2023年12月3日 主日礼拝「待ち望む信仰をもって宣教せよ」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌350「主の恵み語るは楽し」
      新聖歌349「移りゆく時の間も」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇146篇1〜7節
讃  美  讃美歌8「きよきみつかいよ」
主の祈り  讃美歌564
罪の告白・赦しの宣言
祈  祷  
讃  美  讃美歌94「久しく待ちにし」
聖書朗読  エレミヤ書33章14〜16節
説  教  「待ち望む信仰をもって宣教せよ」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌225「すべてのひとに」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 エレミヤ書33章14節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

エレミヤ書33章14〜16節

説教題

「待ち望む信仰をもって宣教せよ」

今週の聖句

見よ、その時代が来る—主のことば—。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。

エレミヤ書33章14節

説教「待ち望む信仰をもって宣教せよ」

エレミヤ書33章14〜16節

今日からアドベントに入りました。皆さんわくわくしていますか?

アドベントとは「到来、到着」、「やって来る、近づいて来る」という意味を持つラテン語から来ています。争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光として来てくださる。その出来事を待ち望む時を「アドベント、待降節」と呼びます。ここには4本のキャンドルが立てられていますが、救い主の到来、到着を、1本、また1本とキャンドルを灯しながら心待ちに待ち望むのです。では私たちは今、何を待ち望むのでしょうか。イエス様はおよそ2000年前にすでに来られました。私たちが今待ち望むのは、イエス様の第二の到来、再臨です。依然として争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光として来てくださる。ヘブル書にはこうあります。「キリストは、多くの罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブ928)。今日からのアドベントを通して、私たちがイエス様の再臨に備えて待ち望む信仰を深めて行く。救い主は確実に近づいて来られているという希望、平安、喜び、愛を深めていく。毎年繰り返されるアドベントですが、私たちは今年も特別な4週間をふさわしく過ごしたいものです。

それにしても、私たちは待たされることが多いです。医者に行けば待たされるし、スーパーに行けばレジで自分の順番が来るまで待たされます。混んでいればなおのこと、長い時間待たされるものです。しかしこれらは、あとどれくらいで自分に順番が回ってくるのか大体予想ができます。横入りやよほどの非常事態が起こらない限り、その予想時間はそれほど狂うことはないでしょう。宝くじなんてどうでしょうか。宝くじを買って当たる人は必ずいるはずなのに、なかなか自分に当選の順番が回ってこない。「主はご自分の聖徒を特別に扱われる」(詩43)のではないのか? 祈りに関してはどうでしょうか。私たちは祈りの答えが与えられるまで、本当に長く待たされるのではないでしょうか。しかもどれくらい待てば良いのか、まるで予想できないのです。それで恐れたり、不安になったりしてしまう。「私は神に見放されてしまったのだろうか。私の祈りは神に聞かれていないのではないか。私は神に憎まれているのではないだろうか。私が罪人だから、罪が大きな障壁となって、神は祈りを聞いてくださらないのではないか」。そのようなことはないのです。たとえばもし、この世に医者と私だけしかいなかったら、当然医者で待たされることもないですし、レジを打つ人と私だけしかいなかったら、レジで待たされることもありません。もし神が私一人だけの神だとしたら、神はすぐに祈りに答えてくださるのかもしれません。しかしこの世に人間は私一人だけではありません。神に愛されている人間は、私一人だけではないのです。神はすべての人を愛し、すべての人の祈りを聞かれ、すべての人を救いたいと願われるお方です。すべての人を特別に扱っておられるのです。それも80億4500万人。すべての人にとって益となる、救いとなる最善の美しい「神の時」があるのです。すべての人にとって益となる時などあるのだろうかと私たちは考えてしまいますが、神は計り知れないほどの全能なるお方ですから、あるのです。ですから私たちは、この「神の時」が到来することを待たされるのではないでしょうか。そして神は私たちに、神の時の到来をあきらめずに希望を持って待ち望むように願われているのではないでしょうか。また私たちが神を信じ、神の時を信じ、兄弟姉妹が信仰を励まし合い、また私たちが教会から出て行って、すべての神の時、神の救いを人知れず待ち望んでいる人々に福音を届け、信仰を励ますことを望んでおられるのではないでしょうか。

