではありませんでした。救い主は人知れずひっそりとイエスと名付けなれ、その名前は誰にも知らされませんでした。しかも24節にはヨセフとマリヤが「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」をマリヤの産後の清めのためのいけにえとして献げたとあります。若い二人はとても貧しかったということです。とても貧しい家に生まれた幼子が、家畜小屋に生まれ、布にくるまれ飼い葉桶に寝かされた。8日が満ちイエスと名づけられた。その間に、いつも生活している顔見知りの多い所から遠く離れた地で、親身になって世話をしてくれる人もいない、若くて経験のないマリヤとヨセフの手によって、きちんと綺麗にしてもらえたのでしょうか。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」と、イザヤは預言していました(イザ532)。しかしやはり、そういったことすべてにも神さまの御心があったことは確かです。そのような幼子の中に、救い主の姿を見出した人がいました。

5章25節 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

 当時イスラエルでは、すでに400年にもわたって預言のことば、神さまのみことばが与えられていませんでした。神さまはまるで沈黙を守られていたかのように。しかし神さまの沈黙というのは、決して神さまが何もしておられないということではありません。沈黙の陰で確実に御心の成就に向かって絶えず動いているのです。それなのに大多数の人々は、救い主が到来することを待ち望まなくなっていました。当時の世界を支配していたローマの圧政に苦しめられ、目の前の生活で精一杯、神さまが完全にご支配なさる神の国、すべての人がともに喜び、活き活きと生活し、一人として誰かのために泣かされることのない、そのような素晴らし神の国の到来、神さまの約束、人間を愛する神さまの愛を信じることができなくなっていました。そうした中にも敬虔な人たちはいました。最後まで主に信頼し、救いを待ち望む「残された者」がいました。神さまは敬虔な人、救いを心から信じて待ち望んでいる人たちに聖霊を注ぎ、救い主イエス様を現されるのです。この時、御霊に感じて神殿に入って来たシメオンという老人もその一人でした。

 シメオンは正しく、そして敬虔な人でした。その言葉の意味は、人々に対する正しい行為が神さまに認められていた人、そして神さまに対する正しい行為が神さまに認められていた人ということです。生きにくい世にあって、あきらめることなく希望を抱き、「神を愛し、隣人を自分自身を愛するように愛せよ」、真の律法に従い、神さまと自分との間に、また人々との間に争いではなく平和を求め、救い主を正しい心で心から待ち望んでいた。それは決して簡単なことではありません。もの凄い忍耐が伴うものです。それらすべてを神さまによって認められていた人でした。そのようなシメオンの上に、聖霊がとどまっておられたのです。旧約聖書の時代には、聖霊は特別な場合に人々の上に下ったことが語られていますが、ずっととどまっておられたというのは珍しいことです。神さまによって認められていたシメオンは特別に神さまによって聖霊をそそがれ、聖霊なる神さまは、真の救いを待ち望むシメオンから離れずにとどまっておられました。

2章26節 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2章27節 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。

 シメオンはその御霊、聖霊に感じて宮に入りました。するとタイミング良く両親に抱かれたイエス様に出会ったのです。神さまを真実に愛する者には、神さまはすべてのことを益として働かせてくださる。宮には恐らく大勢の人たちがいたことと思います。その中から、シメオンは約束の救い主であるイエス様を見出したのです。その他大勢の人たちは、救い主を見出すことはありませんでした。神さまに期待し宮に詣でていた大勢の人々とシメオンは何が違ったのでしょうか。すでにお分かりの通り、神さまの長い沈黙の中でも、神さまの約束を、神さまの真実な愛を信じ、その実現を心から待ち望んでいたことでしょう。人々のあいだで神さまに認められる正しさをもって生き、神さまに対しては神さまに認められる敬虔さをもって仕え、苦しみに満ちた世の救いを求め、同時に自分の救いを求め、忍耐をもって待ち望んでいたことでしょう。そのように出来たのは、やはり神さまの真実の愛、約束を信じ切っていたからだと思います。そのようなシメオンには聖霊がとどまっておられた。主はご自身を信じ、真の救いを待ち望む者に信じ抜く力を与え、そして信仰の目を、霊的な目を開いてくださって救い主を目の前に見出させてくださいます。今、自分の目の前に、こんなところにもインマヌエル、神は私たちとともにおられること、こんなところにも救いがあることを見させてくださいます。シメオンは幼子イエス様を腕に抱き、腕の中で主の救いを見ました。イエス様と顔と顔とを合わせて、そこに神さまの御心を、愛を見出しました。イエス様の温かさ、いのちをまさに自分の腕の中で感じ、本当に主は約束通りにこのような世に降られ、約束通りに私たちともにおられるのだということを知り、平安をいただき、この世で、この世の人々の間で神さまを賛美する者とされました。

