2026年2月8日 主日礼拝「特別な使命を受けたレビ人」

前  奏  黙祷
招  詞  出エジプト記15章11〜13節
賛  美  新聖歌248「人生の海の嵐に」
      新聖歌325「歌いつつ歩まん」
讃  美  讃美歌546「聖なるかな」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇130篇(新聖歌 交読文42)
讃  美  讃美歌66「せいなる御神は」
聖書朗読  民数記1章47〜54節
説  教  「特別な使命を受けたレビ人」
讃  美  讃美歌508「主よに日に日に」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 ヨペテロの手紙 第一 2章9節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記1章47〜54節

説教題

「特別な使命を受けたレビ人」

今週の聖句

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

ペテロの手紙 第一 2章9節

説教「特別な使命を受けたレビ人」

民数記1章47〜54節

はじめに

神はすべての人に賜物を与え、それにふさわしい務めを与えられるお方です。賜物というのはいつ与えられるのでしょうか。それは神の永遠のご計画により、私たちが生まれる前から一人ひとりに賜物を備えられ、一人ひとりをご自分のご栄光のために自由に選び、召されるのです。ですから私たちの努力や功績というのももちろん重要で、それは無視することはできませんが、それ以前にやはり賜物というのは「カリスマ」、文字通り恵み(カリス)の受け身形、神から与えられた恵み、知らず知らずのうちに受けている恩恵なのです。そしてコリント人への手紙の中で学びましたが、その与えられている賜物一つ一つに、神の重ね重ねの、いくえにも重ねられた理由や目的があるのです。

「賜物」と聞くと、何か優れた特別な才能のようなものが真っ先に頭に浮かびますが、賜物の中にはその人の「性分(生まれつきの性質)」とか「気質」、「気性」というのも含まれているのではないでしょうか。「性分」というと、「あの人は真面目な性分だ」とか、「何事も見過ごせない性分だ」とか、「弱っている猫を見ると、見過ごすことができない性分だ」とか言ったり言われたりします。「気質」にしても、「あの人は実直で頑固な気質だ」とか「あの人は職人気質だ」とか言ったり言われたりします。それは時としては褒め言葉でもあり、しかし時として周りとの争いを予感させるあまり良い意味で用いられないものでもあるのではないでしょうか。また「気性」というのは、例えば「あの人は気性が荒い」と良く言ったり、中には言われている方もいるかもしれませんが、良いものではないと感じるものもあります。実はこういった性分、気質、気性は、誰の中にもあったり隠されたりしているものではないかと思うのです。私の中にもあります。皆さんの中にもあるのではないでしょうか。時としてそれは「良心」とか「心に記された律法」と言うのかもしれません。しかしこの性分や気質、気性もまた神からの賜物と私たちが捉え、神に一切をお献げするならば、全能なる神はそれらを聖められ、ご自身の御用のため、ご栄光のために用いられることになります。

今朝与えられましたみことばは、民数記1章47〜54節です。前回、神は人口調査を命じられました。そこでは戦に出て行くことができる20歳以上の男の数を調べなさいと命じられたのですが、今日の箇所は、その人口調査から除外されたレビ人について記されています。今朝、私たちはここから、「神の特別な選びを受けた者」として、自分に与えられている霊的な「賜物」を用いて、忠実に神の国の働きをするようにということを教えられます。

人口調査で除外されたレビ人

レビ人は1章の軍事を目的とする20歳以上の男子の人口調査から除外されました。彼らは幕屋に使えるために聖別されたからです。聖別というのは、「神のものとして特別に世から取り分けられる」ということです。

このレビ人の人口調査は3章で別になされました。そこには2万2千人と記されています。しかも他の部族の人口調査の対象は20歳以上の男子だったのに対して、レビ人は生まれてから1ヵ月以上の男子でした。にもかかわらず、その数は部族平均の5万人の半分にも及びません。また、1ヵ月の赤ちゃんというのは、人間の目からしたら「賜物」をはっきりと決定的に見出せるものではないでしょう。しかし神はレビ人に対しては、1ヵ月の赤ちゃんから一人ひとりを数えられるのです。用いようとされるのです。レビ人には「特別な何か」を感じさせられるのではないでしょうか。

レビ人の任務

そのレビ人の任務というのは、戦争には出ず、あかしの幕屋の管理と設置が任されます。モーセ、そしてアロンとその息子たち祭司の指揮の下、彼らは幕屋とその中にあるすべての用具、それに付属する者を管理しました。幕屋の上にある雲の柱が移動するときには、イスラエルの民全体がそれに従って移動します。その際、幕屋とすべての用具を運搬するのもレビ人です。雲が止まったら、イスラエルの民全体もそこに止まり宿営しますが、それに先立ってレビ人たちはそこに幕屋を組み立てて設置します。神に直接仕えるのはモーセやアロン、祭司たちかもしれませんが、レビ人たちにはその行く先々で、神がそこにとどまろうとされるその先々で、まず神の臨在を整え、礼拝を整える聖なる役目があるのです。幕屋を何度も繰り返し解体しては組み立てたのですが、彼らはモーセが言われたとおりに、神が決められたとおりに真面目に、実直に、神に対する恐れをもってそれを守り行いました。「資格なしに(ふさわしくないままで、ふさわしくないやり方で)これに近づく者は殺されなければならない」と神が言われたからです。

