2022年7月24日 主日礼拝「福音宣教開始」

機械のトラブルにより、配信に支障が生じましたことをお詫び致します。

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  228番「ガリラヤの風」
聖 書  マタイの福音書4章12〜25節
説 教  「福音宣教開始」佐藤伝道師
讃美歌  502番「いともかしこし」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書4章12〜25節

説教題

「福音宣教開始」

今週の聖句

この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と言われた。

マタイの福音書4章17節

今週の祈り

神の神、主はご存じです。
(ヨシュア記22:22)

神よ、人の話に真摯に耳を傾け、その上で、自分の意見を謙虚な姿勢で話せるように助けてください。

説教「福音宣教開始」

アウトライン

はじめに)

  • マタイ4章11節と12節の間の出来事(⇒ヨハネ1章29節から4章42節)

1) ガリラヤへ立ち退く

  • ゼブルンとナフタリの地
  • 異邦人のガリラヤ
  • マタイは預言の成就に注目する

2)福音宣教開始

  • 神の国は近づいた
  • そこに入るには?

3)弟子召命

  • 神の国と隣人に熱い思いを持っているなら
  • 人間を獲る漁師
  • 網、父、舟を捨てて
  • 【従う・ἀκολουθέω】=同行する、立ち会う
  • 周囲の反応、変化

まとめ)

  • イエス・キリストの出現によって天の御国は近づいた。イエス・キリストの十字架の死と復活によって天の御国はますます現実のものとなった
  • 神と隣人を愛し、神の御国を求める熱い思い、隣人の救いを求める熱い思いを常に持っているならば、神は「こんなところで」と思われるような所で声をかけ、人間を獲る漁師へと召し、私たちのすべてを用いて、すべてを益として働かせ、ご自身の力あるみわざをなしてくださる
  • 家族が、隣人が、世界の人々が私たちの身に起こる幸いな出来事を不思議に思い、注目する。その証しを主は必要としてくださっている。そう信じるなら、私たちの試練もまた試練ではなくなる
  • 私たちはそのような幸いな弟子としてこれからも主から目を離さずに、主の御心から目を話さずに、日々弟子として整えて(網の破れたところを繕って)いただきながら従っていこう

 神学校に入学してすぐに、このような質問がされました。「あなたの召命は、あなたの思い込みや勘違いではないのか」。随分と意地悪な質問をするなと思いました。しかしその質問は神学生時代の4年間ずっと、また今もそうかもしれませんが、私の中での問いとなりました。もし皆さんが「あなたの救い、主の召しは、あなたの思い込みや勘違いではないのか」と問われたらどうでしょうか。そのようなことは決してなく、そのささやきは先週見たところの悪魔の“誘惑”です。しかし、悪魔をもご支配なさる神は、誘惑さえも用いられます。そこで一度これまでの歩みや、また与えられたみことば、主がなさったみわざを思い起こし、自分自身に重ねてみることも良いのかもしれません。それは確信となり、感謝となり、信仰、信頼、また主への全き献身、この身のすべてをあなたに献げます、私のすべてにおいて主よ、あなたを第一としますとの思いに力を与えるものとなると思います。

 今日からマタイの福音書は、いよいよイエス様の公生涯の開始を記します。4章11節から12節へと移り、公生涯の開始を記し始めるのですが、実はこの11節と12節の間には、マタイの福音書では記されていないたくさんの出来事がありました。それはヨハネの福音書1章29節から4章42節にまで記されている様々な出来事でした。そこにはヨハネだからこそ知り得る様々な出来事が記されています。今はすべてをご一緒に見ることはしませんが、お時間のあるときにご一読いただければと思います。神さますごい、預言すごい、聖書っておもしろい、色々な気付きがあると思います。

4章12節 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
4章13節 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。

 ヨハネの福音書はヨハネの視点から記しますが、マタイの福音書はマタイの視点からこの福音書を記しているのです。マタイはカペナウム近くの取税人で、ここでイエス様の招きを受けて弟子とされました。ですからマタイは、イエス様の地理的な移動とその理由、また自分の上に起こった出来事までも、旧約聖書の預言によって裏付けることに特別な興味を抱いていたようです。

 イエス様はヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤへ立ち退かれたわけですが、ルカの福音書4章14節では「御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」と記されています。ヨハネの投獄をきっかけに、ある意味“作戦的”に退去したのです。イエス様は人があまりいないナザレを去って、人で賑わうカペナウムに来て住まわれ、そこを宣教の拠点地とされました。そこを中心に人々を教え、数々のみわざをなさいました。

