2024年3月31日 主日(イースター)礼拝「イースターの朝、改めて福音を」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  ホセア書6章1〜3節
讃  美  讃美歌146「たたかいおわりて」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌148「すくいのぬしは」
聖書朗読  コリント人への手紙第一15章1〜12節
説  教  「イースターの朝、改めて福音を」
讃  美  讃美歌152「陰府のちからは」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一15章1節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章1〜12節

説教題

「イースターの朝、改めて福音を」

今週の聖句

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

コリント人への手紙第一15章1節

説教「イースターの朝、改めて福音を」

コリント人への手紙第一15章1〜12節

今年も主イエス・キリストの復活を覚えるイースターを迎えました。私たちの救いのためによみがえられた神のひとり子イエス・キリストの復活を喜び、私たちは互いに主にあって心からのあいさつを交わしましょう。イースターおめでとうございます。この朝、上よりの声を聞き、声によって御前に招かれ、呼び集められた神に愛され、神を愛する皆さんお一人一人の上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

私が子どもの頃は、日本ではイースターという言葉はクリスマスに比べてあまり一般的ではなく、聞いたこともなかったように思います。ここ10年あまりの間に一般に浸透してきたのではないでしょうか。それは東京ディズニーランドがイースターの記念イベントを始めたのがひとつのきっかけだったように記憶しています。ウィキペディアで調べて見ると、それは2010年からだということです。それからお菓子のパッケージでもイースター仕様のものが世に溢れ出て来ました。クリスマスに続いてイースターまでも商売に取り入れられてしまったのかという感は拭えませんが、聖書でも神、またイエス・キリストに敵対するある人の発言が、はからずも神の預言となってしまったように、イースターの浸透も神の時の中で起こっているものなのでしょう。それにしても、クリスマスに比べて日本でのイースターの歴史は浅いと言わざるを得ません。どうしてこれほどまでにクリスマスに遅れを取ってしまったのか。それはやはりイエス・キリストの誕生という分かり易い出来事に比べ、イエス・キリストの「死からの復活」という、にわかには信じられない出来事を祝うものだからではないでしょうか。しかし、世界に宣べ伝えられ届けられた福音を聞き、それを信じ救われた私たちは、救い主イエス・キリストの復活を喜び祝い、互いに「イースターおめでとう」と心からのあいさつを交わすのです。「おめでとう」の意味はクリスマスの時にお話ししましたが、ギリシア語では「喜べ」となっています。めでたい、つまり祝うべきこと、喜びに満ちた状態を私たちは喜びましょうというあいさつです。私たちは福音を、イエス・キリストの復活の福音を本当に信じているからこそ、このあいさつを交わすのですが、本当に信じていないとしたら、そのあいさつはとてもむなしい、世俗的な「メリークリスマス」のようなものになってしまいますね。

今年の受難日の朝、天気は雨でした。雨は私に悲しみの涙を連想させました。イエス様の母マリアはじめ数人の女性たち、数人の弟子たちはイエス様の十字架での死の一部始終を近くで見ており、他の弟子たちは遠く離れた所で見ていたのか、保身のために逃げたどこかの先でイエス様の十字架での死を知らされたのか。その時、彼ら彼女らは様々な理由でそれぞれに胸を打ちたたき、涙を流したのではないかと思います。愛する人を失った絶望や失望の涙、愛する人が受けた苦痛を覚える涙、「どうして」という疑問や持って行き場のない怒り悲しみの涙、愛する人に対してしてしまった裏切り等の自分の行いに対する後悔、自分を責める涙。涙のままに安息日を過ごし、日は沈み日は昇り、否が応でも人生は続いて行きます。もし、イエス・キリストの、愛する方の復活がなかったら、彼らのそれからの人生はどのようなものになったのでしょうか。たとえイエス様が生前「あなたの罪の刑罰の身代わりとなってわたしは十字架にかけられ死ぬのだ。わたしの身代わりの死によってあなたのすべての罪は赦されるのだ。あなたはあなたが逆らってきた神と完全な和解ができ、神との真の平和を得て、神のもの、神の子とされるのだ。永遠のいのちが与えられ、永遠に神とともに生きるのだ。救われるのだ」と、そう教えられ、それを聞いて信じた者であっても、私を愛し、犠牲をもって真実に私を愛し救ってくださった救い主イエス・キリスト、私が愛するイエス・キリストの死という背負いきれない重荷は決して降ろせられるものではないし、そこには罪赦された喜びだけが残るわけもなく、後悔や悲しみの涙は涸れることはないでしょう。しかし救い主イエス・キリストはよみがえられた。復活された。これこそ私たちを本当に救う福音、「おめでとう」と互いにあいさつできる理由ではないでしょうか。

