2022年5月8日 主日礼拝「主の喜び」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 546番「せいなるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 436番「恵みのこの日に」
聖 書 ローマ人への手紙15章7〜13節
説 教 「主の喜び」佐藤伝道師
讃美歌 193番「みかみをあがめて」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙15章7〜13節
説教題
「主の喜び」
今週の聖句
こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ人への手紙15章7節
今週の祈り
自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、
(Ⅰテサロニケ2:7-8)
父よ、あなたほど私を愛してくださるお方はいません。
説教「主の喜び」
はじめに)今日は「母の日」
- 母の愛、神の愛
- 母(親)の子たちへの願い、親(神)の子たち(私たち)への願い
1)ユダヤ人・異邦人、民族的な対立問題
- 根源的、根深い問題
- 神は偽善的、表面的ではない真の愛による一致を求められる
2)神の栄光のために、互いに受け入れなさい
- 【受け入れなさい・προσλαμβάνω】welcome、快く交わりの中に迎え入れなさい、という意味
- キリストは私たちを受け入れてくださった。私たちは天の神の国、地上の神の国(教会)の交わりの中に快く迎え入れられている
- 神の栄光のため
3)「私(パウロ)は言います/私が言いたいことは」
- 旧約聖書からの引用。救い、交わりに受け入れられたのは神の御心、恵み、憐れみによる
- パウロの祈り
まとめ)
私たちはキリストにあって神の子、神の国の住人として受け入れられ、神の限りない支えと配慮の中にある。しかしこの世にあってキリストを模範(4月24日)とする神に喜ばれる歩みをする時、私たちは困難を覚えるだろう。神に依り頼み、みことばに励まされ、神がくださる希望、聖霊の力を頂こう。
兄弟姉妹が互いに受け入れ、真実に愛し合い、支え合い、活き活きと生きる神の子らの姿。父なる神の御心(親心)にかなった神の子らの姿が見られる所で、父なる神は栄光を受けられる。父なる神の喜びとなり、私たちの喜びともなる。神にあるまことの喜びと幸い、希望に満たされて、隣人の喜びと利益(救い)のために生きていこう。この世にあって喜びと平和の神の国の前味を味わわせていただこう。
今日は「母の日」ということで、先ほどは母の日をテーマとした讃美歌を賛美しました。母の日がキリスト教会から始まったことは、すでに皆さんご存知のことと思います。1907年にアメリカのある女性が、亡き母を偲んで、母親が教会学校の教師をしていた教会で記念会を持ち、母親が好きだった白いカーネーションを飾りました。そして白いカーネーションを参列者全員にも手渡した。ここから母の日が始まったそうです。今では白いカーネーションは赤いカーネーションへと変わりましたが、母親のことを思ったり、日頃のお母さんの苦労をねぎらい、感謝を表す日、その目的はずっと変わっていないのでしょう。すでにお母様を亡くされている方々もおられますが、その思い出はどのようなものでしょうか。母の日になると悲しみや寂しさを覚える方もおられるかと思いますが、今、主が聖霊を通して愛と慰めを注ぎ、良い思い出、暖かな思いで満たしてくださることを祈ります。
ところで、赤いカーネーションの花言葉をご存知でしょうか。「母の愛」「愛を信じる」「熱烈な愛」などです。そして母の愛はよく神の愛に喩えられるのではないでしょうか。自らを犠牲にするほどに子を思う愛。前回はローマ書15章1節から「キリストの模範」を見ました。「他人の弱さをになうべきです。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」と。私たちはここに、母の愛、真の愛、それは犠牲を伴う愛を重ねて見ることができるのではないでしょうか。
