2024年6月23日 主日礼拝「ともにおられる主」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌438「悩む世人のために」
      新聖歌286「シャロンの花」
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書41章8〜13節
讃  美  讃美歌22「めさめよ、わがたま」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌506「たえなる愛かな」
聖書朗読  マタイの福音書24章15〜28節
説  教  「ともにおられる主」
讃  美  讃美歌270「信仰こそ旅路を」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 イザヤ書41章10節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章15〜28節

説教題

「ともにおられる主」

今週の聖句

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ書41章10節

説教「ともにおられる主」

マタイの福音書24章15〜28節

先日、職場で健康診断に行って来たのですが、思いのほか視力が悪くなっていて驚きました。どおりで最近は眼鏡をかけていても聖書の文字が読みにくかったわけだと思いました。じっと見れば見えるのですが、文字を追っていくと見えないのです。先日もM姉のお宅にお邪魔して家庭集会を持たせていただいたのですが、パリサイ人のように格好付けて聖書を持っていったのですが、聖書を開いて目当ての聖書箇所を探しても目当てのみことばが見えず分かりませんでした。それでスマホを取り出して同じ箇所を開いてみたりなどして。ですから最近はスマホの聖書アプリで文字の大きさを最大にして読んでいます。便利な時代です。重い聖書を持ち歩かなくても、常にポケットに主のみことばがある。いつでもみことばをいただける。つまり、いつでもどこに行っても主がともにおられる。心強いですね。

「逃げるが勝ち」ということわざがあります。戦わずして逃げるのは卑怯そうに、また恥ずかしいことのように思えるけれども、最後に勝利をおさめれば良い、結果的に勝利できるという意味のことわざです。困難に直面した時は、一事身を退いて、自分の身(いのち)を守るのが得策であることをたとえたものです。人間は思いのほか弱い者で、困難などに打ち勝てず、その中で滅んでしまうものです。自分はそんなことないと、自分を過信することは何事においても良くありません。知恵の書である箴言はこのように言っています。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊(心)は挫折に先立つ」と。

今日の箇所でイエス様は、悪や悪から来る患難(悩みや苦しみ)、自分では背負いきれないほどの難儀なことに直面したら「逃げなさい」と語られます。これはもちろん、思いのほか弱い私たちがその中で滅んでしまうことから守るみことばであり、同時に、前回も見ましたけれども、イエス様の大宣教命令につながるみことばでもあります。イエス様はマタイの福音書10章のところでも同じようなことを語られています。「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。……いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(マタ1014-16)。これは自分のいのちを守りなさい。なぜならあなたにはまだまだみことばを宣べ伝えなければならない所がたくさんあるのだから、ということです。大きな悪や患難が襲って来ても、それはまだ終わりの時ではないのです。私たちがその時に思考停止し、動けなくなり、さらには滅んでしまっては、まだ救われていない私たちの家族や友人たちを含む世の人々も滅んでしまうことになってしまうからです。悪の思うつぼ、大勝利となってしまいます。しかしすでに死からよみがえり、悪に完全に勝利されたイエス様は最終的な大勝利をも約束されています。そして私たちを慰め、励ましておられます。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハ55)。

24章15節    それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
24章16節    ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。

ここに引用されている「荒らす忌まわしいもの」が聖なる所に立つという預言は、旧約聖書のダニエル書に記されている預言です。そしてこの預言は、イエス様が語られたこの時、すでに紀元前167年にシリアのアンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿を占領し、宮に偶像を立て、豚などの汚れた動物をいけにえとしてささげたことにより成就していました。それと同じような事態が再び起こったら、エルサレムから逃げるように、逃げる場所は追うことが困難な山が良いと言われます。なぜならユダヤの山には多くの洞穴があり、そこは格好の隠れ場となるからです。

「読者はよく理解せよ」と、不思議なことばが付け足されています。これは、読者がここからよく読み取り、それは果たしてどのような状況なのかを想像し、考え、いざそのような状況になったならば正しく判断するようにということです。自分の弱さを認め、自分の力に依り頼むのではなく主に依り頼み、聖霊の助けをいただいて正しい判断と行動ができるように祈りなさいということでしょう。

