2024年2月25日 主日礼拝「仕える者になりなさい」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 イザヤ書53章1〜3節
讃 美 讃美歌9「ちからの主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌257「十字架のうえに」
聖書朗読 マタイの福音書20章17〜34節
説 教 「仕える者になりなさい」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌338「主よ、おわりまで」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書20章26-27節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書20章17〜34節
説教題
「仕える者になりなさい」
今週の聖句
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
マタイの福音書20章26-27節
説教「仕える者になりなさい」
マタイの福音書20章17〜34節
親がわが子に最も良いものを与えたいと願うのは、天の父なる神が人間に授けてくださった祝福なのではないでしょうか。天の父なる神は私たち一人ひとりに対して完全な親心を持っていてくださる。その親心をもって私たちを守り、良い方向に導いてくださっている。そして人間の親もまた、親心をもって子を守り、良い方向に導こうとする。それは必要なことですし、とても素晴らしいことだと思いますが、やはりそこは完全な神とは違う不完全な人間、罪人。自己中心的な思いがどうしても入って来てしまうのです。ある先生がこのように言われています。「親は子どもに大きな期待を抱いているものです。一生懸命勉強して、少しでも偉い人になってもらいたいと思い、そのために子どもが小さいときから大金をつぎ込み、塾へ通わせるなどして勉強や習い事に励ませる。もし親がその道に何か権威や優位な立場があろうものなら、そういったものを駆使することも厭わない。それもこれも、子どもに少しでも社会的によい地位に就いてほしい、世間に有名になってほしいなどという親心の現れなのだ」。
今日の箇所には、わが子の立身出世のために、イエス様の前に進み出て熱心に頼みに来た母親が姿を表します。わが子が偉くなるためには火の中でも飛び込む、たとえ自分の立場を悪くしてでもという母親の情熱が示されています。実は今朝に先立って、先週の第2礼拝ですでに今日の箇所が扱われました。そこでこの母親について色々な意見が交わされました。私などは第一印象でこの母親はモンスターだなどと思ってしまったのですが、あれから1週間、気になって関連箇所を辿ってみた中で、なかなか面白い発見がありました。この母親は20節にあるとおり、ゼベダイの息子たち、つまりヤコブとヨハネの母親です。ヤコブとヨハネは父親とともに漁業を営んでおり、雇い人もいました。いわゆる社長子息で、母は社長夫人。そしてこの母は何らかの形でイエス様の働きを支援していたようです。また、マタイの福音書27章56節とマルコの福音書15章40節を比較すると、この母の名はサロメであると分かります。さらにヨハネの福音書19章25節を見ると、サロメはイエス様の母マリアの姉妹であるようです。また、マタイの福音書ではこの母サロメがイエス様に願い出ていますが、マルコの福音書にはヤコブとヨハネが願い出たように記されています(マコ1035)。これは、そのあと10人の弟子たちが母親ではなくこの2人の兄弟に腹を立てていることからもわかるように、実際は彼らから持ち出されたことであったのですが、息子たちに期待を掛ける母親が、このとき自分の立場などを利用して願い出たのかもしれません。だからと言ってモンスターだと決めつけることはできません。逆に自分を犠牲にしてまでもわが子のためにという親心、愛が示されているような気もします。私も自分の母親を思い起こすと、自分の立場が悪くなろうとも、色々な犠牲をもって私の必要のために親戚や知り合いに頭を下げてくれた母の姿を思い起こすと、感謝や申し訳なさでいっぱいになります。この母親はイエス様の十字架の最後までイエス様のそばにいた人です。モンスターどころか、とても愛情深い優しい人、また真の弟子だったのではないかとも思うのです。あくまでこれは私の考察ですので、皆さんそれぞれが母親に対して様々な考察をしてもよろしいかと思います。そこから聖書はそれぞれに語りかけてくるでしょう。