母とは限りませんが、親が、もし愛する我が子たちを残して天に帰る日が来たとき、何を望むだろうかと考えます。〈私がいなくなったら、子どもたち、兄弟たちがいつも愛し合い、思い合い、助け合いながら仲良くやって行って欲しい。お互いが血の繋がった、血を分けた存在だから、本当に分かり合える存在として、また互いに良き助け手となって、仲良く幸せに、神さまを信じて、毎日喜んで、平和に、平安に生きて欲しい〉。そう願うのだろうかと思いました。兄弟たちの仲が悪ければ悪いほど、その願いは切実なものとなるのかもしれません。(何かのドラマの刷り込み? でも)キリストも愛する弟子たちを地上に残し、天に昇られる前に「“わたしがあなたがたを愛したように”(わたしを模範として)、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1334)と命じられた、強く願われたのではなかったでしょうか。強い願いは新しい戒めとして与えられました。愛を演じるのではなく、嘘偽りのない愛で愛し合う、愛し抜く。互いに相手の益となるために、互いに相手の霊的な成長のために、相手を建て上げるために、相手のいのちを守るために。主の願いに十分に応えられない、しかも戒めとなるとなかなか守れないのが、この世に生きる私たちです。
そこでパウロも、キリスト者の一致を“繰り返し”強調してきました。そしてパウロの強い願いが主への祈りとなって「どうか主よ」と、パウロが記したほとんどの手紙に記されています。ローマの教会に限らず初代教会の中には本当に多くの要素や性格が複雑に入り交じっていたために、教会が真に一致するには非常な祈りと努力が必要だったからです。
ローマ書ではこれまで、「信仰の強い人、弱い人」という表現で表されてきたように、信仰理解の相違が大きな対立の原因であり、また問題でした。しかし初代教会の中には、もう一つの大きな原因と問題がありました。それはユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の人たち)の違いによるものでした。民族の違い、生まれた時から環境も習慣も考え方もまるで違う。それぞれの歴史の中で培われてきた違い。そのことによる対立、目に見える対立はもとより、目に見えない対立などはさらに根源的、根が深く複雑なものであったと言うことは、今の私たちにも想像に難くないのではないでしょうか。主は「偽善」は許されないのです。主ご自身が真実であられるように、真実をお求めになるのです。表面的ではない真実の愛、真実の一致、真実な交わり。そこでパウロは15章7節から、ユダヤ人と異邦人という問題の視点から、キリスト者の一致、教会の真の一致を説きます。
15章7節 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
ここで特に強調されていることばは【受け入れなさい・προσλαμβάνω】です。それは“welcome”で「快く交わりの中に迎え入れなさい」という意味です。キリストが私たちを快く交わりの中に迎え入れてくださった。キリストが私たちを受け入れてくださり、私たちのすべての罪を負い、十字架にかかって死んで、そしてよみがえられた。そうして私たち罪人、常に神に背こうとする私たちを赦し、罪人に対する怒りが完全になだめられ、解決されて、快く何のわだかまりもなく、父なる神、御子キリスト、聖霊、聖徒の交わり、神の国の交わりの中に迎え入れられるようにしてくださった。そして快く迎え入れてくださった。キリストが私たちを招き受け入れてくださったのは、受け入れてくださるのは、ただ「神の栄光のため」なのです。神が喜ばれるためです。
神の国はそのような所だったでしょうか。神の完全な支えと配慮の中、すべてが神の御心の通り本来の姿に活かされている所です。皆が活かされて喜んでいる所です。神が初めに創造された世界、エデンの園の様子を思い浮かべられると思います。神は神の国の民が喜んで、平和に、活き活きと本来の姿に活かされている者の姿をご覧になり、親のように喜ばれるのです。そして園の中を歩き巡り、親しく交わられるのです。神の国は喜びと平和の国です。その神の国に、私たちはただキリストを信じる信仰によって快く迎え入れられました。迎え入れられるのです。その人たちは心を一つにし、声を合わせて、主イエス・キリストの父である神をほめたたる。神の前に喜んでひれ伏して礼拝を献げる。この身と霊を献げる。神はその礼拝を喜んで受け入れてくださる。神は栄光を受けられるのです。私たちは素晴らしい神の国の交わりの中にキリストを通して快く迎え入れられました。そして教会はこの地上で神の国の前味を味わう所です。神の国をこの世に証しする所です。そのような素晴らしい教会の交わりの中に、私たちは一人ひとりがキリストにあって招かれ、快く迎え入れられているのです。