そしてレビ人たちのもう一つの重要な任務は、幕屋の警備、つまり、他の人々が幕屋にむやみに出入りできないようにすることでした。何と神はレビ人に、幕屋に無断で入ろうとする者たちを殺すようにと命じられます。「資格なしに(ふさわしくないままで、ふさわしくないやり方で)これに近づく者は殺されなければならない」と神が言われたからです。

幕屋周辺に宿営したレビ族

そのレビ人たちは幕屋の周辺に宿営しました。イスラエルの12部族は幕屋の四方に宿営しましたが、祭司とレビ部族がそれよりも幕屋に近いところに宿営します。それは先ほども触れたとおり、幕屋の警備のためでした。イスラエルの民は律法にそって(神が定められた秩序、順序、仕方で)いけにえを献げる時以外に、いくら神の民であっても、理由もなくむやみに自由に幕屋に入ってはならなかったのです。そうするならば、幕屋は汚され、神の怒りが会衆の上に臨むことになります。そうならないように、神はレビ族を幕屋と12部族の宿営との間に宿営させました。つまりレビ人たちは幕屋とその他のイスラエル人との間に安全を守るための緩衝区域を作り、自らが緩衝材となったということです。ちょうど壊れやすい高価な美術品などの商品を送る際に、壊れたり汚れたりしないように商品を段ボール箱の真ん中において、その上下左右の隙間にプチプチのようなクッション材を入れるようなものでしょうか。中の商品が壊れたり汚れてしまったりしたら、それが高価で価値があればあるほど、送り主はぶち切れるでしょう。しかも、幕屋には神の箱があり、中には神のことばが記された石の板があり、何よりも神ご自身がそこにおられたのです。

神の聖さについて

ところで、私たちはここから「神の聖さについて」教えられると思います。

皆さんはこの「神の聖」について、どのようにお考えでしょうか。今日の民数記によると、神の聖というのは、何ものにも絶対に汚されてはならないものであり、汚れたままで近づくならば殺されてしまうほどの力があり、まことに危険なものです。

私の神学校の恩師のお父さんが、当時は未信者だったようですが、神社の神殿の中の大掃除に駆り出された時の話しをうかがったことがあります。神社の神殿は聖なるところであり、その中にある本体(鏡)やすべての備品も聖なるものであるという共通認識はあったようです。全員が全身を白装束で覆い、手袋をし、口にはマスクのようなものを付けて、神具に直接人間の汚れた手で触れないように、息がかからないように掃除をしていたそうです。ところが、埃を被った神具を見つけたある人が、ふいに口元を覆う白い布を持ち上げてフーッと息を吹きかけて埃を吹き飛ばしたのだそうです。それを見て、人間の神の聖さや威厳に対する思い、恐れというのは、その程度のものなのかと思わされたそうです。

しかしこれは、私たちにとっても他人事ではないでしょう。

神はイスラエルの民があれほどの偶像崇拝の罪を犯してもなお、それを赦され、民のただ中に住まわれました。何度罪を繰り返してもなお、民を見捨てることはなさいませんでした。それどころか、罪深い民をそれでも愛され、あわれみ、赦し、約束の地に至るまでともにいてくださり、助け導いてくださいました。しかし、神に罪を犯した出エジプトの第一世代のほとんどが、荒野で滅ぼされてしまったという神の厳しいさばきをも私たちは忘れてはならないのです。そして今日のところでは、神が臨在される幕屋にむやみに近づき、神の聖さを汚すならば、その人は殺されてしまう。そして神の怒りが全会衆の上に臨むのだとはっきりと宣言されています。

