2022年4月24日 主日礼拝「キリストの模範」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 4番「よろずのくにたみ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 122番「みどりもふかき」
聖 書 ローマ人への手紙15章1〜6節
説 教 「キリストの模範」佐藤伝道師
讃美歌 355番「主をあおぎみれば」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙15章1〜6節
説教題
「キリストの模範」
今週の聖句
キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙15章3節
今週の祈り
私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。
(詩篇103:14)
父よ、自分の限界を様々な形で感じますが、信仰を強く持ち、神を信頼していけるように、どうか助けてください。
説教「キリストの模範」
ローマ人への手紙15章1〜6節
まえがき)ローマ書振り返り
- 執筆事情:世界の中心ローマに誕生した教会を、福音宣教の重要な拠点として霊的に整えるため
- 【整える】網を繕う、準備する、訓練するの意味もあり
1)他人の弱さをになうべき
- 強さ:信仰理解、倫理的、社会的に。広い意味での強さ。弱さも同様
- 【になう・βαστάζω】力を貸す程度ではなく、代わりに負ってあげること。「十字架を負う」に用いられる
2)何事も他人の利益(最終的には救われること)を第一とする
- それはキリストの生き方そのもの、キリストが模範
3)パウロの祈り
- キリストを模範として、教会が真に一致する
- 心と声を一つにし、神をほめたたえる
まとめ)
キリストを模範として。それはたやすいものではない。聖書のみことばからイエス様を見上げ、力をいただき、整えられ、そして神に仕え、神をほめたたえる生活、礼拝の生活を通して隣人の間で神の栄光を現していこう。教会、また各々の心と声(心が表現されるもの、実際の行い)が真に一致するところに、神さまは大きなみわざをなされ、祝福を与えてくださる。私たちの霊的な礼拝(形式だけの礼拝ではない)を通して、家族、隣人、世界中の人々に福音が伝わり、救われる。すべての口が神をほめたたえる。
ここ何週か、私たちはローマ人への手紙の講解を一旦離れ、主の十字架とよみがえりを覚えてまいりました。本朝からまたローマ人への手紙に戻り、見てまいりたいと思います。それもあと2章を残すのみとなっています。最初が2020年8月でしたので、1年半以上かけてじっくり見てきたわけです。随分と長かったですね。途中何度も難しさを覚えました。私自身も何度となく逃げ出したくなりました。しかし恵み、与えられたものも多かったと思います。
何度か申し上げておりますが、ローマ人への手紙が書かれた目的は、当時、世界の中心と言われていたほどに重要で大きな都市、ローマに誕生した教会が、地の果てまで福音を宣べ伝えるべく、その一つの重要な拠点としてローマの教会を霊的に整えたいという執筆事情がありました。「整える」という語の意味は、他に「網を繕う」とか「準備する」「訓練する」という意味もあります。イエス様が弟子たちを招かれた「あなたがたを、人間を獲る漁師にする」。そのためにはまず、網を繕う、破れ口を修繕する、準備する、訓練する必要があり、そこでパウロは1章から、いかに人間の罪が悲惨なものであるのかをこれでもかと説き、その悲惨さの中からあなたがたが救われたことがいかに凄いことなのか、いかに恵みであるのかを説きます。そしてどのようにして救われたのか。それは良い行いでは決して救われることなどできない罪深い、罪がどうしても染み込んで離れない人間をあわれみ、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救ってくださることを約束してくださった、その神さまの約束によってです。しかもその約束は、旧約聖書の最初、アダムの時からの約束でした。
さらに頑ななイスラエルの姿を通して、いかに神さまの愛、義、そして憐れみが私たちに注がれているのか、いかに神さまは、何があろうとも、人間の状態がどうであろうとも、愛によって、義によって、憐れみによってご自身の救いの約束を変更したり破棄したりすることのないお方、真実なお方かというところも示しました。何としても救いたい、何としても良いものを与えたい。そんな子を思う親の愛、私たちに対する神さまの親心というものを、私たちはそこに見るのです。
信仰義認。信じる者は救われる。世の人々はあざけるかもしれません。しかし私たちが救われたのは信仰により、恵みによりで間違いないのです。そうでしょう。私たちは神さまのために何も良いことなどしてこなかったのですから。かえって私たちは神さまを無視して生きてきたし、またいつも反抗的でした。それは今も変わらずかもしれません。それなのに、神さまの愛、憐れみによって、信仰によって、恵みによって救われたのです。救われているのです。