その深い愛情をもってわが子が偉くなるために熱心に頼みに来た母親の姿。しかしイエス様はこの機会を捉えて、深い愛情をもってある事を教えようとされました。それは、真に偉大な人物(皆が「あの人は偉いな、素晴らしいな」と言う人物)とは、進んで人々に仕える者ですよ、と教えるのです。人間の現実は昔も今も少しも変わっていません。誰もが偉くなりたい、人より偉くなりたいと望んでいるのです。しかし、昔も今も最も必要とされているのは、偉い人ではなく偉大な人、あの人は偉いな、素晴らしいなと言われる人物、真心をもって人々に仕える人なのではないでしょうか。真の親である父なる神は、私たちに対して本当の偉い人、偉大な人、素晴らしいと言われる人、それは人々に仕える人になるようにと願われるのです。
20章17節 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
イエス様、そして12弟子、さらにイエス様に従って来た弟子たち。その中には男たちの他にイエス様の母マリアやヤコブとヨハネの母はじめ女性たちもいました。小さな子どももいたのでしょうか。まるで移動する教会の群れのようです。一行はエルサレムに上る途上にありました。当時のラビは歩きながら教えるという習慣があったので、イエス様もいつもは歩きながら弟子たちに教えを述べていたのでしょう。今もイエス様は私たちと共に歩みながら教えてくださっていますね。弟子たちの間にも、イエス様の教えに関する賑やかな議論も交わされていました。ところがこの時、いつもとは違う緊迫感が漂っていたようです。福音を宣べ伝え、弟子たちを訓練してきた期間もすでに終わりを告げ、イエス様は十字架にかかるためにエルサレムに向かって進んで行かれました。すでに十字架の死を覚悟しておられました。
マルコの福音書10章32節にはもう少し詳しくこの状況が記されています。「さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた」。
イエス様はいつものやさしい羊飼いのような様子ではありませんでした。いつもは弟子たちに混じって、あるいは一番後ろから弟子たちに色々と教えを述べながら歩いていた、そんな情景を思い浮かべますが、この時のイエス様は、エルサレムを真っ直ぐ見据えて、弟子たちの先頭に立って、恐らく黙々と無言で歩いていたのでしょう。その背中に弟子たちは驚いたと記されています。この「驚いた」という語は、「びっくり仰天させられた、怯えさせられた、ほとんど恐怖」という意味の語です。弟子たちはこの異常さにただ驚いたのではなく、恐怖で怯えたのです。言いようのない不安を覚えました。その弟子たちの様子を察したのでしょう、先ほどのマルコの福音書には「他のついて来た人たちは恐れを覚えた」と記されています。「恐れを覚える」という語は、「心配して恐れる」というものです。するとイエス様は、再び12人の弟子をそばに呼び寄せ、歩きながらあることを話されました。それはエルサレムで起こることに関してでした。弟子たちの不安を増すかのように、イエス様はエルサレムでご自分が受ける苦しみを予告されました。そのことばは今までになく緊迫していました。これが弟子たちに対する3度目で、そして最後の受難予告でした。それらはやがて現実となるのです。
エルサレムはイエス様に激しく、しつこく敵対している宗教指導者たちの本拠地です。そのエルサレムに上るということは、いよいよ敵と正面衝突することです。しかし、やはり政治的・軍事的なメシア像を拭えない弟子たちは、イエス様を王とする新しい王国を建て上げるためにいざ決戦!と捉えたのでしょうか。そして緊迫感を漂わせ弟子たちに話されたイエス様の次のおことばを、弟子たちはどのように受け取ったのでしょうか。
20章18節 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
20章19節 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
「さあ、これからわたしたちはエルサレムに上って行きます」と、イエス様の決心のほどが表されています。「人の子は宗教指導者たちに引き渡される」。引き渡されるとは文字通りの意味の他に「裏切られる、寝返られる」という意味もあります。そして「彼らはわたしを死刑に定め、同胞のユダヤ人であるわたしをユダヤ人の敵であるローマに引き渡すだろう」。ユダヤの指導者たちには死刑執行の権限がなかったために、インチキじみた裁判をして、インチキじみた判決を下し、エルサレムを統治しているローマの行政機関が死刑を執行するようにイエス様を引き渡す。「そしてローマの死刑執行の担当官がわたしを十字架につけるために嘲り、むちで打つ。しかし、わたしは3日目によみがえる」。まさにこのとりのことが起こるのですが、この時、このイエス様の話しを、イエス様に対するメシア像が拭えない弟子たちはどれだけ正しく理解できたのでしょうか。
聖書の外典によると、ユダヤ人のあいだには「メシアの死は神の国をもたらす」という考えがあったそうです。ですからイエス様の死の予告というのは、弟子たちにとって絶望ではなく、神の国の到来が近いという期待を盛り上げるものとなりました。