また、イエス様は私たちに「アバ、父よ」と祈ることを教えてくださいました。神は父なる神、愛とあわれみ、赦しに満ちておられるお方。それが私たちの共通認識かもしれません。しかし神が聖であられることは決して変わることはないのです。この神の聖を侮り、軽く見て、それが駄目なこと、罪だと分かっていながらもしてしまう。みことばを聞いていてもそれをそのまま守らない。触っては駄目と言われているのに、大丈夫だろうと触ってしまう。これは神を恐れていないということでしょう。私たちは警察に捕まるのが恐くて標識に書いてある制限速度を守ろうとしますが、どうして神の律法、イエス様のみことばをその通りに守ることができないのでしょうか。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラ67)。このみことばを私たちは覚えていなければならないでしょう。私たちは神に愛され、赦され、恵みが注がれ、祝福されている。私たちが「アバ、父よ」と祈ることができるのは、ただイエス・キリストを通してであること、恵みであることを忘れてはならないのです。私たちは成長し、神の愛とあわれみに対する甘えや自己中心的なわがままを脱ぎ捨てて、大人になり、神の聖さに対する敬虔な恐れをもって神に仕えて行くことが、私たちには求められているのです。神は聖であり、義であり、恐れられるべきお方。だからこそ、赦しというのがどれほど大きな大きな恵みであることであるかを知るのではないでしょうか。神にこれほどまでに愛され大切にされているということが、どれほど大きな大きな恵みであるのかを知るのではないでしょうか。そしてこの恵みを知ってこそなお神を恐れて、しかし神を愛して、隣人を愛して、喜んで正しく両方にお仕えすることができるのではないでしょうか。私たちは緩衝材となり、神と隣人との間に立ち、神の怒りから隣人を守りつつ、愛とあわれみの神を証するのと同時に、神の聖さ、神の義、神はまことに恐れられるべきお方であることをも証し、そしてイエス・キリストにある本当の神の愛、大きな赦し、素晴らしい恵みを宣べ伝えるのです。イエス様が再び世に来られる時まで、主の死、犠牲の死を告げ知らせて行くのです。神の義と愛を宣べ伝えて行くのです。

気性、気質、性分を賜物として用いられる神

話しが逸れてしまいましたが、神はレビ人の「気質」「気性」「性分」をこのように用いられたのかと思わされます。

「レビ」というのは父祖ヤコブの3番目の子どもでした。創世記34章によると、レビは2番目の息子であるシメオンとともに、妹ディナを強姦した者たちに復讐しようと、彼らを虐殺しました。彼らには残虐性という気質、気性の荒さ、何事も見過ごすことができない性分がありました。そして残虐性、気性の荒さ故にヤコブから「レビとシメオンは散らされる」とのろいの遺言が与えられました(創495-7)。シメオン部族は勢力が次第に衰えて行き、約束の地であるカナンを分配される時には、ユダ部族の相続地の中に割り当てられました(ヨシ91-9)。その後、彼らは北部に移り、さらに吸収され、預言のとおりに散らされます。しかし、レビに対するのろいの遺言は、逆説的に成就します。レビ族は後に約束の地において、12部族の間に散らされて暮らしました。彼らは散らされたそれぞれの地において、聖なる神と民との間の緩衝材となり、神の律法を教え、祭壇でささげ物をささげる務め(礼拝の務め)も行いました(申3310)。それはレビの中に残虐性という気質、気性の荒さ、何事も見過ごすことができない性分があったのと同時に、正義に対する強い信念、何事も見過ごせない性分、弱っている者を見ると見過ごすことができない性分、実直で頑固な気質もあったからなのではないでしょうか。それが分かるのが、前回も触れたあの「金の子牛事件」の時でした。

イスラエルの全会衆は、40日間シナイ山で神から律法を与えられるためにとどまっていたモーセが、なかなか降りて来なかったために、神を疑って金の子牛の偶像を造り、盛大な祭りを行いました。下山したモーセはそれを見て激しく怒り、祭りをすぐにやめさせました。それを見て、金の子牛の作製を主導的に行ったアロンと民はすぐに悔い改めたのですが、民に対する聖なる神のさばきを免れることはできませんでした。神は命令を下し、3千人が殺されました。それを率先して行ったのがレビ族でした。「そこで、モーセは彼らに言った。『イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。』レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。『あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、主に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように』」(出3226-29)。

先ほども申し上げたとおり、このような性分や気質、気性もまた神からの賜物と私たちが捉え、神に一切をお献げするならば。肉の思いを全焼のささげ物のように焼き尽くし、御霊の思いによって神に用いていただこうと願うならば、全能なる神はそれらを聖められ、ご自身の御用のため、ご栄光のために用いられ、私たちの隣人は死や危険から守られ、そして私たちも神の祝福に与ることになるのです。

私たちは「霊的レビ人」

見て来たとおり、旧約時代のレビ人は、幕屋の奉仕のためにイスラエルの民の代表として特別に区別されました。また彼らは幕屋に仕えると同時に、民に神の律法を教え、祭壇でささげ物を献げ、宥めを行う務めも担うようになりました。彼らは割り当ての地を所有しませんでした。神ご自身が彼らの割り当てとなられ、奉仕の報いとしてイスラエルのうちの十分の一を受け取りました。このようなことから、今日のレビ人は牧師などの牧会者だと考えられることが多いと思います。しかし、レビ人は牧会者だけに限らず、すべての聖徒たちのひな型、前兆です。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ29)とのみことばにあるとおりです。

