2023年1月29日 主日礼拝「主のように、主とともに」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  271番「いさおなきわれを」
聖 書  マタイの福音書6章11〜15節
説 教  「主のように、主とともに」佐藤伝道師
讃美歌  291番「主にまかせよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章11〜15節

説教題

「主のように、主とともに」

今週の聖句

私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。

箴言30章9節

今週の祈り

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル4:16)

愛する父よ、あなたは私の心をご存じです。あなたを信頼して答えを待てるように助けてください。

説教「主のように、主とともに」

マタイの福音書6章11〜15節

前回、主の祈りは、「絶対に、必ずしてください」という、実に大胆な祈りであり、必ず聞かれる祈りであることを教えられました。本朝は、主の祈りの後半にあります3つの祈りに教えられてまいりましょう。前半の3つの祈りは、神の栄光を求める祈りでしたが、後半3つの祈りは、弟子たちの必要を求める願いとなります。先ほども皆さんとご一緒に祈り、また交読もしましたが、次の3つの祈りになります。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」。日ごとの糧、負い目(罪)の赦し、試み・悪からの救い。イエス様はこの3つが弟子たちにとって本当に必要なものであるとしているのです。何の必要かと言うと、神の栄光を現すために必要なものです。そしてこの3つの祈りもまた、前半の祈りと同様に「絶対に、必ず」という大胆な祈りであり、必ず聞かれる祈りです。

さて、主の祈りはいつ祈るものだと思いますか。朝でしょうか、それとも夜でしょうか。「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサ516−18)と神が望まれていますが、どちらかというとこれは主の祈りを絶えず祈りなさいというよりは、いつも主に依り頼み、常に祈り心をもって生きなさいというようなものではないかと思います。主の祈りの中で、6章11節を見ますと「今日もお与えください」と、日ごとに求めるようにと言われているところを思うと、もしかしたらこれは一日の始めに祈るべき祈りなのだろうかと思わされます。さらに考えてみると、聖書の時代は一日が夕方(日没)から始まり、夕方に終わっていました。ですから、実は主の祈りは、夕方に祈るようにとイエス様が私たちに与えてくださった祈りなのではないかと思うのです。例えば、一日が終わった夕方に静まって、「今日の私たちのあなたへの負い目をお赦しください」と祈り、新しい日が始まる同じ夕方に「私たちの日ごとの糧を、これから始まる今日もお与えください」と祈る。また、一日の始まりである夕方に静まって新しい日の計画を立て、仕事等のために必要な準備をして、「今から始まる一日も、私たちを、試みにあわせず、悪からお救いください」と祈る。そして一切を主に委ね、安心して眠りにつき、まどろむことも、眠ることもない父なる神(詩1214)は「愛する者に眠りを与えてくださる。眠っている間に備えてくださる」(詩1272)と言われる神ですから、私たちが眠っている間でさえも私たちを守り、休息を与え、環境や抱えている問題などを整えてくださり、癒やしてくださり、赦してくださり、知恵や新しい力・エネルギーを補給してくださる。新しい朝に目覚めたならば、主とともに起き上がり、主の復活に与り、溢れんばかりに満たされた、いのち、力、希望や喜びに満ちあふれ、聖霊に満たされて、守られて、主に任された仕事を与えられている賜物を用いて日没までに成し遂げていく。そこに神の栄光が現されていく。繰り返し一日の終わりと始まりである夕方(日没後)に祈る主の祈りの大切さをここに覚えるのです。

6章11節      私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

「糧」についてですが、ギリシヤ語の原語では「パン」です。前半の神の御名と御国とみこころのための祈りを「大きな祈り」とするならば、一つのパンを求める祈りは「小さな祈り」と言えるでしょう。イエス様は、天の父である神に「今日私たちが食べるパンを絶対に、必ず与えてください」と祈るように命じておられます。全知全能、全世界を創造し今も支配しておられる偉大な神が、小さな無に等しい私たちに目を留められ、心配して、毎日必要な食べ物を必ず与えてくださるという約束の祈りです。私たちにとっては大きな喜びの祈りではないでしょうか。同時に、私たちは神の支えとご配慮がなければ生きられない者であることを覚えるのです。そしてイエス様はそのような私たちのために神のあわれみを願い求めてくださっているのです。しかし、私たちはこの祈りを本当に祈っているでしょうか。口では「パンを与えてくださる神に感謝します」と言いながら、心の中では神を知らない多くの豊かな人々のように、自分の力で毎日食べる物を手に入れることができると思っていたり、逆に「毎日食べる物がない」と思い煩っていても、神が食べる物を与えてくださるとは本当には思っていない、などということがあるかもしれません。“そこに信仰はあるのか?”です。

