2024年9月15日 主日礼拝「弟子たちのつまずきの予告」
礼拝式順序
賛 美 「土の器」
「傷跡」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇23篇1〜6節
讃 美 讃美歌1「神のちからを」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌187「主よ、いのちの」
聖書朗読 マタイの福音書26章30〜35節
説 教 「弟子たちのつまずきの予告」
讃 美 讃美歌511「みゆるしあらずば」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書26章32節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書26章30〜35節
説教題
「弟子たちのつまずきの予告」
今週の聖句
「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
マタイの福音書26章32節
説教「弟子たちのつまずきの予告」
マタイの福音書26章30〜35節
皆さんにも故郷がおありかと思います。若い方たちにはまだ実感が湧かないかも知れませんが、これから学校進学のため、あるいは社会に出る、結婚などによって、もしかしたらこの地を出て行くこともあるでしょう。そうなると故郷、その人に古くから関わりの深い所、生まれ育った土地や以前に住み、または馴染んでいた場所、家族や愛する人と暮らし、友だちと過ごした思い出深い場所が、自分にとって特別な場所になるという経験をされると思います。中には夢や野望を抱き、「成功するまで故郷には戻らない」と決心して故郷を出て行かれた方もおられるでしょうか。どこかの高校3年生の男などは、自分の夢や野望(?)ばかりが大きく膨らんでいるようで、先ばかりを見ていて、故郷を後にする寂しさや不安など微塵も考えていないようです。「若いって素晴らしい」と言うようになったら、私も年をとったと言うことでしょうか。しかし若さとはまた未熟さでもあります。これから様々な経験をしながら、故郷に対する思いも変わってくると思います。そのように、私たちは楽しい、嬉しい、生きがいを感じるという経験や、あるいは辛い、悲しい、挫折を味わうなどといった(こちらの方が断然多いのかもしれません)様々な経験を重ね、ふと故郷が懐かしく思い出されるという経験をするのではないでしょうか。また、故郷には良い思い出がなく、辛い経験ばかりが思い出され、もう2度と故郷には戻りたくないと言われる方もおられるかもしれません。
それでは、皆さんにとって「心・霊・魂の故郷」はありますか? それはどこで、あなたにとってそこはどのような所でしょうか。「どのような所」に関して言うならば、恐らく2度と戻りたくない所ではなく、自分が元気を取り戻すことができる場所であると思います。息を吹き返す、生き返る場所。つまり、1度死んでしまった者、と言いましても、聖書では「死ぬ」ということは肉体的な死ばかりを意味するのではなく、霊的な死、生きていても死んだように生きている、生き生きと生きられない、力が湧いて来ない、心に喜びがない、希望が湧いてこない、そのような状態をも「死」と言うのですが、1度死んでしまった者がもう一度本当に生き返る場所。そのような所こそ霊の故郷でしょう。霊の故郷はいくつかあるかもしれませんが、その中の一つとして、そこは信仰の原点であると思います。イエス・キリストと出会った、そしてイエス・キリストに名前を呼ばれ、招かれ、召された場所。
私にとってそこはここ「長野聖書教会」です。と言いたい所ですが、私は長野聖書教会で生まれ育ち、恵みによってずっとここにいさせていただいているということもあり、懐かしい故郷、あそこをもう1度訪ねたら、もう一度生き返ることができるのではないかという場所とは少し違うように思います。もちろん信仰の原点には間違いありませんが、緊急時に、元気をなくした時に、懐かしいあの場所に行きたいな、そうしたら元気になれそうだなという場所とは少し違うような気がします。ずっとここにいるわけですから。ここにいて、ここで疲れを覚えたりするわけですから。そういった意味で、私にとって霊の故郷の1つに、私が学んだ新潟聖書学院があると思います。そこは私がイエス・キリストと深く交わり、同胞と学び、生活を共にし、その中で自分の無知、また無力さ、人としての未熟さを嫌というほど思い知らされ、しかしそこで改めて主がそのような私を召してくださった場所です。静かなチャペル、独特の臭いがした教室や寮の部屋、黒板の字、橋の上から物思いにふけって見た美しい夕日が懐かしい。また畑に行きたいな。今思い起こすと、そのすべてにイエス様が近く感じられ、いつもイエス様の御声を聞いていたような気がします。あの時、あそこでと、色々と思い起こされます。皆さんにもそのような霊の故郷があると思います。故郷自体が霊の故郷という方もおられるでしょう。また母教会であるとか、バイブルキャンプ場であるとか、何の変哲もない山や川かもしれません。あそこでイエス様と出会った、あそこでイエス様の御声を聞いた、イエス様に触れられた、心が燃やされた、召された、救われた。色々と思い起こされる景色があるのではないでしょうか。
