2024年1月7日 主日礼拝「御国の民の互いに対する態度」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌355「主と共に歩む」
      新聖歌38「わが目を開きて」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇95篇1〜7a節
讃  美  讃美歌75「ものみなこぞりて」
主の祈り  讃美歌564
罪の告白・赦しの宣言
祈  祷  
讃  美  讃美歌90「ここもかみの」
聖書朗読  マタイの福音書18章1〜9節
説  教  「御国の民の互いに対する態度」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌332「主はいのちを」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書18章4節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書18章1〜9節

説教題

「御国の民の互いに対する態度」

今週の聖句

ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

マタイの福音書18章4節

説教「御国の民の互いに対する態度」

マタイの福音書18章1〜9節

新年が明けてはじめの1週間、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。ゆっくりできた、いつもと変わらない、いつもよりも忙しかった。様々だったと思います。いつからでしょうか、元日から普通にお店が開くようになったのは。私が子どもの頃は、お正月の三が日は、お店なんてどこも開いていなかったように思います。それが今では普通に元日からスーパーや飲食店が開いています。足りない物があったりお腹が空いたら、いつでもすぐにお店に行って買ったり食べたりできる。お正月ばかりではありません。365日24時間営業のお店もたくさん増えました。色々と便利な世の中になりましたが、利益に与る人がいる反面、やはり大変な苦労をしている人がいます。お正月なんて関係なく、関係ないどころかいつもよりも忙しく働かなくてはならない方々がいます。「お客様は神さま」精神が普通に当たり前のようになっている世の中。そして神さまであるお客様に身を低くして仕える方々。どちらが偉いのでしょうか。今の世の中、人に仕えられる立場に立つ方が偉いのだというのが当たり前のようになっていて、少しでも人より偉くなりたくて、人よりも有利な立場に立ちたい、負けたくない、自分の方が正しい、人に仕えるのは嫌、仕えられる立場に立ちたいと、今も色々と頑張ってしまっているのではないでしょうか。色々と頑張りすぎた結果、争いが起こり、それが世界規模にもなると戦争になってしまうのでしょう。

偉くなりたい、人よりも有利な立場に立ちたい、負けたくない。これは決して現代だけのことではなかったようです。聖書を見ると、イエス様の直弟子たちも、神の国ではだれが一番偉いか議論していました。言い争っていたというのです。イエス様はこの問題を出発点として、弟子たちの神の国における人間関係のあり方について教えています。これは現代に生きる私たちの人間関係のあり方にも、そのまま当てはまるものです。

18章1節      そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」

前回の17章に戻りますが、イエス一行はピリポ・カイサリアからガリラヤへと向かい、ガリラヤではイエス様による2回目の受難予告がされました。すると弟子たちはたいへん悲しみました。そしてそのことばが理解できず、しかしイエス様に尋ねるのも恐れました。弟子たちはなぜ悲しみ、理解できず、恐れたのでしょうか。それはイエス様に対して政治的、軍事的メシアを期待していたからです。イエス様が民を苦しめるこの世の権威に勝利し、民を救い、この世に神の国を確立し、その国の王として君臨されることを期待していたからです。そしてその期待は拭いきれませんでした。一行がカペナウムに着いたとき、神殿税を納めなければならないという場面で、イエス様がペテロに問われました。「地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからか、それとも、ほかの人たちからか」と。ペテロは答えました。「ほかの人たちからです」。するとイエス様は言われました。「ですから、子たちにはその義務がないのです」。その問答を聞いた弟子たちは、間もなくイエス様が王になると考えたのでしょう、その上座に着くために論争を始めました。マルコの福音書によると、道すがら互いを比較して「誰が一番偉いのか」と言い争っていたのです。

弟子たちは少し前に、ピリポ・カイサリアでイエスが救い主であると信仰を告白しました。イエス様はご自分の「苦難のしもべ」としての受難と復活を弟子たちに教え始めました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは山の上で神の栄光が望んだのを目撃し、特別な霊的祝福に与りました。また、神殿税を集める人たち、それはエルサレムの宗教指導者であり、イエス様の敵ではありましたが、イエス様はその敵である彼らさえ愛され、彼らの立場まで配慮されました。そのような経験をした弟子たちがしたことは、なんと権力争いでした。弟子たちの無神経で低レベルな様子は、彼らが天の御国の民にふさわしい歩みには程遠かったことを示すものでしょう。

一行はカペナウムに着きました。そしてある家に入られてから弟子たちに尋ねられました。「来る途中、何を論じ合っていた(言い争っていた)のですか」。弟子たちは答えられずに黙っていました。来る途中、だれが一番偉いが論じ合っていたからです。イエス様の後をついていく弟子たちは道すがら、誰が一番偉いのか言い争いながら、「俺が前で、お前が後ろだ」などともめていたのでしょうか。イエス様はずっとそれを背中で聞き、見ておられました。

