2023年12月31日 主日礼拝「不信仰な曲がった時代に生きていくために」

礼拝式順序

賛  美  「見よ、わたしは新しいことを」
      「神の国に生きる」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌52「主のさかえに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌158「あめには御使」
聖書朗読  マタイの福音書17章14〜27節
説  教  「不信仰な曲がった時代に生きて行くために」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌301「山べにむかいてわれ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書17章20b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書17章14〜27節

説教題

「不信仰な曲がった時代に生きて行くために」

今週の聖句

もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。

マタイの福音書17章20b節

説教「不信仰な曲がった時代に生きて行くために」

マタイの福音書17章14〜27節

先週、私たちは幸いなクリスマス礼拝、またクリスマスイヴ・燭火礼拝をおささげすることができ、神の祝福、恵みにともに与りました。愛餐会も4年ぶりに持つことができ、喜びに満ちた時を過ごされたことと思います。本当に感謝でした。その後の1週間を、皆さんどのように過ごされたでしょうか。今年はクリスマス礼拝とイヴ礼拝が24日に重なり、翌日がクリスマス。余韻に浸る間もなく世の中はあっという間にお正月モードになりました。また、次の日の月曜日からは、昨日の恵みが嘘のように通常運転、通常どころか年末モードで色々と忙しく過ごされたという方もおられると思います。

クリスマスばかりではなく、修養会等の集会やバイブルキャンプ、また毎週の礼拝もそうですが、たくさんの恵みをいただくという幸いな特別の時を過ごした後こそがとても大事なのです。その時、またその直後というのは、私たちは喜びに溢れ、信仰に燃えていたり、霊的に満ち足りていたりするものですが、一人になって急に冷静になったとき(クリスマスの名残がここにあり、終わったんだなと思わされますが…)、イエス様がよくひとり寂しいところで祈られたように、本当の意味で神に思いを向けて、神と向き合い、神の語りかけ、お取り扱いをいただく。いただいた祝福、恵みや感謝、あるいは悔い改めへと導かれた思いをひとつずつ覚え、一つ一つを本当に自分のものとする。そういったことが重要です。この世はすべて神が創造された世界で、神の祝福と恵みに満ちた世ではあるのですが、私たちを惑わす誘惑や試みに満ちた世でもあります。受けた恵み、信仰、希望、愛、喜びや聖さなどが奪われてしまうことのないように、私たちはいただいた主の祝福から目を離してはなりません。クリスマスという幸いな時を過ごした後、冷静になった今、私たちはいただいた神の祝福と恵み、そしていただいた神、主イエス・キリストに対する信仰を本当に自分のものとする者でありたいと願います。

今日の箇所でイエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです」と語られます。これまでイエス様はツァラアトに冒された人、中風の人、熱を出して寝込んでいた人、婦人病の人など、様々な病気の人々、また悪霊につかれた人々を癒やされましたが、皆さんはこういった神の超自然的な働きは過去のことであり、あるいは聖書の中だけの話しであって、自分とは関係がない、今はそのようなことはもう起きないとお考えでしょうか。そう考えることは正しくありません。それは暗に、神の祝福、恵みが止まったと言っているようなものではないでしょうか。生活が便利になったこと、医療の発達を神の祝福、恵みではないとどうして言えるでしょうか。合理主義が当たり前の世にあって、それでもやはり神が世の主権者であり、すべての恵みの主であられることを信じないで、信仰をもって感謝しないことが、そのような考えを持たせるのではないでしょうか。

マタイの福音書は17章14節へと進んでまいります。クリスマスを挟んで少し前になってしまいましたが、前回のマタイの福音書17章1節から、イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネは高い山へ登り、3人はイエス様の栄光に満ちた御姿を目撃し、そして神の御声を聞くという、信じられないほどの凄い体験をしました。その後、山を下り群衆の中へ、世の中へと戻って行きました。栄光あふれる経験をしたその山のふもとには、相変わらず人間の苦しみと、それに対する人間の無力さというものが展開されていました。そのただ中へと戻って行ったわけです。

