2023年6月18日 主日礼拝「イエスに従う弟子とは」

礼拝式順序

賛  美  プレイズ「見よ、わたしは新しいことを」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566  
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌332「主はいのちを」
聖書朗読  マタイの福音書10章34節〜11章1節
説  教  「イエスに従う弟子とは」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌321「わが主イエスよ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書10章37・38節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書10章34節〜11章1節

説教題

「イエスに従う弟子とは」

今週の聖句

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

マタイの福音書10章37・38節

説教「イエスに従う弟子とは」

マタイの福音書10章34節〜11章1節

今朝の箇所も、続けてイエス様によって弟子としての心構えが説かれます。12弟子をみもとに呼ばれ、使徒として派遣するに際しての説教も、今朝のところでいよいよ終わりとなります。そこで、イエス様に従う弟子とはどのような者なのかというところが語られます。イエス様は今朝のところで、弟子の重要な特徴として2つのことを語っておられます。それは、誰よりもイエス様を愛することと、そして自分を捨ててイエス様に従うことです。

愛するとは、日本に最初に来られた宣教使が「愛」を俗的な愛と区別するために「御大切」と訳したように、相手を本当に大切にするということです。父なる神さまは私たちを愛している。それは私たちを本当に大切にされているということです。真実の愛(御大切)は自分を犠牲にしてまでも相手を大切にするということです。まさにご自身のひとり子イエス・キリストを十字架に架けてまで私たちを愛された。そこまでして私たちのいのちを慈しまれ、愛された。そこに真実の愛、御大切が表されているのです。ではそのように神に愛された私たちは、どのように神を愛するのが良いのでしょうか。どのように愛したいと願われるでしょうか。

10章1節から語られたイエス様の派遣説教の中で、使徒、あるいはその使命に生きる者、イエス様の弟子が直面するであろう迫害や苦難について語られて来たように、イエス様の働き(神の国の福音宣教・伝道)は、その働きを忠実になせばなすほどに世の人々との対立や反発を招くものです。そのような中で弟子たちのイエス様に対する愛が問われることになるのです。

そこでイエス様は、派遣説教の最後に「わたしについて来なさい」と、ご自分に従って来るように呼びかけておられます。もし家族が妨げるなら、家族を捨ててでも従いなさいと言われるのです。これはなかなか厳しい命令です。しかしその厳しい命令には、イエス様が選ばれ遣わされる弟子に対する愛、責任、覚悟があるのです。高圧的に、理不尽に言われているのでは決してないのです。それは弟子たちに対する自覚と決意を促すための、いわばイエス様による挑戦でした。

時に親は子に「それでもいいんだね」と言って、その子の本気度を確かめることがあるのではないでしょうか。「お前が志し、進もうとしているその道は、本当に良い道ではあるのだけれども、お前が思い描いているのとは違うかもしれない」と、あえて厳しい将来の予測を子に告げ、その子の志の本気度を確かめ、その子が腹を決め、真っ直ぐ目標を見据えて、そこからしっかり自分で立って歩き出すことを期待することがあるのではないでしょうか。志をはっきりと覚悟を決めたなら「良し、分かった。そうしたら一緒に頑張ろう。わたしはいつでもお前の味方だから」、そう言うことがあるのではないでしょうか。

イエス様は弟子たちが志す道、ご自身に従って行くことの厳しさを自覚させるために、このように言われました。

10章34節    わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。

「思ってはなりません」というのは、誤解を防ぎ、意味することを正確に伝えるための表現です。また「もたらすため」は、直訳すると「投じる」となります。

私たちは「一石を投じる」と言います。ご存知のとおり、これは石を水に投げると波紋が生じることに喩えた表現です。最近はネットやSNSなどが発達し、影響力のある人がつぶやいたひと言が世間を騒がせる、炎上騒ぎとなることがありますが、イエス様が来られたのはまさに世に一石を投じるためでした。