イエス様は家に入られると腰を下ろされました。腰を下ろすというのは、ラビが弟子たちに正式に教えを垂れる姿勢です。イエス様はこれからとても重要なことを語られる、弟子たちにとても重要なことを教えられるという姿勢をとられました。イエス様がこれから教えられることは、「めちゃくちゃ重要」なのです。そして12弟子を呼んで教えられました。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」(マコ935)と。

それでも弟子たちの疑問は去らなかったのでしょう。弟子たちは揃って「それならば、天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」とイエス様に問いました。どれだけ皆にとって関心が高かったかがうかがえます。ルカの福音書では、「イエスは弟子たちの心にある考えを知り」とあります。弟子たちは「天の御国では」と言ってはいますが、本当のところ、結局今、自分たちの中でだれが一番偉いのかということが最大の関心事だったのです。弟子たちはイエス様が誰が一番偉いと言うか、かたずを飲んで待っていたのではないでしょうか。ところが、イエス様の答えは、全く予想に反するものでした。ここからイエス様は得意な実物教育をされます。

18章2節      イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、

ここもマルコの福音書によると、イエス様は弟子たちの問いに答えるために、一人の子どもの手を取って呼び寄せて、彼らの真ん中に立たせ、そして腕に抱かれました。一人の子どもをご自身のもとに招き、懐に抱いて優しく受け入れられたのです。

18章3節      こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。

イエス様は子どもを腕に抱き、この子どものような者が天の御国に入れるのだ、神の懐に抱かれるのだと教えられました。そして「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようになりなさい。そうでなければ、決して天の御国に入れない」と言われました。子どもたちのようにならなければ、天の御国で一番偉い者になれないどころか、決して天の御国に入れないと教えられました。これには弟子たちもびっくり仰天したのではないでしょうか。

ここで聖書は優しく語っていますが、もしイエス様がこう言われているのだとしたらどうでしょう。「おまえたちは神の国でだれが一番偉いかと言っているが、だいたい、その考え方が間違っている。悔い改めて謙遜にならない限り、お前たちは神の国に入ることさえできなくなるぞ!」。非常に厳しいおことばです。

弟子たちは「自分たちはイエスの直弟子であるから、神の国に入ることは間違いない」と安易に考えていたかもしれません。そのことは言うまでもなく当たり前のことで、そのうえで、神の国ではだれが一番偉くなるかを言い争っていたのです。ところが、この安易な大前提はイエス様のことばによって見事に砕かれてしまいました。

イエス様は「向きを変えて」と言われました。これは「悔い改めて」ということです。そのような自分の考えを悲しんで、それから改めなさいということです。

「悔い改めて子どもたちのようにならなければ」。子どもたちのようにとはどういう意味なのでしょうか。ここでの子どもというのは、乳離れした子どものことを言っています。私たちは時に、子どもとは純真無垢な信頼のシンボルのように考えますが、「この考えは子どもを美化する傾向のある現代人の読み込みである」と、厳しいことを言われる先生がおられますが、私もある意味同感です。乳離れした頃からの子どもって本当に純真無垢でしょうか。純真無垢に親を信頼しているでしょうか。ちょっとした計算があったり、小さくても人間である以上、自分の好きなことをしたい、嘘泣きなんかしてみて親を従わせたいなどという罪の性質が見え隠れしているのではないでしょうか。(ちなみに、聖書の他の箇所では、自分の親に対する態度がそのまま神に対する態度であると教えています。)ここでイエス様が言われている「子どもたち」というのは、ユダヤ人社会で子どもが置かれていた立場、それは「無力で無価値な者」という意味で言われているのです。

「ようにならなければ」とありますが、これは直訳すると「生まれなければ」となります。皆さんおなじみの場面で、ニコデモという人にイエス様は言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と(ヨハ33)。ニコデモは「そんなことできるわけがない!」と反論しましたが、自分を捨て、自分を無力で無価値な者だとすることは、人間にとってそれほど不可能に近いと思ってしまうほどに難しいことなのです。自分の十字架を負う、自分に死ぬことは本当に辛いことなのです。目の前に競争相手がいるからです。自分の敵がいるからです。敵がいる。そこは神の国でしょうか。自分が偉くなるために、他の誰かを低くしなければならない。自分が勝つために、誰かを負かさなくてはならない。自分が生き生きと自由に生きるために、誰かを殺さなければならない。自分がいて、敵がいる。そこは神の国となるでしょうか。