今朝はエレミヤ書33章からみことばをいただいておりますが、ここは神に背き、多くの罪(偶像礼拝)を犯し、当然の報いとして国は滅ぼされ、バビロンに捕囚されてしまうけれども、神は必ずそこから救い出されるという預言が、エレミヤという一人の預言者を通してされているところです。そこにある預言に先立って31章3節で神はエレミヤにこのように言われています。「主は遠くから私に現れた。『おとめイスラエルよ。永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される』」。神の一方的な真実の愛がここに示されています。そのような神の愛に反してイスラエルは、その神の愛に答えず、神の愛を裏切り、心を他に向けて、そっぽを向いて他の神々を慕い求め、姦淫的な態度をとり反逆したのです。それにもかかわらず、そのようなイスラエルの民に対して、かつての契約を真実に守り「おとめイスラエルよ」と呼びかけ、神との関係の回復の約束をされるのです。そしてその愛は、また神の呼びかけは、約束は、赦しは、ただ恵みによって、信仰によってイエス・キリストの十字架の血潮による新しい契約を結んでいただき、聖霊が証印(証明のための印・それは決して取り消されることはない)として注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれ、キリストの花嫁とされている私たち教会に、またイエス・キリストを信じる信仰に立つ私たち一人ひとりにも注がれているのです。ですから私たちは、私たちの祈りがなかなか答えられないからと言って、決して神に見放されてはいませんし、神が私たちの祈りを聞いておられないということはありませんし、神に憎まれていることなど決してないのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに(神の真実の)愛があるのです」(Ⅰヨハ410)。忘れてはなりません。

しかし長く待たされる私たちは、この神の真実の愛を疑ってばかりいる者ではないでしょうか。それならなおのこと、注がれている神の真実の愛を知らない人々は、どれほどの恐れや不安の中にいることでしょう。それは自分を自暴自棄にしたり、他人への攻撃となって現れるでしょう。それが今の世を争いや憎しみ、汚れや罪に満ちさせ、暗闇に覆われたようなこの世にしてしまっているのではないでしょうか。

エレミヤという預言者は、別名「涙の預言者」とも呼ばれます。なぜそう呼ばれているのかと言いますと、彼は本当の神の愛と約束が信じられない人々に預言をする中で様々な苦しみに遭い、何度も涙を流したからです。エレミヤがイスラエル(南ユダ王国)の人々に預言を語り始めると、人々はそれに従うどころか猛反発をしました。当時は楽観的で甘い言葉を語る偽預言者や祭司たちがもてはやされていました。つまり、他人に気に入られるためのメッセージだけを語っていたのです。一方でエレミヤの語る預言は、「私たちの国は偶像崇拝などの罪のせいで滅亡する。新バビロニア王国に抵抗せず、捕虜になりなさい。バビロン捕囚が行われ、あなたがたは捕虜にされる。しかし国が滅んだ後には、エルサレムに帰国できる」というものでした。罪、そして捕囚、王国の滅びというとても悲観的なものが語られ、それゆえに人々にはあまりにも受け入れがたかったのです。しかしその預言には、神の真実な愛と、後に果たされる神との関係回復の時が来る約束が含まれていたのですが、人々はそれに聞く耳を持つことができませんでした。

そのような世の人々に神のみことばを告げるエレミヤは、人々に拒絶され、あざ笑われ、激しい反対に遭い、迫害にも遭いました。しかも自分を拒絶し、あざ笑い、迫害する人々は、自分が愛し救われて欲しいと願う人々、エレミヤが幸福を願っていた人々からのものでした。もし私たちがこのエレミヤだったら耐えられるでしょうか。

しかしエレミヤは預言を止めませんでした。エレミヤが勇者であったからではありません。ある聖書学者は、「エレミヤは生まれつき気が弱く、生まれながらにして非常に繊細な性格の持ち主であったために、この時代の危険や困難を相手に戦うなど、とてもできないように思われる人であった」と言っています。また別のある聖書学者は、「エレミヤは少女のような感受性と、カモシカのような神経のこまやかさを持ち、持久力を試す大波よりは、銀色の砂のじゅうたんを敷いた浅瀬を好む。歩兵相手に走るのが精一杯で、馬と速さを競うような気持ちには絶対にならない。そして、安らかに身をかくまってくれる平和の地を愛し、水の溢れるヨルダンには近づくようなことは望まない」。しかし全能なる神は、このようなエレミヤを預言者に召し、この時代にあって用いられたのです。実は私は、このエレミヤの姿の中に自分を見て、励まされ、献身の道を進んだところもあります。「この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しいものを神は選ばれたのです」(Ⅰコリ128)。私たちは励まされるのではないでしょうか。私たちもこのエレミヤの姿に自分自身を重ねるのではないでしょうか。殊に、今のこの世での宣教や伝道においてはなおのこと当てはまる性格のように思います。勇気がなく、あれこれ心配し、言い訳をし、尻込みしてしまう。しかし神はそのような人をこの時代にあって預言者として召され、そして言われるのです。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」(エレ117-19)。こうしてエレミヤは預言者としての使命を受け入れたのです。また私たち教会をこの時代にあって預言者として召され、そして言われるのです。「堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペ614-17)。イエス様もマタイの福音書で言われました。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」(マタ1618)。こうして私たちは、イエス・キリストを信じる信仰の上に堅く立ち、預言者としての使命を受け入れるのです。シェイクスピアの劇の中に「But I am Christian(しかし、私はクリスチャンである)という一節があるという話しを聞いて、その言葉が強烈に私の中に残っています。「しかし、私はクリスチャンである」。それでも私はクリスチャン、キリストに属する者、キリストのもの。それでも私は神から愛されているのだ、私は神のものなのだ。私たちはそこに力や望み、喜びが湧いてくるのではないでしょうか。