私たちが神の国の交わりの中に迎え入れられたのは、つまり救いは、ただ神の栄光のため。その言葉を変えるなら「一方的な恵みゆえ」「受けるに値しない者に与えられるもの」となるのではないでしょうか。「私たち」「あなたがた」、それはここではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者。それぞれが本来、神にとっては徹底的に無価値な者、不敬虔な者でした。「神は不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べておられた」。これはローマ書10章21節のみことばですが、原文のギリシャ語を見ると、「神は人間を憐れみ、彼らがご自身のもとに戻って来ることを嘆願し、赦しと恵みを与えようと、逆らう民にも両手をいっぱい広げ、それをやめられなかった」。そのような大きな愛に見向きもせず、背を向けて裏切っていた者をもキリストは受け入れてくださったのです。キリストを通して神は素晴らしい神との交わりの中に、神の国の神の民の交わりの中に快く迎え入れてくださったのです。恵みによって快く迎え入れていただいた者であるならば(私たちであるならば、と言って良いでしょう)、民族的・文化的背景、個人の歴史的背景、どこから救われたのか、どのように救われたのか。テモテのように祖母や母の素晴らしい信仰の中で育まれ救われたのか。パウロのように黒歴史を通ってその中から救われたのか。異邦人であるが故に律法を知らず、それゆえにたくさんの罪を犯して来てしまった、そこから救われたのか。それぞれ異なる救いの証しを持った互いを批判したり、軽蔑したりして良いのでしょうか。救いの証しは、神がしてくださったことの証しだからです。それならば快く互いを迎え入れるべきなのではないでしょうか。それは私たちがすべきことなのではないかと、パウロは読者に問うているようです。
しかし異なった民族的・文化的背景、根本から違いを覚える者同士が互いに受け入れて、嘘偽りのない愛をもって、表面的ではない真実の交わりを持つことは決して容易なことではないということは、人間の争いの歴史において証明されているところです。現実に、民族間、そればかりかもっと身近な隣人との争いは後を絶ちません。どれほど神は心を痛めておられるでしょうか。世では強い者が自分の幸せのために弱い者のものを奪い、自分の欲望を満たそうとします。それは弱肉強食のような人間社会では、起こって当然なのかもしれません。しかしパウロは、信仰が強い人が弱い人の弱さを担うべきで、自分を喜ばせてはならないと教えました。キリストが神の栄光のために、私たちを受けれてくださったように、あなたがたも互いに受け入れるようにと教えます。信仰は、罪に汚れた世とは反対に歩むことでもあります。聖徒(キリスト者)は神の国に属するので、神の国とその義を求めるのです。そこに難しさを覚えるのです。
イエス様は神の国と義を求めるために、神の栄光をこの世に現すために、神が喜ばれる生き方として「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(マタ2026)と教えられました。パウロは人々の救いのために、キリストに倣い、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことにおいて、すべての人に喜ばれなさいと命じています(Ⅰコリ1033)。「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも神の栄光のために、互いに受け入れなさい」。兄弟姉妹が互いに受け入れ合い、自分の利益より他の人の利益を求める生き方、他の人に喜んで仕え、他の人に喜ばれる生き方は、神の愛の実践、キリストに倣う生き方、それは神の栄光を現す生き方、神が喜ばれる生き方なのです。キリストが私たちを受け入れてくださった。そのキリストを信じる信仰によって神の国の交わりの中に迎え入れられ、そこで神の御心にかなって活き活きと活かされる兄弟姉妹の姿、幸いな子らの交わりをご覧になって、天の父なる神は栄光を受けられる、喜ばれるのです。親が喜んでいる姿を見るのは、子にとって嬉しいこと、喜ばしいことではないでしょうか。私たちは親が悲しんでいる姿を見ると自分も悲しくなるし、逆に親が喜んでいる姿を見ると自分も何だか嬉しくなるのではないでしょうか。
パウロは8節から12節で「私は言います」「私が言いたいことは」として、一気に続けます。
15章8節 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
15章9節 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
15章10節 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
