2022年8月14日 主日礼拝「至福の教え」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  23番「くる朝ごとに」
聖 書  マタイの福音書5章1〜10節
説 教  「至福の教え」佐藤伝道師
讃美歌  338番「主よおわりまで」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章1〜10節

説教題

「至福の教え」

今週の聖句

天の御国はその人のものだから。

マタイの福音書5章3b節、5章10b節

今週の祈り

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。
(申命記31:8)

聖霊よ、私が悩み苦しむとき、神が私から離れていくことは決して無いと、どうか思い出させてください。

説教「至福の教え」

※説教原稿は、2022年8月14日正午頃に掲載します。

アウトライン

はじめに)

  • 良い医者の条件

1) 山上の垂訓は弟子たちに語られたもの

  • 垂訓…教訓、人生において役立つ教えを後世の人々に残すこと。何か損失が起こった時に、次回からの戒めとして前向きにとらえる表現のこと

2)至福の教え(3節〜10節の8つの祝福)を味わうために

  • 各節ごとに幸福の宣言、幸福の条件(弟子であることの条件)、幸福の理由(弟子であることの利点)が述べられる
  • ユダヤ的な詩の形式・技法に則っている。3節と10節に挟まれる形で4節から9節があることに注目したい。3節「心の貧しい者」=10節「義のために迫害されている者」。3節と10節には「天の御国はあなたのものである」とあり、すべての節の底に流れていることになる
  • 3〜6節の前半(消極的・受動的)、7〜10節(積極的・能動的)
  • 3節⇔7節、4節⇔8節、5節⇔9節、6節⇔10節 あるいは 3節⇔10節、4節⇔9節、5節⇔8節、6節⇔7節 と、ユダヤ的な詩の形式・技法によって前半と後半の1節1節を対応させて、互いに関連し合い、その意味を補足して説明し合って、いっそう意義深いものにしている(是非、それぞれに味わっていただきたい)

3)至福の教えは、弟子に何度も語られた

  • 「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモ312)その弟子に対して何度も語られる

まとめ)

  • この世的には損な生き方に見えるかも知れない弟子としての歩みの中でつまずき倒れそうな時に、イエス様は“山(私たちにとっての山とは?)”に登られ、私たちの前に座られ、私たちの歩みを一旦止め、休ませ労い、教訓を幸福の宣言、幸福の条件、幸福の理由を語られる
  • 「ああ、なんと祝福されていることよ」との主のみことば、主の慰めを信仰をもって何度も受け取り、私たちの今を生きる力としていく

2022年8月14日 主日礼拝「至福の教え」

マタイの福音書5章1〜10節

 母から聞いたことなのですが、祖母は自分のかかりつけの医者をなかなか決めることができずに、母はとても苦労したそうです。知り合いの方々から何人もの評判の良い医者を紹介されて、母は祖母を連れてあちこち訪ねたのですが、祖母は「あんな医者はダメだ。やぶ医者だ」と納得しませんでした。最終的にある方に「あの医者は良い医者だから行ってみては」と勧められ、ついに祖母は「あの人は本当に良い医者だ」と、めでたくかかりつけ医が決定しました。確かに腕の良い医者のようです。しかし祖母が「良い医者だ」と認めることができたのは、実は自分の話を良く聞いてくれる医者だったからでした。大したことないのではと他人が思うようなほんの些細な痛みや不調の訴えであっても、その医者は祖母の話しを最後まで真剣に聞いてくれていたようです。すべての患者に対してそのような感じなので、その医院はいつも混んでいます。

 前回見ましたマタイの福音書4章の23節にはこうあります。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。病気とわずらいとわざわざ分けていますが、ここに何か意味があるのだろうかと思わされます。人々が本当に必要としていたのは、病気の癒やしばかりではなく、霊的、心の癒しも含めてだったのではないかと思うのです。「先生、病気で痛いのです。痛くて辛いのです。病気のせいで私がどれほど苦労しているか、どれほど悲しいか、どれほど不安で孤独であるか聞いてください」。すべてを受け入れて耳を傾け、共に泣き、共に笑う医者、そのような良い医者を人々は求めていたのでしょう。そしてイエス様は評判の良い医者でした。