エレミヤは「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。おとめイスラエルよ……」との神の真実の愛、そして神が約束を必ず果たされる、またその神の時があることを信じ、人々を愛し、彼らの救いを願い、神のことば、預言を語り続けました。その時代にあって、決して人々を喜ばせるばかりではない預言を、福音を語り続けたのです。

私が神学生の頃、伝道実習である教会にお邪魔した時のことです。一人の信徒の老婦人が真っ直ぐ私に近づいて来られ、真剣な顔でこう言われました。「どうか、罪を語ってください」。罪を語ることも福音を告げることなのです。罪が分からなければ、本当の福音は伝わらないからです。この時代にあって罪を語ることは容易いことでしょうか。神の裁きを語ることは楽しいでしょうか。時に拒絶され、時にあざ笑われるでしょう。しかし私たちは、そのような人々をなおも愛し救われて欲しいと願い、人々から拒絶され、あざ笑われ、激しい反対に遭い、迫害に遭いながらも、人のことを思わず、神のことを思い、自分を捨て、自分の十字架を負って、神と隣人のために自分のいのちを捨てる覚悟をもって、その時代の人々の罪と神のさばきを語り続けるのです。そして真実の福音を語り続けるのです。神との関係の回復の約束、またその時を語り続けるのです。なぜそのようなことができるのか。私たちはイエス・キリストにある救いをすでに体験しているからです。神の真実の愛、そして神が約束を必ず果たされる、またその神の時があることを体験しているからです。そしてそれを本当に信じ、信仰に堅く立つならば、それができるでしょう。

33章14節    「見よ、その時代が来る—主のことば—。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。
33章15節    その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。
33章16節    その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主は私たちの義』と名づけられる。」

エレミヤは預言者として神に召されてから40年もの間、預言を語り続けました。そして何度も繰り返し「見よ、その時代が来る」と言いました。40年もの間、エレミヤは信仰にとどまり、信仰に堅く立ち、そして主のみことばを世の人々に真っ直ぐ語り続けたのです。ユダの国の人々は預言の通り、バビロンへと捕囚されていきました。そしてエレミヤはこの後、ユダに残っていた人々に拉致されてエジプトに行き、そこで生涯を終えたと言われています。エレミヤは最後まで報われなかったのでしょうか。そうではないでしょう。エレミヤの目は、信仰によって預言を通してはるか彼方、いつかは分からないその時代、この時代、この時を見て喜びに満たされていたのではないでしょうか。そして神の約束、先週のマタイの福音書で見た「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います」(マタ1627)との、その時を信じ、希望をもって待ち望んでいることと思います。

確かにイスラエルの民は、神の不思議な摂理によって、時代の大きな波のようなものに乗ってエルサレムに帰還することができました。いつくしみの約束が果たされました。神の守りと導きによって神殿も再建されました。しかしその後、イスラエルは同じ罪を繰り返すのです。やがて神殿礼拝は習慣的なものに堕し、偶像礼拝もはびこりました。貧しい者、弱い者への抑圧があり、祭司は腐敗し、ささげ物は軽く見られるようになりました。恵みによって回復された神との関係がまたもや人の手によって壊されます。旧約の最後の預言書であるマラキ書には、またもや神の愛が信じられなくなっているイスラエルの民の姿が描かれています。「わたしはあなたがたを愛している。—主は言われる—しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と」(マラ12)。「わたしはあなたがたを愛している」と言われる神に対して、「どのように、あなたは私たちを愛してくださったと言うのですか。ならば今のこの状況は何なのですか」。神の愛、あわれみ、約束、信仰にとどまれず、神の時を待ち望むことができずに文句を言う民の姿がここにあります。