イエス様がこのことを語られた後、紀元(西暦)70年ですから、およそ30〜40年後になるのでしょうか、ローマ軍がエルサレムを陥落させ、神殿を破壊することになりました。イエス様はこの時を見据えて弟子たちに今日の箇所を語られました。しかし、この2つの預言の成就があってもなお終わりの時ではありませんでした。この預言の成就は、依然として未来において成就すべきものなのです。未来に生きる今の私たちにも語られているイエス様の預言です。歴史上で起こったこれらの出来事に似たことが実際に起こるでしょう。しかし私たちにはいまいちピンと来ません。映画の中で描かれる出来事のような、現実に起こることとしてなかなか想像したり考えたりすることに難しさを覚えます。ですがイエス様はその時は必ずくるのだから、きちんと備えておきなさいと言われるのですから、そのおことば通り備えなければなりません。いつもポケットに入れておくように常に備えておくことによって自分のいのちを守る行動がとれるからです。

またどうでしょうか。「読者はよく理解せよ」。ここからよく読み取り、それはどのような状況なのかを想像し、考えてみるならば、聖なる所に立つ「荒らす忌まわしいもの」、そのものの名は「罪、試み、誘惑、悩み、苦しみ、悲しみ」などかもしれません。神と私との間に入り込み、神から離れさせようとするもの。それらに自分が負けそうになったならば、私たちはすぐに逃げなければなりません。それらが追ってくるのに本当に困難な所。それは主のみもとでしょう。罪や試み、誘惑、悩み、苦しみ、悲しみなどがすさまじい嵐のように襲って来て、もてあそばれ、死を予感させるようなことがあるならば、直ちに山、隠れ場である主のもとに逃げ込むべきです。自分は大丈夫だと、自分の力を過信せずに、罪や悪、患難から直ちに遠ざかるべきです。ヨセフは奴隷として仕えていた家の主人の妻から性的な誘惑を受けましたが、彼はその誘惑に勝てないと判断したのでしょう、その腕を振り払い、直ちに逃げました。逃げることは卑怯そうに、恥ずかしいことのように思えるけれども、実はそれが得策なのだということを、聖書はこの出来事を通しても私たちに教えています。罪や悪や患難から逃げること、それは最終的には自分のいのちを守り、後に主の栄光が現されることになるのです。このことを覚えて、いざそのような状況になったならば正しく実行できるように備えておくのが良いのです。

24章17節    屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。
24章18節    畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。

実はそのような状況は、神の目には、家の中のものや畑仕事のために脱いでおいた着物さえ取りに行く暇がないほどの緊急事態なのです。悪や罪、患難から遠ざからなければならないのですが、自分の手にあるものや状況がそれを妨げてしまうことがあるのです。日頃から自分の手にあるものをしっかりと握りしめて離さないでいるならば、終わりの時にも同じようにそれらが妨げになってしまいます。主のもとに逃げ込めないのです。救いの完成を目指す中で、その戦いは常にあります。私たちにはなかなか手放せないものがたくさんあるのです。物、状況、環境、怒りや憤り、憎しみ、妬み、悲しみなどの感情、色々としっかりと握りしめて手放せないものがたくさんあります。しかし私たちには安心して一切を委ねることができる主がおられます。それら1つ1つを主に委ね、手放して行く。そのようにして日頃から1つ1つ勝利することが、いざ終わりの時にも私たちにいのちを得させることになります。いのちを最優先すべき時には、すぐにすべてを捨てて、隠れ場である主のもとに逃げることを可能とするのです。

24章19節    それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
24章20節    あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。

妊婦や乳飲み子を抱える母親が、素速く、そして長い距離を逃げるのが難しい。「ああ、なんとかわいそうなことか」とイエス様は私たちに向かって言われます。そのような逃げるのに困難を覚える弱い者たちを、あなたがたは見捨ててはならない。ユダヤの冬は雨期にあたり、道はぬかるんで歩きにくく、しかも寒さが辛い。また安息日にはエルサレムの門が閉じられてしまい、弱い者たちのために何も手に入れられない。だからあなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。自分のためだけではなく、弱い者たちを顧みて、互いのために祈りなさいということでしょう。

24章21節    そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。

「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立つ」という状況は、それほど凄まじく、未曾有の緊急事態だということです。しかしここで覚えておくべきことは、このような状況となっても、キリストの再臨の時、本当の世の終わりの時ではないということです。