 そのようなイエス様の評判が一帯に広がり、大勢の群衆がイエス様につき従いました。そのすべての人が重病人とは考えにくいです。イエス様につき従った群衆は、やはり自分がどれだけ苦労しているか、悲しいか、不安で孤独であるかを訴えたかった、聞いてもらいたかった、理解して欲しかった、助けて欲しかったのでしょう。時代はローマの圧政に苦しめられ、重税に泣かされる時代。戦争はありませんでしたが、ローマの支配下に置かれ夢も希望もありませんでした。イエス様は迫害の厳しさ、また生きることに難しさを覚える人々が群衆となってご自分のもとに押し寄せて来る姿をご覧になって、実物教育ではないですが、今こそ弟子たちに教えなければならないと思われたのでしょう、山に登り、おすわりになり、弟子たちに教えられたのです。

 今日からの箇所はとても有名な箇所です。イエス様が山に登り教えられたので、「山上の垂訓」として広く知られています。この山上での垂訓は、8章1節でイエス様が山を降りるまで続きます。

 「垂訓」というのは、教えを垂れること。教訓(人生において役立つ教えのこと)を後世の人々に残すことです。また、何か損失が起こった時に、次回からの戒めとして前向きにとらえる表現のことも教訓と言います。イエス様は様々な迫害に苦しみ、悲しむ群衆をご覧になって、群衆ではなく、見落としがちですが、実は弟子たちに向かって、弟子たちのためにこの「教訓」を語り始めたのです。だからと言って決して群衆が取り残されている訳ではありません。7章28節にはこの群衆もまた弟子たちとともにイエス様の垂訓を聞いていました。

 弟子たちというのはどのような人たちのことでしょう。古代では弟子になると師匠と生活を共にしながら学び、模範に従う者たちが「弟子」と呼ばれました。イエス様の弟子たちもそうでした。私たちはどうでしょう。聖霊が注がれ、聖霊なる主が私たちの内に住まわれ、私たちは主と寝食を共にし、常に聖霊によって教えられ、イエス様のお言葉、模範を思い起こさせられながら主に倣い、主に導かれて主とともに歩む者とされています。と言うことは、やはり私たちはイエス様の弟子です。その弟子たちに、迫害に苦しみ悲しむ群衆をご覧になったイエス様は、その視線の向きを弟子たちに変え、大切な教訓、人生において役立つ教えを語り始めるのです。当時、ラビは正式に教える時には座って教えました。イエス様は座り、弟子たちの歩みを止め、口を開き(この「口を開き」というのは、これから大切なことを語るという厳粛な表現なのです)、弟子たちに「教えて、言われた」のです。

 ここに【教えて】とありますが、原語ではこの説教をただ一回だけ語られたのではなく、何度も繰り返し語られたことを表す「未完了形」という時制表現がされています。ルカの福音書では同じ教訓が山の上ではないあちらこちらで語られていることからもそのことが分かります。イエス様は何度も何度も、弟子たちとの宣教の歩みの中でこの垂訓を繰り返し語られたのです。今朝の箇所はその山上の垂訓の中の「至福の教え」として、古来から親しまれてきたところです。あくまで弟子に対する至福の教えで、弟子であることの利点(メリット)を教えます。

 できるだけ原語に忠実にお読みします。この順番によると、各節ごとにまず素晴らしい弟子に対する幸福の宣言がなされ、次に幸福の条件(弟子であることの条件)、そしてその幸福の理由(弟子であることの利点)が述べられます。

5章3節 「ああ、なんと祝福されていることよ、心の貧しい者。天の御国はその人たちのものだから。

 素晴らしい幸福の宣言ではないでしょうか。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「心の貧しい者」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「天の御国はその人たちのもの」です。