しかしイエス様の慰めのみことばを聞きましょう。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(マタ1926)。私たちの知恵や力では不可能なことでも、神によるならば、神が送られる御霊によるならば可能です。私たちは御霊によって新しく生まれた者たちです。御霊、神の霊、神の心、愛によって新しく生まれた者たちです。ご自分のひとり子を私たちの罪の身代わりとして十字架にかけてまで私たちを愛され、罪から贖ってくださったその神のいのちがけの偉大な愛を御霊によって知らされ、御霊を通して神の愛が注がれている私たちならば、自分自分という高ぶり、プライドを捨ててしまうことなど簡単なのではないでしょうか。「わたしは、神というあり方を捨て、自分を空しくし、仕える者の姿をとって世に降った。そして十字架で自分を最も低くして、まことにわたしのいのちをかけてあなたを愛し、あなたのいのちを守った。このわたしはあなたに言う。悔い改めて、子どもたちのようになって、わたしの国、神の国、天の御国に入りなさい。そこでわたしが守ったいのちをもって、永遠に生きなさい」、そう言われる主の前で、どうして頑なに、天の御国に入ることさえできなくなってしまう自分自分という考えを後生大事に握りしめていることなどできるでしょうか。

天の御国に入る条件、それが悔い改めて子どもたちのようになること、自分を無力で無価値な者であるとすることであるならば、天の御国で一番偉いのはどのような者となると思いますか。それは当然「自分を低くする者」となるのです。天の御国では「さすが○○さん、自分を低くして偉いね」となるのです。

イエス様はここでようやく弟子たちの問いに対しての直接の答えを与えてくださいました。

18章4節      ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

この世で一番偉い者となれるのは、自ら自分を高める者でしょう。しかし天の御国で一番偉い人は、自ら自分を高める者ではなく、自分を低くする人です。おもしろいことに、「低くする」と訳される語は、「鼻を折る」という意味もあります。日本語では鼻っ柱をへし折るとか言いますが、通じるものがありますね。自らで自らのおごる心をくじく、得意になっている自分に恥をかかせ、へこませる。つまり謙虚になる。そのような人が天の御国で一番偉いのです。

18章5節からは、続けて子どもを用いられますが、少し話しは変わります。イエス様は誰が一番偉いか言い争うご自分の弟子に向かって、弟子の仲間同士が互いに尊重する態度を教えます。ご自分の弟子仲間、それはつまり教会の兄弟姉妹でしょう。兄弟姉妹がそれぞれ自分を低くし、互いを受け入れ、つまずきをもたらしてはならないということを教えられます。

18章5節      また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

「このような子どもの一人」。このような子どもとは、先ほども申しましたとおり、ユダヤ人社会で子どもが置かれていた立場、「無力で無価値な者」です。しかしイエス様はご自身の目に、「すべての人が高価で尊い」と言われているのです。無力で無価値どころか、高価で尊いとされているのです。「このような子どもの一人」というのは、弟子仲間の内で、あるいは教会の中で弱く低い立場に立たされている人のことを指しているのでしょう。例えば使徒パウロはローマ人への手紙の中で「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」と言っています。「信仰の強い人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです」と(ロマ141-3)。何を食べても良いとしている人は、ある面では信仰の強い人であり、ある面では信仰の弱い人とも言えます。野菜しか食べないという人は、ある面では信仰の弱い人とも言われますが、ある面では信仰の強い人でしょう。つまり、ローマの教会では、神がその人を受け入れてくださったということを忘れ、互いに相手を見下してさばき合っていたという状況が見られます。またヤコブ書の中で使徒ヤコブは、世の権威があって富んでいる人を歓迎し、貧しく、力のない人に対しては冷たく接するようなことが教会の中で起きていると責めながら(ヤコ2)、それが罪であることを明らかにしました。イエス様はここで「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言われ、後にパウロが勧めたように「弟子同士愛をもって、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」(ロマ1210)と教えておられるのです。子どものような人を受け入れることが、神と神が遣わされたメシア、救い主イエス・キリストを受け入れることになる。子どものような人を拒むなら、神と神が遣わされたメシア、救い主イエス・キリストを拒むことになると。

「受け入れる」というギリシア語は、相手が投げたボールを両手でキャッチする、受け取るイメージの語であると教えていただいた記憶があります。イエス様が投げられたボールなら、私たちは必死で取りに行くのではないでしょうか。落とさないように丁寧に両手どころか、前進で受け取ろうとするのではないでしょうか。弱いと思う人に対しても、その人がわたしだと思って、わたしに対してと同じようにしなさいと言われるのです。しかも最後のさばきの席で、天の御国に入れるか入れないかのところで、イエス様はこのように問われるのです。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタ2540)、「おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」(マタ2545)。そして言われます。「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(マタ2546)と。

ですから、今朝の箇所でイエス様が教えておられることは、本当に重要なこと、めちゃくちゃ重要なことを教えておられるのです。それは腰を下ろして正式に教えられる訳です。誰が一番偉いのかという言い争いは取るに足りないように思えても、実はそうではない、大変重要な解決しなければならない問題だったのです。

