2023年4月23日 主日礼拝「主とともに、向こう岸へ渡ろう」
礼拝式順序
賛 美 「見よ、わたしは新しいことを」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇23篇1〜6節
讃 美 讃美歌9「ちからの主を」
信仰告白 使徒信条 讃美歌566
主の祈り 讃美歌564
祈 祷
讃 美 讃美歌124「みくにをも宝座をも」
聖書朗読 マタイの福音書8章18〜34節
説 教 「主とともに、向こう岸へ渡ろう」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌290「よろずを治らす」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書8章18節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書8章18〜34節
説教題
「主とともに、向こう岸へ渡ろう」
今週の聖句
さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
マタイの福音書8章18節
説教「主とともに、向こう岸へ渡ろう」
マタイの福音書8章18〜34節
前回、私たちの主への信仰、主に従うこと、主の御前に進み出てひれ伏すこと、それはつまり礼拝ですが、それらの目的は、決してご利益宗教ではないことを見ました。確かに、心の貧しい者が、ただ神のあわれみにすがるしか生きられる術がない、そのような必死で純粋な信仰と信頼をもって、この身と心を低くしてただ主の前にひれ伏す時、主を礼拝する時に、主は自由な恵みによって御力を現してくださいます。主は御手を伸ばし、ひれ伏す私たちに慈しみとあわれみをもって触れられ、「わたしの心だ」、「あなたの信じたとおりに、あなたの信じるとおりになるように」と仰ってくださるのです。何という祝福でしょうか。ですから主に従うことで大きな祝福、良いことがあるのは確かです。何よりもまず神ご自身が私たちを祝福したいと望んでくださり、私たちを祝福へと招いてくださっているのですから、本当に感謝なことです。
今朝、私たちに与えられましたみことばは、マタイの福音書8章18節から34節です。冒頭でイエス様は、主とともに「その道」を進み行く弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。その道。それは主に従う道ということでしょう。そして聖書の中で「川を渡る」や「向こう岸へ渡る」というのは、「次なる新しいステージ(段階)へ進み行きなさい」との主の御心が込められた大切なフレーズです。イエス様は今朝、弟子たちに、そして私たちにも今朝のみことばを通して「さぁ、わたしとともに、次なる新しいステージへ進み行こう」と招いておられます。私たちは主の御前にへりくだり、主の御声に聞いてまいりましょう。
8章18節 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
イエス様はご自分の周囲に群衆が集まってきたのを見て、ガリラヤ湖の向こう岸へ行こうとされました。24節では、イエス様は舟の上で眠っておられるので、疲れ果てた体を休ませるために向こう岸へ行こうとされたのでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、イエス様はいつもひとり寂しい所で祈られる時を持っていました。それは群衆の要求に本来のメシヤとしてのご自分の目的を見失うことのないように、父なる神の御心を見失うことのないように、一人祈り、父なる神の御前に静まり御心を確認していたのです。そのためでもあったのではないでしょうか。そして今回は、これからいよいよ弟子としての歩みが本格的にスタートする弟子たちに向かって、ご自分と一緒に行くことを命じられたのでした。
イエス様は弟子たちに向こう岸に渡るように命じられました。弟子たちのほとんどはこの地方の出身でした。住み慣れたカペナウムを離れざるを得ない状況は、弟子たちの献身度が試される機会ともなったことと思います。川を渡るということには、一大決心が必要なのです。
8章19節 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
ルカの福音書では、弟子たちが道を進んで行くと、ある人がイエス様に「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言ったと記されています。弟子立候補です。弟子たちがイエス様に従って行くという“その道”を進んで行こうとする途中で、このような場面が展開するのです。この律法学者はイエス様のことを「先生」と呼んでいますが、ラビ(律法を教える教師)程度に考えていたようです。そして「ついて行く」というのも、しばらくの間だけそうしたいということでした。イエス様の山上の説教の教えはとても新鮮でした。そして権威あるものだったので、イエス様にしばらくの間ついて行けば、何か自分にとって益となると思ったのでしょうか。そこでイエス様は律法学者が容易に、いともたやすく「ついて行きます」と言うのを聞いて、弟子の道が非常に厳しいものであることを示されました。しかし明らかに、律法学者だけではなく、この時、献身度が試されている弟子たちにも聞かせるために語られたみことばであると思います。
8章20節 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