15章11節 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」
15章12節 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」
パウロが言いたいことの一つ。それは、キリストは割礼のある者、すなわちユダヤ人のしもべとして来られたということ。このことについては、イエス様ご自身このように証しされました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」(マタ1524)。イスラエルの家の失われた羊たちのところにしもべとして遣わされた。神の御子であるイエス様が、人々に仕えられるためではなく、仕えるために来られた。神がユダヤ人の先祖、アブラハムをはじめ族長たちと交わされたもろもろの約束。その約束は主として、イスラエル民族が神の民となるという内容のものでした。その約束の成就を「保証」するために、確かな証拠となってくださるために来られた。主が保証されているのですから、すでに成就したということでしょう。イエス様は実に十字架に至るまで神と人に仕えられ、福音を、十字架の福音をユダヤ人にもたらし、確かな証拠となられたのです。福音は使徒たちを通してユダヤ人に宣べ伝えられて行きました。やがてパウロによって異邦人へと宣べ伝えられて行ったのです。
パウロが言いたいことの二つ目として、それはパウロによる異邦人への伝道と回心もまた、旧約聖書で預言されていたということ。神のご計画、約束の中にあったこと。キリストがその約束を成就されたこと。そのことを示すために、パウロは旧約聖書の証言をいくつも引用します。しかもそれは一方的な神のあわれみのゆえであるということです。「また異邦人も、あわれみのゆえに」とあります。つまり「ユダヤ人も、異邦人も、あわれみのゆえに」ということです。神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあるのです。神はユダヤ人にも異邦人にも、あわれみを注がれておられるのです。断腸の思い、はらわたが千切れるほどの痛みを覚える愛、親心のようなお心をすべての人々にお持ちなのです。
結局のところ、パウロはあなたがたが救われたのは神の恵みによる、あわれみによる、ただ信仰による。ユダヤ人も異邦人も、皆、自分の持っている何か優れているもののように考えているもので救われたのではない。キリストがあなたがたを受け入れてくださり、素晴らしい神との交わり、神の民の交わり、神の国、教会の交わりの中に快く迎え入れられたのは、ただ神の栄光のため、神の喜びのため、神の一方的な恵み、あわれみ、真実のゆえであるのだから、誰も誰かに対して高ぶることなく、ただ神を見上げて、神に感謝して、互いに受け入れ合いなさいということを繰り返し言っているのです。
パウロはいよいよ最後の祈りを献げます。14章1節から始まった勧告の締めくくりの祈りです。ここでは神は「望みの神」と呼ばれています。また信仰とともに望み、希望が二度繰り返されて強調されています。私たちには私たちから神に向かう信仰とともに、神から私たちに向かう、与えられる希望というものもまた欠かせないものなのです。交わりですから、一方通行ではないのです。
15章13節 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
神の栄光を現して行く生き方、神が望み喜ばれる生き方。それはキリストがひたすらに隣人を愛し、利益を得させ、相手を建て上げ、救うために生きられたその生き方をもって示してくださったもの。自分を捨て、自分の十字架を負う生き方。十字架を負って自分に死に行く生き方。また、自分のからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる生き方。聖なるささげ物とは、つまり動物のいけにえです。犠牲の動物です。自分のいのちを犠牲にしてまでも隣人を愛し抜く生き方。母親が自分を犠牲にしてまでも我が子を愛し、我が子のために生きようとする生き方。神の国ではすべての人が互いのためにそのように生きているのですが、神の国とは正反対のこの世にあって、見返りを求めない愛を隣人に注ぐことのなんと難しいことか。自分を憎む人に対してなど、絶対にできそうにありません。そのような時に、私たちキリスト者は希望を神に置かずにはいられなくなります。置いて良いのです。いや、置くべきです。私たちは神からの望みが絶対に必要なのです。望みの神。別の訳では「希望の源は神である」と訳されています。限界のある人間の知恵や力は希望の源ではありません。真の希望を持つことができません。