「信じる者は救われる」。信仰義認。この信仰義認は両刃の剣とも言われています。神の愛と憐れみの上に、恵みの上にあぐらをかいて自由気ままに生きるのか、それとも感謝してその愛に応えたいと、自分を神に献げて生きるのか。罪の悲惨さ、そこからの救い、恵み、神の憐れみをこれでもかと説いてきたパウロは、12章1節から「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ロマ121)として、救われた者の生き方について勧めています。今朝のローマ人への手紙15章の直前では何が語られていたでしょうか。「信仰の弱い人を受け入れなさい」でした。その続きとして今朝の15章1節からでは、「キリストの模範」、主イエス様を模範とした生き方が述べられていきます。
15章1節 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
皆さんはご自分を力のある者、強い者と思われるでしょうか。力のない者、弱い者だと考えておられるでしょうか。パウロはここで、「私たち力のある者は」と言います。自分を含めて読者を強い人認定しています。パウロ自身、決して自分を強い人だとは考えていなかったことでしょう。もしそうだったら、私はパウロという人を疑ってしまいます。パウロ自身、「人に勧めておいて、自分自身が失格者にならないように、自分に鞭打っている」と言っています(Ⅰコリ927)。また「自分の弱さを誇りましょう」と言っています。「私が弱い時こそ、わたしは強いのだ」と言っています。(Ⅱコリ129-10)。負け惜しみではありません。私が弱いところにキリストの力が完全にあらわれるからだと言うのです。ですから私たちは全員、力のない者でありながら、キリストにあって力ある者認定されるのです。その力によって、力のない人たちの弱さを担うべきなのです。あることには強いけれども、あることには弱さを覚える。皆そうです。ですからお互いにからだの各器官のようにして得意、不得意を担い合うのです。これはローマ書12章ですでに言われていたことです。またⅠコリント12章ではこのように言われています。「からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」(Ⅰコリ1217−18)。私たちはそれぞれ、あることには弱い者でありながら、あることには強い者とされているのです。
ここで言われている「強さ」というのは、信仰の理解において優れている者たちというだけの意味ではなく、倫理的、社会的にも力のある者のことを言っています。「弱さ」についても同様です。私たちはお金持ちではないかもしれませんが、私たちよりももっと切実に必要を覚えている人にとってはお金持ちです。私たちには他の力のない人たちの弱さを担う、何かしらの力があるのです。それを自分のために用いるのではなく、神さまのために用いていくのです。なぜなら、神さまが御心にしたがって、それぞれに備えてくださっているものなのだと言われているのですから。賜物です。でも、神さまのために用いるなんてどうすれば良いの? どうすれば神さまのために用いていると分かるの? それは色々な弱さや足りなさを覚えている人のために喜んで用いていくことによって実現するのです。
そして「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです」とあり、この【になう・βαστάζω】の語がとても重みのある語で、これは「自分が背負って運ぶ」という意味の語です。力を貸す程度にとどまらずに、自らが背負って持ってあげるというものです。そして「十字架を負う」とか「重荷を負う」という意味でよく使われている語です。担うというところにこの語が用いられている、深い意味があるように思われないでしょうか。弱さ足りなさを覚えている人に、ちょっと力を貸そうかというのではなく、代わりに負ってあげるべきだとパウロは言う。それほどに自分のことのように悩み、祈り、実際に出来ることがあるならばしてあげなさいと。しかも、自分を喜ばせるべきではない。自分が何か得をするとか、優越感に浸るとか、そうであってはならないと言うのです。出来ますか? なかなか出来ることではないでしょう。
15章2節 わたしたちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
相手のために、自分の利益ではなく相手の利益を第一に求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めるのです。パウロは言いました。「私は、弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです」(Ⅰコリ922)。また、悪いことばを、いっさい口から出さずに、むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えるのだと。すべてのことを、相手の成長に役立てるために、相手を建て上げるために、その人が何とか必ず救われるために。これが神の恵みを経験し味わったパウロの生き方でした。それはまさにキリストを模範とした、キリストに倣う生き方でした。私たちはどうでしょうか。例えば伝道について。私たちの伝道は本当に隣人を愛し、隣人の救いのためとなっているか。教会に人が大勢集まれば良いなとか、若い人が加わってくれれば何か教会の役に立つのではないかとか、家族がイエス様を信じて救われれば私の勝ちだとか、そうではないのです。あるいは自分の立場が悪くなるから今はやめておこうとか、そうでもないのです。
キリストを模範としたパウロの生き方。そのキリスト、イエス様は・・・
15章3節 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。