復活の主にお目にかかる時、そして生きているその方の声をはっきりと聞くとき、私たちの後悔は悔い改めへと導かれるでしょう。後悔は後ろ向きですが、悔い改めは私たちを変化させ、再生し、これまでの自分を超えさせていくものです。私たちの救い主イエス・キリストの復活は、私たちを良い方向に変化させ、再生させ、つまり私たちを復活させ、立ち上がらせ、そこから超えて前進させるものです。この朝、私たちは格別に復活の主イエス・キリストを覚え、お目にかかり、声を聞き、立ち上がり、再びいのちを得させていただきたいと願います。

イースターを記念するこの朝に与えられましたみことば、コリント人への手紙第一15章1節からのところで、パウロは福音とは何かについて改めて記そうとしています。その理由は何かと言うと、パウロがコリントで福音を宣べ伝えたことによってコリントの教会が生まれたわけですが、後にこの教会は大切な土台を失いかけるという大ピンチに陥りました。教会が教会のいのちを失おうとしていたのです。恵みによって主に招かれた教会で、豊かな賜物を与えられていた人々が互いに高ぶり、さばき合い、不品行にふけるなど、多くの問題を抱えていました。コリントの教会の歩みは、福音からまったくそれてしまっていたのです。

15章1節      兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

「福音とは何か、ひと言で説明してください」これは弟子訓練の中でされる1つの問いなのですが、皆さんはこの問いに何と答えるでしょうか。福音とはイエス・キリストです。神のひとり子がこの世に降られ、この世で人々の間で生き、弱く貧しい人々をたずね寄り添い、教え、癒やし、満たし、そしてすべての人の罪の身代わりとなって十字架に架けられて死に、よみがえられた。今も生きておられる。生きて私たちのためにとりなしていてくださる。相変わらず神に敵対するような私たちのために、神との間に入り、神と私たちとを仲直りさせてくださっている。釘跡の残る両手を上げて祈っていてくださる。

15章2節      私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

別の訳では次のようになっています。「あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。私の宣べ伝えたこの福音。パウロが宣べ伝えたこの福音。

ここでパウロが宣べ伝えたと言っている「私の福音」とは、具体的に15章3節以下のことです。パウロが最も大切なこととして伝えたこと。キリストの死と復活。そしてパウロは彼自身が経験したそれはもう強烈な出来事であった復活のイエス・キリストとの出会い、そしてキリストを迫害し、キリストの教会を激しく迫害していたパウロがなんと赦され、さらになんと復活のキリストに召された。生きているキリストの声を聞いた。その証しを、事あるごとにコリントの人々にしてきたのでしょう。コリントの教会はこのパウロの証しに励まされ、パウロが宣べ伝えた福音、キリストの死と復活を信じて生まれた教会でした。彼らも復活のキリストの御声を聞き、赦され、招かれたのです。自分たちもパウロと同じような者であったことを信仰によって悟り、そのような自分たちのためにキリストは十字架に架けられ死に、そしてよみがえられたのだ。パウロと同じような者であった自分たちをも神は恵みによって召してくださったのだということを信じ、その信仰によって建て上げられ、その信仰によって立ち、歩んでいたというわけです。それがコリントの教会の土台でした。それをしっかりと覚えていれば、しっかりと保っていれば、あなたがたはこの福音によって救われる。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまう。ところがコリントの教会はこの福音から逸れてしまっていました。

