2025年5月11日 主日礼拝「召されたときのままで主に仕える」

賛  美  新聖歌1「いざ皆きたりて」
      新聖歌206「飼い主わが主よ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇40篇1〜3節
讃  美  讃美歌79「ほめたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  271b「いさおなき我を」
聖書朗読  コリント人への手紙第一7章17〜24節
説  教  「召されたときのままで主に仕える」
讃  美  讃美歌388「みむねのまにまに」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一7章17節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一7章17〜24節

説教題

「召されたときのままで主に仕える」

今週の聖句

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

コリント人への手紙第一7章17節

説教「召されたときのままで主に仕える」

コリント人への手紙第一7章27〜24節

  • 神は「それぞれ」に賜物を分け与えておられます。私に分け与えられている賜物はなんだと思いますか。
  • 「召されたときのままで主に仕える」ことで、最も大切にすべきことは何でしょう。

17、ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
18、召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
19、割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
20、それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
21、あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
22、主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23、あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
24、兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

はじめに—

皆さんは、クリスチャンになって間もない頃に、自分はクリスチャンになったのだから、仕事とか環境を変えなければならないのではないか。あるいは、神は変えてくださるはずだ、変えられるべきだと悩んだことはあるでしょうか。もちろん、その仕事や環境が公序良俗に反していたり、倫理に反していたりするようなものであったならば、変えなければ、変えたいと思うことは、恵みによって救われた者であるならば当然湧き起こってくる思いだと思いますし、神はその必要があるならばその道を不思議な方法で、また思いもよらない道を開いてくださるお方だと思います。あのミッションバラバの方たちなどそうでしょう。私もクリスチャンになる少し前にミッションバラバの伝道集会に連れて行っていただいたことがありますが、彼らは元ヤクザの人たちで、イエス・キリストを信じて救われ、クリスチャンになったばかりか、牧師に転身され、そして全国をまわって伝道活動をされ、彼らにしかできない力強い証をされていました。映画にもなりましたね。彼らの証は神に用いられ、どのような人たちに届いたのでしょうか。もちろん私にも十分届きましたが、もっとビンビンと響く方々もおられたのではないかと思います。彼らにしか届けられない福音、人たちがいて、神はそこに彼らをその働きに召されたのでしょう。彼らを世から選び呼び出して任じられたのでしょう。

彼らの特別な例ではなく、普通にと言ったら語弊があるかもしれませんが、彼らに比べたらまぁ、いわゆる普通の環境で普通に仕事をし、普通に生活をしていて、自分はクリスチャンになったのだから、神の栄光をあらわすためにお金持ちにならなくては、なるはずだとか、神の栄光をあらわすために何としても自分は強くならなくてはいけないとか、病気をしている場合ではないとか、仕事で礼拝を守れないからその仕事を変えなければならないのではないかと深く悩んだり、前回の結婚や離婚の問題のように、未信者の配偶者とこのまま結婚生活を続けて良いものかとか。もしかしたらそのような悩みや疑問は、クリスチャンになりたての信仰に燃えに燃えているような頃には抱きやすいものなのかもしれません。そればかりか、成熟した信仰者であっても時には抱く思いなのかもしれません。それはある意味、神の御前に常に正しくありたい、神の恵みにふさわしく応答したいと思う正しい反応でしょう。しかしそれが神への感謝、救いの喜びの中での思いであるなら良いのでしょうが、苦になってしまい、神への感謝、救いの喜びを失ってしまうような思いとなってはいけません。

コリントの教会は多様な身分の人たちで構成されていました。それぞれ社会的背景や社会的地位が異なっていました。ユダヤ人も異邦人もいて、その中には少数のエリート、少数のエリートになりたいと図る中間層、そしてほとんどを占めていた貧しくて低い身分の人たちがいて、さらにその下には奴隷という、イエス様と出会って、それまで持てなかった希望を抱くことができるようになったけれども、どこかあきらめてしまっていたような人たちがいました。そのようなコリントの教会の人たちは、それぞれの立場で、敬虔さを求める宗教的なこと(礼拝、断食、献身、割礼など)や社会的身分において、何かしなければと思い込んでむやみに立ち騒いでいたようです。そのようなコリントの教会に対して、パウロは宗教的な問題(割礼)、そして社会的な身分の問題(奴隷)、これら2つのこと代表として取り上げ、神の召しをテーマにして教えます。その前提として、まずこう述べます。