イエス様の生き方は、パウロがここで旧約聖書の詩篇から引用したみことば、その通りでした。どのような生き方だったのでしょうか。それは、他の人のことをまず最初に考え、彼らの利益を考慮し、可能な限り彼らを助ける生き方でした。ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、イエス様は神さまに忠実であるがゆえに、非難され、侮辱されました。病人を癒やし救われた時、律法学者たちに悪く言われ、非難されました。罪人を救うために、取税人と食事をしようものなら、「大食いで大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」とけなされ、悪口を言われました。けれども、一度だって自分を喜ばせようとされませんでした。一度だって、もっと楽な道、楽しい道を選ばれませんでした。人々にそしられ、ののしられる、そのような道だって、十字架の道だって、避けようと思えば避けられたはずなのに、避けることはされなかった。それは何としても弱い人、貧しい人を一人でも多く救うため。罪や負い目の赦しを宣言するために。それが父なる神さまの御心だったからです。「あなたの罪は赦されたよ。赦されているよ。あなたは生きていて良いのだよ、生きて良いのだよ」。それはこの世に家畜小屋にお生まれになってから、この地上での生涯を終えられた十字架に至るまで、一貫したものでした。何としても一人でも多くの人を救うため。イエス様は食事する時間も忘れられたかのように、虐げられている人々を訪ねられました。心砕かれました。すべてのものを、ご自分のいのちさえも与えられました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ25-8)。イエス様の地上での生涯において、十字架の上に至るまで、イエス様の口は何を語られたでしょうか。弱い人、貧しい人、力のない人に対しては、悪い言葉は一切言われませんでした。人を救う言葉を最後まで語られました。一緒に十字架に架けられた犯罪人に対しても。母マリヤにも。そしてよみがえられたイエス様は、ご自分を裏切り逃げ去ってしまい、罪、負い目の重荷に押しつぶされそうな弟子たちと再会してくださって、こんな私の大きな罪は赦されるのだろうかと疑う弟子たちに、救いのみことば、赦しのみことばを語られたのです。「あなたの罪はもう赦したよ。赦されているよ」。「あなたは生きていて良いのだよ、生きて良いのだよ。さぁ、ここから立ち上がって行きなさい」。私たちも確かに聞いた御声でしょう。私たちを本当に生かし、私たちを本当に建て上げるみことばを聞いたのです。渡辺和子というシスターがこんなことを言っていました。「私たちを本当に生かす力、それは『自分が生きていて良いのだ』という確信、自分が生きることに対しての肯定ではないか」。本当にそうだと思います。
そしてまた、イエス様がかつて教えておられた、このような御声を思い出すのではないでしょうか。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(マタ2026)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1512)。皆さんは他に、イエス様のどのようなみことばを思い出されるでしょうか。けれども皆さん、それは何と耐えがたい、苦しいものでしょうか。弱くて未熟な人々を助けることは、自分を消耗することだからです。自分の利益を追求し、自分の自由や権利を強く主張しなければ生きて行けないこの世で、この世の人々に囲まれて私たちは生きています。その中で、それでも人々が救われるために、自分の利益を追い求めず、自分を後回しにして、他人の利益を求め、親切にする、憎たらしい人に対してもいつでもやさしい言葉をかける。言葉だけではなく、実際に時間を使い、体力を使う。お金を使うこともあるでしょう。それはまさに自分の“いのち・魂”を削るようなものではないですか。そこに確かにもの凄い痛みや困難を覚えるのです。イエス様でさえ血の汗を流されたほどなのですから。私たち人間の力では到底出来そうにありません。
15章4節 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
私たちは「昔書かれたもの」、つまり聖書、パウロがここで言うのは旧約聖書のこと、今の私たちにとっては新約聖書をも含めた聖書全体のこと。この昔かかれたものによって教えられ、そして忍耐と励まし、希望をいただかなければ無理です。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ316-17)。聖書は神によって、今の私たちひとりひとりに対して教え、戒め、正し、訓練するために、整えるために、私たちがそれぞれに実は弱さを覚えている所、足りない所、ほころび、破れ口を示し、それを繕う、修繕して、人間を獲る漁師として備えさせるものと言って良いでしょう。この私を。この私に語りかける。それがパウロの聖書に対する考え、聖書観です。それはそのまま、私たちの聖書観でもあるはずです。
ではその聖書には何が記されているのか。何が私たちを教え、戒め、訓練し、整えるのか。