「無駄に」というギリシア語は、「うぬぼれが強い、鼻息が荒い」という意味の語です。実際にコリントの教会は、受けた神の恵みを恵みとして保つことができず、いつしかその恵みが自らの誇りとなり、うぬぼれ、鼻息を荒くして高慢となり、互いに高ぶり、さばき合い、不品行にふけるなど、多くの問題を抱えるようになってしまっていました。それこそ福音が無駄、むなしいものになっていました。そこでパウロは改めて自分が宣べ伝えた福音を覚え、悔い改め、そしてもう一度土台をしっかりと据え直し、再び立ち上がり歩み出すようにと、ここに記すのです。

15章3節      私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15章4節      また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

神の完全な救いを告げるキリストの福音、そしてパウロが宣べ伝えたキリストの福音は、神ご自身が最も重要なこととしてパウロに伝え、神ご自身が最も重要なこととしてパウロに経験させ、宣べ伝えさせたものです。それは私たちの罪のためにキリストは死なれたこと、葬られたこと、3日目によみがえられたこと。これらは聖書、つまり旧約聖書に書いてあるとおりであるとパウロは言います。ルカの福音書ではイエス様ご自身も言われているとおり、実は旧約聖書のはじめから終わりまでどこを切っても、このキリストの福音が記されていると言うのです。それほど重要なことであると言うのです。この福音をしっかりと保っていれば、あなたがたは救われると言うのです。神と聖書を信じているなら、復活信仰にもう一度立ち返るように勧めるのです。

15章5節      また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15章6節      その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15章7節      その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

これだけの生きた証人がいるのだから、疑うのであれば彼らに聞いてみれば良いということです。そして彼らから生きた証しを聞けば良いと。メールもLINEもない時代、500人以上の人たちが口裏を合わせることなど不可能でしょう。しかし500人に聞いてみれば同じ証言が出て来る、それほどキリストの復活は間違いのない事実で、そのまま信じるに値するとパウロは言うのです。

イエス様はケファ、つまり3度イエス様を知らないと否定してしまったペテロに現れてくださいました。彼も復活の主と出会い、赦しと召しの経験を証しする者です。次にイエス様は12弟子に現れてくださいました。彼らもそれぞれにそれぞれの後悔、痛みを抱え、それぞれに涙を流す者でした。イエス・キリストの復活の朝、12弟子はユダヤ人を恐れ戸に鍵をかけ、恐らく無言だったのでしょう、すすり泣く音が漏れていたのかも知れません。そのような重苦しい空気の中、よみがえられたイエス様が弟子たちの真ん中に立ち、「平安があるように」と言われた。そしてそれぞれが赦しを得て、主に召され、福音を宣べ伝えるために世に派遣されて行った。そのような経験を証しする者たちです。復活の主は、ペテロに対してだけ1回現れたというのではなく、引き続き使徒たちの前に現れました。その同じ主が、続けて私たちの前にも現れてくださったのです。そして私たちも同じ主の御声を聞いたのではないでしょうか。

その後、イエス様は500人以上の兄弟たちに同時に現れた。500人には500とおりの事情があったのでしょう。絶望や失望があったのでしょう。そこに主が現れ、そこで主は何を語られたのか。500人以上の兄弟たちに同時に現れることができたのもまた、イエス様の復活によるものです。復活の主は栄光のからだをもって今朝も500人どころではない、統計によると日本では190万人、世界では23億人のクリスチャンに同時に現れてくださっています。クリスチャンだけではなく、全世界のすべての人々に同時に現れてくださり、御声を聞かせてくださっています。今日も救いに招いてくださっています。そして今朝も私たち一人ひとりに聖霊を通して生きて語りかけ、一人ひとりをそれぞれに取り扱ってくださり、召し、再び立ち上がらせてくださいます。