確かにイエス様の働きは、神と悪の世(悪の世に生きる人々)の間に「平和・平安」(波風もない状態)をもたらすのが目的です。弟子たちもその目的のために遣わされ使徒とされるのです。しかし、イエス様が働きを行われるところ、イエス様が遣わされた弟子を通して働きをされるところではどこにでも、イエス様を信仰によって受け入れる者だけでなく、拒否する者がいるのです。イエス様が働きを行われると、そこに波風が立ち、波紋が広がるのです。イエス様は剣をもって一石を投じるために来られたと言われます。剣というのは切り裂く道具です。反対する者と賛成する者とが分けられるのです。これまではおもに律法学者とパリサイ人たちがイエス様に反対しました。今後はさらに多くの人々が、イエス様と弟子たちに「反対するでしょう」と、10章16〜18節では語られています。そして反対する者は、イエス様の働きをなす人の最も親しい関係にある人たち、家族の間にもおこるのです。

10章35節    わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。

「イエス様はひどいお方だ」と思ってしまいそうですが、「逆らわせるために来たのです」というのは、はじめから家族間に波風を起こすことを目的としていたのではなく、来た結果としてどうしてもそのようになるのだということです。イエス様の働きが行われるところでは、どうしても避けられない結果として分裂があり、その分裂は家族の中でも起こり、

10章36節    そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。

「敵」という語には敵対関係という強い意味があります。

例えば当時であるならば、ユダヤ人は皆、パリサイ人と律法学者の影響を受けているので、イエス様に従う者たちはパリサイ人と律法学者の教えに戻ることを拒み、家族はそれを異端的で悪魔的だと考えるでしょう。また異邦人も同じで、異邦人は皆、偶像を崇拝していましたが、その中の一人がイエス様を信じて従うなら、偶像礼拝に参加することを拒むようになり、家族はまるで自分に敵対されたと思うようになるでしょう。

私にも似たような経験があります。教会に来始めた頃のことですが、家族と仕事仲間の人たちとの食事会があり、それまではお酒を浴びるように飲み、皆と馬鹿騒ぎをしていた私が、お酒も飲まず、皆と馬鹿騒ぎをしない私に対して、私がトイレに行くために席を外した途端、口を揃えて「あいつは大丈夫か。教会に行くようになっておかしくなってしまった」と噂をしていたそうです。

イエス様に対する信仰が本物であればあるほど、家族や親戚など、親しい人たちとの関係にも葛藤を引き起こすのです。イエス様を信じた人の変化をとても異常なことと思い、当惑して、その変化を元に戻そうとする。しかしそのような時にも、イエス様の弟子であることを諦めてはいけないのです。どんなに気まずくなり、一方的に悪者にされることがあっても、主に対する愛、主を一番大切に思うところを手放してはならないのです。誰のためにでしょうか。「主イエスを(とことん)信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」(使徒1631)のです。

10章37節    わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

ルカの福音書にある並行箇所(ルカ1426)には、家族を憎むように求められています。しかしこれはユダヤ人の独特な言い回しであり、実際に家族を憎み、嫌うことではなく、家族よりも主を優先すること、優先して忠誠心を示すこと、誰よりも優先して主を選ぶことを表現しているのです。自分に敵対関係を示す家族を、確かに最初は憎く思うかもしれませんが、それでも本当に憎み通すことなどできないでしょう。家族ですから、それでも愛し、イエス様を信じ救われて欲しいと願うのではないでしょうか。しかし迫害下にあっては、肉親であってもキリストを信じる者と信じない者とにはっきりと分かれてしまい、対立するのです。キリストを信じない家族は、信じる家族に敵対関係を示し、その時、家庭の平和は失われ分裂が起こるであろうとイエス様は言われます。そのような状況は、自分の心も剣で切り裂かれるような、非常に辛い状況です。しかしそのような時に、信仰を持っていない肉親に心を奪われて、また自分自身が辛くて、イエス様に従うこと、イエス様の働きをやめてしまうなら、その人はすべての人のいのちが救われることを願われるイエス様の真の弟子にふさわしくない、そんなことあり得ないと言われます。家族制度の厳しい当時のユダヤ人社会において、また今の私たちにとっても非常に衝撃的なことばです。しかしイエス様はそのことを十分承知のうえで、あえてこのことばを弟子たちに語ったのです。一石を投じられたのです。これはご自身の弟子を愛され、ご自身の弟子のいのちを大切に思ってのことです。そればかりではなく、弟子の肉親のいのちさえも大切に思ってのことです。