また、具体的に糧(パン)と言われていますが、それをもっと広く捉えるならば、私たちが生きていく上でどうしても必要な物とも言えるでしょう。肉体的にも、霊的にも必要な物とも言えるでしょう。パンがなければ肉体は滅びますし、パンがなければ心が荒んで霊的にも滅んでしまいます。生きていく上で必要なもの。それは人それぞれ違うかもしれません。心と身体の健康、知恵や才能、仕事、お金、権威、家族や友人、教会の兄弟姉妹等の支え合う交わり、愛など、そういったものがなければ生きていけないと思う人もおられると思います。しかし全地全能の私たちの父である神は、私たちに本当に必要なものをすでにすべてご存知なのです。そして日ごとの必要を備えてくださっておられるお方です。一日の終わりに、私たちは感謝して満足すべきです。なお多くの不満があるとするならば、それは必要な物を神が与えてくださっている、与えてくださると信じていないからです。そのことを信じて一日の終わりであり、新しい一日の始まりに熱心に祈り、一切を神に期待し委ねることができるなら、不満ではなく感謝となるでしょう。恐れは希望となり、平安に眠りに就くことができるでしょう。安心して神に向かって口を大きく開いて眠るなら、神は必要な分をそこに満たしてくださるでしょう。

その時に、一緒に祈るべき祈りが箴言にあります。それは箴言30章8〜9節の祈りです。「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物(日ごとの糧・パン・私たちが生きて行く上でどうしても必要なもの)で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように」(箴308−9)。

とは言え、私たちが「私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈れば、毎日天から必要なものが落ちてくるわけではありません。神は私たちそれぞれに賜物を与え、互いに愛し合い、仕え合うようにして、それぞれの必要が満たされることを御心としておられるのです。イエス様は「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。裕福な人に、貧しい人々を助けるようにも命じられました。パウロは信者たちに、困っている人を助けるために正しい仕事をし、労苦して働くように勧めています(エペ428)。私たちが神の子どもとされているならば、自分と自分の大切な人が幸せになるためだけに、日ごとの糧を祈り求め生きるのではないのです。私たちは自分と自分の肉の家族のためにはもちろんのこと、神の家族のために、そしてすべての隣人「全世界の人々」のために、一生懸命に神から任された賜物を用いて、それぞれの仕事をしなければなりません。労働ばかりではありません。祈りの賜物が与えられているならば祈り、交わりの賜物が与えられているならばそれを用い、献げる賜物が与えられているならば献げ、自分の弱ささえも神に献げるならば、全能なる神はそれを聖めて用いてくださいます。私たちは毎日、「私が、あなたのみこころを行うために必要なものを与えてください」と祈り、聖霊に満たされて神のみこころを実行する歩みを続けてまいりましょう。愛のわざに励みましょう。愛の聖霊に満たしていただいてみこころを行い、御国(教会)を建て上げ、御名の栄光を現す者としていただきましょう。

6章12節      私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

イエス様は、一日が終わったら、「私の負い目(罪)をお赦しください」と祈るように教えてくださいました。しかし、何よりもまず私たちは、「私をお赦しください」と祈る必要がないことを感謝しましょう。私たちはイエス・キリストの十字架によって、すでに神に赦され義と認められ、神との間には親と子のような完全なる平和な関係が与えられ、決してさばかれることも罰せられることもない、永遠に神に愛される神の子どもとされているからです。私たちは「私をお赦しください」と祈る必要はありません。しかし「私の負い目(罪)をお赦しください」と毎日祈らなければならないとイエス様は言われます。では、私たちが毎日赦しを求めなければならない負い目(罪)とは何でしょうか。