その後、イエス様は弟のヤコブに現れました。共観福音書によると彼は、生前のイエス様の行動についてはまったく理解できなかったようですが、復活のイエス様に出会い豹変し、エルサレム教会の指導者となった人です。それからすべての使徒たちに現れました。ここで弟子とは言われず使徒と言われていますが、それはすべての弟子たちが、それぞれに取り扱われ、使徒に召されたということを示しているのでしょう。復活の主との出会いは、本当にみじめな私たちを使徒へと豹変させるものとなるのです。その豹変の代表選手とも言えるのがパウロ自身ではないでしょうか。パウロは自分自身の生きた証しをここに記します。

15章8節      そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

パウロは自分のことを「月足らずで生まれた者」であると卑下しています。自分で自分を蔑んでいます。強いコンプレックス、劣等感があったのでしょうか。それは他の使徒たちのようにこの地上で生きておられたイエス様と寝食を共にしなかったことから来ているのかもしれません。しかしパウロは復活の主と出会い、復活の主に召され、遅ればせながら弟子に加えられ、そして使徒として立てられたのだと、その喜びを証ししているようでもあります。パウロはこの後、同じように復活の主と出会い、復活の主に召される者たち、私たちの初穂と言えると思います。パウロは別の手紙でこのように証ししています。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみいを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした」(Ⅰテモ113-16)。私たちはまさにパウロという初穂、先例に従い、復活の主と出会い、復活の主の声によって召された者たちです。

15章9節      私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
15章10節    ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

以前には、誰よりも神に熱心に仕えていると思っていた。しかし実は神を冒瀆する者、神を迫害する者、暴力をふるう者であった。パウロはそのような自分を「罪人のかしら」と言います。パウロは過去の自分の行いを恥じ、悩んでいますが、その前歴にもかかわらず復活の証人とされ、使徒として召されたのだと確信しています。しかしそのような強い信仰の持ち主であるようなパウロであっても、日々、イエス・キリストの赦しの声が必要だったのではないでしょうか。日々、後悔の涙を悔い改めの喜びへと変えていく必要があった。日々、生きておられる主の赦しの声を聞き、励まされ、慰められる必要があったのではないでしょうか。

パウロはほかのすべての使徒たちよりも多く働いたと自ら言っていますが、それは高慢ではなく、鼻息を荒くするものではなく「多く赦された者は、より主を愛する」、つまり「私は罪人のかしらである」との証しでしょう。このような私が神の恵みによって今の私になったのだ。かつてのあのような自分が使徒とされているのは、ただ神の一方的なあわれみと恵み以外の何ものでもない。その神の恵みに対する返しきれない感謝が自分の働きの原動力であると告白している。本当に感動的な証しではないでしょうか。

15章11節    とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

大切なのは、コリントの信者たちがパウロはじめ使徒たちの宣べ伝えたキリストの福音を、キリストの死と復活を、語られたとおりに信じたことであるとパウロは語ります。私たちにとっても必要なのは、キリストの死と復活を、語られたとおりに信じることです。キリストは私たちの罪のために十字架にかけられ死なれた。しかし死で終わったのではなく、よみがえられたのです。それは私たちが悲しみで終わるのではなく、悲しみを喜びに変えるためです。それは私たちがただイエス様を十字架にかけて死なせてしまったという後悔で終わらせるのではなく、悔い改めへと導かれるためです。溢れんばかりの感謝へと導くためです。溢れんばかりの感謝を原動力として、今も生きておられる主のために、今も生きておられる主とともに、生き生きと生きることができるためです。救われるためです。