2章29節 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2章30節 私の目があなたの御救いを見たからです。

 シメオンのこの表現は、死を長い労苦からの解放として考えていたことがうかがえます。「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(226)。「お告げを受けていた」という語は、「シメオンの問いかけに応じて神さまが答えてくださった」という意味の語です。シメオンはずっと神さまに問うていました。なぜ私は生かされているのか。なぜ苦しみから解放されないのか。そのシメオンが「私の目があなたの御救いを見たので、今こそ安らかに去ることができる」と。ようやく、やっと。そのような思いが感じられるのではないでしょうか。主の救いを待ち望むこと。それは楽しみであったり、喜びであったりするだけではありません。冒頭でローマ書5章で見た通り、そこには苦しい忍耐もあるのです。患難があり、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。この希望は失望に終わることがない。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ロマ53-5)。

 神さまはシメオンを何の希望も平安も、確信も喜びも、慰めもないままにこの世を去らせることはなさいませんでした。シメオンは主の救いを待ち望み、忍耐し、聖霊によって目の前に救いをはっきりと見出し、腕の中で温度を感じるほどに知り、待ち望んでいた神の国の実際の実現は見ずとも、今、神さまの約束に対する確信と平安をいただいて、この世を去る準備ができました。「いつの日にか、救い主によって罪と死から完全に解放されて、天の御国で、神の国で、栄光の神さまに仕える特権が与えられるのを見たので、安らかにこの世を去ることができる。その準備ができた」と。シメオンが得たこの平安な思いは、今の私たち、イエス様の中にまことの救いを見出す人々の内に少しも変わらすに見られるものではないでしょうか。その死後に対する平安、確信が、困難な世にあっても諦めることなく、勇気と力、愛と慎み寛容をもって生き抜く力となっているのではないでしょうか。それもまた神さまが待ち望む者に与えてくださる幸いです。

2章34節 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2章35節 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

 シメオンは聖霊によってもう一つ重要な預言をしました。マリヤの心を刺し貫く剣。それはイエス様の死のことです。マリヤの腕の中で眠る幼子が受ける苦難、死。それらは既に私たちは知らされている通り、私たちすべての人間に対して「定められているもの」でした。イエス様の地上の全生涯はまさに苦難の道、十字架への道でした。多くの人々が救い主イエス様を拒み、受け入れなかったからです。それらはこの時にすでに予告されていました。

 「定められている」という語は、「置かれている、横たわっている」という意味の語です。そして「立ち上がる」という語は、新約聖書の他の箇所ではいつでも復活に関して用いられる語です。ローマ書でも見ましたが、イスラエルの多くの人がこの目の前に横たわるようにして置かれている救い主イエス・キリストがつまずきの石となり倒れてしまう。神さまの愛、恵みの実現であるイエス様が妨げの岩となってしまい、心がかたくなにされ、受け入れることができない。そのような人々は「倒れる人々、滅び行く人々」です。しかし、救い主イエス・キリストを受け入れる人々もいます。目の前に置かれている救い主イエス・キリストが尊い要石となり、その石、岩の上に信仰によって建て上げられていく。そのような人々は立ち上がり、救いに入ることになるのです。救い主イエス・キリストが幼子となってこの世に現れ、明確なしるしとなりました。それは、イエス・キリストを受け入れる者は誰であっても救われ、受け入れない者は誰であっても滅び行くということです。「見よ。神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって…」(ロマ1122)。前回与えられたみことばが迫ってくるのではないでしょうか。いつくしみの中にとどまっている。それはいつでも神さまの救い、愛を信じて待ち望む者でいるということでしょう。忍耐し、神さまの救いを待ち望む者を神さまは誰であっても、異邦人であろうと、罪人であろうと、その人をいつくしまれ、聖霊で満たし、神さまを慕い愛する心、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、起き上がる者、永遠の救いへと入れていただく者とされる。これも待ち望む者の幸いなのです。

2章36節 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2章37節 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2章38節 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