さらにイエス様は次のみことばをもって一石を投じられます。

10章38節    自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

この時の弟子たちは、イエス様が十字架を負われることをまだ知りませんでしたが、十字架を負うことの意味は知っていました。それはローマの十字架刑、つまり死刑です。十字架をそのようなものと認識していた弟子たちに、イエス様は十字架を負って従う者がご自分にふさわしいと語られたのです。自分の十字架を負うというのは、いくつかの重荷を追わされるとか、親しい誰かに嫌われるとか、そのような重荷や犠牲を負って従うという程度のものではなく、死を覚悟して従いなさいという非常に厳しい命令です。しかし前回語られたように、決して殉教を奨めているのではありません(1023)。また弟子の苦難は師であるイエス様の苦難より激しいものではないのです(1024)。師であるイエス様は愛と覚悟をもって「わたしについて来なさい」と呼びかけておられます。師であるイエス様ご自身が、弟子である私たちの先頭に立って、十字架の苦難の道を、それも死にまで従順に歩んで行かれ、勝利を得られたのです。私たちは私たちの師であるイエス様から目を離さないで、どこまでも従って行くのです。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を偲び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです」(ヘブ122-3)。

10章39節    自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

イエス様はこの箇所に先立って、先週のところで言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われる」(1021-22)。自分のいのちを救おうと思い、伝道をあきらめる、イエス様に従うことをやめてしまうなら、その人は「最後の日」にいのちを失うのです。しかしそうでないならば救われるのだと。迫害というのは、文字通りの迫害ばかりでなく、信仰があるゆえの生き難さをも含まれるものですが、この迫害の時に「自分のいのち」が惜しくなり、殉教の死を恐れて信仰を否定し、この世と妥協して自分のいのちを救おうとする者は、終わりのさばきの時に神によって永遠の滅びの宣告を受けてしまうことになります。しかし最後までイエス様に対する信仰をこの地上で告白して自分のいのちを失う者は、終わりの時に神から「良くやった。忠実な子よ」との栄誉をいただき、永遠のいのちを受けることができるのです。

私たちはここで、この世のいのちが大切か、永遠のいのちが大切か、落ち着いてよく考えなければなりません。私たちのそれぞれの人生は、この世だけでは終わらないからです。聖書は、私たちの地上での人生を終えたとしても、その先に続く永遠のいのちがあることをはっきりと宣言しています。そして聖書が語るのは、私たちが生きているこの地上の人生、その中で私たちが地上で精一杯やったひとつひとつのことは、すべて無駄に終わることはないのだということです。ここにおいてもイエス様は、この世のいのちか、永遠のいのちか、真っ二つに切り裂くみことばの剣を示し、私たちに一石を投じておられるのです。

これまで厳しいことをあえて語られたイエス様。しかしそれは、ご自身に従おうと志を持つ弟子を愛され、その弟子のいのちを本当に大切に思われてのことです。さらに、弟子の肉親さえも愛され、弟子の肉親のいのちをも大切に思われてのことです。弟子がそれでもあきらめなければ、やがて肉親も救われるからです。どんなに関係が気まずくなり、一方的に悪者にされることがあっても、主に対する愛だけは手放してはなりません。まず自分が最後まで主を信じ、心を尽くして主を愛することがないのでは、肉親をはじめとする私たちの周囲の人々も、主を信じ、まことの愛で主を愛することはできないでしょう。私たちに敵対する人に対して、私たちも敵対心を露わにしているならば、私たちが信じ従うイエス様に対してもその人たちは敵対心を持ってしまうでしょう。それでは永遠に神とその人たちとの間に和解の時はやって来ないでしょう。敵さえも愛さなければならないのです。イエス様は言われました。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。……『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」(マタ538-45)。