エレミヤの預言は実現しなかったのではなく、一部が実現し、完全に実現するのはさらに先の時代、さらに向こうに神の時があるのだということです。エレミヤ書33章14〜16節は「メシア預言」と言われるものです。やがて来られるメシア、救い主、ダビデの御裔、イエス・キリストの預言です。

33章14節    「見よ、その時代が来る—主のことば—。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす(であろう)。
33章15節    その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う(であろう)。
33章16節    その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主は私たちの義』と名づけられる(であろう)。」

神の将来の約束「であろう」は、予想ではなく必ず実現される力強い約束です。そしてメシア、イエス・キリストはその時代、その時になってこの世に現れました。永遠の昔からの神のいつくしみの約束が、神の時になって果たされたのです。メシアはダビデの家系にお生まれになりました。公生涯において、この地で公正と義を行われました。病人を癒し、虐げられた人々を愛し、貧しい者に福音を告げられました。そして救い主イエス・キリストは「私たちの義」となられました。私たちが義(正しい者)ではなく、主が私たちの義となられたのです。私たちの一切の罪をその身に負われ、十字架に架けられ、葬られ、3日目によみがえられた。私たちのための宥めの供え物(いけにえ)となられ、十字架の上で屠られ、それで私たちの罪に対する神の怒りがすべて過ぎ去ったのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪の一切が赦され、帳消しにされ、神と私たちとの間に真の平和な関係が回復されたのです。

「主は私たちの義」主が私たちの義となられ、私たちは救われた。「主は救い」。御使いはヨセフに現れ言いました。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」(マタ121)。御使いはマリアに現れ言いました。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(ルカ131)。エレミヤの預言「主は私たちの義」と名づけられるであろう。「主は救い」ヘブル語でヨシュア、ギリシア語で音訳すると「イエス」。「イエスと名づけられる」。その時代、その日、その時、神の預言、神の約束は必ず果たされる。たとえ人々が忘れていようとも、神は真実に覚えておられ、みことばの通りに果たされる。一方的な恵み、偉大な力、計り知れない知恵によって。

そして私たちはまた、イエス・キリストの誕生、クリスマスが神の預言、「その時代が来る」「その日」、神の時の完成ではないことを知っています。それは私たちが待ち望んでいる神の時、救い主イエス・キリストの再臨の時、救いの完成の日を待ち望んでいるのです。私たちはその日その時を信じて待ち望むのです。

イエス様は、「あなたがたは、空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることができないのですか」と言われました。つまり「見分けることができるでしょう」と言われています。私たちは今、この時代に起こっている様々な出来事を通して、その時が近いことを知っているのではないでしょうか。イエス様の名を名乗る物が大勢現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わしている。戦争や戦争のうわさを聞いている。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こっている。偽預言者が大勢現れて、耳ざわりの良いメッセージを語り多くの人を惑わしている。秩序が乱れ(それは性的な秩序の乱れに大きく現れていますが)、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えている。そのような時代にあって、私たちには様々な不安、悩みや苦しみがあることでしょう。しかし、たとえどんなに自分の状態が絶望のような中にあっても、時代に翻弄されようとも、私たちは「神はそのひとり子を賜うほどに私を愛してくださった」ということを忘れてはなりません。そのひとり子、イエス・キリストはお生まれになりました。また、イエス様、「主は救い」という名のお方が再び来られる時は近い。しかしそれがいつなのかは私たちには分かりません。いつなのか分からない神の時を、それでも神の愛を信じて私たちは待ち望むのです。イエス様は言われます。「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです」(ルカ2128)。私たちは信仰に堅く立ち、希望と平安、喜びをもって身を起こし、頭を上げ、主の救いの完成の時を待ち望む信仰を新たにしてまいりましょう。今、イエス様の再臨に備えて待ち望む信仰を深めて行く。私たちの救いの完成の時を待ち望む信仰を深めて行く。救い主は確実に近づいて来られているという希望、平安、喜び、愛を深めていくという、アドベントの特別な4週間を、私たちはこれから過ごしてまいりましょう。

今、私たちはエレミヤのように、時に拒絶され、時にあざ笑われようとも。エレミヤのように、愛し救われて欲しいと願う人々から拒絶され、幸福を願う人々からあざ笑われ、激しい反対に遭い、迫害に遭おうとも、人のことを思わず、神のことを思い、自分を捨て、自分の十字架を負って、神と隣人のために自分のいのちを捨てる覚悟をもって、この時代の人々に真の福音を語ってまいりましょう。この後、聖餐式が行われます。「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリ1114)。パンと杯を通して、主の私たちに対する愛を再確認し、主への信仰、主の時への信仰を励ましていただき、希望、平安、喜び、愛をもってここからまた遣わされてまいりましょう。

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