「人の子」とはもちろん、イエス様がご自身を指して用いられた語です。旧約聖書では、終わりの時に権威をもって天の雲に乗って来られる「人の子」が登場します(ダニ713-14)。ユダヤ人であれば誰もが期待し待ち望むメシヤのことを指します。しかしもう一方で、弱くてはかない被造物である人間が「人の子」と呼ばれています(詩84)。そしてイエス様がご自分のことを「人の子」と呼ばれる時は、ご自分も人間であることを強調しておられます。神であられるイエス様が、人の姿をとってご自分を空しくして、しもべの姿をとられた。イエス様は神のしもべとして休む暇なく伝道活動に励んでおられた。人間と同じようになられ、自らを低くして、罪人を愛し。それなのに人の子は律法学者やパリサイ人をはじめとするユダヤ人社会の上層部から敵視され、命までねらわれていました。やがて死にまで、それも十字架の死にまで従おうとされるお方。「あなたは、このわたしに従って来ると言うのか」。
イエス様の弟子になるには、地位や身分を捨てるだけでなく、命まで捨てる覚悟がなければならないと律法学者に言われるのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタ1624)。この律法学者はおそらく、命どころか自分の地位や身分すら捨てられなかったのではないでしょうか。
8章21節 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
8章22節 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
ルカの福音書ではこの場面をもう少し詳しく記しています。
【ルカの福音書】
9章59節 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」
9章60節 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
別の一人の弟子は、「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください」と言いました。ちょうど父親が死んだのでしょうか、それとも年老いた親の面倒を見た後で従いたいということでしょうか。恐らく後者でしょう。「父を葬ることを許してください」というのは、その当時の習慣に基づいて言っているのであり、今父親が死んだので葬りに行きたいという意味ではありません。当時のユダヤ人社会では父親の権威がとても強く、息子は父親の死を見届けて葬ってからでないと自由に行動することはできませんでした。イエス様はこの弟子がすぐに従う意志がなく、その言い訳として「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言ったのを見抜かれたのです。これは漁師だったペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネが、イエス様の召しを聞いて「すぐに網を捨て」て家業をやめたこと、「父を雇い人たちとともに舟に残して」イエス様に従ったことと対比することができます。
「まず」という語は、「最優先の、一番目に」という意味です。そして「行く」という動詞は「去る」という意味合いが強い語です。この人がイエス様に従う事よりも、自分のすべきこと、したいことを大切にして、イエス様のもとを去ろうとしていたことが示されています。しかしイエス様は「わたしに従って来なさい」ときっぱりと言われます。「あなたはいつか分からない将来のことを心配して、私に従う機会を逃してはならない。もし父親が死んだなら、あなたが葬らなくても、葬ってくれる人は他にもいるだろう。家族のことを引き合いに出して言い訳などしていないで、思いきって私に従って来なさい」と招かれたのです。冷たくて厳しいおことばでしょうか。イエス様は決して親を粗末にしても良いと言われたのではありません。その逆です。十戒にははっきりと「あなたの父と母を敬え」と書かれています(出2012)。肉親の葬儀の重要性も聖書は否定していません(創505)。むしろ大切にしています。私たちは自分が従う気がないのに、それを家族や自分の置かれた境遇のせいにするのです。ここでのイエス様の御心は、弟子が自分を束縛しているものを自分の意識の中で断ち切って、自由になって、イエス様に一切を信頼し、自発的に喜んでイエス様に従うことを求めておられるのです。もしそのような心で従うなら、もちろん父親が死んだ時には葬りに行く事を許してくださるでしょう。もしそのような心で従うなら、父親や家族は弟子となった者の信仰を許し、イエス様に従っていくことを許し、さらには父親も家族もまた、やがてイエス様を信じ従って行く者とされるでしょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使1631)。これはあなたが信じれば家族も自動的に救われるというのではありません。あなたが本当に信じて喜んで主を最優先に従うならば、あなたの家族も自分自身でイエス様を信じる信仰へと導かれるということです。
それにイエス様は弟子となる家族に対しても責任を果たされるお方なのではないでしょうか。ペテロとアンデレ兄弟は貧しい漁師だったのかもしれません。彼らが弟子となってイエス様を最優先に従って行き、仕事をしなくなってしまえば、残された家族はどうなるのでしょうか。しかしイエス様は二人を招くのです。愛と憐れみに満ちておられ、貧しい者にいつも心を配られるイエス様ですから、家族などどうでも良いということでは決してなかったはずです。家族の必要もまた不思議な方法で満たしてくださったことでしょう。ヤコブとヨハネにおいては雇い人もいました。会社組織で漁業を営んでいたのです。それも主は顧みてくださるお方、祝福してくださるお方です。今は祈祷会で創世記を学んでいますが、先日は主のしもべヤコブを通して、ラバン一族がとても祝福されたところを見ました。ラバンもまた、主のしもべヤコブを通して自分が主に祝福されていることを認めていたのです。私たちの周囲の人たちも、実は私たちを通して主が祝福してくださっているのです。そう感じられる時はないでしょうか。
