2022年1月9日 主日礼拝「新しい生き方に向かって」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 12番「めぐみゆたけき主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 249番「われつみびとの」
聖 書 ローマ人への手紙11章25〜36節
説 教 「新しい生き方に向かって」佐藤伝道師
讃美歌 506番「たえなる愛かな」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙11章25〜36節
説教題
「新しい生き方に向かって」
今週の聖句
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ人への手紙11章36節
訳してみましょう
2162
2163
説教「新しい生き方に向かって」
ローマ人への手紙11章25〜36節
1月2日、私は須坂聖書教会での説教奉仕へと招いていただき、そちらの礼拝に出席しましたので、私にとって今朝は今年最初の皆さんとの礼拝となります。この場で改めまして、新年あけましておめでとうございます。
実は昨年もこのご挨拶から始めたました。「おめでとう」は、マリヤの受胎告知の場面での御使いの第一声でした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。そしてこの「おめでとう」とは、原文では「喜べ、喜びなさい」です。「喜べ、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。新年早々、色々な困難が訪れ、私たちには少なからず心配や動揺があり、「おめでとう」どころではないように思ってしまいますが、それでも主は私たちをあわれんでくださり、「喜べ、恵まれた方」と励ましてくださっているように思います。私たちは主のみことばを信じて、互いに愛し励まし合い、今日もこの挨拶を交わしたいと思います。「喜びましょう、恵まれた私たち。主が私たちとともにおられます」。「喜べ」。何を喜ぶのか。私たちの名が天に記されていることを喜びましょう。何があろうとも、日々、主のあわれみが私たちに注がれており、その名は消されることがないことを喜びましょう。
さて、「明ける」という言葉は、暗い夜が明けて明るい朝になるとか、ある期間が過ぎて次の状態になる、これらのことを「明ける」と言いますが、何か私たちに明るい希望や期待、新たな良きスタートを感じさせる言葉ではないでしょうか。私たちはこれまでローマ書の前半を学んで来ました。人間の罪について、罪の悲惨さについて。そこからの信仰による救いの素晴らしさについて、御霊の原理についてなどを見てまいりました。そして前半と後半の間に挟まる形で置かれている9、10、11章を見てまいりました。そこには神さまの選びとイスラエルについてが記されており、そのことを通して、神さまの選び、約束はどんなことがあろうとも破棄されたり変更されることのない真実な神さまがおられること、真実な神さまに対してかたくなな者、不従順な者、不信仰な者にそれでも注がれている神さまの愛とあわれみについて見てまいりました。今日、その学びを終えようとしています。来週からは後半へと入ってまいりますが、新しいステージへと移ります。いよいよ救われた者の実践生活の勧め、救われた者の新しい生き方が語られていくのですが……。
もし、9章から11章が抜けていたとしたらどうでしょう。8章からそのまま12章につながっていたとしたら、私たちは、次に出てくるパウロのことばが分からなくなってしまいます。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」(ロマ121)。この「神のあわれみ」が分からなくなってしまうのです。
かたくななイスラエルの姿を通して、私たちもただ神さまの恵みによって救われたことを知りました。これほどまでに罪深い、罪が染みついている私たちを、ただ恵みによって赦し、救ってくださった。また日々赦し救ってくださる。そこには確かに大きな喜びと感謝があることでしょう。溢れんばかりの賛美があることでしょう。私たちの顔を上げて、両手を高く上げて賛美する。それはとても素晴らしいことです。神さまも喜ばれ受け入れてくださるものです。しかし私たちの喜びと感謝が湧き出てくる源泉はなんでしょうか。また私たちが本当に神さまの御前にひれ伏して、心からへりくだって礼拝するのは、そしてこの神さまを信じてどこまでも従順に従って行こう、神さまの喜ばれる生き方をしようと思えるのは、やはり神さまの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るから。イエス・キリストの愛、キリストを通して示された神さまの真実の愛を知るからではないでしょうか。神さまはそれほどまでに私たちを愛される。大切に思ってくださっている。それだけではなくあわれんでくださっている。私たちを愛し、そしてあわれまれる神さま。私たちをご覧になって、断腸の思い、はらわたが千切れるほどに悲しまれ、かわいそうに思われ、何としても救おうとされる神さま。その愛と約束によって私たちは救われている。日々救われて行き、やがて完全に救われる。私たちが高ぶることなく、いつも神さまの、こんな私たちに対して抱いてくださっているあわれみのお心を覚えているならば、自然と神さまに喜ばれる生き方をしようと、私たちの心は真に変えられるのではないでしょうか。
前回のローマ書の学びのところでパウロは、私たち異邦人クリスチャンに向かって、イスラエルに対してあなたがたは「高ぶってはならない」と警告しました。かたくななイスラエルの姿を通して「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」(ロマ1122)と、そう警告しました。実際は神さまによって切り落とされることは決してありません。その大きな恵み、注がれる神さまの愛、いつくしみの上に高ぶるなということです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」(ガラ67)ということです。今朝のところでも、パウロはイスラエルの姿を通して、私たちに対して高ぶってはならないと続けて勧めています。