2つの問題に対する教えの前提として

7章17節      ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて歩むべきである。また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきである。

ここに何気なく、しかし2回重ねて記されている「それぞれ」という語が重要です。これは文字通り「それぞれ、めいめい」という意味の他に、「皆、一人残らず、誰もがみな」という意味をも持つ語です。また「主からいただいた」というのは、原語を直訳すると「主がそれぞれに分け与えた」というふうになります。主がそれぞれに分け与えたもの、それは「賜物」です。賜物の中身は何でしょうか。才能とか良い性格とかでしょうか。そればかりではありません。神が分け与えておられるすべてのものです。国籍、環境、仕事、身分…、良いと思えるものも、悪いと思ってしまうものも、私たちは私たちに与えられているすべてのものは信仰によってすべて「賜物」です。

神は私たちそれぞれ、めいめいに、一人残らず、何かしらの、いくらかの賜物をくださっているのです。また、神は私たちそれぞれ、めいめいを、一人残らず、何かしらへと召しておられます。呼び出して任命しておられます。神が私たちを選び、神が私たちに与え、神が私たちを任命しておられる。そして主は常にこのように励まされておられるのではないでしょうか。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、私があなた方を選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです」(ヨハ1516)と。全知全能なる主が私たちに賜物を与え、世から選び呼び出され、主が選ばれたところに任命されたということは、もしかしたらそれらは、愚かで浅はかで悟りのない私たちが望むものとは異なるのかもしれません。

しかし、「賜物と召命は一致する」ということを聞いたことがあるでしょうか。「賜物と召命は一致する」のです。才能とか仕事とか、その人の性格も、環境も、それらが神からの賜物であるならば、主はその賜物をもってそこへと召しておられるのです。私が感心してしまった歌の歌詞があります。「本当に辛いと思うなら、その仕事は向いてないのさ。辛くても苦にならないのが、本当の仕事」。「賜物と召命は一致する」に通じるものがあると思いませんか? 前回の結婚離婚の問題にも通じると思うのですが、もし今の状況が本当に辛い、苦になる、何をやっても苦労ばかりで少しも道が開けてこないのであるなら、何が何でもそこにしがみつく必要はないのかもしれません。主の召しはそこにないのかもしれません。迷う時は歩むべき道を祈り求めるのです。決め手は平和があるか。平安があるか。平和があるなら、苦にならないなら、これこそ主が私に分け与えられた賜物で、主がそこに今の私を召しておられるのだとして、そこで神の栄光をあらわして行くのが良いのではないでしょうか。あらわしていくことができるでしょう。わが家は昔から裕福でないし、以前は支払わなければならないものも支払えないなどという時もありましたが、しかしそういう時に限って不思議な備えがあるのです。それで私は、神がここに私を召しておられ、この召しの継続を許してくださっているのだ、まだ任命してくださっているのだということを感じるのです。

それぞれ神が召されたその人が、神が召しておられるそれぞれの場所で、その人にしか伝えられないそれぞれの福音、その人にしかあらわせないそれぞれの神の栄光があるのです。「それぞれ」というのは、「皆、一人残らず、誰もがみな」という意味でしたね。

この召しというテーマの流れで、パウロは割礼を取り上げ、宗教的な問題について教えます。

宗教的な問題について

7章18節      召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
7章19節      割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
7章20節      それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。

