2024年7月28日 主日礼拝「タラントを活かして再臨を待ち望む」マタイの福音書25章14〜30節
礼拝式順序
賛 美 聖歌94「ひかりかがやく」
新聖歌220「めぐみの光は」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇62篇5〜8節
讃 美 讃美歌56「七日のたび路」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌332「主はいのちを」
聖書朗読 マタイの福音書25章14〜30節
説 教 「タラントを活かして再臨を待ち望む」
讃 美 讃美歌388「みむねのまにまに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書25章13節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書25章14〜30節
説教題
「タラントを活かして再臨を待ち望む」
今週の聖句
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイの福音書25章21節
説教「賢く再臨を待ち望む」
マタイの福音書25章1〜13節
もし皆さんが、もの凄いお金持ちの人から3億円を預かったとしましょう。どうされますか? その前に「預ける」というのは、ギリシア語も日本語も同じで、ただ保管しておいてというだけではありません。相手に丸々引き渡して世話や適切な処理、自分がすべきことを信頼して相手に任せるというものです。病気の患者さんが医者に「私の命は先生に預けます」と言ったとして、医者がその命をただ持っているだけだったらまずいですね。それで3億円ですが、私も考えてみたのですが、ふとそんなことを想像するよりも前に、どういうつもりで私に3億円を預けたのか、その理由を尋ねるべきではないかと思いました。本当に預かって欲しかったら、私のような者ではなく銀行に預けるでしょう。その方が絶対に良いはずです。それなのにわざわざ私のような信用ならない者に3億円預けるというのですから、その人はかなりのギャンブラーであるか、もしくは相当に私を愛し、そして信頼し、可愛くてしょうがないのでしょうか、私の大事なものはお前に預かって欲しいのだ。こうして私のお前に対する愛と信頼を知って欲しい。そしてお前も私を愛し信用して欲しい。そんな思いもあるのではないかと思いました。そしてまた、やはり預けるわけですから、私という人間に何かを期待してのことではないかと、そう思うのです。
今日の箇所は良く知られた箇所で、多くの先生が人生の励ましのメッセージとして語られてきたところだと思います。皆さんもよくご存知のとおり、ここに出て来る「タラント」は、英語の「タレント」の語源となったもので、タレントというのは、才能、あるいは才能がある人を指す言葉です。人間誰しも神から何かしらのタラント、才能、賜物が与えられているのだというメッセージ。しかし与えられているからと喜んでいるだけではいけません。タレントが自分のタラント(才能)を用いて様々なメディアやイベントに出演して報酬をもらうとなると、それなりの苦労や労力が伴います。また、タレントにタラントを見出した会社は、タレントをマネージメントし、テレビ出演等のタラントを存分に発揮する機会を与え、タレントが自分たちに利益をもたらすことを期待します。これはともて下世話な話ですが、天の御国にも通じるところであるということが、今日の箇所で分かると思います。
25章14節 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25章15節 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。(するとすぐに、)
マタイの福音書は21章から、イエス様の公生涯におけるエルサレムでの最後の1週間に入りました。今日の箇所から少し進んで26章1節では、同じ文脈の中でイエス様はこのように言っておられます。「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。』」。イエス様はご自分の十字架の死が間近に迫っていることを意識して今日の箇所も語っておられます。ご自分が去った後、弟子たちに福音宣教の使命をゆだね、そのために必要な賜物を与えて、それを弟子たちがどのように用いて働くべきかを考えさせたかったのでしょう。弟子たちはイエス様の再臨の時を知らないため、目を覚ましていなければなりませんが、それが具体的にどう生きることなのかについてイエス様はここで教えられます。
ある家の主人が遠くに旅に出るにあたり、しもべたちを呼んで、自分の財産を「それぞれの能力に応じて」預けました。預けるというのは冒頭でも申しましたとおり、相手に丸々引き渡して世話や適切な処理、自分がすべきこと、ここでは商売をすることを、信頼して相手に一切任せるというものです。1人には5タラント、別の1人には2タラント、もう1人には1タラント。1タラントは6,000デナリに相当します。1デナリが一般労働者の1日分の労賃でしたから、16年間の労働に相当する賃金です。今の時代、1日1万円としても1タラントは6,000万円。一番多いしもべは5タラントということですから3億円です。
そして主人はしもべたちに機会(チャンス)を与えたわけですから、この機会(チャンス)もまたタラント(賜物・いただき物)です。預けられた資源(生産活動のもととなるもの、それによって利益をもたらすもの)、そしてその機会をどのように活かすのかは、預けられた側の責任です。