 【貧しい】とは、しゃがみこんで縮こまる人のこと、物乞い、乞食のことを言います。それが「心において貧しい人」であるのですから、神の前に何も持っていない人、神のあわれみにすがって生きるしかないとされている人、つまり信仰の篤い敬虔な人という意味です。実はユダヤ教の文書では「貧しい者」は、信仰深いが迫害されている神の民を意味しているのです。神はそのような者を最終的にはかばってくださり、守ってくださるのです。それは旧約聖書を見ると良く分かるのですが、いつも神さまは信仰深く迫害されている神の民をかばい守ってこられたではありませんか。

 物乞い、乞食という単語はこの世的には禁止用語で、それで聖書は「貧しい人」と言い換えてしまっています。イエス様が言わんとすることを薄めてしまっているように思います。それがどれほど切実で辛く苦しく悲しいことであり、どれほど切実に神を求めているかということは、貧しい人という言葉では言い尽くせないと思います。病気、迫害、人生の中で何かにつまずき、どうしようもなくなってしまい、希望が奪われ、弱り果て、しゃがみ込んで縮こまってしまっている。物乞いのようにあわれみにすがってご自身のもとに駆け込んできた。イエス様はあわれみをもって群衆をそのように見ておられたのではないでしょうか。その群衆をご覧になって、イエス様は弟子たちに教えられたのです。謙遜に神を信頼し、神に忠実に生きた結果、迫害を受けたり、物質的な不利益を被ったりしても、それでも神を信頼し続ける。そこで試練、試みを経験するでしょう、そこで自分の内に何も良いものなどないことを知るのでしょう。私は罪深く、神のあわれみに頼るほかない自分に気付くのです。霊的乞食になるのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう」(ロマ724)。そのような弟子に「ああ、なんと祝福されていることよ。天の御国はあなたのものである」とイエス様は仰ってくださるのです。天の御国とは、神がご支配なさるところということです。アダムとエバがエデンの園で神の支配、完全な支えと配慮の中に置かれていた時に真の幸福があったように、心の貧しい者、真の弟子は同じ神の支配のもとに置かれ、真の幸福が与えられているのです。弟子とされ歩み始めたすべての人に、すでに備えられているこの真の幸福、「天の御国」神が人生をご支配なさっておられることを見出すようにと、イエス様はあわれみをもって今も何度も何度も呼びかけておられます。

 ところで、今日の箇所は詩篇のように、ユダヤ的な詩の形式・技法に則っています。3節と10節をご覧ください。「天の御国はその人たちのものだから」と、全く同じ語が見られます。つまり3節と10節に挟まれる形で4節から9節があり、ユダヤ的な形式によると「心の貧しい者」つまりそれは「義のために迫害されている者」、そして「天の御国はあなたのものである」ということがすべての節の底に流れているということになります。そのことを覚えておくと、4節からもなお味わい深いものになるのではないかと思います。

5章4節 ああ、なんと祝福されていることよ、悲しむ者。その人たちは慰められるから。

 素晴らしい幸福の宣言。その幸福の条件(真の弟子であることの条件)は「悲しむ者であること」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「慰められるから」。

 【悲しむ】は、悲しみや嘆きを表す強い言葉です。ここでは罪に対する嘆き、罪悪感に苦しむ言葉として使われています。悲しむ者は、神の前に自分の罪を悲しむ人、また神に対して忠誠であるために苦しんでいる人たちのことです。本当の自分の姿を知り、悲しむ人のことです。しかし天におられ、すべてをご存知の神は決して放ってはおかれません。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神はそれをさげすまれない」(詩51:17)。神は信仰ゆえのすべての労苦を認め、労い、慰めてくださるお方です。それは今なされることであり、究極的には終わりの日になされることです。それは弟子になされることで、弟子であることの利点です。