「負い目」ということばは、一般的な罪のことです。ごく一般に罪を意味する「違反」「踏み外すこと」を言います。それは、私たちが毎日少なくても一度は、恵み深い神に「天の父なる神さま、アバ、父よ、お父さん、ごめんなさい」と言わなければならないことを考えたり、思ったり、願ったり、言ったり、行動したりしてしまいます。私たちは犯したくない罪をどうしても犯してしまう、本当にみじめな弱い者たちです。この負い目、罪、違反、踏み外してしまったことに対する神の赦しもまた、私たちが生き生きと生きていく上でどうしても必要なものなのではないでしょうか。

人間的な弱さのためにしてしまう間違いや失敗、過ち。神の栄光を現すためでなく自分中心な目的のためにする行い。神の律法、ルールを踏み外してしまう違反。神と自分の良心にとがめられる行い。神を恐れ敬わない心と態度。神のみこころに従わない生活。神からの豊かな恵みに十分応えない、また無駄にしている怠惰。意識的に神に逆らう生き方、反逆。不正や不法。十戒を守っているでしょうか。自分のために偶像は造っていないか、主の御名をみだりに唱えていないだろうか、安息日を覚えて本当に聖なるものとしているだろうか、父と母を敬っているだろうか、誰かを殺していないだろうか、泣かせていないだろうか、姦淫は、盗みは、嘘をついたり、隣人を不幸にしてまでも自分だけが幸せになろうとしていないだろうか。一つ一つ顧みるならば、本当に様々な罪を、私たちは毎日、考えや思い、願い、ことばと行いで犯しているのです。すべての罪が赦され、すべての負い目、負債が帳消しにされた私たちであるならば、罪赦され、帳消しにされた者としてふさわしく生きて行かなければならないのです。いや、生きて行きたいと願うのではないでしょうか。この祈りは、私たちが常に神の前に罪を赦されなければならない存在であることを思い起こさせる祈りです。

「お赦しください」の原語には、「行かせる、赦す、見逃す」等の意味があります。この祈りは、神の子どもである私たちが、慈しみ深い神に「父よ、今日もあなたの子どもとして行ってはいけないことをしてしまいましたが、怒らないでください。私をあなたの子どもらしく歩めるように、これからも私を導き、成長させてください」というような、寛容で真実な父である神を心から信頼して祈る神の子どもの祈りなのです。愛に満ちておられる神は、「あなたはわたしの愛する子。さあ、行きなさい。あなたの罪は赦されたから」と宣言してくださるでしょう。私たちが本当に生き生きと生きるために必要な赦しを、神は惜しみなく与えてくださるでしょう。もし自分の罪を認めずに生き続けて行くならば、私たちは父である神と主イエス様との喜びに満ちた交わりをもてなくなり、後ろめたさを感じる暗い心で生活することになってしまいます。そのような状態の時には、祈りが聞かれなくなったと思ったり、神が遠くへ行ってしまわれたと感じるようになったりすることもあります。生き生きと生きられなくなってしまいます。私たちは日ごとに罪の赦しを求めましょう。「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハ19)。

そして、自分がそのように神に赦されたのだから、他人の罪をも赦すべき、いや、あなたがたは赦すであろうと教えているのです。「赦します」とは「今、赦します」であり、つまりそれは第三版で言われる「赦しました」となるのです。ですから、神が私たちを赦してくださるかどうかは、私たちが先に他の人たちを赦すかどうかにかかっているのではないのです。罪の赦しはただ神の恵みであり、恵みをいただいた私たちは、恵みをいただいた者としてふさわしく応答するのです。詳しくは、後にマタイの福音書18章21節からのところで、ペテロがイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか」と問うた時に、イエス様がたとえをもって教えてくださっているところに記されています。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。私のあわれみをこのように経験したおまえであるならば、おまえは仲間を憐れむはずであろう」。神はそのように言われるのです。私たちもこの祈りを通して、真実に神の恵みに感謝し、ふさわしく応答する者としていただきましょう。