パウロは17節の原則を割礼問題に適用します。

割礼は、ユダヤ人にとっては神の民の契約のしるしであり、神に従うことを決意した者たちが守るべき神の命令でした。ある意味で割礼はユダヤ人にとってすべてのすべてでした。しかし同じ割礼が、多くの異邦人にとっては嘲りの対象でした。コリントの町で、都会的で洗練されたように見えるギリシャ風の文化(ヘレニズム文化)に憧れ、同化しようとするユダヤ人青年も起こってきており、彼らは割礼を受けないということもすでに生じていたようです。また割礼を受けていた青年は、コリントの町のギリシャ風文化の中で地位を占めようとして外科手術を受け、割礼の跡を消す努力さえしていたようです。その一方で、一部の厳格なユダヤ人クリスチャンが異邦人に対して、クリスチャンになる前にまず割礼を受けなければならないと強く主張していました。それこそコリントの教会はこの割礼問題でも無駄にすったもんだし、互いに対立していたのです。教会外の人たちはそれをどのように見ていたのでしょうか。

しかしパウロにとって、割礼無割礼の違いなど少しも重要なことではないと断言します。実際にパウロは、割礼の有無などどうでも良かったのです。割礼など受けなくて良いとさっきまで言っていたパウロが、福音伝道においてその地方にいるユダヤ人のために、同行する父親がギリシャ人のテモテにあっさりと割礼を受けさせたほどです。ですからパウロにとって、キリストの教会にとって、神に召された者にとって何よりも重要なのは、割礼を受けるか受けないかではなく、形式とか儀式とかではなく、真に心から、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして神を愛し、家で座っているときも道を歩く時も、寝るときも起きるときも、いつも神の御前にいて、神の戒めを守り、神との関係を確かなものにしていることです。

神は召した者をそのままで恵まれる方です。ですから、その置かれた立場や環境がどのようなものであったとしても、人はそれを【無理に】変えようとしてはならないのです。召された時のその人を「あなたは高価で尊い。愛している。大切だ」と言われたのです。ですから、すでに割礼を受けた人はその跡をあえて取り除く必要はないし、異邦人の聖徒もあえて割礼を受ける必要はない。「それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」と、パウロは17節の原則を繰り返し述べています。

しかし、「とどまっていなさい」というのは、「そのままの君で良い」というものではありません。

17節の原則では「歩むべき」と述べられました。この「歩む」というギリシャ語は「自分の人生を営む、生きる、成長する」という意味の語です。この「歩む」という表現は、実はパウロの好んだ表現です。「御霊によって歩みなさい」(ガラ516)、「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(エペ41)、「愛のうちに歩みなさい」(エペ52)、「光の子どもとして歩みなさい」(エペ58)、「キリストにあって歩みなさい」(コロ26)と、実に多く「歩みなさい」と手紙の中で言っています。クリスチャン人生を絶えず成長しながら生きなさいということです。

神は「キリストを着なさい」と言われます。それはうわべだけ取り繕うのではありません。キリストを着て、キリストに似つかわしい者になりなさいということです。神は神から受けた愛とあわれみ、そして恵みによって、受けたその人が変えられて行くこと、キリストに似た者へと自分から成長して行くことを求めておられます。神に召された者は、神から召されたときのままの状態で神の恵みを受けながら、神に愛されながら、その中で常に新しく造りかえられていくのです。つまり大切なのは、自分の境遇を変えることの方ではなく、召された召しにとどまることです。召された喜び、感謝、はじめの愛、自由、神のみことば、戒め、幼子のような父なる神への信仰信頼にとどまることです。神はすべてのことを働かせて益としてくださる方。だから何も心配せずに、自分が世から選ばれ、呼び出され、任命されたその召しにとどまり、それぞれに分け与えられた賜物を用いて、信仰にとどまり、神に期待しながら委ねながら、自分のクリスチャン人生を喜んで平和のうちに歩んで行けば良いのです。そしてますます新しく造りかえられて行くのです。「各自は召された時の召しにとどまれ」。これはパウロがコリント教会だけでなく、すべての教会で指導してきた原則でした。