イエス様と3人の弟子が山に行っている間に、ふもとでは大騒ぎが起こっていました。他の弟子たちは、少しの間イエス様から離れてしまうと、周りや群衆に目を奪われて、何か力を失ってしまったようです。信仰が薄れてしまったようです。それは弟子たちがイエス様を完全に信頼できていなかったことを示しているのでしょう。

17章14節    彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、
17章15節    こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。
17章16節    そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」

イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネが山から下りると、ふもとにはイエス様に癒やしていただこうと大勢の群衆が集まっていました。マルコの福音書によると、大勢の群衆は弟子たちを囲んで、律法学者たちも加わって何やら激しく論じ合っていたようです。群衆は山から下りて来られたイエス様を見ると急いでイエス様に駆け寄りました。「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」と問われるイエス様に、一人の人が近寄って来て御前にひざまずき言いました。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした」。群衆が弟子たちを囲んで論じ合っていたこととは、癒しについてでしょう。以前、イエス様は12弟子に悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やす権威をお与えになり、2人一組にして伝道旅行へと遣わされました。12弟子はその権威をもって、旅先で病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出すという力あるわざを行いました。群衆はその噂を聞いていたのでしょう。その場にイエス様はおられませんでしたが、弟子たちも癒やすことができると思っていたのでしょう。弟子たちもできると思っていたのでしょう。ところがこの時の弟子たちには癒やせなかった。イエス様の留守中、弟子たちはその子を癒やそうとしたけれども出来なかった。どうして癒やせなかったのか。群衆に詰め寄られ、慌てふためく弟子たち。どうしてでしょう。

群衆は自分たちを癒やせない弟子たちに詰め寄り、律法学者たちも交えるとそれはイエス様の権威が本物かどうかについての激しい論戦となりました。しかしその中から、イエス様を救い主として心から礼拝する信仰を持つ人が登場します。その信仰は、もう神に依り頼むしかない「心の貧しい者」にしか見られない信仰でした。神はそのような信仰こそ喜ばれ、受け入れてくださるお方です。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」(詩5117)。

他の福音書では、てんかんの息子はこの父親にとって、とても大切な一人息子で、その子が幼い時からてんかんで苦しんでいたようです。火の中に落ちたり水の中に落ちたりする異常さから分かるように、その病気は悪霊によるものでした。原文では15節に「惨めに、情けなく、みすぼらしく」という語が入っています。大切な一人息子が病気そして悪霊によって惨めに、情けなく、みすぼらしく苦しむ姿をただ見ることしかできない父親の苦しみ、悲しみ。父親自身も自分を惨めで情けない、みすぼらしいと思っていたのでしょう。父親はイエス様に嘆願しました。「主よ、私の息子をどうかあわれんでください。あなたのお弟子たちには治すことができませんでした」。そしてこの父親は、マルコの福音書ではこのように言っています。「もしおできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」。イエス様は言われました。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。するとすぐに、その子の父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。

イエス様はその人の内になる信仰を通してはじめて、力あるわざを行うことができるのです。イエス様が唯一出来なかったことが聖書に記されているのですが、それは不信仰の人に対しては力あるわざができなかったということです。イエス様はたとえ私たちの信仰が不完全であっても、あわれみによって私たちの信仰を助け導き、完全な信仰へと高めてくださり、そこで私たちを救ってくださいます。私たちはこの愛なるお方に依り頼むのみです。

17章17節    イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

イエス様は人の不信仰を嘆かれます。悲しまれます。「〜しなければならないのか」と訳されていますが、ここは「わたしはいつまであなたがたと一緒にいられるだろうか。わたしはいつまであなたがたのために忍耐し苦しむことができるだろうか」とも訳せるところです。あなたを救いたい。なのにどうしてあなたがたのうちにわたしへの信仰がないのか。わたしはあなたがたの信仰を助けたい。しかし信仰がなければわたしはあなたがたの信仰を助けることもできないし、苦しみから救えないのだ。わたしはそれが苦しいのだ。わたしはまもなく、あなたがたから離れる時が来る。また再びあなたがたの所に来る時が来る。その時に、あなたがたのうちに信仰が見られるだろうか。

イエス様は弟子たち、そして群衆を見回したのではないでしょうか。少しの間、沈黙があり、静かに考えさせる時間があったのかもしれません。そして言われました。「その子をわたしのところに連れて来なさい」。