 また、カペナウムは旧約聖書のイザヤ書で預言されている「ゼブルンの地とナフタリの地」との境にある、湖のほとりの町でした。ゼブルンの地とナフタリの地は、イエス様の時代には“ガリラヤ”と呼ばれるようになっていました。つまり簡単に言ってしまうと、イエス様はガリラヤ地方のカペナウムという町に住んだと言うことです。それをわざわざイザヤの預言を引用して言うところにも、マタイの抱いた興味の深さを思わせます。そこでマタイは言います。

4章14節 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
4章15節 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道(新しい2017訳では“海沿いの道”)、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4章16節 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

 ガリラヤ地方は、ユダヤ人からは“異邦人のガリラヤ”と呼ばれ蔑まれていました。なぜ蔑まれていたのかというと、ガリラヤ地方は紀元前8世紀にアッシリヤに侵略され、ユダヤ人は捕虜として連れて行かれ、アッシリヤ人が植民地としてここに移住してきました。そのために、ガリラヤ人には異邦人の血が混じり、ユダヤ地方に住む純潔を守るユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」と言われ軽蔑されていたのです。そのガリラヤ地方の中にカペナウムという町がありました。カペナウムには当時エジプトからダマスコへ通じる国際的な交易路、食糧とか色々な商品を運び売買するために使用された道が通っていました。その道は「海の道」と呼ばれる有名な道でした。そのような道が通っているわけですから、繁栄した町でした。いわゆる都会だったのでしょう。当時の世界はローマの支配下にありましたから、カペナウムのような主要な町にはローマ軍が駐留しており、収税所もありました。その収税所に著者である取税人マタイは座っていたのです。

 都会というのは、様々な人や文化が集まる所です。力が集中する所です。目を奪うような魅力的な物が溢れ、夢があります。多くの人、特に若者などはそれらを求めて都会へと出て行きます。私もそうでした。それは素晴らしいことでもあります。しかし都会ゆえに自分を見失い、自分が本来生きたかったように生きられない、そのような挫折に陥ってしまうこともあるかもしれません。取税人マタイもそうだったのかもしれません。ガリラヤ人たちは、またマタイは、異邦人から繁栄を追い求めること、貪り、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝です」(コロ35)と聖書が言っていますが、貪り、偶像崇拝を教えられて真の神と神の義から離れ、「暗闇の中にすわり」、「死の地と死の陰にすわ」り、悲しく惨めな中にいました。繁栄の中の人に潜む闇、陰とでも言いますか、何となく想像できます。また今の世の人々の姿、かつての私たち自身の姿を見るようではないでしょうか。しかし神さまは、そのような地、そのような人々を見捨てられておられませんでした。そればかりか、そのような地、そのような人々こそ、救いのみわざの始まりとして選ばれたのです。そこにメシヤ救い主イエス・キリストが来られて、福音を宣べ伝え始めたのです。

 「異邦人のガリラヤ」の救い。それは預言の成就の始まりを思わせます。それは長い間隠されていた奥義でした。「その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです」(エペ19−10)。「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです」(エペ36)。救いが異邦人にもたらされ、ユダヤ人がねたみを起こし、しかしユダヤ人も皆救われる。すべての人々が救われる(ロマ11)。それらの預言の成就の始まりであることを「異邦人のガリラヤ」に見るのことができるのではないでしょうか。

 “異邦人のガリラヤ”からイエス様は公生涯を始められました。神の選びの町、そこに住む人びとは、神の選びの民でした。イエス様はガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられました。多くの病人や悪霊につかれた人々を癒やされました。遠くから「あそこで何が起こっているのか」と注目されたことでしょう。それが選ばれた者の役割というものです。ところが、にもかかわらず、この町の人々が悔い改めなかったので、イエス様はこの町が滅びることを預言し(マタイ1123−24)、その預言は成就しました。現在では廃墟となっています。聖書はこのことさえも世の人々への証しとして記すのです。私たちはこの選びの町、選びの民の上に起こった厳しい事実にも目を留めなければならないでしょう。