25章16節 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25章17節 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
この2人のしもべは、主人の思いにかなうことをしよう、主人が自分にタラントを任された理由は何だろうかと考えて、それを果たすために「すぐに」直ちにそのタラントを使って商売を始めるという行動を起こしました。この「商売をする」という語は、「売買する」というよりは「労力をかける、努力を注ぐ、努力して事を成就する」という意味の語です。彼らはただ得たのではなく、多くの投資と労苦の奮闘の末に利益を獲得しました。タラントを預けてくれた主人を信じて、また主人が自分に預けたタラントが、自分の能力で利益を出せる額だと、つまり主人が信じてくれた自分を信じて、ためらわずに実行しました。その結果、彼らは自分に預けられたのと同額の利益を得ました。労力をかけて誠実に、信仰をもってまっしぐらに突き進む。そこに莫大な利益が生まれるのです。
彼らはどうしてこんな自分に多額の財産を預けるのか、主人に尋ねることはしませんでしたが、普段からの主人との関わりの中で、主人がどのような人で、いつも何を求めていて、そのために自分は何ができるだろうかと、常に考えていた忠実なしもべだったのでしょう。神の忠実なしもべになるためには、常に神がどのようなお方か、神のみこころは何か、そのために自分が何をなすべきかを悟らなければなりません。聖書は神のしもべである私たちにこのように勧めるのです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ロマ122)。そして神がどのようなお方か、神のみこころは何か、そのために自分が何をなすべきか。それらはすべて聖書のみことばから知ることができるでしょう。神のみことばを読み、祈り、黙想し、学んで、神ご自身と神のみこころを知る、知っていくのです。目を覚まして、神のみこころを知ることに熱心であるべきです。そして神のみこころを知ることだけにとどまってはいけません。知ったことを実行する者でなければ、その知ったこともまったく意味がないのですから。神ご自身と、神のみこころを知るだけではなく、神を愛し、みこころに従って行ってこそ、神の忠実なしもべになるのであり、神に喜ばれるしもべになれるのです。
25章18節 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
ところが、1タラント預かったしもべは、その金を減らさないようにという考えから、土の中に隠しておきました。当時のユダヤでは、土の中に隠しておくのが一番安全であるとされていました。このしもべは、主人のみこころを知ろうとせず、商売をしようとせず、ただそれを失わないようにしたということです。神の目にそれは愚かなのです。間抜け、主人に対して無礼、なまくら、緩慢な者なのです。それとは対照的に、他の2人のしもべは賢かったのです。賢明で、分別があり、気が利いて、慎重で、思慮深かったのです。1タラント預かったしもべは、絶対に失敗しない人生を選択したのでしょう。ある意味においてはとても信仰的に見えますが、しかしそれはタラントを預けた主人、つまり神のみこころではありません。
25章19節 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
「かなり時がたってから」というのは、このたとえがイエス様の再臨が遅くなっていると思われるときにどう生きるべきかを教えているものであることを示すものです。
20節から23節で、主人は5タラントもうけたしもべと、2タラントもうけたしもべを「よくやった。良い忠実なしもべだ」と褒めました。さらに「たくさんの物」を任せました。
注意して見たいのは、主人が2人のしもべを同じことばで褒めていることから、主人はより多くの利益を出すことが重要と考えていたのではなく、それぞれ能力に応じて与えられたタラントを用いて、彼らが一生懸命努力して利益を出そうとすることが重要だというのが、主人のみこころだったようです。たとえ倍に増やさなくとも主人は褒めてくれたのではないでしょうか。逆に減ってしまったとしても主人は褒めてくれたのかもしれません。そして「お前はわずかな物に忠実だったから、お前に多くの物を任せよう」、「お前はわずかな物に忠実だった。わたしはそれが嬉しいのだ。わたしの喜びを一緒に喜んでくれ」と言われるのではないでしょうか。
私たちはここから、イエス様の再臨を待つ間、他の人と比べなくて良い。自分に与えられたものを忠実に用いて神のために、神の喜びのために生きるべきだということが教えられます。そのように生きる者に、神は「多くの物」を任されます。先に主人が与えたもの、3億円が「わずかな物」と言われる。これから主人が新しく委ねる物が「多くの物」と言われる。どれだけのものなのでしょう。そうです。それは天の御国です。天の御国はどれだけすごい所か。黙示録を見るとたくさんの宝石の名が出て来ますが、それこそ3億円どころではないところ、そこが素晴らしい天の御国であり、わずかな物に忠実なしもべは、その素晴らしい天の御国を主とともに治めるという大きな働きを任されるようになるのです。