24章22節    もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。

「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような」というのは、そのまま文字通りに解釈して、その苦難が史上最も激しい、一度きりのと解釈する必要はありません。これは当時の慣用句で、苦難の激しさを現すものです。「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう」とイエス様が言われるほどの、激しい苦難です。しかし神は、「選ばれた者たちのために、その日数を少なく」してくださる、愛と憐れみのお方です。

ここで気づかされたことなのですが、「選ばれた者たちのために」。このギリシア語の原文を見てみると、2つの解釈が可能だということが分かります。1つは「選ばれた者たちのために」。神はご自身がお選びになり、その選びに応えて従う者のいのちを守られます。そのために苦難の日数を少なくしてくださる。そしてもう1つは「選ばれた者たちのゆえに」。この解釈は、創世記18章にあるソドムとゴモラの滅亡の回避の場面を思い起こさせます。「その町の中に正しい者がいるかもしれません。主よ、あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか」。「滅ぼしはしない。その正しい人のゆえに」。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」(ヨハ1516-17)。改めてイエス様のこのみことばを覚えたいと思います。私たちクリスチャンは、自分のいのちを守るためだけではなく、隣人のいのちを守るために遣わされ、そこに主によって置かれているのです。置かれたところで隣人を愛し、置かれたところで主によって救いの器として用いていただきたいと祈らされます。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるもの」とは、自己中心的なものではなく、隣人のいのちです。隣人の救いです。

24章23節    そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。

「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立っているのを見たら——読者はよく理解せよ——」、こうした状況、つまりその未曾有の苦難の時に、人々の救い主を待ち望む信仰と申しますか、その思いに乗じて、キリストの到来を告げる者たちも出て来ます。苦難のゆえに、人々は世の終わりの時になったのでキリストが来られるという期待感を抱くようになり、それを信じてしまうかもしれません。私たちも例外ではないでしょう。大きく激しい苦難の中で誰かが「見よ、ここにキリストがいる」とか「そこにいる」と言われたら信じてしまうかもしれません。しかしイエス様は、そのようなことを言われても信じてはいけないと前もって警告されます。なぜなら、そのように言う者は「選ばれた者たちをさえ惑わす」者だからです。

24章24節    偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
24章25節    いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。

迷わせ、彷徨わせ、騙し、神のもとに行かせないようにする。そして最終的には神に選ばれた者たちを滅ぼし、神に選ばれた者たちの隣人さえも滅ぼそうとする者だからです。なぜなら、選ばれた者たちが滅ぶことによって、福音が届けられなくなるからです。そのような危険から逃れるために、キリストが来られる時の様子を見られる所は、「ここ」とか「そこ」といった特定の場所に限定されるものではないことを覚えておきましょう。私たちは自分自身はもちろんのこと、隣人のいのちを救うための行動をしなければなりません。自然災害の避難と同じです。世の終わりの時に備えるというのは、避難訓練と同じです。

24章26節    ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。

イエス様は重ねて警告されます。26節には当時のユダヤ人の思想や信仰に重ねて言われているところです。実際に歴史上で起こったメシアと自称する者たちは、自分がイスラエルを荒野から約束の地に導いた救い主だと行って人々を惑わし、荒野に集めようとしました。当時、ユダヤ人の間で人気のある期待は、メシアが「荒野に」現れるというものだったからです。それでバプテスマのヨハネが荒野に現れた時、民は興奮して荒野のヨハネのところに出て行ったのです。バプテスマのヨハネはたまたま(?)良い人と申しますか、真の預言者、メシア救い主が来られる道を備える人でしたけれども、いよいよ終わりの時には本物の(?)偽キリスト・メシアが現れるのです。また、1世紀に起こった反乱指導者の幾人かは、実際に荒野から活動を開始しました。そしてユダヤ人がメシアと称する者を中心にして荒野に結集し、ローマに反抗した結果、エルサレム神殿はローマによって陥落させられてしまったのでした。とんだ偽メシアです。皆が26節のイエス様の警告を心に留めておいたなら、もしかしたらエルサレム神殿は陥落していなかったのかもしれません。歴史に「もし」と言うのは許されないのだそうです。