20章20節 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
その時です。ゼベダイの息子たちの母が、ヤコブとヨハネを連れて先頭を行かれるイエス様を追い越し、イエス様の前にひれ伏し、何かを願おうとしました。イエス様の前にひれ伏し礼拝したのですが、しかしこれは、相当の覚悟をもってエルサレムに向かわれるイエス様の足を止めること、行く手を阻むことになってしまったのです。
しかしイエス様は怒ることなく優しく問われました。
20章21節 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
イエス様は常に人の願いをすべてご存知のお方です。にもかかわらず、歩みを止められ、改めて願いを自分の口で言い表すことを求めるお方です。イエス様はその人の願いの他に、本当の動機さえもご存知です。私たちは心の中では饒舌に、うまいこと理由を付けて主に願うのですが、いざ主を目の前にして、主に優しく「その願い事を口にしてみなさい」と言われたらどうでしょう。なかなかうまく言えるものではないでしょう。これが欲しいのです。こうして欲しいのです。ではなぜ欲しいのか。心の中ほどにはうまく説明できません。しかも主の前に口で告白するのですから、嘘なんてつけません。その時、その本当の動機が探られるということがあるのではないでしょうか。霊の目を開くとでも言いましょうか。そのために主は、すべてご存知の上で願い事は何かと問われるのでしょう。
彼女は言いました。「私の息子たちが、あなたの御国でそれぞれ右と左に座れるように、王となるあなたに次ぐ地位に就かせることを今、約束してください」と。確かに彼らがこのように要望したのは、イエス様がメシアなる王と認識した結果、信仰の結果ではありますが、御国を世の国と同じだと考えて、この世的な出世を願ったのです。野望です。イエス様に対する信仰に潜む野望。願い事に潜む敵意、妬み、復讐心、党派心…。それはもしかしたら私たちの内にも見られるものなのかもしれません。
20章22節 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
ヤコブとヨハネはイエス様が言われたその意味を理解せずに「できます」と答えました。
20章23節 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
イエス様が言われたことはその通りになります。ヤコブはヘロデ・アグリッパ王に殺され、12使徒の中で最初の殉教者となりました。ヨハネはペテロとともに最初の迫害を受ける者となり、晩年にはパトモス島に流され、迫害に耐えるという長い苦難の道を歩みました。
しかし、メシアなるイエス・キリストを御座に着かせられる方はイエス・キリストの父なる神です。従って、当然イエス様の右と左の座に着く者も神が決められます。それは父なる神が愛とあわれみによって備えられた人たちに与えられる。「備える」というのは、「準備する、仕込む」という意味の語です。「仕込む」と聞くと非常に興味深いと思われないでしょうか。神によって私たちの人生の中に仕込まれたもの。私たちの人生の中に神の招きが仕込まれている。私たちの身に起こる様々な出来事、それは苦難かもしれませんが、そこに神の招きがあるのです。親心があるのです。このように父なる神に祝福された人たち、祝福とは神が膝を折られるということでしたが、神が膝をおられた者たち、神があわれむ者たち、神があわれみイエス・キリストの十字架の救いに招き、この礼拝に招き、その招きに応じた者たち、その全員がその座に着かせられるのです。神の栄光に与るのです。最高の栄誉が与えられるのです。私たちもその中に含まれているのです。「備える、仕込む」とは、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのである」(ヨハ1516)。まさにこのみことばのとおりだと思わされます。
20章24節 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
他の10人の弟子たちが腹を立てた理由は、彼らも同じ事を考え、同じように出世を願っていたのに、2人が出し抜いたからです。「腹を立てた」という語は、新しい皮袋の中で新しいぶどう酒が発酵してふつふつとしていることを表す語です。心という皮袋の中でふつふつとしたものが発酵し続け、するとそれはやがて皮袋を破裂させてしまいます。そのような感情をそのまま放っておいたら、その人も共同体も破滅してしまうのです。しかもその破れ方はひどいものなのです。自分自分という自我を捨ててイエス様に従うべき弟子たちが、このような有様ではまことに情けないですが、人間の現実の姿はこのようなものかもしれません。弟子たちを責めるよりも、弟子たちの姿を見て自らを戒めたいところです。