11章25a節 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
「兄弟たち、あなたがた」とは、信じないイスラエルに対して優越感を持つ異邦人クリスチャンを指します。またある程度、信仰生活を過ごした人に向かってもいるでしょう。彼らに対してパウロは、ぜひこの奥義を知っていただきたい。2017では「この奥義を知らずにいてほしくはありません」と言っています。なぜか。あなたがた、異邦人クリスチャンが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためにです。他の箇所では「思い上がることなく」と訳されています。何か自分の功績とか努力によって救われた、また救われるかのように考えて、ひとりよがりにならないためにということです。箴言にはこのようにあります。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」(箴1618)。詩篇にはこのようにあります。「見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に」(詩3318)。「まことに 主は高くあられますが 低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を 遠くから見抜かれます」(1386)。主はへりくだり、主を恐れ、主の恵みを心待ちに待ち望む者を顧みてくださり、天の高いところからひざをかがめるようにして私たちに御顔を向け、そして目を注いでくださるのです。これを私たちは「祝福」と言います。神さまは私たちを祝福したいと心から願ってくださっているのです。
私たちが自分の功績とか努力によって救われたかのように考えて、ひとりよがりにならないために覚えておくべき奥義とは。奥義というのはギリシャ語で「ミステーリオン」、ミステリー、今まで隠されていた事柄、神さまによって秘められていた事柄が、今はあらわされているもののことです。
11章25b節 その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
今、イスラエル人の一部が神さまに対して、イエス・キリストに対して、恵みの福音につまずき、かたくなになったのは、異邦人の完成のなる時までであるという期限付きなのです。これが奥義、ミステリーです。「異邦人の完成のなる時まで」、2017では「異邦人の満ちる時が来るまで」。残念ながら異邦人が全員救われるということではありません。神さまが「満ちた、成就した」とご判断される時まででしょう。その時が、あるいはその数がいつでどのくらいなのかは私たちには分かりません。それは神さまだけが知っておられることです。逆を言えば、私たちは知らなくても良いということでしょう。ただ、イエス様がこう仰っています。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません」(マコ1310)。「御国のこの福音は全世界(直訳:人の住む地、すべて)に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタ2414)。先に救われた私たち、神さまのあわれみを知り経験している私たちは、神さまによってこの務めにも召されているのです。
11章26a節 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
この「イスラエル」が誰を指しているのか。文字通り民族的なイスラエルを指しているのか。それとも霊的イスラエル、クリスチャンを指しているのか。議論が真っ二つに分かれるところです。そして「みな救われる」の「みな」という語もまた重要です。それは一人残らず、万人がもれなく救われるということではないからです。ただ忘れてはならないことは、神さまは私たちすべての人間を、私たち罪人を、万人をもれなくあわれんでくださっているということです。私たちを愛し、そしてあわれまれる神さま。私たちすべての人間のこの世の現実をご覧になって、断腸の思い、はらわたが千切れるほどに悲しまれ、かわいそうに思われ、何としても救おうとされる神さまの愛が注がれているということです。
11章26b節 こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
11章27節 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
パウロは神さまの奥義を強調するために、イエス・キリストの光、新約の光を当ててイザヤのことばを引用します。
「救う者がシオンから出て」とは、天上のエルサレムから再臨するキリストのことを示していることばです。それは新しい契約、イエス様が言われた「わたしの血による新しい契約」、十字架と復活による罪の贖い、救いが【完全に】実現する時でもあります。その時がどのように訪れるのかも議論の的です。イスラエルの救いは宣教を通して次第に起こるものなのか、それとも神さまのご介入によって一瞬で起こるものなのか。この両方の可能性も考えられます。
その「イスラエル」(民族的イスラエル、霊的イスラエル)の救いはどのようなものなのか。26・27節でパウロは旧約聖書の預言を引用しています。
【イザヤ書】
27章9節 それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。
これが新しい契約、イエス様の血による新しい契約による救いが完全に実現する時に起こることです。
古い契約である十戒(律法)は2枚の石に記されて、人の心にまでは届きませんでしたが、新しい契約は人の心の奥底まで変革してしまう力を持っているのです。どのような変革か。もう完全に偶像は打ち砕かれて、自我や高慢が打ち砕かれて、粉々にされて、もう二度と偶像が立てられなくなる、偶像に仕えることができなくなる。それで神さまとの完全な交わりが回復される、神さまだけが私たちの神さまとなるのです。これがイエス様の十字架と復活を信じ、心を刺し貫かれる者に起こる変革です。これがイエス様を通して注がれた神さまのあわれみ、イエス様の十字架の死と復活を通して神さまのあわれみを知った者に起こる本当の変革です。それは私たちの内で日々成し遂げられつつあり、そして再臨の時に完全に成就する救いです。