ですから、私たちが主の再臨を待つ間の姿勢というのは、主の再臨後に任されるさらに大きな使命のための訓練だと言うこともできるのではないでしょうか。主イエス・キリストの弟子は、主とともに新しい天と新しい地で大きな使命を果たすためにふさわしい者として備えられるために、現在の地上での人生を忠実なしもべとして一生懸命生きるのです。神は良い忠実なしもべに天の御国を継がせ、そして天の御国の大きな働きを任されるのです。
25章24節 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
清算の日に、1タラントを預かったしもべは、どうして自分がその1タラントを使って利益を得ようとせずに隠しておいたのかを説明します。それは主人が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと考えたからでした。自分の失敗ではないことまでも自分の失敗として責められるのではないか。それほど主人に対してビクビク怯えて、叱られるのが怖くて、何も行動に移せなかったのです。賜物を活かそうとすることも、機会を活かそうとすることもできず、何もチャレンジできなかった。主人のしもべに対する愛と信頼がまるで分かっていなかった。そのような不幸で何の喜びもない信仰生活というのはどうなのでしょう。
25章25節 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25章26節 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
25章27節 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
だったら、金を銀行に預けて利息分だけでも増やせるようにすべきであったのに、彼はそれすらもしなかったのです。やはり彼は愚かだった。間抜け、主人に対して無礼、なまくら、緩慢な者だったのです。主人に対する不理解。管理者として何もしない無責任な人生。絶対に間違ったことをしないことで満足する信仰生活。臆病。不信仰。イエス様はイエス様の弟子である者に対しては、最善を尽くして実を結ぶようにと求めておられます。主はご自分が絶対に失敗を赦さないお方ではないこと、たとえ失敗したとしても、神はそれさえも働かせて益としてくださるお方であることを知るように願われています。何もせずにただ現状を維持するだけの信仰生活ではいけないのです。イエス様はそれを望んでおられないのです。与えられた賜物を活かし、与えられた機会(チャンス)を活かし、生き生きと、たくさんの実を結ぶように。
神は相当私たちを愛し、そして信頼し、可愛くてしょうがないのでしょうか、私の大事なものはお前に預かって欲しいのだ。こうして私のお前に対する愛と信頼を知って欲しい。そしてお前も私を愛し信頼して欲しい。そのように神は私たちに期待して賜物を預けられたのです。それを用いて、活かして、わくわくするような、生き生きとした人生、真のいのちにあふれた人生を歩めと願われているのです。絶対に失敗するなとは言われません。そう言われるのだとしたら、神こそ私たちにではなく銀行に預けておくべきでしょう。
イエス・キリストの再臨に備える、用意をしているというのは、単に失敗をしないということではなく、目を覚まし、神のみこころに集中し、それぞれの能力に応じて与えられているタラント、利益を生み出すための資源、人生における機会(チャンス)を本当に活かして、神が望まれる活動的で責任のある忠実な奉仕をすることです。
28節から不忠実なしもべに対するさばきが語られます。「だから」と、これまで語られたことが、神のさばきの理由です。その理由によって神はさばかれるのです。このしもべが、十分なタラントと、十分な時間(機会・チャンス)が預けられていたにもかかわらず、不信仰によって、臆病によって、何もしなかった。失敗を恐れて、神を信頼せずに、タラントを土の中に埋めてしまったことがさばきの根拠でした。そのことについて、主は黙示録21章8節で言われています。「臆病な者、不信仰な者」が火と硫黄の燃える池の中に入れられるのだと。そこで泣いて歯ぎしりする。激しく後悔する、悔しがるのです。しかし、神こそが泣いて歯ぎしりされるのではないでしょうか。さばかれる神のお気持ち、みこころはいかばかりか。私たちはそのことにも思いを向けるべきでしょう。私たちはそのようなことをしても無駄だという将来に何の希望も持てないような、またすべての事態を悪い方に考えてしまうことをやめて、与えられたタラント(賜物・機会・チャンス)をもって倍の利益を生み出せるように、神と神が私に与えてくださっているタラント(賜物・機会・チャンス)を信じ、喜んで、楽しく、わくわくしながら忠実に従っていこうではありませんか。
私たちには、それぞれ能力に応じて豊かな賜物が与えられています。聖書は、それぞれ異なる霊の賜物が与えられていると語っています(ロマ126-8)。それが預言であれば、その信仰に応じて預言するのです。それが奉仕であれば、その信仰に応じて奉仕するのです。それが教えることであれば、その信仰に応じて教えるのです。教会学校で子どもたちに教えるのです。勧めをする人、みことばをもって信仰を励ます賜物があると信じるなら、その信仰に応じて勧める、励ませば良いのです。分け与える賜物があれば、惜しまずに分け与え、手取り足取り親身になって指導できる人は熱心に指導してあげる。慈善を行う人は喜んでそれを行う。私たちが持っている才能や時間、健康、安定した生活、経済的な祝福など、それらすべて神からの賜物です。それぞれ別の、それぞれにふさわしいタラントです。利益を生み出すことのできる資源であり、与えられている機会(チャンス)です。それらすべて、元を正せば神から与えられたものです。