17章18節    そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。
17章19節    それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」

弟子たちは恥ずかしかったのでしょう。どうして自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのか。弟子たちは騒ぎから離れ、家に入ると“そっと”イエス様のもとに来て尋ねました。恥ずかしかったけれども、それでも自分たちの無力の原因を知ろうとしました。主のお取り扱いを受けようとした。これは見習うべき態度だと思います。

17章20節    イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

イエス様は、弟子たちの無力さは、その信仰の「薄さ」にあると言われます。信仰は量が問題なのではなく、質が問題なのです。礼拝に、その量ではなく質が求められているのと同じです。「信仰が薄い」というのは、量的に少ないことを指しているのではなく、質的に濃さが足りないことを指しているのです。つまり、半信半疑の信仰ということです。このような薄い信仰では、何の役にも立たないのです。弟子たちが持つべきものは、からし種ほどの本物の濃い信仰でした。

からし種には小さくても大きく成長する力が秘められています。「山を移す」とはユダヤ人の慣用句で、「困難な問題を解決する」という意味があります。イエス様はここで、「どんなに小さくても、本当に本物の信仰があるなら、全能の神は、その小さな信仰を通して力あるわざをなしてくださるので、行く手をふさぐ山のように大きな問題をも解決できる」と教えておられます。また弟子たちには、あなたがたには悪霊を追い出す権威がすでに与えられていたのだから、小さくてもまことの生きて働く信仰があったなら、てんかんの息子から悪霊を追い出すことができたのに、とイエス様は言っておられます。

それでは、誰に対する信仰なのでしょうか。誰に対してのからし種ほどの信仰があればと言っておられるのでしょうか。自分には出来るという自分の力を信じる信仰でしょうか。そうではありません。それは「イエス様に対する信仰」です。

弟子たちがてんかんの息子から悪霊を追い出すことができなかった原因。はじめはイエス様に対する信仰に燃えていたというところもあったでしょう。それで以前の伝道旅行では力あるわざがなせたのでしょう。その後、力あるわざを行い、少しばかりおごり高ぶりが顔を出してきたのでしょうか。この頃の記事には、誰が一番偉いかと議論する弟子たちの姿も描かれています。弟子たちは、打ちひしがれるその子と父親をあわれむことも、神に依り頼むこともしなかった。以前の経験に頼り、悪霊を追い出して人々を驚かせてやろうという愛のない高ぶった心だけがあったのかもしれません。

いずれにしても、私たちに必要な信仰というのは、自分自身に対する信仰、自分には出来るという信仰ではなく、ただただイエス様を信じる信仰なのです。イエス様を信じる信仰であるならば、小さなからし種ほどの信仰さえあれば、その信仰を通して主は力あるわざをなしてくださいます。どんなに小さくても本当に質の良いイエス様を信じる信仰があるなら、山を移すような不可能と思えることが成し遂げられるのです。

そして、私たちにとって目の前にある山、困難な問題とは何でしょう。それはやはり、すべての諸悪の根源、苦しみや悲しみの根っこである罪でしょう。神を神として敬わない、自分を全地全能の神としてしまう、自分こそが正しいさばき主であるとしてしまう。自分の好き勝手に生きようとする。染みついた罪。「移す」という語は、ただ単に場所を移動するというものではなく、もはや影響を及ぼさない領域に移すという意味の語です。自分にはできるという自分の力を信じる信仰ではなく、イエス・キリストを信じる、十字架の赦しを信じる、それがからし種ほどの信仰であっても、その信仰によって「ここからあそこに移れ」と言えば、そのようになるのです。罪はもはや私たちに何の影響を及ぼすこともできなくなるのです。悲しみや苦しみが喜びに変わる。大きな目の前の問題が、もはや問題ではなくなる。そのような信じられない最善が起こるのです。「あなたがたにできないことは何もない」とイエス様は励ましておられます。

17章21節    ※後代の写本に二一節として〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕を加えるものもある