4章17節 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 “この時から”。「その時、歴史は動いた」のです。天の御国が現実に近づいたのです。新しいステージへと進んだのです。だから「悔い改めなさい、神に方向転換をしなさい、あなたがたは向きを変えて天の御国、神の御国に向かって歩き出しなさい」と言われました。天の御国、神の御国は天上にある国ではありません。神がご支配なさる所、そこが天の御国、神の御国です。支配と言っても、今のような人間の罪、自己中心によって歪められた支配ではありません。エデンの園のように、神がすべてを愛し、養い、すべてを調和させ、完全な神の支えと配慮の中ですべてが生かされ、すべてが生きるところです。イエス・キリストの出現によってその神の国は人に「近づいた」のです。しかし、神は人間側の応答をお求めになるのです。近づいたからと言って、自然に何となくそこに入れられるのではないのです。人がそこに入れていただこうと求めて行かなければなりません。自分の足でそこに向かって歩いて行かなければなりません。それが悔い改めです。方向転換です。自分を捨て、神に背こうとするその罪を捨て、「わたしについて来なさい」と言われるイエス様を信じてついて行くことです。そのイエス様は、私たちの罪をすべて背負われて死んで葬られ、よみがえられ、私たちの罪をすべて解決してくださるお方です。すべての罪を解決してくださり、神と完全に仲直りをして、両腕を一杯に広げて待っておられる父のもとに駆け寄り、その支えと配慮の中で生きることができるようにしてくださるお方です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ146)、その道となられるお方です。その道であるイエス・キリストを信じ、その道を歩んで行こうと心に決めて歩き出すことこそ、悔い改めです。神の御国への第一歩です。そして御国に向かって自ら歩いて行く。そうしすれば御国に入れていただくことができる。これが4章23節にある“御国の福音”です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」、これが“御国の福音”です。

 イエス様はこの御国の福音を宣べ伝える公生涯の第一歩を歩き出すにあたり、ご自分を手伝ってくれる弟子を呼び集められました。

4章18節 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
4章19節 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4章20節 彼らはすぐに網を捨てて従った。

 先ほども申しましたが、今日の出来事の前にはヨハネの福音書に記されている出来事がありました。そこでアンデレとシモンはイエス様とすでに会っているのです。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でした。ヨルダン川のほとりで聞いたバプテスマのヨハネの熱のこもった神の国と悔い改めの説教は、若い漁師の心を熱くしたことでしょう。そこに待っていた神の国を実現する使命を帯びたメシヤが現れたのです。アンデレはヨハネに導かれてイエス様がメシヤであることを知って、イエス様の後をついていきました。そしてイエス様が泊まっておられるところに一緒に泊まり、夜通しだったのでしょうか、イエス様と、アンデレが求めていた神の国について何やら話しをしているのです。翌日、アンデレは兄弟のシモンをイエス様に紹介しました。すると不思議なことに、イエス様はペテロの中に何かを見て「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)呼ぶことにします」とそう言われました(ヨハ142)。シモン(ペテロ)にとっては「は?」と思う、心に深く残る印象的な出来事だったのではないでしょうか。そのようなことがあってからしばらく後、シモンとアンデレは最初にイエス様と出会ったところから遠く離れたガリラヤ湖のほとりで再びあのイエス様に出会い、呼びかけられたのです。二人にとっては驚きだったのではないかと思います。こんな所でと。私たちも「こんな所で」と思うような所で、イエス様に再びお目にかかり、イエス様に直接声をかけられることがあるのです。恐らく、シモンとアンデレはメシヤであるイエス様について、またイエス様から聞いた神の国プロジェクトのことをいつも話していたのかもしれません。熱く議論をして、理想に燃えていたのかもしれません。何とかして暗黒の中に座している人を救済しなければならない。人々を救いたい。家族を、友だちを。そういう思いが二人の心にいつもあったのではないでしょうか。だからこそ、突然のイエス様の招きにも、すぐに従う事ができたのだと思います。

4章21節 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4章22節 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 イエス様は別のふたりの兄弟をも呼ばれました。ヤコブとその兄弟のヨハネです。このヤコブの兄弟のヨハネは、先ほどのアンデレとともにイエス様の後をついていき、夜通し語り明かした人でした。ヤコブは兄弟のヨハネからイエス様のことを聞かされていたのでしょう。彼ら兄弟は激しい性格の持ち主でした。イエス様に「雷の子」という名前まで頂戴しています(マコ317)。しかし、その激しい性格であっても、あったからこそイエス様は必要としてくださいました。彼らもまた、神の国という理想に燃えていたからです。彼らは神の国の幻(ビジョン)を持ち、神を第一としていました。神の国を建設するという理想に燃えていました。そのためにはすべてのものを喜んで犠牲にすることができました。私たちも皆、褒められた性格の持ち主ばかりではないでしょう。しかしイエス様はすべてをご存知の上で一人ひとりを選び召してくださいました。こんな所でと思うような所で召してくださいます。私たちが神の国の幻ビジョンを持ち、神を第一として、隣人の救いを熱く求めているならば、主はいつでもどこでも存分に用いてくださるのです。