11章28節 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
彼ら、福音をかたくなに信じ受け入れようとしないイスラエル人は、まるで神さまに敵対しているかのような者たちだけれども、はじめに神さまが彼らを選ばれたのです。愛されたのです。そして契約を結ばれたのです。その契約は何があろうとも、真実な神さまは無効にしてしまわれたり、変更されたりしないのです。神さまによって選ばれ、イエス様の血による新しい契約によって赦され、救われた私たちもまた、知らずに神さまに反抗的な者かもしれません。毎日罪を繰り返してしまったり、完全に神さまの愛に十分に応えられる者ではありません。それでも神さまは私たちを愛してくださり、怒りを注がれるのではなく、あわれみを注いでくださっているのです。
11章29節 神の賜物と召命とは変わることがありません。
これはイスラエルを通して、私たちすべての人間に対して言われていることです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」。イエス様はそう仰いました。主が私たちを選んでくださり、私たちを任命してくださった。任命したというのは、位置づけたということです。何に位置づけてくださったのか。神の民の一員、神の子、御国の相続人という位置に位置づけてくださったのです。まことに神さまの賜物(プレゼント)です。私たちに与えられた神さまの恵みです。神さまの選び、神さまが与えてくださった恵み、それらは変わることがない。変わることがないとは、「神さまは後悔されない」ということです。イスラエル民族に、また霊的イスラエルに与えられた神の民としての祝福を、神さまは心変わりによって取り消すようなことは決してされないということです。「あのパウロ」を通して神さまはそう仰ってくださっているのです。
そのパウロはどこから神さまに選ばれたでしょう。神さまに熱心に仕えていると考えていたパウロ。そのパウロは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とイエス様に言われてしまった。主はそのパウロに声をかけられ、招かれたのです。召してくださったのです。それから伝道者になったパウロですが、そのパウロ自身がこう言っています。「私のうちに住みついている罪がある。私はほんとうにみじめな人間だ。私は罪人のかしらだ」と。神さまは後にパウロがこのように告白せざるを得ない者であることなど百も承知でした。そのようなパウロを神さまは選ばれ召されたのです。そしてその選びも召しも、絶対に神さまは後悔されないと仰るのです。パウロはローマ書7章のみじめさから8章へと進みました。私たちも是非ローマ書7章から読み直し、そして8章へと進んでいきたいと思います。今日は時間がありませんので、8章の最後の方だけ振り返ります。
【ローマ書】
8章31節 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8章32節 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8章33節 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8章34節 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8章35節 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですが、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8章36節 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8章37節 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8章38節 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8章39節 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
パウロはこの時点で、神さまのあわれみというものをひしひしと感じ、心は高く天に向かい、同時に神さまのあわれみの前にただひれ伏すしかなくなってしまったのではないでしょうか。主への賛美で8章が閉じられています。本来ならば8章39節から12章1節へと繋がるところです。その最初に神のあわれみを口にするのです。
12章1節 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
私たちは主の「あわれみ」を十分に覚えているでしょうか。パウロの、そして神さまの賜物と召命をいただいた者の新しい歩みというのは、主のあわれみを経験して、主のあわれみをひしひしと実感する者のうちに現れる心の変革、心の一新なのです。救われた者にふさわしい新しい歩みというのは、主のあわれみを真に経験して、知って初めて可能となるものなのでしょう。新しい生き方は、神さまのあわれみが土台となるのです。
私たちの救いのことを思い出してみてください。私たちはどこから救われ、またどこから日々救われているでしょうか。なぜ選ばれ、恵みをたくさんいただいて、なお神の民、神の子、御国の相続人という立場に召してくださった、召してくださっているのでしょうか。良い人だから、優しいから、罪がないからでしょうか。私たちには理由らしき理由が見当たらないのではないでしょうか。「ただ神のあわれみによって」としか思えないのではないでしょうか。
11章30節 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