私たちは神を愛し、聖なる神を恐れるが故にレビ人のような性分、気質、気性を持つ者たちではないでしょうか。そして神の恵みによって選ばれて聖なる祭司となった者たちです。ですから私たちは、今日学んだレビ人の務めを受け継ぎ、その使命を果たさなければなりません。

振り返りますが、神は民族の生死をかけた戦いを前にしても、レビ人はイスラエルの民とともに登録されず、軍隊の編成から除外されました。それはレビ人が特別な使命を受けたからです。神はレビ人の性分、気質、気性をすべてご存じの上で彼らを選ばれ、祝福し、聖めて(ご自分のものとして特別に取り分けられて)用いられました。レビ人の性分、気質、気性は何だったでしょう。残虐性という気質、気性の荒さ、何事も見過ごすことができない性分、正義に対する強い信念、何事も見過ごせない性分、弱っている者を見ると見過ごすことができない性分、実直で頑固な気質。だったら神はなおのこと、彼らを荒野での戦いの最前線に立たせるべきだったのではないか。しかし神はそうなさいませんでした。彼らは神の所有とされ、幕屋の管理と運搬、またいけにえを主に献げ、神の怒りを宥め、感謝や祈りを伝える奉仕を担ったのです。また、神の聖さ、幕屋の聖さを守るための奉仕も与えられました。神は慈しみ深く、怒るのに遅い方ではありますが、聖さを犯す者は絶対に許されないのです。私たちは異端や間違った教え、また間違った教えを伝える者から幕屋(教会)を守らなければなりません。同時に、ふさわしくないままで幕屋に近づき、その人が神に殺されてしまうことから守ること、敵さえも愛することも求められています。

また、イスラエルの民が天幕を張るとき、レビ人は天幕の周りに宿営し、幕屋に関わる任務にあたりましたが、これはイスラエルの陣営が戦い中心ではなく、礼拝中心であったということをあらわしています。そして神はレビ人に、幕屋で奉仕し、幕屋のすべての器具を管理する任務を与えられ、幕屋の周りに宿営させられました。レビ人はいつも幕屋を中心に生きなければなりませんでした。このことを通して、神に聖められ、特別に召されたクリスチャンの人生において、重要な一つの原理のようなものを発見するのではないでしょうか。それは、私たちの人生は「教会」中心になされなければならないということです。今日、私たちは環境が守られ、未信者の家族が救われ、また生活や経済が安定すればもっと熱心に信仰生活を送れるのではないかと考えるかもしれません。しかし、荒野でレビ人が幕屋の奉仕に専念したように、霊的なレビ人である私たちも荒野のような様々な苦難、生き難さの中で外務環境に対応するより、様々な戦いの最前線に立つよりも、教会中心、礼拝中心の人生を歩むことを優先するのが良いのです。

1章52節      イスラエルの子らは、軍団ごとに、それぞれ自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、
1章53節      レビ人は、あかしの幕屋の周りに宿営しなければならない。わたしの怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋に関わる任務に当たる。」
1章54節      イスラエルの子らは、このようにし、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。

私たちは霊的なイスラエルの子ら。そしてレビ人。神は私たちを、レビ人に与えられた使命のために世から召されました。霊的に腐敗し、神に逆らっている荒野のようなこの世にあって、私たちは、また教会は、神の聖なる者としての世の光となり、福音の旗を高く掲げて、約束の地、御国を目指して、レビ人として生きて行こうではありませんか。世の終わり、約束の地を目指す旅、戦いが満ちている世の旅路にあって、私たちに与えられている使命の重要性を悟り、誇りとやりがいを持って、神への敬虔な恐れをもって、隣人を愛して、レビ人としての役目を担って行きましょう。教会と礼拝を私たちの人生の中心に置き、神に感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる生き方をもって、神と隣人に仕えてまいりましょう。私たちの決して褒められるものではないかもしれない性分、気質、気性をも、すべて神にお献げするならば、神はそれを聖めて用いてくださり、ご自身の栄光をあらわしてくださり、私たちを完全な勝利、祝福へと導いてくださいます。私たちの約束の地を目指す旅は始まっています。それは神が中心におられ、イエス・キリストが先頭に立ち、勝利の旗、みことばの旗をもって導かれる旅です。高く掲げられた勝利を見上げ、みことばに従い、そして教会と礼拝を中心とした人生の中で日に日に主のまことの御姿を見いださせていただき、約束の地に至る道中、永遠の勝利、神の栄光、神の愛に満ちた歩み寄り、赦し、恵みを日に日に見させて頂き、そこから日に日に慰められ、力を与えられ、感謝と喜びをもって、楽しく、しかし敬虔な恐れをもって、御国を目指す共同体として、霊的レビ人としてともに歩んでまいりましょう。

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