2021年12月24日 燭火礼拝(クリスマス・イヴ キャンドルライト・サーヴィス)

ようこそ、長野聖書教会のクリスマス・イヴ礼拝へ。

長野聖書教会のクリスマス・イヴ 燭火礼拝は、12月24日夜7時30分より行われます。
ライブ配信を行います。
ご一緒に、イエス・キリストのご降誕に思いを馳せつつ、心を静めて、主の豊かな祝福に与りましょう。

プログラム進行、讃美歌等は、ライブ動画の中でご案内致します。

いと高き所から光が訪れて

ルカの福音書1章78〜79節

 どうしてクリスマスは忙しい年末の12月25日にあるのでしょうか。イエス様の誕生日だからですか?
 「それは偉い人が決めたからです」。これは先日、テレビ番組の中で言われていたことですが、おおかた合っています。

 皆さんすでにご承知のことと思いますが、クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではありません。イエス様の誕生日は聖書のどこにも記されていないので分からないのです。クリスマスは救い主イエス・キリストの誕生を祝う祭りの日です。世界的に定められたクリスマスという祭日です。
 大きな会議でキリストの降誕を祝う日について議論されたのですが、たくさんの日付の候補の中から、ローマ時代の「ローマ暦」での冬至の日とされていたのが12月25日で、その日が次第に「降誕を祝う日」として定着していったようです。
 冬至は北半球では一年で最も日の出から日没までの時間が短い日です。年末で皆が何かとせわしなく、何かと忙しい、忙しく感じてしまう時であるのに、色々活動できる昼間が一番短くて、夜が一番長い。すべてのことは神さまから出ており、神さまから出ていないものはいずれ自然消滅してしまうものであると聖書は言っていますが、毎年変わらず、それどころか、ますます盛大に世界中で、暗い夜が最も長い冬至の日にクリスマスが記念され続けていることも、もしかしたら神さまの御心、思し召しなのかもしれません。人間というのは、明るい中で色々と見えてしまうと、本当に大切なものが見えなくなってしまうからです。暗くてほとんど何も見えないと、私たちの思いは自然と内へ、内へと、スポットライトが絞り込まれるように向かっていくのではないでしょうか。

【ルカの福音書】
1章78節 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
1章79節 暗黒と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。

 これは老祭司ザカリヤの預言です。新約時代幕開けの最初の預言です。神さまがいにしえより預言者を通して語ってこられた約束の通りに、私たちを奴隷のような苦しい状態から解放してくださる方、敵の手から救い出してくださるメシヤ、救い主が現れるとの預言です。真っ暗な暗闇の中にいるような者たち、死と隣り合わせ、いつも死を予感させるような状態の中にいる者たちの所に、いと高き所から曙(日の出)のように、光がこの地上に現れて人々を救う、そのようなお方が来るという預言でした。その預言は、クリスマスに成就したのです。

 最後の預言から実に400年もの間、神さまからのことばが与えられず、暗黒時代と呼ばれた当時のユダヤの人々は、ずっと暗闇と死の陰に住んでいました。小さな希望を抱いたとしても、それさえもすぐに奪い取られてしまうような世の中。それでも人々は毎日精一杯頑張って生きていました。とても忙しく一生懸命に生きていました。それはもしかしたら、現代と少しも変わらないのかもしれません。現代の私たちも、イエス様がお生まれになった時代と変わることなく、様々な支配、争いや災害、疫病や病気、迫害、経済的困難、将来の不安などが満ちているこの世において、まるで神はどこにいるのかと思ってしまうようなこの世で、それでも一生懸命に、忙しく生きています。忙しいという漢字は心を亡くす、死なせると私たちは良く言いますが、忙しく生きていると、私たちは次第に心、霊を失って行き、信仰を失って行き、希望を失って行き、そして自分に対する愛、他人に対する愛、神さまに対する愛を失って行くのではないでしょうか。そしてまた、人間らしさを失って行くのではないでしょうか。
 そのような私たちは「私は御前で獣のようでした」と、ある詩篇記者の告白と同じ告白をするのかもしれません。聖書は人間のいのちと獣の命を分けています。人間には心があります。信仰心があります。人間には特別に神さまを信じて仰ぐ心が備えられているのです。「うちで食前のお祈りをしないのは、ポチとパパだけね」とどこかで言われていましたが、確かに犬が天を仰いでお祈りするのでしょうか。しかし人間には心があり、信仰心がある。神さまとの霊的な交わりがある。それで初めて人間は「生きている」と言えるのです。人間が信仰を失い、罪によって、その罪というのは、自分の欲望のままに、神さまから離れて行こうとすること。自分勝手に神さまを無視して生きて行こうとする性質のことですが、その罪によって、神さまとの霊的な交わりを失った命。それを聖書は「死」と呼ぶのです。それで人間は霊的に死に、やがて肉体も滅んで死に行くのです。その過程の中で、心は暗闇となり、どこか死の予感を感じ、そういったものは自然と「内なる人」と「外なる人」に現れてきます。両方に影響を及ぼすのです。神さまは、私たちが罪によってまるで暗闇を歩くように、死んだように生きることなど決して望んでおられないのです。光の中を活き活きと生きることを望んでおられるのです。罪によってそのように生きられないすべての人に、神さまは深いあわれみを注いでくださっているのです。罪による束縛、暗闇、死からすべての人を救いたい、救われて体も心、霊も、滅びることのない永遠のいのちを得て欲しいと願われているのです(Ⅰテモ2:2)。