そしてその原則を、今度は召された者たちの社会的な身分に結び付けて教えます。

社会的な身分と主の自由について

7章21節      あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。

コリントの教会を構成するメンバーのほとんどが、貧しくて低い身分の人たちでした。その最も底辺にいたのが奴隷でした。そしてその彼らは、キリストを主と仰ぐのだから、人間の主人を持ってはいけないのではないかと気にして、心配して、恐れ、不安を抱き、思い悩んでいたのでしょう。あるいは変に高ぶって主人に逆らっていたということもあったでしょう。パウロはそのような彼らに「自分の身分を気にしてはならない」と勧めます。奴隷の信徒は、キリストを主と仰ぐのだから、人間の主人を持ってはいけないと思う必要はない。奴隷の状態で「召された」者は、それを「気にして」はならないと力づけます。また彼らを通してすべての聖徒に「自分の身分を気にしてはならない」と勧めるのです。自分の環境や身分を変えることが、必ずしも神に喜ばれることではないからです。奴隷の辛さや悩みは奴隷にしか分からない。奴隷に神の恵みを証できるのは奴隷だけ。裕福な人に恵みを証されても、恐らく奴隷は反発するだけでしょう。また、救われるというのは、世の人々が考えるような社会的身分の変化、向上、他人に対する勝利を意味しないからです。救いとは、聖書が言うとおり「罪の赦しによる救い、解放、自由」だからです。

神は召された時の「あなた」を、「高価で尊い、愛している。大切だ」と言われたのです。もし、神が人を奴隷として召されたのなら、奴隷として生きる恵みを与えてくださるでしょう。祝福してくださいます。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろそれを用いなさい。割礼を受けるにしても受けないにしても、一番大切なのは、あなたの主との関係であると、ここでもパウロは言います。

赤ちゃんがいつまでも赤ちゃんではいられないように、学生がいつまでも学生ではいられないように、人はそれぞれ歩みの中で新しいステージへと進む時があるのです。罪人が救われて、いつまでも罪人ではいられないように、人はそれぞれ信仰の歩みの中で新しいステージへと進まなければなりません。恵みが増し加わるために、いつまでも罪の奴隷状態にとどまっているべきではないのです。神の恵みの上にあぐらをかいて、奴隷根性をむき出しにしていてはいけないのです。パウロは言います。機会が与えられたなら、それをよく用いなさい。新たなステージへと進みそうであるなら、祈り求め、それが人間的な思いではなく、神のみこころであるとのみことばによる確信、平和、平安が与えられたなら、喜んで信仰をもって新たなステージへ、環境へと進んで行きなさい。一番大切なのは、主との関係であると。忘れてはならないのは主との関係であると。心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして主を愛し、家で座っているときも道を歩く時も、寝るときも起きるときも、いつも主の御前にいて、主の戒めを守り、主との関係を確かなものにしていること。自由の身になれる場合にも、本当に大切なのは、主との関係を確かなものとし、主がそれぞれに、めいめいに、一人残らず分け与えられた賜物を活かし、キリスト者としての召しに生きること。主との関係にとどまり、キリスト者としてクリスチャン人生を絶えず成長しながら歩んで行くことです。

7章22節      主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。

主に召された奴隷は、罪の奴隷から解放され、神の子としての栄光と自由と幸いの身分を得たのです。そして心から主を愛し、主に仕える者となりました。彼は社会的な身分としては変わらずに誰かの奴隷かもしれない。他人から見たら相変わらずかわいそうな身分に見えるかもしれない。しかしその人は、社会的身分よりももっと重要で幸いな「主に属する自由人」「神の子」「真の王のしもべ」となっているのです。神の恵みによってそのようにしていただいているのです。誰が何と言おうとも、自分が何と言おうとも。