どうすれば真の希望を持つことができるのでしょう。希望という生きる力を、確信を、希望の源である神さまからいただくことができるのでしょう。それは前回見た通りです。「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです」(ロマ154)。しかしその聖書のみことば、神のおことばさえも、聖霊によらなければ何も分からないし、本当の希望、力にはならないのです。もしかしたら、ある時には神のみことばが愚かに聞こえてしまうかもしれません。苦しい時などは神のみことばが到底信じられないかもしれません。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(Ⅰコリ29)からです。神の愛のみこころは天よりも高く、海よりも深いからです。神がこれほどまでにこんな私をあわれみ、愛してくださっていること。私だけではない、ユダヤ人も異邦人も、かたくななあの人も、神に背くこの人も、皆が神に愛され、受け入れられている人たち。「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされる」(ロマ91)。「不従順で反抗する民に対して、神は一日中、手を差し伸べておられる」(ロマ1021)。人間の目では見ることができない、人間の知恵によっては本当に理解できない神の御心は、聖霊、神の霊、キリストの霊、神のお心、神の親心、愛を信じて、信頼して、それを通してでなければ見えないし、分からないのです。キリスト者はキリスト者に注がれているこの聖霊によってはっきりと神の愛の中に希望を見出せるように、希望が与えられるようにとパウロは祈るのです。その希望によって、キリストの血で贖われ、キリストの血で繋がった子どもたち、兄弟姉妹が受け入れ合い、いつも愛し合い、思い合い、助け合いながら仲良くやって行ってこと。互いに良き助け手となって、仲良く幸せに、神を信じて、毎日喜んで、平和に、平安に生きて行くこと。それが神の栄光、神の喜びとなるのだから。パウロの目には、ローマの教会の兄弟たちの仲が悪く見えたのか、実際に根深い対立の問題が見え隠れしていましたから、その願いは切実だったことでしょう。
15章13節 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
互いに受け入れ合い、真実の愛をもって愛し合い、自分を喜ばせず、他の人の利益のために生きる。それは可能でしょうか。神はご自分を信じ、ご自分の栄光を喜んで求める者たち一人ひとりに、また教会という共同体に、新しい一つの心と広い地境を与えられます。私たちの限界を越えさせてくださいます。不可能と思われることを可能にしてくださる。恐れを乗り越えさせてくださる。望みの源である神がともにおられるのですから。ともにおられる神を信じ、信頼する時、神は喜びと平和で満たしてくださいます。聖霊を通して確かな希望を与えてくださいます。その確かな希望を生きる力として、この世の旅路を神とともに、兄弟姉妹とともに歩んでまいりましょう。そこからさらに川を渡り、地境を広げ、次のステージへ、世の隣人の中へと踏み出してまいりましょう。そこでキリストに倣い、神の栄光を現す生き方、神に喜ばれる生き方をしてまいりたいと思います。私たちはすでにキリストにあって神の子、神の国の住人とされ、神の限りない支えと配慮の中にあるのですから、私たちに注がれている聖霊、神の霊、神の愛の心、親心に信頼し、そこから力をいただいて、希望にあふれさせていただき、キリストに倣って喜んで他の人に、隣人に仕える毎日を歩んでまいりましょう。私たちの目と心を高く天に向けて、神に喜んでいただける毎日を歩んでまいりたいと思います。そして神の国は喜びと平和の国です。教会は、またキリスト者のこの世の歩みは、神とともに歩む道、喜びと平和の神の国の前味を味わうものです。喜びと平和の神の国を味わいつつ、確かな希望をいただきながら、私たちも喜んで歩んでまいりたいと思います。
私たちが互いに配慮して支え合う所で神は栄光を受けられる。神の国、教会で兄弟姉妹が真に受け入れ合い、愛し合い、支え合い、神の御心の通りに活き活きと生きる姿。それは主の栄光、父なる神の喜びとなります。父なる神の喜びはそのまま、子とされている私たちの真の喜びとなります。子が喜ぶ姿を見て親が喜ぶ。親が喜ぶ姿を見て子が喜ぶ。真に平和な関係、真に幸いな交わりではないでしょうか。教会が神の国として整えられ、この幸いな交わりに、一人また一人と加えられ、ますます神の栄光が現され、神の喜びも益々増し加わることを祈り求めてまいりましょう。教会の姿を通して、人々を神の国へと招いてまいりましょう。