15章12節    ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

コリントの教会の中には、死者の復活はないと教える人たちがいました。キリストの復活は信じているのに、死者の復活はないと教えている。矛盾していないでしょうか。もしかしたらそれは、キリストの復活をどこかおとぎ話のような感覚で信じていたということなのかもしれません。「復活のことは良く分からないけれど、信仰ってそういうものかな」みたいな。だとしたら、パウロが出会い、パウロが聞いた声は何だったのでしょうか。その声に従ってすべてを捨ててキリストに従い、そのせいで何度も殺されそうになったり、何度も遭難して死にそうになったり、そのような辛く苦しい経験は何のためだったのでしょう。意味があったのか。コリントの教会の人たちが聞いた声は何だったのでしょうか。私たちが聞いた、そして今も聞いているイエス・キリストの御声は何なのでしょう。空耳ですか。思い込みですか。そう信じたいだけですか。それでは私たちは救われていません。一生救われません。後悔の涙は悲しみの涙のままです。もしキリストがよみがえらていないとしたら、私たちの信仰は空しく、嘘つきで、私たちは今もなお自分の罪の中にいます。

昔私が教会に来始めたばかりの頃。夜遅くまで仕事をし、家に帰り、ベランダに出てタバコを吸い、夜の星空を空しくぼんやりと眺めていた時のことです。一つの星が急に瞬いた感じがしたその時、はっきりとキリストの御声が聞こえました。「わたしはお前を愛している」。馬鹿げた話しに聞こえるでしょうか。しかしそのような経験がひとつの理由となって、教会に通い続け、やがて聞いた「あなたの罪は赦された」そして「わたしに従いなさい」の御声を聞いて今に至る。あの時の声は空耳だったのか、思い込みだったのか。だとしたら私は本当に無駄な人生を歩んで来たことになります。皆さんもそれぞれキリストの御声を聞かれたのではないですか。「あなたは赦された。わたしはあなたを愛している。わたしのもとに来なさい」と。そしてその声に従って今に至るのではないですか。その人生は無駄だったのでしょうか。

キリストは今も生きておられ、生きて今の私たちをご覧になり、今の私たちに必要な生きた御声を聞かせてくださる。それで私たちは日々救われ、日々生かされているのです。

「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者が石を投げなさい」。私たちは誰一人として、石を投げることなどできない者たちでしょう。誰もが自分の内に捨てきれない罪を持ち、日々罪を犯し、日々後悔の涙を流すのです。ユダのように神の富を盗むような者であっても。ペテロのように人々の中に混じってイエス様を知らない者のようにふるまい平然と生きているような者でも。弟子たちのように自分の身を守るために主を捨てるような者でも。主は愛してくださったし、主は今も愛してくださっている。あの時も、今も、主は生きておられるから。イエス様のとりなしの祈りの声が聞こえる。「父よ、この者の罪をお赦しください。なにをしているのか分からないのです」。そして聞こえる主の御声「あなたの罪は赦された。わたしもあなたを罪に定めない。さあ、ここから立って行きなさい」。今日も生きておられるイエス様の、生きた祈りがある。今日も生きておられるイエス様の御声を私たちは聞くことができる。今日も私たちは生きておられるイエス様に祈ることができる。だから私たちは日々、主の愛と赦しを経験し、今を生きる力をいただき、立ち上がり、ここからまた歩き出すことができるのです。天の御国に至るまで、このような恵みは増し加わり、私たちの感謝も増し加わり、信仰は堅く強くされて行きます。日々赦され、やがて完全に救われます。

キリストは私たちすべての人の罪のために死んでよみがえられた。今も生きておられる。それが私たちが信じ、堅く立つべき土台、福音です。私たちを堅く立たせる福音です。この福音を信じ、行きなさい。この朝も、今も生きておられるキリストを喜び、今も生きておられるキリストの御声を聞きましょう。今も生きて、直接に、あるいは自然とか出来事とかある人の口を通して、歌を通してかもしれません、語られるキリストの御声を聞きましょう。そして心から喜び、悔い改めるのです。悔い改めは私たちを変化させ、再生し、これまでの自分を超えていくものです。私たちの救い主イエス・キリストの復活は、私たちを良い方向に変化させ、再生させ、つまり私たちを復活させ、立ち上がらせ、そこから超えて前進させるものです。この朝、私たちは格別に復活の主イエス・キリストを覚え、お目にかかり、御声を聞かせていただき、ここからまた立ち上がり、再びいのちを得させていただきたいと願います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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