ある人は他人のタラントと比較して、「私には1タラントしか与えられていないから何もできない」と言うかもしれません。しかしそれでも1タラントです。16年分、6,000日分の賃金です。それが与えられているなど、どれほど恵まれているか、どれほど神に愛されているか、期待されているか、理解していないのです。これと同様に、「私には何も特別な才能が与えられていない」と言う人がいるかもしれません。確かに5タラント与えられた人と比較するなら、特別な才能は与えられていないのかも知れませんが、どんな人にも、少なくとも1タラントという高価で尊い才能は与えられているのです。普段、神からの賜物であると気づいていないものも、よく考えてみれば大きな価値を持っていることを発見することができるでしょう。自分が弱いと思っていることでさえも、それがかえって大きな価値を持っていることを発見するのではないでしょうか。そしてそれを神からの賜物であると捉え、神のために用いようとするならば、神はそれを聖めて(ご自分のものとして取り分けて)、すべてのことを働かせて益としてくださり、幾倍にも増して用いてくださるお方です。私たちは「何も与えられていない」という消極的な考え方は捨て、もっと積極的に「私にはこんなにもたくさんのものが与えられている」と考えるべきです。そこから賜物が与えられた、与えられていることに対する感謝が生じてきて、その賜物を用いて主のために一生懸命奉仕しようという意欲も湧いてくるのです。
主はそれぞれその能力に応じて、みこころのままに賜物を与え、それをもって使命を果たして行けるように導かれます。ですから、賜物と召しは見事に一致するのです。私は時々考えるのです。「私はこんなことをしていて良いのだろうか」と。そのような迷いが生じたならば、1度立ち止まり自分に与えられている賜物は何か、改めて思い巡らせてみるのも良いのかもしれません。それがみこころであると確信を得たならば、神を信じて、これが神の召しであると信じて、神のために一生懸命励めば良いのです。神が必ず豊かな実を結ばせてくださいます。しかしもし平安がなく、喜びがなく、軌道修正することが必要かもしれないと思われるなら、神に祈り、黙想し、神に答えを求めてください。軌道修正は失敗ではないですし、神はそれを責めたりはなさらないでしょう。
私たちは神から与えられた賜物は正しく用いなければなりません。神から与えられた賜物を有効に用いて、神のために奉仕をしなければなりません。賜物が与えられているのは、主の働きに用いるためです。多くの人は賜物が与えられているのにそれに気づかずに、「私にはできない」と思い込んでいる場合もあるかもしれません。これでは、与えられた1タラントを土の中に埋めていた人と同じです。「自分もやってみよう。信仰があれば神がさせてくださる」。そう信じて積極的に奉仕をすることが必要でしょう。このような人が一人でも多くなれば、その教会は成長するでしょう。5タラント与えられた人が、5タラント全部を無駄なく働かせた時、新たに5タラントを得ました。同様に、私たちも一人一人が与えられた賜物を無駄なくフルに用いるならば、教会は倍増するのです。賜物を活かし、召しに忠実に生き生きと働く聖徒が満ちている教会こそ、成長する教会となるのではないでしょうか。そして成長した教会、美しく整えられた教会、花嫁にたとえられる教会が再臨の主をお迎えするのです。
そして、賜物を用いる人は、ますます豊かになるのだということも忘れてはなりません。イエス様はこのたとえの結論として、「だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ」と述べておられます。世の中には豊かな賜物に恵まれていて、うらやましいと思ってしまう人もおられますが、そのような人であっても、最初からそうだったのではないのかもしれません。賜物は一朝一夕にして与えられたものではないものもあるのです。忠実に用いることによって、どんどん豊かにされていったものなのです。パリオリンピックが始まりましたが、選手たちを見てください。才能に溢れた人たちばかりです。しかしその賜物も元を正せば神から与えられたものです。そして一朝一夕にしてあのようなものになったのではありません。毎日の努力があったのです。神は賜物を用いる者にはさらに豊かに与えてくださいます。他人の豊かな賜物をうらやむよりも、まず自分の賜物だと思うものを用いてみる努力が必要です。まず1から始めてみる。それがやがて5になり、10になる。賜物を用いるなら、神は必ず祝福し、賜物をますます豊かにしてくださいます。そしてその先に「主人の喜びをともに喜んでくれ」ということばのように、神の喜びにあずかることができるのです。神から金メダルどころか、黙示録に書かれているもの凄い宝石でできている天の御国がいただける。これとは逆に、タラントを用いないでなまけていたしもべは、持っていたものまでも取り上げられ、「役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言われているように、滅びと後悔しか与えられませんでした。「私には賜物がない」という消極的なつぶやき、そして実は与えられている賜物を用いないことが、どれほど恐るべき結果を生み出すか、私たちは今一度覚えるべきではないでしょうか。
私たちはイエス・キリストが再臨される時まで、目を覚まし、一生懸命、自分に与えられた賜物を用いて、忠実に奉仕してまいりたいと、そう願わされる。今日はそのようなところでした。