11章31節 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなた方の受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
30節のあなたがたとは私たち異邦人クリスチャン、彼らとはかたくななイスラエルのことです。11章の議論の言い直しです。元々の神の選民であるイスラエルの不従順、イエス・キリストの福音に対するつまずきによって失敗したことで、今、神に不従順であった異邦人に神のあわれみが注がれ、福音が届けられた。今、イスラエルはかたくななまま。異邦人クリスチャンにねたみを燃やしている。ますます神に敵対している。けれどもそれは今や、この後、将来、イスラエルが神さまのあわれみを受けるための神さまのご計画。それら全体が神さまの奥義。視野の狭い、知恵のない私たちには到底知り得ない主の救いのミステリーです。
「この奥義を知らずにいてほしくはありません」。あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするために。思い上がることのないために。何か自分の功績とか努力によって救われたかのように、救われるかのように考えて、ひとりよがりにならないために、この奥義を、神さまの御心の神秘を、不思議さを、あなたがたは覚えているようにと。
11章32節 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
神さまはイスラエルも、異邦人もすべての人をあわれもうとされて、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた。「神はみこころのままに人をあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(ロマ918)。神さまのみこころ、私たちが救われることについての神さまの深いご計画。それは簡単に語ることができないものであるばかりでなく、考えれば考えるほど、その不思議さに心打たれるようなものではないでしょうか。
本当に救いというものは、私たちが理解できないようなことです。自分の救いのことを考えてみても、どうしてこのような私が救われたのか、救われるのか。人は知らないかもしれないけれど、私のように罪ある人間が、どうして神さまに救っていただくことができるのだろうかと。色々な立場の人たちが、あの人が、この人が、例えばイエス様の隣りに十字架にかけられた死刑囚さえもあわれまれ救われるということは、驚くべきことです。私がもし被害者だったとしたらなおのこと、到底理解できることではありません。けれども私がもし死刑囚だったとしたらどうでしょうか。ですから聖書は、結論としてこう言うのです。
11章33節 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
パウロは11章で神の奥義としての全世界の民の救いの計画について語ってきました。旧約聖書の事実に基づいて説明してきました。パウロは自分で説明しながら、自ら驚いているのです。33節からはパウロの説明ではなく、驚きと賛美の言葉です。神さまが人間を救ってくださるとは、思えば思うほど不思議。自分のような罪人の救いのことを思えばなおさらのこと、神さまの知恵と知識の深さに心打たれるばかりです。神さまの知恵と知識、さばき(決定)と道(方法)は測り知れません。私たちが神さまに助言したり、下手な説明などできません。ただ信仰をもって、これをたたえるほかはないのです。人間には、いろいろ感動することがありますが、真に心を動かすものは、愛です。真実の愛です。犠牲の伴う大きな愛です。値しないこんな私に注がれる主のあわれみです。
11章34節 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
11章35節 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
私たちが主からいただいた救いは、はじめに主に何かを差し上げたから、その報いとして救われたというようなものではありません。それは全くの恵みであり、恵みというのは、主の私たちに対するあわれみの結果なのです。与えられるのにふさわしくない者に与えられる赦し、救い。だから驚き、だから心打たれるのです。生き方が変えられるのです。
11章36節 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
パウロは頌栄の言葉、神さまをほめたたえる言葉で閉じます。そして新しいステージ、12章へと進もうとしています。
私たちは礼拝の最後の方で頌栄讃美歌を歌いますが、頌栄、ほめたたえの言葉とは何でしょうか。それはまず、神さまのみわざを認めることでしょう。神さまが自分にしてくださった救いのみわざを、はっきりと知ることです。どうしたら知ることが出来るのか。イエス・キリストの十字架と復活によって知ることができるのです。キリストが私の罪のために十字架にかかられ、死んで葬られ、よみがえらされたことによって、私が救われたことを信じ、そしてはっきりと知るのです。ほめたたえるというのはまた、信じて感謝することです。救いを受けているのに感謝しないのは、信仰ではありません。礼拝ではありません。神さまの愛、あわれみ、これに感謝すれば、自然と主をほめたたえることになります。私たちを真に主に従順な者とするのです。主が救われた者をさらに救いへと召すために示すふさわしい道、生き方に、私たちを進ませるのです。
救いについてこまごまと教えてきたローマ人への手紙は、主の救いのご計画、みわざの不思議さを語り、それによって主を賛美し、礼拝し、そこからさらに進んで行きます。
12章1節 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
すでに始まっている2022年の新しい歩み。主のあわれみを心に深く覚え、信じ、感謝して、賛美と、そしてふさわしい礼拝、へりくだりをもって進んでまいりたいと思います。