これらの場面が弟子たちの目の前で展開した後、イエス様は舟に乗られました。そして「向こう岸へ渡ろう」と言われました。主が手を弟子たちに差しのばしたのかは分かりませんが、とにかく主の招きです。すると弟子たちは舟に乗り、イエス様に従いました。
8章24節 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
長野市あたりはあまり強風が吹きません。私は新潟に行って初めてそのことに気づきました。新潟はもの凄いゴーゴーという強風が吹きまくります。一晩中私が住まわせていただいていた寮が強風で揺れて、吹き飛ばされそうになる恐怖体験をしょっちゅうしました。「昨晩は終末のようでしたね」と言うのが、次の日の朝のおなじみの挨拶でした。ガリラヤ湖も周囲を山に囲まれてすり鉢状態になっており、山から突風が吹いて急に嵐になることがありました。この時も、大暴風が起こり、舟は大波によって木の葉のように揺れたのでした。今にも沈みそうな小舟の中で、弟子たちはパニックに陥ってしまいました。弟子たちの中にはガリラヤ湖のことを知り尽くした漁師であった者が何人もいましたから、少しばかりの嵐に驚くははずはありません。よほどの大嵐だったのでしょう。イエス様はこのような中でも眠っておられたのですから、よほどお疲れだったのでしょうか。いや、やはり何か意図があって眠っておられたのでしょう。
大嵐の中、さすがの弟子たちも恐ろしくなり、イエス様に近寄ってイエス様を起こして言いました。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」。私たちは自分の力がまったく役に立たず、自信がまったくなくなってようやく、イエス様に近寄り助けを求める者たちなのだと、この時の弟子たちの姿を見て思わされます。また、弟子たちはイエス様と毎日、寝食をともにして、イエス様の数々の奇跡を目撃してきたはずです。それでもまだ彼らには、イエス様が偉大な力と権威をもった救い主であることが分からなかったのです。そのような彼らにイエス様は言われました。
8章26a節 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」
イエス様は弟子たちに起こされると、少しもあわてず「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。なぜ疑ったのか」と彼らの不信仰を嘆かれました。イエス様が「まず(=最優先)」に、一番目に弟子たちを叱られました。それは嵐よりも弟子たちの不信仰が問題であったからです。本当の困難に直面した時こそ信仰を働かさなければならないのです。何もなければ信じていると言いながら、困難に直面するとその信仰が働かない。不信仰。
8章26b節 それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
イエス様は弟子たちの不信仰を叱られてから次に、風と湖を叱りつけたと記されています。これは「厳しく命令した」という意味です。その瞬間に、驚いたことに湖は「凪」になったのです。波はおさまり、完全な平安が訪れました。ここには、自然界をも支配されるメシヤとしてのイエス様の姿が示されています。弟子たちは自然に対して権威あるイエス様の姿を目の当たりにしました。
8章27節 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
ここで弟子たちのことが「人々」と言い換えられていますが、それは誰を指しているのでしょうか。何の意図があるのでしょう。私はこの時の弟子たちばかりでなく、この出来事を伝え聞くすべての弟子、イエス様を信じ従う人々を指しているのかもしれないと思いました。そして人々は驚いて言うのです。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」と。思い巡らすのです。そして旧約聖書のみことばをも思い巡らしたのではないかと思います。〈詩17 28-32〉「この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると 波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。民の集会で主をあがめ 長老たちの座で主を賛美せよ」。この詩篇では、自然界の嵐と人の心の苦悩が並べられています。〈詩65 7〉「あなたは海のとどろきを鎮められます。その大波のとどろき もろもろの国民の騒ぎを」。海のとどろき、大波のとどろき、それは人の心を騒がせるものです。恐れを抱かせ、心に波風を立たせるのです。主は自然界の波を鎮め、さらに心の波風さえも鎮められ、平安を与えることのできるメシヤ救い主なのです。自然界も、霊的な世界をもご支配なされ、権威をお持ちのお方なのです。イエス様は父なる神とともに天地創造のわざをなされたお方です。天と地とそこに満ちているすべてのものを創造されたお方。自然界、そして目に見えない霊的な世界をも創造されたお方。さらに統べ治めておられるお方。ですから当然、その両方において権威をお持ちであることは当然なのです。