5章5節 ああ、なんと祝福されていることよ、柔和な者は。その人たちは地を受け継ぐから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「柔和な者であること」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「地を受け継ぐから」。

 「柔和な者」というのは、心の貧しい者とほとんど同義語なのではないかと思います。自分の存在が全く神によることを知る謙虚な人。自分には何も良いものなどないことを知る人。イエス様の弟子とされたのも、救われたのも、ただ恵みによって神に敵対し罪人であった私に主から声をかけていただいて、主によって召していただいた私です。それを知る人は、たとえ相手が神と自分に敵対する者であったとしても、優しく、柔和、温和、温厚に接することのできる人です。また、自分が善人になったような気がして、自分が偉くなったかのように威張り散らすのではなく、神に信頼して、神の義、神の公平な取扱いに委ねる人です。ですから柔和な人とは単に心が優しく、いつもニコニコしている人ということではありませんし、すべてを諦めてしまっている弱い人ではありません。そのような人たちは「地を受け継ぐ」のです。柔和な人が邪悪な人に取って代わるのです。それは無力なイスラエルであっても神に信頼し忠実に従った時に、神のみわざによって強力なカナン人に取って代わり、約束の地が与えられたようにです。邪悪な者、力を持つ者がこの地を支配しているように見えるけれども、神の約束は、柔和な者を神はかばい、守られ、最終的に柔和な者に勝利を与えてくださるというものです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテ55−7)。その神の確かな約束が、イエス様が教えられる幸福の理由、弟子であることの利点なのです。

5章6節 ああ、なんと祝福されていることよ、義に飢え渇く者。その人たちは満ち足りるから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「義に飢え渇く者であること」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「その人たちは満ち足りるから」。

 【飢え渇く】、イエス様の荒野の誘惑のところでも扱いましたが、これは「空腹になる、困窮している、それゆえに切望する」ことです。霊的な必要、願望を表す強い表現です。これも「心の貧しい人」と同義語です。日本語では分かりませんが、原語ではこの語の用法には特徴があり、それは継続的であり、飢え渇く度合いがさらに強くなっていくことを表す時制が使われています。弟子として歩んで行く時、様々な苦しみを味わうでしょう。反対する者に苦しめられるでしょう。信仰がある故に苦しみを感じることがあるでしょう。弟子として成熟して行くとき、その度合いはさらに強くなっていくことでしょう。そのような苦しみの中で、神との正しい関係を切望するのです。神が私の味方でいてくださること、神が悪を正しく裁き、神が善に正しく報いてくださることを切に求める者とされるのです。「復讐はわたしのすることである。あなたはわたしを信頼し、ひたすらに善を行えば良い」(ロマ1219−20)。そのような者を主は「なんと祝福されていることよ」と言われるのです。

 そして【満ち足りる】という語は、腹一杯飽きるまで食べさせるという意味から来ています。それが霊的なことにおいて。「わたしが、あなたの神、主である。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」(詩8110)。神は義に飢え渇く弟子に「口を大きくあけなさい。わたしに求めなさい。そうすればわたしが満ち足らせるから」と仰ってくださっています。弟子としての歩みの中で苦しみ、そこで神との正しい関係を切望する者、神が私の味方でいてくださること、神が悪を正しく裁き、神が善に正しく報いてくださることをますます切に求める者に、神はそれらをいっぱいに満たしてくださる。満たされる量もまた大きくなるのです。イエス様はこのこともまた弟子であることの利点として教えてくださるのです。

 3〜6節で8つの祝福のうち4つの祝福が語られました。これまでイエス様は、神と人との関係の中で、自分の意志からではなく周囲に動かされ、影響されて生じる結果など、消極的、受動的な側面から語ってきました。あなたがたはこのような者とされているが、それこそが幸福、弟子であることの利点なのだと。7節からは自分から他へ働きかける、そのような積極的な、能動的な側面から語られます。あなたがたはわたしの弟子として、このように生きなさい。それこそが幸福、弟子であることの利点なのだから。そう主は言われるのです。