21節は後に、マルコの福音書の並行箇所から挿入されたものと考えられています(マコ928-29)。皆さんご自分の祈りを思い出していただきたいのですが、祈りというのは自分自身の弱さの告白であると同時に、主に対する信仰の告白でもあるのではないでしょうか。「私にはできません。神さま助けてください」と言うような。祈りの中で「自分にはできる、あなたの助けはいらない」と祈る人はまずおられないでしょう。また断食というのは、自分を貧しくし、神を信じ、神に依り頼まなければ私は生きて行けないのだということを知るためのものです。また神の前でのへりくだりを表すものです。信仰の対象は自分自身ではなく、あくまでも主イエス・キリストです。

この後、唐突のように22-23節が挿入されているのですが、どうしてそこにたった2節の、イエス様による2度目の受難予告がわざわざ記されているのでしょうか。それは信仰の対象を確認しておく必要があったからです。

17章22節    彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
17章23節    人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

22節では、突然舞台がピリポ・カイサリアからガリラヤに変わります。これまでのように、ユダヤ人の間で多くのわざを行うためではありません。16章でなされた1回目の受難予告から、マタイの福音書はイエス様のなされることが十字架に照準があることが記されて行きます。その流れの中にある14〜20節の癒しのわざを通して、群衆のイエス様に対する不信仰と弟子たちの薄い信仰が鮮明にされました。では、厚い信仰、望ましい信仰とはどのようなものなのでしょうか。それはすでに申しました通り、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、よみがえられるメシア救い主であるイエス・キリストを信じる信仰です。そのことが、てんかんの癒しの後のイエス様による受難予告によって示されています。

イエス様は受難の予告をすると同時に、復活の予告もされています。にもかかわらず、弟子たちは受難のみを考えて非常に悲しみました。マルコとルカの福音書によると、その意味を悟ることができず、それを尋ねることすら恐れるほどの悲しみようでありました。しかしイエス様は、これから起こらなければならない事柄に対して、弟子たちを取扱い、準備させなければならなかったのです。本当の質の良い信仰を養わなければならなかった。このような準備なしには、イエス様の十字架、そしてそこでの弟子たちの体験は、あまりにも残酷すぎるものであったからです。またイエス様の復活後から始まる弟子たちのこの世での新たな復活の証人としての歩み、福音を証しする歩みもまた過酷なものであったからです。

24節からはまた内容ががらりと変わります。

17章24節    彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」

当時、世界のどこにいても、ユダヤ人はみなエルサレムにある神殿の運営のために、年ごとに税金を納めなければなりませんでした。宮の納入金は、出エジプト記30章11〜16節に起源を持つ制度で、新約の時代には20歳から50歳までのユダヤ人男子は、1年につき半シェケル(労働者の2日分の労賃)を、過越の祭りの時にエルサレムで納めるか、別の地で一月早く納めるかをしなければなりませんでした。神殿税を集める人たちは、マタイのような取税人ではありません。神殿税を集めるのはエルサレムの宗教当局者で、その責任者は大祭司でした。エルサレムの祭司たちの代表者がパレスチナ全域を巡って神殿税を集めました。

神殿税を集める人たちはペテロに、「あなたがたの主イエスは、神殿税を納めないのか」と尋ねました。もし納めないと言うなら、当時権威をもっていたエルサレム神殿に対するイエス様の不忠実を告発する材料にしようという企みがありました。

ペテロはイエス様がこれまで、安息日に病人を癒したり、食前のきよめを省略したりしていたので、イエス様が神殿税の支払いも必要ないと言われるかもしれないという心配があったのでしょう。そのようなことになれば、イエス様を訴える口実ができてしまいます。

17章25節    彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」
17章26節    ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。

ペテロは神殿税を集める人たちに「納めます」と答え、すぐさまイエス様にそのことを伝えようとしました。しかしイエス様は事のすべてをすべて知っておられ、ペテロにイエス様の解答を示されました。誘導尋問のようにして解答を示されるのですが、これはユダヤでの優れた教育法とされており、イエス様もしばしば用いられた手法です。王の子どもたちは王に税や貢ぎを納めないではないか。同じように、神の国、神の王国の王、神の御子であるわたしも神に税や貢ぎを納める必要はないのです、と。