次の場面では、その霊的な世界をもご支配なされ、権威をお持ちであるイエス様の姿を、弟子たちは目の当たりにすることになりました。
8章28節 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
向こう岸に渡りガダラ人の地に着き、イエス様が舟から陸に上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエス様を迎えました。マルコの福音書では、彼らは遠くからイエス様を見つけて、走って来てイエス様を拝したと記されています。そして大声で叫んで言いました。「いと高き神の子イエスよ、神によってお願いします。私を苦しめないでください」。これはイエス様がその権威をもって「汚れた霊よ、この人から出て行け」「底知れぬ所に行け」と命じられたからでした。底知れぬ所とは、終わりの時にサタンが1000年間閉じ込められる場所です。
8章29節 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
8章30節 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
8章31節 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。
8章32節 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
悪霊はイエス様に出会うと恐れました。イエス様が、自分たちを滅ぼす権威をお持ちの神の聖者であることを知っていました。イエス様が自分たちの敵であり、いくら力を尽くしてもイエス様には勝てないことを最初から知っていました。彼らは自分たちが敗北する時が予想以上に早く来たことにうろたえたのです。悪霊はイエス様に楯突いても無駄なことは百も承知していたので、どうせ追い出されるのなら、豚の中に入れて欲しいと懇願しました。何も知らない豚こそ良い迷惑です。イエス様は悪霊が豚に入ることを許されました。すると、豚の群れは急に走り出し、湖に落ちて、溺れてしんでしまったのです。弟子たちは猛威を振るう自然を従わせるイエス様の権威に続いて、凶暴な悪霊を制し、悪霊に命じるならば従うという、イエス様の権威を目撃しました。イエス様は自然界ばかりか、悪霊の世界をも支配する力を持っていることを明らかにされました。しかしすぐに続いて、厳しい現実をも見せられることになりました。
8章33節 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。
8章34節 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。
町の人々は一部始終を聞くと気味が悪くなり、イエスに立ち去って欲しいと願いました。また豚の群れを飼い生活をしていた人々は、豚よりも、自分の生活よりも、悪霊つきの解放を優先したイエス様を人々は喜ばなかったのです。私たちのところから出て行ってくれないかとお願いしたのです。この人々の姿に、私たちも色々と考えさせられるのではないでしょうか。弟子たちは、イエス様の権威を受け入れない人たちの存在を知ることになり、イエス様の存在を歓迎しない人々の現実をも知ることになりました。冒頭の弟子志願をした律法学者のように、イエス様に従えば良いことがあると期待する心が微塵もなかったと言えば嘘になるでしょう。イエス様の弟子として従うことは、このような困難もあること、人々に拒否されることもあるのだと、弟子たちは知らされたのです。その上で主はなおも招かれるのです。「このわたしとともに、向こう岸へ渡ろう」と。
イエス様は、自然界ばかりか、悪霊の世界をも支配する力を持っていることを明らかにされました。イエス様の奇跡はメシヤ救い主としての権威を証明するためのものであって、決して人々の人気を博するためのものではありませんでした。今、私たちはどのような心でイエス様に仕えているでしょうか。私たちはイエス様に何を期待しているのでしょうか。今日のみことばから考えて見たいと思います。イエス様のもとを去った律法学者は、生活あるいは自分の立場の安定、さらには向上、人々からの賞賛を期待していたのかもしれません。イエス様は彼に、ご自身に従う事がどのようなことかを説明されました。その説明を、弟子たちも聞いていました。律法学者はイエス様のみわざ、そして権威だけを見て、イエス様がご説明された真の弟子としてイエス様に従うことがどのようなものであるのかということは想像もしていなかったようです。それでは、後で分かった時に失望してしまうのです。イスカリオテ・ユダもその一人でした。イエス様は常に、人々の間違った期待によって本来の神の御心を見失うことのないように、いつも寂しい所でひとり祈っておられました。私たちも本来の神の御心を見失うことのないように、真のメシヤ救い主であるイエス様を見失うことのないように、聖霊に依り頼み、主に祈り、みことばを通して神の御心を常に確認させていただきましょう。イエス様に従う道では、必ず信仰が試される時があります。けれどもそのたびに、自分の十字架を負ってイエス様に従う事を選びたいものです。その道を行くところで、すすんで喜んで主に従う先に、神の御業、家族の救い、様々な祝福を見ることができ、体験することができ、まことの平安と喜びを受けることができるのです。
「このわたしとともに、向こう岸へ渡ろう」。主の御声に、私たちは今朝、何を思い、何を顧みて、そして何を決心するでしょうか。