18章6節      わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

厳しい警告です。「つまずかせる」という語は、「目の前に罠を置く、罪を犯させる、ショックを与える、怒らせる」といった意味の語です。イエス・キリストを信じる者が、イエス・キリストを信じる者の信仰を失わせたり、罪を犯させるような真似をすることに対するさばきは、重い石を首にかけられて、海の深みに沈められる方がましだというのですから、どれだけ厳しいさばきなのでしょう。

18章7節      つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

7節は直訳するとこうなります。「この世界は悲惨(不幸)です。罪の原因があるからです。だから、つまずきの石が来るのは必然だけれども、攻撃を仕掛けてくる人は悲惨(不幸)だ」。

皆さん覚えておられるでしょうか。マタイの福音書13章では、種蒔きのたとえがされました。また毒麦のたとえがされました。この世には神の祝福を奪う敵の存在があり、その誘惑に満ちていると。そして敵は最後のさばきの時までそのままにされておく。神の敵と一緒に、せっかく芽ばえた神の子らがこの世から抜き取られ、途中で永遠のいのち、救いごと滅びてしまうことのないように。だからこの世界は悲惨(不幸)と主は言われるのです。つまずきが起こるのは避けられない、そんな悲惨な世界に私たちは生きているのです。しかし同時に、今は恵みの時代であるとも主は言われます。その中で、つまずいて罪を犯してしまう人、攻撃を仕掛ける人は悲惨(不幸)なのです。つまずいて罪を犯してしまった人、弱い人の目の前につまずきの石、罠を置く人は悲惨(不幸)な将来が待っているのです。神の厳しいさばきがあり、それは避けられない。だからあなたがたは気をつけなさいと、主はめちゃくちゃ厳粛に警告されるのです。

18章8節      あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
18章9節      また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。

私たちは手、足、目、そしてイエス様は「兄弟に『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれる」と言われていますが、口でもつまずき、つまずかせ、罪を犯してしまいます。また、心でもつまずき、つまずかせ、罪を犯してしまうのではないでしょうか。心こそ問題と言えるかもしれません。心はどうやったら切ったりえぐり出したりして捨てられるでしょうか。それは出来ません。聖霊なる神さまをお迎えし、そこに住んでいただき、聖めていただくしかないでしょう。

いずれにしても、イエス様はめちゃくちゃ厳しいことばで警告されます。それほどそのさばきは恐ろしく、免れられない。そのようなことがあってはならないと、強く教えられました。なぜなら、それらを放っておいたら、この世では取るに足りない見下された私であっても、主が「あなたは高価で尊い」と仰ってくださった同じ口で厳しいさばきが宣告され、救ってくださったお方の御手によって「ゲヘナ(永遠の火)」に投げ込まれてしまうからです。それほど辛く悲しいことはあるでしょうか。しかしそれは主にとっても同じです。それほど辛く悲しいことはないのです。

「つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。悲惨だ、不幸だ」とイエス様は言っておられます。反対に、「なんと幸いなことよ」ということも、マタイの福音書5章の山上の垂訓の中の「至福の教え」と言われているところで語られています。私たちはそのみことばを思い出し、もう一度耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。山上の垂訓は弟子たちが宣教、地上での神の国である教会を建て上げて行くために教えられた教訓(後に役立つ教え)でした。イエス様が弟子たちとの宣教の歩みの中で何度も繰り返し教えられたものです。宣教の歩みの中にあるイエス様の弟子である私たちも、何度も教えられなければなりません。

イエス様は今日の箇所で、天の御国の民は互いを大切にすべきであることを教えておられます。この地上での天の御国を表す教会の兄弟姉妹は、互いを大切にすべきであることを教えておられます。今朝の箇所のの弟子たちのような競い合うような特権意識によって問題を引き起こしている教会があるとしたら、それは大変なことです。そこに集う人たちは、自分たちが天の御国の民とされている、天の御国の民としての心構えを失っていると言わざるを得ません。天の御国の秩序に逆らっていると言わざるを得ません。その秩序というのは、キリストの救いの恵みを受けた天の御国の民として自分自身を低くし、人々に仕えるというものです。

天の御座の栄光を、この世の取るに足りない見下された者、また罪人だった私たちのために捨てられたイエス様は今も、貧しく疎外された隣人に対して私たちがどうするかを見ておられます。主に仕える心をもって互いに仕え合いましょう。それが主が私たちになしてくださったことだからです。

この後、聖餐式が執り行われます。式文にもあるとおり、私たちは聖餐式を通して、主が私たちになしてくださったこと、主イエス・キリストの十字架を通して注がれる愛とあわれみ、そして赦し、溢れんばかりの恵みを覚えるとともに、イエス・キリストを信じ、御霊によって生まれた兄弟姉妹との絆を確かめ合い、この地上での天の御国、神の国である教会を建て上げてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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