【ルカの福音書】
1章78節 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
1章79節 暗黒と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。

 19日のクリスマス礼拝では、この「神さまの深いあわれみ」について見ました。神さまの深いあわれみ。直訳すると「あわれみのはらわた」です。日本語にも通じるものがあります。それは「断腸の思い」と言われるものです。これは中国の故事から来ており、簡単に言うと悲しみのあまり腸(はらわた)がずたずたに千切れることだそうです。神さまは、深いあわれみ、もの凄い痛みを伴うほどの悲しみ、あわれみ、愛の心を私たちに注いでくださっています。
 世界が創造されてまもなく、最初の人間アダムは罪を犯し、霊的に死に、やがて肉体も滅んで死に行く者となってしまいました。アダムが罪を犯してすぐに、神さまはアダムの性質を引き継ぎ生まれて来るすべての人間の罪の赦しと救いを、深いあわれみによって約束してくださいました。それから何千年経過したのでしょうか。その間ずっと神さまは、これまでアダムの罪の性質を引き継いで生まれては死んで行ったすべての人間に対し、今もその歴史を繰り返し生きている私たちに対しても、深いあわれみをずっと持ち続けてくださり、ついに神さまの時が満ちて、私たちすべての人間を罪、そして霊的な死、肉体の死、暗闇の世界から救い出してくださる光、救い主イエス・キリストを、この世にお与えくださったのです。

 もしかしたら皆さんの中に、「私の人生は比較的順風だし、そんなに大した苦しみも悲しみもないし、罪なんて関係ないよ」、あるいは「それなりの問題や大変さはあるけれど、神さまとは関係ないし必要ない」、そう思われているかもしれません。しかし神さまの目から見たら、すべての人があわれみの対象なのです。あるいは、「今はまだ必要ない」と思われているかもしれません。しかし神さまは、絶えずずっとあわれみを注いでおられるのです。私たちが本当に神さまの救いが必要であることに、私たちが気づいていないだけなのかもしれません。

【ルカの福音書】
1章78節 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1章79節 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 ただ神さまの深いあわれにによって、日の出が、希望の光が私たちのもとを訪れる。その“目的と結果”は、私たちを「照らす」こと。そして私たちを「導く」ことです。

 人間というものは、じっとその場に留まっていることが苦手です。いつも忙しく動き回っています。そうすれば色々なことが忘れられるからかもしれません。動き回っていることで安心できるからかもしれません。嫌なこと、見たくないことを見なくて済むからかもしれません。しかし光となって来られた救い主イエス・キリスト。その目的と結果は、私たちを「照らすこと」でした。暗黒と死の陰にすわる者たち、闇の中にいて、闇の中にいることさえ気づかない者を照らすことでした。

 光は暗闇を照らし、見たくないものを光の中に浮かび上がらせます。私たちの心の暗闇の部分を、奥深くを照らし、色々な記憶や様々な思いを浮かび上がらせ、私たちに見せるのです。とても怖いと感じるかもしれません。けれども、イエス様がお生まれになった時、御使いは暗闇の中にいた羊飼いのもとを訪れ、光を恐れる彼らに言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と。

 私たちには、恐れずに光の前に静まることが求められます。もしかしたら自分をごまかそうとする忙しさから少し離れて、静まって、自分自身を見つめることが求められます。自分の中に、見過ごされている何かがないか。

 主は私たちのすべてを救いたいのです。全身全霊、身も霊も、心も身体も、完全に救いたい、解放したいと願われるのです。そのためにはまず、私たちがそこからの救い、解放を心から求める必要があるのです。必要とするところに、待ち望む者のところに、砕かれた心に、主は御手を伸べられ、優しく覆ってくださるのです。