「見よ、奥の部屋にいる」と、これもまたユダヤ人の中にある「隠されたメシア(救い主)」という期待が反映されています。メシア(救い主)は分からない所、秘密の場所から現れるはずだという期待がありました。神秘的な期待。それは私たちの内にもどこかあるのではないでしょうか。イエス様が人々の前に現れた時、ユダヤ人はイエス様をメシア(救い主)と認めずにこう言ったのです。「私たちはこの人がキリスト(メシアを意味するギリシア語)であるとは認めない。なぜなら、私たちはこの人がどこから来たのか知っているのだから。この人はガリラヤのナザレ生まれだ。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ」(ヨハ725-27)。メシアを期待している人が「奥の部屋にキリストがいる」と言われたら、簡単に信じてしまうかも知れません。イエス様は信じてはいけないと前もって警告しておられます。

続けてイエス様は27節で、ご自分が戻って来ることは、最初に来た時と違って、つまりクリスマスの夜、誰にも知られずにひっそりと家畜小屋に現れたのと違って、人々がまったく気づかない者が出てくる様な秘密の事柄にはならないということを強く仰っています。

24章27節    人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。

人の子、イエス・キリストの到来、2度目の到来、世の終わりのときの再臨は、稲妻のようにすべてのところで見ることができる現象となります。光の速度をご存知ですか。秒速30万㎞だそうです。光は1秒間に地球を7周半するのだそうです。イエス様の再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じように、地球全体にほぼ同時に分かるのです。

24章28節    死体のあるところには、禿鷹が集まります。

これもまた、イエス・キリストの再臨が誰も見逃し得ないほど、すべての人の目にはっきりしているものであることを例えています。

大きな苦難が襲う時、終わりの時、しかしそれは本当の世の終わりの時ではありません。そして真の終わりの時、イエス・キリストが再臨される時まで、今日イエス様が前もって語ってくださったことが起こります。その時、私たちはいのちを守る行動をとらなければなりません。しかし私たちは、次のイエス様の約束を決して忘れてはなりません。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」との約束です。いつもわたしたちとともにいてくださる。何という慰めでしょうか。

偽預言者は盗んで殺すために来るのであり、苦難の中で助けてはくれません。助けるどころか私たちを迷わせ、さまよわせ、騙して、救いから遠ざけ滅びに至らせようとします。偽預言者の攻撃の対象は、教会に通ってはいるものの信仰の確信がなかったり、信仰が揺らいでいたり、疑いを持つ人たちです。ですから私たちは、真理のみことばで武装する必要があります。偽預言者、偽キリストに対してみことばをもって立ち向かえる聖書の知識を身につけ、教会を健全に建て上げて、互いを守らなければなりません。

真のメシア、イエス・キリストは愛によって来られました。十字架の死によって、また復活によって、私たちに対するご自分の愛を示されたお方です。その愛によって、主は私たちといつもともにいてくださる。どんな時でも、どんな状況でも、主は私たちを愛し、見放さず、いつもともにいてくださいます。私たちが逃げようとも、その決断が主を信じ、祈り求めたものであり、そして自分のいのちを守るものであるとの確信があるならば、主はその道を守り祝福してくださいます。さらにその先の隣人への祝福にもなります。

「荒らす忌まわしいものが聖なる所に立っているのを見たら——読者はよく理解せよ——」、そのものの名は「罪、試み、誘惑、悩み、苦しみ、悲しみ」などかもしれません。神と私との間に入り込み、神から離れさせようとするもの。それらに自分が負けそうになったならば、私たちはすぐに逃げなければなりません。それらが追ってくるのに本当に困難な所。それは主のみもとでしょう。主のみことばでしょう。罪や、試み、誘惑、悩み、苦しみ、悲しみなどがすさまじい嵐のように襲って来て、それらにもてあそばれ、死を待つような予感があるならば、直ちに山、隠れ場である主のもとに逃げ込むべきです。主は両手をいっぱいに広げてあなたの罪を赦そう、恵みを施そうと、いつでも待っておられます。自分は大丈夫だと自分の力を過信せずに、罪や悪から直ちに遠ざかるべきです。主のみもとに逃げることは敗北でも、恥でもありません。それは勝利、信仰の勝利となるのです。それは滅びからすべての人のいのちが守られることです。

私たちは、私たちを愛し、私たちのために十字架で死なれ、そしてよみがえり、いつもともにいてくださり、やがて本当の世の終わりの日に、愛をもって私たちを救うために再び来られるこのお方から目を離さずに、再び来られるその日まで、しっかりと備え、信仰をもって、1つ1つ勝利しながら歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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