先月、私は急に夏休みをいただいてしまったわけですが、実はその時は本当に体も心も疲れ果ててしまっておりました。恐らくどなたにもそのような時があると思うのですが、私はラッキーと言いますが、主のあわれみでしょう。長野に帰省される小澤先生が説教奉仕をしてくださるということで、役員の方々にもご了承いただき、お休みをいただくことができました。本当に感謝でした。その時ふと新潟聖書学院に行きたくなりました。このままではヤバいぞ、あそこに行けば元気になれるのではないだろうかと。急に思い立ち、車に乗り出発。しかし残念ながら、早くも浅川のあたりで引き返してきてしまいました。しかしお休みをいただいたことと、皆さんのお祈りのおかげで息を吹き返しておりますので感謝します。それでも相変わらず弱い者ですので、この者のために続けて祈り支えてくださるようお願いいたします。私も皆さんのために毎日お祈りしています。何よりも神さまは私たちのすべてをいつも見守り、聖霊を通して日々一人ひとりにみことばと愛と恵み、力、助けなど、本当に必要なものを注いでくださっています。それを私たちがしっかりと見つめ、聞き、受け取るかどうかです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、今日の箇所を見てまいりましょう。前回は過越の食事、有名な最後の晩餐の中で聖餐式が制定されたところを見ました。この後、いよいよエルサレムの宗教指導者たちに捕らえられ、裏切られ、罵られ、不当な裁判を経て、鞭打たれ、ご自分か架けられる十字架を背負いカルバリの丘を目指される。十字架に架かられて死なれる。しかしその手に釘跡を残したままよみがえられる。すべてあなたを愛するが故に。すべてあなたの罪の赦しのためであると。主イエス・キリストが、弟子たちとの地上での最後の食事、晩餐の中でそのような告別の説教をされ、そして聖餐式を制定され、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われました。前回触れたところですが、「覚える」というのは、ただ記憶に留めておくことではなく「思い起こす、心を奮い立たせる、気を取り直す」という意味の語です。私たちもまた、イエス様を覚えて、イエス・キリストの十字架と復活に表される父なる神の真実の愛、あわれみ、罪の赦しを覚えて聖餐式の恵みに与りました。喜びと感謝に満たされて、賛美と共に歩き始めてはや2週間。皆さんはどのような2週間を過ごされたでしょうか。
26章30節 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
イエス様と弟子たち一行は、賛美の歌を歌ってからエルサレム市中を出て東の方へと下り、オリーブ山へと行かれました。オリーブ山にはイエス様がたびたび弟子たちと会合された園がありました。その園に入られる手前で、イエス様は弟子たちと短い対話をされました。
26章31節 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
オリーブ山に行く道で、イエス様は「今夜」弟子たちがご自分につまずくと告げられます。つまずきます。つまずくであろうと。以前申しましたが「つまずく」とはごく簡単に言うと何だったでしょうか。牧師につまずく、教会につまずくなどと言われますが、どういうことでしょう。それは嫌になるということです。嫌いになる、嫌悪する、あるいは疑う、疑わしいと思うことでもあるでしょう。しかしそれらはすべて自己中心の中で起こるものです。
そしてここで使われる「つまずく」というギリシャ語は、別の聖書の訳では「離れる」ともなっています。また他には、先ほども申しました通り嫌になるとか、見捨てる、消え失せる、脱落するという意味があります。つまりイエス様は弟子たちに、今はわたしを信じ、わたしを慕い、愛し、わたしについてきているあなたであっても、今夜、暗闇の時を迎えるならば、わたしにつまずくであろう。わたしが嫌になるであろう。疑うであろう。そしてわたしを見捨て、わたしの前から消え失せるであろうと言われます。なぜならば、弟子たち皆が信じて、色々なものを犠牲にして捨てて従って来たイエス様が打たれるからです。捕らえられ、文字通り鞭打たれ、無残な姿をさらし、敗北者のようになり、年に1度の祭りで世界中から訪れている多くの巡礼者の前で、まるで見せ物のように十字架に架けられ死なれるからです。