20章25節 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
20章26節 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
20章27節 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
イエス様は弟子たちの考えを正すために、天の御国での権威は、あなたがたが良く知っているローマ帝国の支配者たちが人々に対して横柄にふるまい、権力をふるうのとは異なることを教えられます。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。召使い、使用人になりなさいと。しかし考えてみてください。召使いや使用人というのは、その家の実質的な管理者でもあるのです。ある意味その家の主人よりも偉い、素晴らしい、役に立つ存在でしょう。「偉い人になりなさい」と、最も良いものを子に与えたいと願われる父なる神は、子である私たちにそのように願われているのではないでしょうか。
そして、あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。これもまた最も良いものを与えたいと願われる神の御心です。奴隷になりなさい。奴隷というのは決して主人に逆らわずに仕えるものです。屈辱的に感じるかもしれませんが、それこそ私たちの主イエス様の御姿でもあるのです。イエス様はメシアとしてその権威を人々に対して横柄にふるまうのではなく、その権力を人々のうえにふるうのではなく、謙遜に、人々に仕えるために用いられたのです。これが真に正しい、神が与える本当の権威、権力です。しかしそこに罪が入り、自己中心が入り込み、権威、権力の形が変わってしまっているのです。私たちはそのことに気づかなければなりません。
10章28節 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
贖いの代価とは、戦争で捕虜となった者や奴隷を解放するために支払われる身代金を指します。
イエス・キリストは人々に仕えられるはずのメシアでしたが、かえって人々に仕えるしもべとなってこの世に来られました。それは多くの人々を罪の悲惨から救い出すために、身代わりとして十字架の死を遂げるためでした。イエス・キリストの十字架上での死は、私たちを罪の奴隷、その悲惨さから解放するための身代金だったのです。もともと幸いな神のものであった私たちが罪の奴隷として連れ去られてしまった。その私たちを罪の束縛から解放して再び神のものとするために、イエス・キリストはご自身のいのちを、何よりも高価で、何にも代えがたい尊いご自身のいのちを身代金としてくださった。ですから、主の高価で尊いいのちによって買い戻された私たちには、イエス様が弟子たちにご自分のように仕えることを求められたように、ご自分と同じように生きることを求められます。いや、私たちの方から感謝をもって謙遜にそのように生きたいと求めるのでしょう。この謙遜こそキリスト者、つまりキリストに属する者、キリストのものとされている者にとって根本的な態度です。しかも使用人も奴隷も人の役に立つ存在であったように、謙遜な奉仕によって人に役立つ生き方が求められる。同じようにしなさいと。神の前では、このように仕える道こそ尊ばれる道だからです。このように生きる者たちすべてに、神の最高の栄誉が与えられるからです。恵みによって主の右と左に座らされるのです。約束されるのです。神は最も善いものを与えたいと願われるのです。イエス様こそご自分の生涯をとおしてそのことを完全に示されました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」(ピリ26-11)。
29節から場面が一転するように思われますが、しかし意図してここに置かれているところです。ここには二重の願いが込められているように思います。人々の霊の目が開かれて神の真理、御心を悟るようになること。そして主に仕えると同時に従うことも学ぶ人になって欲しいという願いをもって、聖書はここにこの出来事を記しているのです。
20章29節 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
イエス様は次第にエルサレムと十字架に近づいて行きます。エリコからエルサレムまでは1日の道のりでした。イエス様について行った大勢の群衆というのは、過越の祭りでエルサレムに上る巡礼者の群れでした。
20章30節 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