私たちはイエス様との正しい愛の関係を確かなものにし、それをますます強めていく中で、愛する家族のために何が最も良いことなのかを知り、よく見分けてそれを優先し、仕えて愛することができます。何よりも自分自身が主の愛を知り、主の愛を体験し、そしてますます主を愛さなければならないのです。真実の愛は、自分を犠牲にするほどに相手を大切にすることです。私たちはイエス様を通してそのことを知り、実際に体験した者でしょう。また日々の生活の中でますますそれを知り、体験していく者でしょう。

17〜39節では、弟子のマイナス面ばかりが書かれていました。しかし弟子にはプラス面も確かにあるのです。「味方千人、敵千人」ということわざをご存知でしょうか。世の中には敵は多いが、味方になってくれる人も多いということです。世の中には使徒たちを迫害する人々だけでなく、彼らを温かく受け入れてくれる人もいるのです。

10章40節    あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。

弟子たちは、自分たちの権威によって働きをするのではないのです。40節は、弟子たちは自分たちを遣わしたイエス様を、イエス様はご自分を使わされた神を代理することを意味します。つまり、イエス様の弟子たちは神の大使であるということです。神の権威を帯びている。また、遣わされた者と遣わす者は一体であるということでもあります。なぜならユダヤ人の考え方では、「ある人の代理者とは、その人自身と同様」だからです。まさに一心同体。聖霊が、神の御霊が、主の心が注がれ一つ心とされており、神がともに歩まれる。それは弟子たちにとって大きな恵み、特権です。

「受け入れる」とありますが、前回の11〜14節にあるように、まず第一に家に受け入れることを意味します。また弟子の教え(福音)を受け入れることも意味するでしょう。迫害の苦しみの中で働く使徒たちにとって「受け入れられる」という、これ以上の報い、これ以上の嬉しいことがあるでしょうか。自分たちが受け入れられる、自分たちの宣べ伝えた福音が受け入れられる、それはつまり、自分たちが愛し大切に思っている主が受け入れられることと同じです。主を愛し、主を大切に思っている者であるならば、このことがこれ以上ない喜ばしいこととなるのは当然です。当然となっておられるでしょうか。そして神が遣わした者を受け入れたその家に、神ご自身がお入りになる。神が遣わした人を通して宣べ伝えられた福音を受け入れるならば、その人に神との平和、平安が訪れる。なんと素晴らしいことではないでしょうか。

10章41節    預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。

預言者、義人、両者とも40節の「あなたがた」つまり神が遣わされた弟子たちを指しています。その弟子たちは神の国の奥義を語る「預言者」であり、神の義を説き、また実践する「義人」です。「預言者を預言者だからということで、また義人を義人たからということで受け入れる人」とは、弟子たちを他の条件がなく、預言者だ、義人だという理由だけで受け入れる人のことです。その人が預言者、義人という理由だけで、あれこれ条件を出さず、その権威を素直に認め、そして家に受け入れる人は、ふさわしい報いを受けるのです。列王記第一17章では預言者エリヤを預言者、義人として受け入れた一人のやもめが、エリヤを通して神の祝福に与っています。列王記第二4章でも、預言者エリシャを預言者、義人として受け入れた女性が、エリシャを通して神の祝福に与っています。ここでは「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(Ⅰペテ39)というみことばを思い起こさせます。ここでも私たちは主の代理人とされているのだと思わされます。恵みであり、特権です。しかし「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」との主のみことばの前半にはこのようにあります。「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい」と。「逆に」または「引き替えに」祝福しなさいと言われている通りに、そこには大変な重荷、犠牲、自分に死ぬという十字架が伴うのです。