「『羊の群れは散らされる』と書いてあるからです」。この散らされるという語には、文字通り散らされるという意味と、「選別される」という2通りの意味があります。麦はふるい分けられるのです。脱穀した後に、空中に殻付きの麦を持ち上げて、殻を風に吹かれるようにする。ちゃんと実が入(い)った、熟した麦の実は風に吹き飛ばされずに落ちる。このようにして散らされる、選別されるのです。いざ風に吹き飛ばされそうな経験をし、信仰者はそこでふるい分けられる。そこで信仰、忠誠が明らかにされる。練られて、きよめられ、信仰の実、悔い改めの実、献身の実を結ぶ者たちが真の弟子として、真の神の民、神の子として回復されるのです。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。日々みことばによって練られ、きよめられている人。そのような人は後に回復されるであろう。栄えるであろう。しかし悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻であると聖書(詩篇1篇)は言います。
26章32節 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
しかしイエス様はご自分は「よみがえられる」と言われます。完全な勝利者となると宣言されます。ところが弟子たちはこの重要な事実をスルーしてしまうのです。そしていつものように、ペテロが弟子たちを代表してこう言うのです。
26章33節 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
「私は決してつまずきません!」。ギリシャ語では非常に強い否定を表しています。ペテロはじめ弟子たちはこの時、自信満々に答えるのです。
26章34節 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
「あなたはわたしを知らないと言う」。「知らないと言う」。このギリシャ語は否定する、否認する、拒絶する、無視するという意味の語です。まさしく数時間後、弟子たちはイエス様を知らないと言います。イエス様を否定します。拒絶します。無視します。そんな人は知らないと、目を逸らします。そして苦しめられ罵られるイエス様を見捨て、背を向けて、イエス様の前から消え失せます。姿を消すのです。
神に背を向けて出て行く。これこそ聖書のはじめの創世記に記されている人間の罪の原点でしょう。ここからすべての罪が始まる。偽証、悪口、殺人。全部ここから始まるのです。そして神に背を向けて出て行った者は、神から離れ、神との関係を自ら断ち切って生きる者は、死ぬのです。生きていても死ぬのです。希望がない、空しい、愛されたい。苦しい、辛い、悲しい。疲れた、生き生きと生きられない。そのような霊的な死を迎える、迎えつつある。それらはすべて人が神に背を向けて、神とは無関係に生きている、その罪によるのです。私が疲れを覚え、アップアップしてしまい、霊の故郷に戻りたいと思ったのも、いつの間にか主から離れ、主につまずき、主を疑い、嫌になっていたからでしょう。「罪の報酬は死です」(ロマ823)。聖書ははっきりとそう言っています。そしてそれは真実です。しかし聖書は続けてこう言います。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(同)。霊的な死を予感したならば、私たちはただちにイエス様のもとに逃げ込まなければなりません。変に自分を信じてしまっては危険です。
26章35節 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。
「自分だけはつまずくはずがない」。ペテロは反論します。他の弟子たちも同じように反論します。私たちも同じように反論するでしょう。軽率な言葉のようですが、“この時点での”正直な思いです。しかし、自分のいのちの危険を感じる時、面倒なことに巻き込まれそうだとか、自分にとって都合が悪いとか、そのような時、人は簡単に「そんな人は知らない」と言ってしまうのです。自分のイエス様に対する信仰を隠して引っ込めてしまうのです。娘は今日、隣りに座っている彼に私が教会の牧師であることは言っていなかったようです。一昨日の夕飯の時に、妻から暴露されてしまいました。まぁ、気持ちは分かります。私も同じですから。私自身も、自分が牧師であることをつい隠してしまうことさえあるのです。私であっても、職場などで少しでも都合が悪いと感じると、信仰を隠してしまう。イエス様を拒絶してしまう。無視してしまう。人々の前でクリスチャンとしての、牧師としての姿をスッと消してしまう。この世と調子を合わせてしまう。イエス様の顔色を見ないで、世の人々の顔色ばかりを見てしまう。しかしそういったことを重ねて行くと自己嫌悪に陥り、ますます生き難さを感じてしまう。嘘に嘘を重ねて生き難さを感じるのと同じです。ところが、いのちの危険を感じつつも主を証しする時、思いがけず人に喜ばれたり、感心されたり、不思議と力がみなぎったり喜びが湧いてきたりする経験をされていないでしょうか。