17章27節    しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

イエス様は世を統べ治めるまことの王としてこの世に来られました。まことの王としてこの世を支配なさるために。しかし、まことの王の支配というのは、支え配慮されるというものです。イエス様はまことの王であるがゆえに、人をつまずかせないように支え配慮されるお方です。「あの人たち」とは、納入金を集める人たちのこと。その人たちに不必要なつまずき、面倒をかけてはいけない、争いや不和を起こしてはならないと、イエス様は「あの人たち」、ご自分の敵と思われる者たちにさえ支えと配慮をもってご自分の権利を主張なさらずに、世のなすべきことをされるのです。このお方が私たちの主です。私たちが目を留め、目を離してはならない主です。深い愛とあわれみの主。それにくらべて私たちにはなんと他人に対するまことの愛と憐れみの薄い者たちでしょうか。

私たちは時が来るまで、この不信仰な曲がった時代に生きて行かなければなりません。その中で、私たちは世に惑わされることのないように、世から悪い影響を受けてしまうことのないように、イエス様から目を離さずに、すべての人たちに対する支えと配慮をもって不必要な誤解を招くような行動をしないように気をつけたいと思います。そのためには愛が必要でしょう。知恵が必要でしょう。何よりも信仰が必要でしょう。イエス様は「もし、からし種1粒ほどの信仰があるなら」と言われました。それくらいの信仰、イエス様に対する信仰でもあったら、この山に向かって「ここからあそこに移れ」と言えば移るのだと言われました。イエス様は弟子たちに、あなたたちにはその一番小さな信仰もないではないかと言われているのですから、足りないなどというようなものではありませんでした。私たちもそのことに気づかなければなりません。自分は神に対して信仰しているというようなおごり高ぶった思いではなく、神の前に謙遜になって、自分はだめなのだということに気づかなければなりません。22節にはイエス様の受難の予告の中に「手に渡され」ということばがありますが、そこにはイエス様は弟子に裏切られ、人の手に渡されることが示唆されています。ご自分が愛し、支え配慮している弟子たちの中から裏切り者が出るというのは、イエス様にとって最も悲しむべきことであったでしょう。しかしこの時点においては、弟子たちはそのようなことが起こるとは誰も気づいていなかったのです。イスカリオテ・ユダでさえもです。もしかしたら私たちも、自分が裏切り者になるなどとは気づいていないだけなのかもしれません。弟子たちはイエス様が殺されることを知らされて悲しみました。しかし彼らが本当に悲しまなければならなかったのは、イエス様さえも裏切る彼らの罪深さだったのではないでしょうか。その罪深さというのは、不信仰な曲がった時代に生きている私たちの内にも見え隠れするものです。

私たちはクリスマスという神の栄光、神の祝福と恵みにあふれた時を過ごさせていただきました。私たちは喜びに溢れ、信仰に燃え、霊的に満ち足りたりたでしょう。今こそ私たちは一人になって冷静になり、本当の意味で神に思いを向けて、神と向き合い、神の語りかけ、お取り扱いをいただくのです。過ぎた1年に、何より特別にクリスマスに覚えた主からいただいた祝福、恵みや感謝、あるいは悔い改めをひとつずつ数え、それらを本当に自分のものとする。そういったことが重要です。この世は私たちを惑わす世です。誘惑や試みに満ちた世です。年が明け、明日から始まる新しい1年もそれは変わることはないでしょう。しかし新しい1年もまた、変わらずに神が創造された、神の祝福と恵みに満ちた世でもあるのです。信仰、希望、愛、喜びや聖さなどが世に奪われてしまうことのないように、私たちは主の祝福、恵みから目を離してはなりません。イエス様から目を離してはなりません。目を奪われやすい弱い私たちを助けてくださる聖霊によって信仰を与えられ、信仰を守っていただきながら、新しい1年もまた、信仰によって、この世に満ちている、また聖書のみことばに満ちている神の祝福と恵みに目を留(と)め、心に留(とど)める者でありたいと願います。そこから日々信仰を与えられ、それがたとえからし種ほどの信仰であっても、それを通して力あるわざをなしてくださる、山をも動かしてくださる主に心から依り頼み、歩んでまいりたいと思います。

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