 エルサレム神殿には神さまを信じる多くの人々が集っていました。アンナという人もその中の一人でした。夫に先立たれた女性にとって、この時代ほど辛く生きにくい時代はありませんでした。アンナはやもめになってから随分と長い間、それでも神さまに依り頼み、信じて、忍耐し、救いを、神の国を待ち望んでいた人でした。その信仰によって宮を離れず、神さまに仕えていました。そんな彼女もまた、幼子イエスが宮にいたちょうどその時、そこに居合わせたのです。そして幼子のことを知りました。神殿に居合わせた大勢の人たちの中で、幼子のことを知ったのはシメオンとアンナだけだったようです。アンナも待ち望む者の幸いに与った人でした。そのアンナは、自分と同じようにエルサレムの贖われることを待ち望んでいるすべての人々に、もしかしたら同じ生きにくさ、苦しみの中にいるやもめ仲間に語ったのかもしれません。世の中で隅に追いやられ、誰にも顧みられることのない、弱く貧しい人たちに、そのような人たちこそ神の国を心から待ち望む人たちで、彼ら彼女らに幼子のことを語ったのでした。救いを、神の国を待ち望む者には、このように福音が届けられるのです。そして救いを待ち望む者は、この届けられた福音をただ信じる者としていただける。これも待ち望む者の幸いです。さらに救いの福音は、そうした人々によってさらに宣べ伝えられて行きます。私たちの所にも届けられました。ここで、またここからさらに宣べ伝えられて行くその先々で信じる者が起こされ、救いの完成、神の国の完成がますます近づいていることを知る。希望、平和、喜びの火が灯されていく。満たされていく。それを目の当たりにすること、また自分の心の火もまた灯され、灯され続け、ますます聖霊に満たされ、生きる勇気、力が湧いてくる。これも待ち望む者の幸いです。

 クリスマス、イエス様の誕生はひっそりとしたものでした。しかも飼い葉おけに寝かされるというみじめさでした。しかし誰にも知られないような救い主の誕生は、神さまの不思議な方法でベツレヘムの羊飼いたちに、エルサレムの預言者シメオンとアンナに、さらにエルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人々へと伝えられて行きました。皆、例外なく幼子の誕生を喜びました。彼らには共通点がありました。彼らは皆、神さまの変わることのない真実な愛を信じ、神さまの約束に従って救い主を心から待ち望んでいました。それは人の救いにとって昔も今も変わらない点です。今、幼子の誕生を喜んでいる私たちもまた待ち望む者とされているということです。待ち望む者の幸いに与っている者たちです。

 私たちの救いは神さまの方から来ます。私たちは頑張って取りに行くものではありません。恵みです。聖書は私たちに「待ち望め」と言います。聖書のはじめから終わりまで「主を待ち望め」と私たちを励まします。そして慰めます。救い主イエス・キリストは私たちの罪を負うためにこの世にお生まれになりました。やがて二度目には、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。喜びのロウソクに火が灯された今日、私たちは改めて、今の私たちにとってのアドベント、待ち望むことの意味を再確認し、希望、平和、喜びの火を灯し続けてまいりたいと思います。待ち望む者の幸いを味わい、喜びに満たされて、残されたアドベント、残されているアドベントの生涯を過ごしてまいりたいと思います。来週は4本目の「ベツレヘムのキャンドル・愛」に火が灯されます。一週間期待して、待ちわびて過ごしてまいりましょう。そしてそのことを通して、やがて完全に神さまの愛が完成する主の二度目の来られる時を心から期待し、待ち望む姿勢を新たにしてまいりましょう。待ち望む者に神さまは聖霊の油を注いでくださり、満たしてくださいます。聖霊に満たされ、待ち望む者に与えられる幸い、希望、平和、喜び、そして愛の火を心に灯し続けてまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝致します。私たちは今、主イエス様のご降誕を喜ぶ者とされています。そして二度目にイエス様が来られることを待ち望む者とされています。待ち望むことは楽しいことばかりではなく、忍耐を伴うものではありますが、主は待ち望む私たちに聖霊を注ぎ満たしてくださいます。聖霊を通して、主を待ち望む者が与る幸いが与えられています。感謝致します。この幸いを生きる勇気、力として、今日からも歩んでまいりますからどうぞその道を守り祝福してください。幸いに与り、喜びに満たされて、人々の間で主の素晴らしさを証ししていくことができますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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