物々しい雰囲気を察し、群れの外にいた目の見えない2人の人がこれは何事かと群の中の人に問いました。すると「あのナザレのイエスがおられるのです」と聞きました。あのナザレのイエス。彼らはすでにナザレのイエスの噂を耳にしていたのでしょう。そのイエスが通られるという話しを聞き、彼らは「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びました。ダビデの子とはメシアを意味する称号です。一般の人々がナザレのイエスと呼んでいたのに対して、彼らだけはメシアを意味する称号「ダビデの子よ」と叫んでいます。
20章31節 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
彼らは群衆にたしなめられても、ますます声を上げて必死に叫びました。彼らはこの機会を逃したら、いつこのようなチャンスがやって来るか分からないので、ますます必死に大声で叫びました。彼らのような熱心さが信仰にも必要であることが教えられます。
また、教会が教会という群れの外にいる救いを求める人々に対する態度も問われているように思います。彼らは苦難の中でイエス様を必死に呼び求めました。彼らの目は見えていませんでしたが、彼らの霊的な目は開いていました。彼らは噂を耳にしただけで、イエス様がダビデの子孫として来られたメシアであって、イエス様があわれんでくだされば自分たちの目が見えるようになると信じていました。そしてイエス様にすがったのです。ところが群衆は、彼らの叫び声によってイエス様の教えが聞こえなくなっては困ると、常識がなく、見苦しいほどにイエス様に癒しを求める彼らの無礼さに不快な思いを抱き、彼らを黙らせようとしました。盲人の思いを少しも理解しようとしませんでした。しかし、イエス様は彼らに、いや彼らこそに会ってくださるのです。どのような時であっても歩みを止め、向き合ってくださるのです。
20章32節 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
イエス様は彼らを呼び寄せて質問しました。イエス様はもちろん、質問しなくても彼らが何を必要としていたかご存知でした。しかしあえてその願いを口に出させるのです。最も大切なものをわたしに求めなさいと言ってくださるのです。
20章33節 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
20章34節 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
彼らはイエス様の深いあわれみに触れ、そして癒やされました。すると彼らは目が見えるようになり、イエス様について行きました。彼らは恵みを受けて感激することで終わるのではなく、イエス様について行きました。ついて行ったということばは、物理的について行ったというだけでなく、イエス様の真の弟子となって従って行ったことを強調しています。弟子たちの霊的な無知や無理解に比べる時、それはイエス様にとってどんなにか大きな喜びであったことでしょうか。私たちも信仰によって霊の目が見える人になりたいものです。そしてイエス様に喜ばれる歩みをして行きたいものです。私たちはどこまでも信仰によって、イエス様に従って行く者でありたいと願います。
イエス様には確信がありました。ご自分は辱めを受けて死ぬけれども、3日目には必ずよみがえると、勝利を確信していました。その確信が、様々な苦難、弟子たちや群衆の無理解にも負けずに十字架の道を進んで行こうとするイエス様を支えたのです。しかしイエス様は、たびたびひとりで静まって祈られたのです。父なる神と1対1で格闘するように、確信が与えられるまで祈られたのです。イエス様でさえそうであったのですから、私たちもイエス様の弟子として、自分の十字架を背負って主に従って行かなければなりませんが、それがどんなに苦難の多い道であったとしても、その先には復活の主イエス・キリストによる勝利が待っていることを確信して、確信が与えられるまで格闘しつつ祈り、そして霊の目を開いていただき、イエス様に従って前進し続けて行くのです。前進し続ける者とされてまいりましょう。霊の目が開かれ、十字架にいたるまで主に従い、勝利を確信し、自分の十字架を負って歩む人生、それは人々に仕え、人々の役に立つ人生であり、天に宝を積む幸いな人生です。昔も今も最も必要とされているのは、偉い人ではなく偉大な人、あの人は偉いな、素晴らしいなと言われる人物、人々に仕える人です。真の親である父なる神は、私たちに対して本当の偉い人、偉大な人、素晴らしいと言われる人、それは人々に仕える人になるようにと願われるのです。最も良いものを与えたいと願われる主が、私たちに求められるそのような人生を歩んでまいりましょう。