10章42節    まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

「小さい者たち」は、子どもを意味するのですが、ここでは弟子たちを低めて言った表現となっています。小さい者たちである弟子は、何も持っているものがないのです。しかしイエス様の弟子だという理由だけでその人に好意を施す人は、決して報いを失うことがないのだとイエス様は教えておられます。中東において「一杯の冷たい水を与える」というのは、旅人に対する礼儀と喜んで迎え入れることを表す行為として不可欠なものでした。これは当然のことであって、「報い」を受けるのに値しません。しかし、このような当たり前のもてなしをしただけでも、報いを受けるのです。神が与えてくださる報いが、弟子たちを通して与えられるのです。弟子たちは何も、胴巻きに金貨も銀貨も入っていないし、下着も履き物も杖も持っていないのです。ですから完全に神が報いを与えられるのです。神が弟子たちを通して力あるみわざをなさる。それは弟子たちにとって本当に幸いな経験となるのではないでしょうか。

人々が弟子たちに対してどう接するかによって、彼らが神からどのような報いを受けるのかが決まるのです。弟子をどのように受け入れるかが、神ご自身に対してどのような態度をとっているかの試験になるのです。その結果として報いを受けることもあれば、報いを失うこともある。たとえ敵対され、ひどいことを言われたりされたりしたとしても、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」(ロマ1219)。この主の約束は自分がイエス様に属している者にとって、大きな慰め、励ましとなるのではないでしょうか。主は私たちと一心同体。主は私たちの味方。耳を植えつけた方はすべて聞いており、目を造った方はすべてご覧になっている。私たちが復讐や報復などしなくて良いのです。主がすべてを正しく最善にさばいてくださるから。ですから私たちは心を強くして、ひたすら敵対する人を愛し、親切にできるのです。私たちは今一度、自分に与えられている特権にしっかりと目を留めたいと思います。そこから慰めを得て、新たに力を得て、そしてまたここから主とともに、御霊の実に満たされて、雄々しく勇気を出して一歩を踏み出したいと思います。

11章1節      イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。

使徒たちへの説教が終わると、イエス様もご自身だけで教えたり宣べ伝えたりするために出て行かれます。マタイには記されていませんが、マルコやルカには、12人は出て行って村から村へと巡りながら、それはつまり迫害に追われながらかも知れませんが、至る所で福音を宣べ伝え、癒しを行いました。「わたしについて来い」と言われるイエスに従って、それぞれ出て行ったのです。

見て来たように、イエス様の説教は非常に厳しい面もありましたが、同時にあたたかい配慮に満ちたものでもありました。私たちもこのような主の配慮の下に置かれ、そしてこの世に派遣されていることを忘れてはなりません。主は私たちを愛し、私たちの隣人をも愛しておられます。主は私たちに愛を注がれ、私たちを通して私たちの隣人にも愛を注がれようとされます。主の働きを成すとき、辛いこともあるでしょう。けれども神の真実な約束を覚えましょう。十字架を負うほどの苦しみを感じることもあるでしょう。けれども私たちに格別に注がれている神の愛、配慮、特権を覚えましょう。そのために、私たちの霊の目を開いていただき、心と目を高く上げ、主を見上げ、日常の中で注がれる主の愛を知り、ますます主を愛し、主を第一とする者としていただきましょう。最後まで主を愛するならば、自分も、また周囲の人々も救われます。主を愛しているならば、世が与える一時的で束の間の喜びを追求して生きている、もしそのような自分がいるならば、それを捨てましょう。十字架に架けてしまいましょう。主はそこに聖霊を満たし、主に委ねられた宣教の使命を、揺るぎない心で全うする力をあたえてくださいます。人々の救いを願い、ここから主とともに恐れずに出て行きましょう。何も持っていないと思っていても大丈夫です。だから良いのです。だからこそ主が空っぽの私たちを通して力あるわざをなすことができるのです。だからこそ私たちも主の大きな愛を経験できるのです。イエス様の救いに対する感謝に満たされて、弟子として召された喜びを改めて覚え、主を愛し、主を大切にし、主を第一とし、みことばに従い、遣わされた者としての働きを喜んで成す者としていただきましょう。

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