 このようにイエス様は公生涯の第一歩を歩き出すにあたり、ご自分を手伝ってくれる弟子を呼び集められたわけですが、手伝うと言っても、あくまで救いは主のみわざです。彼らはみな平凡な漁師でした。権力者でもなければ学者でもありませんでした。イエス様はあえて知者や権力者を選ばずに、平凡な漁師を選ばれたのです。イエス様は後に一時世から離れて行ってしまいます。けれどもやはり救いは主のみわざです。その後、地上で“御国の福音”「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」を宣べ伝えて行くために、弟子たちを一番近くの目撃者として、また証し人(その身をもって証しする者)として必要とされたのです。

 彼らはイエス様に“従った”と記されています。この【従う・ἀκολουθέω】という語は、同行する、立ち会うという意味の語です。イエス様はただご自分を信じ、ご自分に同行し、立ち会う人材を求められるのです。イエス様といつも一緒に行動し、生活し、イエス様のなされるみわざを一番近くで目撃し、自分も体験し、イエス様が語られる福音を一番近くで聞き、自分たちも変えられて、そして証しする者として、ご自身の宣教のわざ、救いのわざを手伝わせるのです。私たちには何の力もありません。主が求めておられるのは、ただご自分に同行し、立ち会う人材です。証しする人材です。私たちはそのような人材として呼び集められています。何も力あるわざが出来ないとがっかりする必要はありません。主はご自身を信じて従う私たちの姿、私たちの証しを必要とし、私たちの証しを用いてくださるからです。私たち人間を獲る漁師とされた者は、「あの人の身にいったい何が起こったのか」といった、私たちの口から出る証し、また私たちの内側から滲み出るような証し、内側から香ってくるキリストの芳しい香りをもって人々を獲り(罠のようで変な言い方ですが)、イエス様の前にお連れすれば良いのです。

 しかし彼ら2組の兄弟たちは、神の国のビジョン、イエス様のご計画についてすべて正しく理解できてはいませんでした。どこか政治的に、武力的に考えていたところも垣間見えます。すべて正しく理解したのはずっと後になってからです。イエス様に従い続け、イエス様の十字架の死を経験し、主のよみがえりを目撃し、聖霊が下って、神の愛を本当に知って、そこで初めて神の国を正しく理解できたのです。その点は私たちも覚えておく必要があるでしょう。常に愛の主から目を離さずに、常に主の愛を経験し、そこから神の国、隣人に対する主の御心を正しく理解できるように、私たちはへりくだって求めて続けてまいりましょう。目を覚まして隣人の救いを祈っていましょう。そうすれば、悪魔の誘惑に目を惑わされることはありません。福音宣教の働き、人間を獲る漁師の働きというのは、人を通して世のものを得ることではなく、人のいのちを救うのが目的なのです。その目的を見失ってはなりません。

 ところで、彼らは網を捨てて従いました。舟も父も残してイエス様に従いました。これは私たちに、仕事を一切せずに、父と断絶しろという意味でしょうか。仕事も家族も捨てろということをイエス様は求めておられるのでしょうか。そうではありません。そうであるならば、最近世を賑わせているどこぞの異端と同じです。神を第一として、家族の生活を省みることなく、土地を売り、全財産を献げろと。その結果どうなったでしょうか。家族は救われるどころか破綻し、家族の一人は恨みが募って人を殺め、人生を狂わせてしまったではありませんか。神は決してそのようなことなど求めておられません。家族を捨てるのではなく、家族のいのちを得るようにと言われるのです。私たちが主に召されたのは、家族を捨てるのではなく、家族のいのちをも得よということです。世と世の人々を捨てるのではなく、世と世の人々のいのちを得よということでしょう。そのために神は私たちを召され、何よりも神を第一とするように言われるのです。