5章7節 ああ、なんと祝福されていることよ、あわれみ深い者。その人たちはあわれみを受けるから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「あわれみ深い者であること」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「その人たちはあわれみを受けるから」。

 【あわれみ深い】とは、人の苦しみや悲しみに深く同情することを言います。冒頭でも触れましたが、当時、病気や苦しみはすべてその人の罪の結果、報いであると考えられ、そのようなことのために苦しむ者へのあわれみは打ち消されてしまっていました。弟子たちも生まれつき盲目の人を前にしてこんなことを言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(ヨハ92)。そこに苦しむ者へのあわれみはありません。裁き、断罪があるのみです。そのような弟子たちに「あなたがたはあわれみ深くありなさい」とイエス様は言われるのです。

 人はまことに、苦しむ者に対する真実の愛、嘘偽りのない愛、同情、あわれみは持ち合わせていません。しかし、神のあわれみを受ける価値のない自分に対する神のあわれみ深さを経験することによって、人は初めて自分もあわれみ深い者とされるのです。その神から来るあわれみを積極的に、自分から進んで他に分け与える時、神は私たちをあわれみ、労苦に対する慰め、励まし、労い、良い報いをさらに加えてくださいます。これも弟子であることの幸いな利点であり、弟子を励ますものです。

5章8節 ああ、なんと祝福されていることよ、心のきよい者 。その人たちは神を見るから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「心のきよい者であること」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「その人たちは神を見るから」。

 【きよい】とは、きれいな、純粋な、汚れのない、無罪、無実、正直、そしてまざりもののない、水でうすめられていないという意味です。「心のきよい」とは、二心(疑いの心、謀反・反逆・背くの心=罪)ではなく、一心に疑いなく、反逆する思いなく、ひたすら神を信じ神を求めることです。そのような人たちは神を見ると。「見る」とは、ただ見るだけではなく、経験すること。神を識別することができる。様々な状況の中に神がおられ、神が御心をなさっておられることを見て、そして経験することができるのです。ところが悪魔は弟子の心に混ぜ物をするのです。水でうすめようとするのです。弟子としての祝福をかすめ奪おうとするのです。気をつけなければなりません。私たちは常に神を見つめていたいものです。そしてやがて最終的には、天の御国において神と顔と顔を合わせてお会いすることができるのです。これも弟子であることの利点です。

5章9節 ああ、なんと祝福されていることよ、平和をつくる者。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「平和をつくる者」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「その人たちは神のこどもと呼ばれるから」。

 「平和・シャローム」はユダヤ人にとって、人間の最高の幸福を作り出すすべてのものと理解されていました。社会的にも精神的にも平和・平安で、争いがなく、誰からも抑圧されておらず、心も身体も落ち着いた平和な状態。それこそが幸福の源だと考えられていました。そして何よりも、神はダビデにも言われていますが、神の国は争いではなく平和によって建て上げられるのです。

 本の表紙にこのようなタイトルが掲げられていました。「クリスチャンは平和を作れる?」。考えさせられるところです。弟子たちは福音を託され、福音を携えてこの世に遣わされます。その先々には愛せない人がいるでしょう。私たちに反対する者、私たちを迫害する者たちもいるのです。そのような中で平和をつくらなければならない。非常な努力が必要。真実には愛せない自分。真の平和の源は神にあり、神にしかないのです。そのようなことは神は百も承知です。その上で「平和をつくりなさい」「平和を求め、それを追い求めよ」(詩3414)と言われるのです。神に平和を求め、神の平和を追い求めて平和をつくろうとする者を、神は「わたしの愛する子」と呼んでくださいます。真に神と隣人とを愛せない、いつも自分というものが頭をもたげて対立の姿勢をとってしまう。自分の足りなさを認めつつ、悲しみつつ、それでも平和を追い求める者を、神は「わたしの愛する子」と慰めてくださいます。足りない者であっても恵みによって神の子としてくださり、イエス・キリストとともに地を受け継ぐ者、御国を相続する者としてくださいます。これも弟子であることの利点です。