昔書かれたもの、旧約聖書から新約聖書、初めから終わりに至るまで、ずっと神さまの愛、神さまの真実が記されています。最初の人アダム(人間)が罪を犯し、この世に罪と死が入り込んでしまった。神さまはその時から、「必ずあなたがたを、人間を救うから。罪、苦しみ、死から救う、解放するから、待っていて」。その約束はついに、イエス・キリストの降誕によってこの世で現実となり、十字架と復活によって成就したのです。それまで、地上では様々な人間ドラマが繰り広げられ、それは私たちが聖書から知っている通り、実に悲惨なものでしたが、神さまは決して人間に対する愛、憐れみ、また約束を変更されたり、破棄したりすることなく、真実に人間を愛し続け、憐れみ続け、約束をはたしてくださったのです。またイエス・キリストが天に上られ、ふたたびこの地上に来られる時まで、やはり地上では様々な人間ドラマが繰り広げられていて、憎しみ合ったり、争い合ったり、いのちを奪い合い、自己中心、偶像礼拝に満ちていて。自然さえも自分の利益のために破壊し、疫病が蔓延し。まったく神さまに背く人間ではあっても、それでも神さまは真実であられ、イエス様のご再臨による救いの完成を約束してくださっている。変更されることはない。その神さまの真実な愛、あわれみは、とても大きいけれども、こんな小さな私にも注がれている。そのことを聖書から教えられるなら、私たちはきっと色々と戒められ、訓練され、整えられるのではないでしょうか。慰められ、励まされ、希望を持てるのではないでしょうか。それによってようやく私たちは、キリストを模範とする生き方ができるのではないでしょうか。一人でも多くの人を救いへと導くことができるのではないでしょうか。神さまの栄光をあらわすことができるのではないでしょうか。
15章5節から、パウロの願いは、神への祈りとなります。神に依り頼み、私たちのためにとりなしの祈りを献げるのです。
15章5節 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
神よ、あなたはあわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神。神よ、あなたはどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださる方。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができるのです(Ⅱコリ13-4)。神よ、あなたのみことばによって、私たちを慰め励まし、整え、イエス様に倣う者としてください。イエス様にふさわしい者、イエス様に似つかわしい者、イエス様と同じ思いを与えてください。この思いを、祈り求めを、互いに同じ思いとして持つことができますように。その思いによって一致させてくださいますように。
15章6節 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
パウロの願い。「もし、当時の世界の中心であったローマ帝国、さらにその中心で神を証しする教会が整えられ、そして一致した証しがなされるなら、福音は間違いなく世界の果てまで届くだろう」。ローマの教会はきっと、パウロの祈りの通りに、みことばを通して自らを省みて、互いに弱さを担い合う者とされ、整えられて行ったのでしょう。
こんな自分が救われた。私の悲惨な罪をイエス様がすべて代わりに背負ってくださった。ののしられ、苦しめられ、十字架にかけられ死なれた。最後までご自分を喜ばせる道を選ばれなかった。それは私を愛し、ご自分をさしおいて私を第一とし、私を赦すため、私を生かすために。あなたは生きて良いのだと言われるために。それを思う時、もの凄い感謝な思いが底から湧いてきて、つい手を組んで「イエス様、神さまありがとうございます」と祈るのではないでしょうか。同じように罪を赦された人に対しては「良かったね、感謝だね」と言うのではないでしょうか。まだ救われていない人に対しては「どうか救われて欲しい」心からそう祈るのではないでしょうか。そのように心の思いが声に、そして行いになって現れる。そこに何の矛盾もない。
そしてローマの教会は実際に、神の愛に満たされて、聖霊に満たされて、キリストにあって一致して、教会は本当に調和のとれたものとなったのではないでしょうか。教会の一致した思い、キリストを模範とした生き方をしよう。それが思いや目標だけではなく、実際に声も一致した。心も行いも一致した。思いと行いに不協和音は聞こえなかった。矛盾はなかった。そのように整えられたローマの教会、またそこに集う一人ひとりの姿を通して、どれほど力ある証しがなされたことでしょう。そこに神さまはどれほど素晴らしいみわざをなされたことでしょう。どれほど大きな祝福を与えてくださったことでしょう。ローマの教会は世界の中心で用いられ、イエス・キリストの福音、罪の赦しの福音は全世界に宣べ伝えられて行ったのです。そして今、私たちのところにも届いているのです。
ですから私たちも、キリストを模範として生きて行くことを、ここで改めて覚えたいと思います。神と隣人とを第一に愛する生き方。難しさを覚える時、くじけそうな時には、神さまが私たちを真実に愛してくださっていることを証ししているみことばから力をいただきましょう。そして罪の赦しの御声を聞きましょう。「あなたの罪はこうして赦されているよ、あなたは生きて良いのだよ」と。そうして私たちは整えられ、力が与えられ、心も声も一つとなり、真に調和したものとされてまいりたいと思います。私たちを中心としたこの世界の真ん中で、私たちは心も声も一致した礼拝、霊とまことをもっての礼拝を献げ、また日々の礼拝を献げ、そこになされる神さまの大きなみわざ、祝福に期待していく者、神さまの栄光を現していく者とされたいと思います。私たちの霊的な礼拝、形式ではなく真の礼拝を通して、神さまの祝福が隣人に、そして全世界に広がって行きます。