また、私たちは互いに「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈っているわけですから、私たちは、兄弟姉妹が、神と兄弟姉妹に対して多くの負い目がある、色々と失敗し、色々と踏み外してしまっているこの者を赦してくださっていることに気付くべきでしょう。私は神と隣人に赦されて、ようやく生きている者であることに気付くはずでしょう。私たちは神の赦しを知っている者同士、神が赦してくださったように、互いに赦し合い、愛し合い、励まし合ってまいりましょう。「お赦しください」は、「行かせる、行かせてください」という意味があると申しました。イエス様は主の弟子である私たちがいつも互いに愛し合い、赦し合って、ともに生きて行くことを願っておられるのです。主の弟子である私たちは兄弟姉妹との間だけでなく、家族や友人、職場においても、何回でも「ごめんなさい」「こちらこそ」「気にしていませんよ」「ありがとう」と赦しあって、共に生きてまいりましょう。私たちには、すべての隣人とともに生きて行くために、人々を赦し、赦されることがどうしても必要なのです。神に祈り求めるならば、この赦す、赦されるという必要も必ず満たされます。

物質的な備えと、過去の罪を赦してくださいという祈りの後に、未来の罪から守ってくださいという祈りが教えられます。

6章13節      私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

主の祈りは必ず聞かれる祈りです。毎日、大胆に、熱心に祈る祈りです。なのにどうして、「試みにあわせないでください」という祈りは聞かれないのでしょうか。

この祈りは、ギリシア語の原典を直訳すると「試みの中に見放さないでください」、または「試みの時に一人にしないでください」という祈りなのです。神はインマヌエル(神ともにいます)の神であると約束されています。ですからこの祈りも必ず聞かれている祈りなのです。父である神は、ご自分の子どもたちを決して試みの中に見放したり、一人になどなさいません。また、この祈りは、私たちが弱く愚かで罪を犯しやすいことをよく知っておられるイエス様が、私たちに祈るように命じられた祈りです。あらゆる試みを経験しておられるイエス様は、試みの時に私たちを一人にされることはなく、私たちとともにいて、私たちを助け、とりなし守り、あらゆる試みを通して私たちを成長させてくださるのです。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブ218)。

「試み」のギリシア語は、新約聖書では他の箇所で「試練」とも「誘惑」とも訳されています。このことは、試練と誘惑がなかなか見分けるのに難しいものであること、また試練と誘惑はまったく正反対のこよのように見えても、実は表裏一体であることを教えています。試練とは、私たちの信仰と希望と愛を成長させるためのもの。そして誘惑とは、私たちを神から引き離そうとするもの。どんな問題や悩みや苦しみも、私たちを成長させる試練になり、同時に、私たちを神から引き離す誘惑にもなるのです。私たちは誘惑に負けて罪を犯してしまったことが、自分を成長させるための試練であったことを悟るといった経験をすることもあります。さらに試みのほかに「懲らしめ」としての苦しみ、神の民、また主の弟子であるために受ける苦難や迫害の苦しみも経験します。神の真の子であるイエス様も懲らしめこそはありませんでしたが、様々な試練、誘惑、苦難や迫害を受けられました。神の子であるから試練や誘惑、苦難や迫害を受けないのではなく、神の子であるからこそ受けるのです。私たち神の子とされている者も同じです。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです(Ⅱテモ312)。どのような試練、誘惑ともなる試み、苦難、迫害など、それは私たちに対する罰ではありません。あわれみ深い父である神は、私たちが神に逆らう罪を犯しても、私たちに罰を与えられることは決してありません。あわれみ深い父なる神は、様々なことを通して私たち子どもを成長させてくださるお方なのです。みことばの約束もあります。「『主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。…すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安のみを結ばせます」(ヘブ126−11)。ご自身の子どもたちが試練の時期を通ることはお許しになる。誘惑も試練として用いることのできるお方。苦難や迫害による失敗を通しても、たくさんのことを学ばせてくださる。ますます神の子としてふさわしい者としてくださる。しかし、たとえそのことを知っていたとしても、私たちは私たちの弱さを自覚しているのですから、このような試練や誘惑に遭うことを進んで望むべきではありません。自分たちが攻撃を受けるような状況にさらされないように祈るべきでしょう。祈るはずでしょう。もし私たちがこのような状況に置かれていることに気付いたならば、「悪からお救いください、試みの中に見放さないで、苦難の時に一人にしないでください」と祈りましょう。確かに私たちは、毎日のように試練や誘惑に遭っています。私たちの周囲では、悪魔(訴える者)、サタン(敵)が休む暇なく活動しており、私たちを誘惑し、失格者にしようと隙を狙っているのです。確かにこの世は「悪の世界」です。私たちは自分の力を過信せずに、私は大丈夫だと油断せずに、悪の力から救い出されるように、試練や試み、苦難や迫害の時に、私を絶対に見放さないでください、私を必ず一人にしないでくださいと、大胆に、毎日祈る必要があるのです。主がいつもともにいてくださらなければ、私たちは本当に生きていけない者たちだからです。そして何よりも、父である神が、私たち神の子どもを悪魔の誘惑の中に見放されることは決してありませんし、悪魔の誘惑に勝利された主イエスが、私たちに祈る力をも与えてくださり、私たちにも誘惑に対する勝利を必ず与えてくださいます。主がいつでも共にいてくださること、それもまた弟子である私たちが生き生きと生きて行く上で本当に必要なものです。ですから私たちは毎日祈るのです。