 神を第一とするということはどういうことでしょうか。それは神の戒めを守ることです。神の戒め。イエス様は神の戒めをぎゅっとまとめて「神と隣人とを愛すること」であると言われました。神を愛していることはどのようにして分かるのか。自分を無にして、隣人を嘘偽りなく本当に愛することによって分かるのだと聖書は言います。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、必要としているものはすべて与えられます」(マタ633)。生活に必要な糧を得るための仕事も、父はじめ家族も、失うのではなくて与えられるのです。ですから2組の兄弟たちが本当に捨てたのは、その場に置き去りにしたのは自我でしょう。将来の心配、思い煩いでしょう。それらを捨て、イエス様にすべてを期待し信頼し、イエス様に従って行ったのです。

 それにしても残されたヤコブとヨハネ父は、まったく反対したり怒り狂ったりしなかったのでしょうか。先ほども少し触れましたが、この兄弟はイエス様に叱られてしまうほど性格が激しい人たちで、また野心家でもありました。二人のお母さんまでも一緒になって、御国で上座につけられるようにイエス様に懇願して、これまたイエス様に叱られてしまいました(マタ2020−28)。性格が激しく野心家と言えば、二人の父もそうだったのかもしれないと私は想像します。この父は実際、金持ちで雇い人も多い、漁業で成功した事業主でした。利益第一主義の大事業主だったのかもしれません。何らかの方法で息子たちにも偉くなって欲しいと考えていたのかもしれません。それで反対しなかったのか。しかし兄弟は変わりました。イエス様に従って行く中で激しい性格は良い意味での激しさに変えられ、野心家の心も変えられたのです。イエス様が十字架に架けられ死んでしまっても、弟子をやめようとしませんでした。それどころかヤコブなど、最初の殉教者になったと記録されています。野心よりもイエス・キリストを愛し抜いた。両親はその変えられた姿を目の当たりにして、両親もまた変えられたのではないかと思うのです。イエス・キリストを信じ救われたのではないかと期待するのです。

4章23節 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
4章24節 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタ1228)。イエス様はそう言われました。病気やわずらいを癒やし、悪霊につかれた人を癒やし、神の国があなたがたのところに来ている、近づいたと実際に証明されました。そして会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられました。近づいた神の国に入るには、あなたがたの側の応答が必要なのだと。それは悔い改め、神への方向転換、神の国に向かって自分の足で歩いて行くこと。わたしという道を通って、わたしに従って歩いて行くことを決心しなさいと。

 イエス様のうわさ、イエス様の教え、御国の福音はシリヤ全体、つまりガリラヤ地方全体に広まり、やがて25節にある通り、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸にまで広がり、「異邦人のガリラヤで何が起こっているのか」と注目され、遠くから大勢の群衆がイエス様につき従うようになりました。24節と25節の地域を地図で囲ってみると、そこはかつて旧約時代にイスラエルの民に与えられた「約束の地」と重なるのです。約束の地、究極的には天の御国でしょう。かつて出エジプトを経験し、約束の地に入れられた人々は、「この時、歴史が動いた」、新しいステージへと動き出した、神の呼びかけに応えて、約束の地、天の御国を自ら求めて、イエス・キリストを通って天の御国に入れられるために、再び歩き出したのです。真の悔い改め、方向転換へと導かれたのです。

 今朝はイエス様の公生涯の始まり、福音宣教が開始されたところを見てまいりました。「この時から」歴史は動き出しました。預言、神の約束は成就しつつあります。新しいステージへと動き出しています。イエス・キリストの出現によって天の御国は近づきました。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、天の御国は私たちにとってますます現実のものとなりました。この時から福音宣教が始まり、この時から弟子とされた者、私たちを通しての福音宣教は始まりました。私たちが神を愛し、隣人を愛し、神の御国を求める熱い思い、隣人の救いを求める熱い思いを常に持っているならば、神は私たちに「こんなところで」と思われるような所で声をかけ、人間を獲る漁師へと召してくださり、私たちのすべてを用いて、すべてを益として働かせ、ご自身の力あるみわざをなしてくださいます。家族が、隣人が、世界の人々が私たちの身に起こる幸いな出来事を不思議に思い、注目するでしょう。その証しを主は必要としてくださっているからです。そう信じるなら、私たちの試練もまた試練ではなくなります。私たちはそのような幸いな弟子としてこれからも主とともに歩き、主から目を離さずに、また主の御心から目を離さずに、主の御声を聞き漏らさず、日々弟子として整えていただきながら、網の破れたところを繕っていただきながら従ってまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す