 光に照らされて、私たちは何を見せられるのでしょうか。私たちが暗闇の中、イエス様の光に照らされて、死の陰で見せられるその一つ一つに、イエス様、救い主の御手が伸べられるのを見るのです。孤独、貧しさ、病、悲しみ、苦しみ、恐れ、不安、憎しみや怒り、罪。見たくないものが満ちているところ、汚いものが満ちているところにイエス様は来てくださるのです。来てくださると約束してくださっているのです。約束のしるし、証拠が家畜小屋でした。人々に追いやられ、居場所がなく、暗くて汚くて臭い家畜小屋に神のひとり子、救い主、栄光に富んだ方がその栄光を捨ててこんなところにと思われるところにお降りになったのです。ただ神さまの深いあわれみによってです。

【ルカの福音書】
1章78節 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1章79節 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 光である救い主は私たちを照らし、そして私たちを導かれます。私たちを平和へと導かれます。神さまと私との平和です。

 イエス様はある女性にこう言われました。「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(ルカ7:48−50)。この「安心して行きなさい」は、直訳するとこうなります。「平和の中へと進み行け」。「平和の中へと進み行け」。

 光である救い主は、私たちの暗闇に光を照らし、様々なものを私たちに見せ、そして言われるのです。「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。ここから、平和の中へと進み行け」と。光で道を照らし、そして示して、そう言われるのです。ここからイエス・キリストの十字架の前に進み行き、すべての罪の赦しを得て、神さまと完全に仲直りをして、なんのわだかまりもない神さまとの平和な関係をいただいて、安心して、平安に、今から後、永遠に至るまで、主とともに活き活きと喜んで生きる「永遠のいのち」をもって歩み出せと。

 けれども、本当の救いの完成はもう少し先に約束されています。イエス・キリストを信じて救われてもなお、様々な苦しみや悲しみの中を通らされています。なぜなら、神さまが約束される「皆が本当に活き活きと喜んで生きられる世界」「神の国」は、まだ来ていないからです。

 イエス様はクリスマスにこの世に降られました。多くの人の罪を負うために。イエス様は多くの人の罪を負い、十字架にかけられ、負われた罪とともに完全に死んで葬られ、三日目に死よりよみがえられて天におられる神の右の座に着いておられます。そしてやがて、二度目に来られることを約束されています。今度は罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの十字架による救いの恵みに与り、イエス様の再臨を待ち望んでいる人々の救いのために再び来られます。

 ですから、イエス様が再び来られてからでは遅いのです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によってまだ救いに与っておられない方は、是非とも、光に照らされ、本当の自分、まことの救いを必要としている自分に気づかされ、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われてください。罪、死、暗闇から解放されて、「ここから安心して行きなさい。平和の道へと進み行け」との主の御声に従って歩み出していただきたいと、心から願い祈ります。

 すでに神さまとの平和の道へと進み出しておられる方は、救いの完成を目指し、自分はすでに得たとは考えず、いつも光に照らされて、何に、どこに救いが必要なのか、深いあわれみをもって、主はさらにどこから私を救おうとされているのか、聖めようとしておられるのか、そのことを教えていただきながら、忙しい毎日ではありますが、光の前に静まる時を持ち、主の「ここから安心して行きなさい。平和の道へと進み行け」との御声に聞き、日々、主に信頼し、聖霊に満たされて、絶えず信仰の灯をともし続け、神さまとの完全な平和がすでに与えられていること、天に名が記されていることを喜んで歩んでまいりましょう。

 クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う祭りの日です。私たちはこうしてキャンドルの光の前に集まり、みことばの前に静まっています。今晩、キャンドルの光を通して、光としておいでくださった救い主を覚えたいと思います。
 詩篇には「主を仰ぎ見ると 彼らは輝いた」とあります。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる」とあります。私たちも、光に照らされることを恐れず、信頼して照らされ、救いを必要とするありのままの自分に気づかされ、「安心して行きなさい。平和の道へと進み行け」との御声を聞かせていただきましょう。そして光の主を仰ぎ、ますます輝く者、光の子、神の子としていただきましょう。クリスマスを通して、神さまの私たちに注がれている深いあわれみ、愛を信じ、約束されている救い主イエス・キリストの二度目の来臨の時を心から待ち望む者としていただき、ここからますます活き活きと、喜びと力に溢れてますます輝きながら、光に示された道を歩んでまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。今晩、世の忙しさから一時離れ、キャンドルの光を前に、光としてこられた救い主イエス様のことを覚えました。私たちは光の前に静まり、光である主に信頼し、本当に私は、身も霊も救いを必要としている者であることを覚えさせてください。私たちがどこからの救いを本当に必要としているのかを見せてください。そして「安心して行きなさい」「平和の道へと進み行け」との主の御声をお聞かせください。絶えず私に注がれている主のあわれみを覚えます。ありがとうございます。主のあわれみ、愛に応える者でいたいと願います。どうぞお一人おひとりを祝福し、それぞれの心をお導きください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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