7章23節      あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。

パウロは訴えかけます。「あなたがた」は、キリストの血によって買い取られたのである。あなたがたはもはや主のものなのである。だから人間の奴隷となってはいけない。染みついた奴隷根性そのままに、人間の言いなりになってはいけない。罪の言いなりになってはいけない。どのような身分の信徒も皆、代価を払って買い取られ、主に属する自由人。罪、死、律法、人への恐れ等から解放された者。恵みによってそのようにされた者として、もはや人の奴隷、この世の身分ではなく、霊的に人に支配されるべきではない、自分から人間の奴隷となってはいけないと。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリ620)。これはパウロの命令だけではなく、私たちの心からの願いでもあるのではないでしょうか。恵みによって神の子とされ、それゆえに父なる神の栄光を自分のからだをもってあらわして行きたいと願う者とされているのではないでしょうか。そしてそのように生きているでしょう。思えばそのような生き方は、救われる以前には想像もできなかった、救われる以前の生き方とはまるで違う生き方です。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。社会的身分が変えられないことも大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。神の恵みによって全く新しく造りかえられることです。そして私たちは、キリストの血によって買い取られ、罪から解放され、救われた時に、霊的に、また生き方も全く新しく造りかえられました。主にあって召された私たちは、主にあってはすでに身分が変わったのであり、また主にあって内なる人が新しく造り変えられたのであり、内面の変化をこれからもずっと経験していくのです。神の子キリストの似姿に変えられて行くのです。

結論

7章24節      兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

最後にパウロは、17節と20節で語ったことを、ここでもう一度繰り返します。

神は様々な環境に置かれたあらゆる身分の人々を召し、用いられる方です。そのため、神が召された状態がどのようであれ、「それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前に」いなければなりません。ここでも「それぞれ」と言われています。各々、一人残らず皆、神が選ばれ、神が召した人たち。神が召してくださった時の喜び、驚き、感動、感謝、幼子のような信仰を昨日のことのように覚えていますか? 私たちはそれぞれ神が召されたときのままの状態にとどまりなさいということです。神へのはじめの愛にとどまり、あの信仰にとどまり、常に神の御前にいなさいということです。しかし、何度も言うように、この命令は人が今以上の良い状態に向上することを禁じてはいません。同時に自分がクリスチャンになったからという理由で変化を求めることに対しては注意をしています。注意をしているということは、そこに何かしらの危険、罠があるということでしょう。

自らの罪を悔い改めて神に立ち返るというのは、今あるものをすべて捨て、何かを追い求めることではありません。例えば未信者の家族を捨て、仕事を捨て、主にのみ仕えるというものではありません。主がそこでその人を召されたのです。そこで主がその人を必要とされ、世から選び、呼び出され、任命されたのです。ですから私たちは、主がまた別のところに召されるまでは、今いる場所で主に仕えるべきでしょう。そこは主が召されたその人にしか伝えられない場所。同じ環境、同じ境遇にいる人に、その人にしか伝えられないことがあり、主はそこにそれぞれを召しておられるのです。そして私たちが今いる場所にも、主はおられます。私たちは今いる場所においても、主の御前にいるのです。そして神の御前にいなさいと命じられています。先週、朴先生が証しておられました。本当に苦しいときに酒で酔っ払い、ふらふらになりながらもそれでも教会に行って祈ったと。それが主の御前にいる、とどまるということでしょう。そしてどんな状況であっても、主はともにいてくださいます。主がそこで、そこに召されたのですから。主は責任を持って約束どおりに、いつでもどんな時でも、いつまでも最後までともにいてくださいます。ですからまず私たちは、いつも主の御前にいて、主との関係を確かなものにして、今日もはじめのように心から主を愛し、信じ、喜んで主に仕えようではありませんか。主は今の私たちを祝福し、今の私たちを通して主の栄光をあらわしてくださいます。私たちの思いをはるかに超えた栄光、平安を与えてくださいます。そしてまた主の時が来たら、主がともにおられ新しいステージへと導いてくださいます。そこで私たちは愛と信仰をもって、主との関係の中で新しい一歩を、信仰をもって主とともに踏み出していくのです。そこに未来があり、賛美があり、永遠のいのち、喜びに満ちた世界、素晴らしい神の国があるのです。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す