5章10節 なんと祝福されていることよ、義のために迫害されている者。天の御国はその人たちのものだから。

 素晴らしい幸福の宣言です。その幸福の条件(弟子であることの条件)は「義のために迫害されている者」。幸福の理由(弟子であることの利点)は「天の御国はその人たちのものだから」。

 【迫害する者】という語は、「私を追求してくる者、私を責め立てる者、私を害するために後をつけ回す者たち」を指しています。この世に人々は、神の義、神の目に正しいことを行おうとするイエス様、そしてイエス様の弟子をつけ回して迫害するのです。イエス様の真の弟子は迫害されるのです。迫害の標的となるのです。邪悪な世は神の義に生きる者を無視することはできないからです。バプテスマのヨハネは殺されました。キリストも十字架につけられました。使徒たちも迫害され、いのちを失いました。私たちは義のために迫害される者となっているでしょうか。世に調子を合わせ、神の義が後回しにされていないでしょうか。していないでしょう。神の義を追い求めているからこそ、生きづらさ、葛藤、悩みや苦しみがあるのですから。そのような弟子が祝福を受けるのだ。天の御国はその人たちのものだからと、3節と同じ神の弟子であることの利点、同じおことばをもって8つの祝福を閉じられました。

 この教訓は、確かに弟子たちに語られたものでした。しかし最初に触れましたが「大ぜいの群衆」もこの8つの祝福を聞いていました。群衆もまた、この至福の教えの中に自分の姿をうっすら重ねて何かを感じ、心に温かなものを感じたのではないでしょうか。かつて私たちもそうでした。もしかしたら、この時の弟子たちはまだ群衆とさほど変わらなかったのかもしれません。イエス様の弟子であるということで、ひどい迫害はまだ受けていなかったはずです。まだ心は燃えていたはずです。ここからが皆にとって、イエス様の真の弟子となるためのスタートとなったのかもしれません。弟子として歩み出した歩みは、やがて決して簡単ではないことに気付くのです。パウロはテモテに言いました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモ312)と。イエス様は弟子であることの至福の教えを何度も何度も教えられました。この世的には損な生き方に見えるかも知れない、そんな弟子としての歩みの中でつまずき倒れそうな時に、イエス様は“山”に登られ、私たちをつまずかせる山、困難という山、苦しみ悲しみという山に登られ、私たちの前に座られ、私たちの歩みを一旦止められ、休ませて労い、そこで至福の教えを、幸福の宣言、幸福の条件、幸福の理由を語られ、私たちを励まされるのです。「ああ、なんと今、あなたは祝福されていることよ」と何度も励ましてくださるのです。弟子であるが故の苦しみ、信仰があるが故の苦しみを味わう中で、主が約束されている祝福が信じられない時がどうしてもあるのです。祝福が祝福として受け取れない時があるのです。ですから何度も何度も「ああ、なんと祝福されていることよ、このようにわたしの弟子となっているあなたは」との御声を聞かせてくださるのです。そこで私たちは、主のこの御声を聞いて、弟子である事の利点を利点として、これ以上ない至福として喜ぶ者でありたいと思います。至福の教えとしてしっかりと耳を傾け、主の愛を受け取る者でありたいと願います。私たちは、イエス様の教えと模範に従う真の弟子となることが最善の生き方であることを真に知る者とされたいと願います。主の教訓を何度も何度も聞き、味わえば味わうほどに真の弟子とされ、それが最善の生き方であることを確信する者とされていきたいと願います。荒野で試みにあわれたイエス様、信仰ゆえに起こりうるすべての労苦をご存知であるイエス様が、事ある毎に私たち休ませ労い、そして語ってくださる「ああ、なんと祝福されていることよ」との主のみことば、主の慰めを信仰をもって受け取り、私たちの今を生きる力としてまいりましょう。

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