第3版では「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」が記されており、新しい2017版では記されていません。新改訳聖書の欄外注にもあるように、後にこの祈りが「主の祈り」として教会で用いられるようになってから付け加えられたものと思われます。しかしどうでしょうか。神を称える頌栄であり、同時に、神がこのようなお方であるから、この祈りはすべて聞かれるのだという確信の告白ともなるのではないでしょうか。「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ロマ1010)。私たちも確信をもって主に「アーメン」と申し上げ、主の祈りを閉じる者となりましょう。

14・15節は、12節で述べられた赦すことと赦されることとの関係が説明されているところです。赦すことは赦されるための条件ではなく、赦されることは恵みであり、私たちはその恵みが注がれた者としてふさわしく応答していくべきであるということです。

以上、主の祈りを見てまいりましたが、ここで語られたことがすべてであるとは申し上げられません。私たちは主の祈りをこれからも毎日祈って行く中で、毎日主の前にへりくだり、毎日新しく教えられ、主の祈りをますます自分のものとしていく者でありたいと思います。

主の祈りは、私たちの主イエス様が神のみことばから学び、ご自分でふさわしいことばを選んで整え、そして毎日祈られた祈りでした。福音書の中でたびたびイエス様は一人寂しいところで祈っておられる姿が記されています。父である神が、ご自分が編んでささげたすべての祈りと願いに答えてくださることを経験されたイエス様は、弟子たちに神が必ず聞いて答えてくださる祈りとして、「主の祈り」を教えられました。ところが、前回も申し上げましたが、弟子たちは主の祈りを真剣に祈りませんでした。彼らは神の御名がほめたたえられるために生きようとせず、自分が偉くなることを願い、神の愛が支配する御国を建て上げるために奉仕をするのではなく、イスラエル王国の復興を願っていました。彼らは日ごとの糧があたえられるか心配し、互いに赦し合って、愛し合うこともできず、試練にあうと恐れ、絶望し、悪魔の誘惑に負け、イエス様を裏切り、見捨ててしまいました。しかしイエス様の復活の後、心一つにして祈り、そこに聖霊が注がれ、真剣に祈る者となりました。弟子たちと、弟子たちの働きを通してイエス様の弟子となった信者たちは、毎日「主の祈り」を祈るようになりました。彼らは試練を通して成長し、悪魔の誘惑に勝利し、神から生活と人生の救いを与えられ、日々、罪を悔い改めて、赦しを求め、赦される経験をし、互いに赦し合い、愛し合うようになりました。神は、ご自分の子どもにされた弟子たちにみこころを実行し、御国を立て、御名の栄光を現すために必要なすべてのものを、いつも豊に与えられました。そして終わりまで、弟子としてしっかりと歩んで行けたのです。私たちも毎日聖霊に満たされて、イエス様や聖徒たちのように主の祈りを心から祈り、祈るだけでなく実行する者として、少しずつ成長させていただきましょう。ぜひ私たちは、主イエスや弟子たちのような、祈りの人になりましょう。そしてこの宮(教会)と、一人ひとりの宮に聖霊がますます豊に住まわれ、聖霊に満たされて、主の栄光を現す幸いな毎日を送らせていただきましょう。聖霊に満たされ、愛に満たされ、互いに愛し合うそのような私たちを通して、ますます神の子どもたちが増し加えられていくように、祈り求めてまいりたいと思います。

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