皆さんご存知のとおり、この後、弟子たちは見事にイエス様を「知らない」と言います。イエス様を裏切ったのは、あのイスカリオテのユダだけではないのです。方法は違っていましたが、他の弟子たちも立派なことを言ったものの、イエス様の逮捕の時に逃げてしまいました。自分の命の危険を感じ、面倒なことにまきこまれると、イエス様を見捨てるのです。イエス様を無視するのです。イエス様の視界に入っていながらも、イエス様を見て見ぬ振りをし、顔を背けるのです。どんなに主に、信仰に忠実であろうとしても、時として弱さのためにつまずいて罪を犯すこともあるのです。
しかし望みがあります。悔い改めるなら、主はあわれみを注いでくださいます。再び立ち上がる力を与えてくださいます。
「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(2632)
ガリラヤ。そこは弟子たちが生きてきた所。生きる中で、様々な苦難、挫折、絶望、悲しみ、虚しさ、そういった経験をした所。たくさんの罪を犯してきた所。しかしそこは、そのような私をイエス様が捜し出し、見つけ、召してくださった所。イエス様が私に触れ、私の心に触れ、霊・魂に触れてくださり、救ってくださった所。あそこで、あの時、イエス様に深く知られ、イエス様を深く知ったという記憶が残る景色がある。そこから熱い思いを抱き、喜びと希望に湧き、どこまでも主に従って行こうと堅く心に決めたのに・・・。
「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」。「行く」という語は、「先導する、導いて行く」という意味のギリシャ語です。イエス様はこれから確実にご自分を裏切る弟子たちに対して言われました。「わたしはよみがえる。そしてあなたがたをガリラヤへと導いて行く」と。弟子たちはじめすべての人の罪の身代わりとなり、苦しめられ、罵られるご自分を裏切り、否定し、拒絶し、無視し、見捨て、背を向けてご自分の前から消え失せる者たちに対し、イエス様は彼らを見捨てるのではなく「それでもわたしはよみがえる。そして再びあなたがたの羊飼いとなる」と言ってくださるのです。姿を消されることもなく、ずっと変わらずに彼らを導き、ずっとともにおられることを示し、彼らに慰めと励ましを与えられるのです。この御声を聞いておられるでしょうか。聞いていても聞こえずに、スルーして、自信満々に「私はつまずかないから大丈夫です」と答えていないだろうか。「いや、あなたは数時間後にはわたしを知らないと言うよ」。
イエス様が言われるように、私たちはこの世で生きる中で、弱さのゆえに何度も罪を犯し、負い目を積み重ね、いつの間にか疲れ果て、死んだように生きる者となってしまうでしょう。イエス様につまずき、そんな人は知らないと言う。裏切り、否定し、拒絶し、無視し、見捨て、背を向けてイエス様の前から消え失せる者となってしまう時がありましたし、これからもその時が来るでしょう。世の人々の前でイエス様の弟子であるという自分の姿を消し去ってしまう時が来るでしょう。しかし望みがあります。悔い改めるなら、主はあわれみを注いでくださいます。よみがえられた主が、それでも私たちを見捨てず、私たちの羊飼いとなり、ガリラヤへ、霊の故郷へと導いてくださると約束されているからです。そしてそこで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と仰ってくださっています。いつもあなたとともにいる、つまりあなたを赦す、あなたを祝福すると。ですから私たちは、たとえ自分の弱さに気づいても、そこでつまずくのではなく、なおも顧みてともにいてくださる主の御前に進み出て慰めを得ようではありませんか。弱さによってつまずき、罪を犯す時も、信仰によって主の前で悔い改めようではありませんか。そのような時、主は私たちをガリラヤへと導かれることもあるでしょう。そのような時、私たちは主の招きに応え、主と共にガリラヤへ、霊の故郷へと導かれてまいりましょう。主はガリラヤで待っているのではありません。主は私たちを伴い、ガリラヤに導いてくださるのです。そこに至るまでも、主が弱っている私たちの脇を支え、共に歩いて行ってくださるのです。杖と鞭で私たちを危険から守り、憩い(リフレッシュする所、死からの復活)のみぎわに伴われる、真の羊飼いです。ここで主は悩み苦しんでいた私の名を呼んでくださったなぁ。ここで主は「お前を愛している」と言ってくださったっなぁ。ここで主は私を赦すと言ってくださったなぁ。ここで主は「わたしがあなたを選んだのだ」と、召してくださったなぁ。主との思い出、実際に経験した場所へ、主は私たちを無理矢理に引っ張っていくのではなく、やさしく導かれるのです。そしてもう一度同じ御声を聞かせてくださる。そのような主の真実、愛、憐れみ、恵み、赦し、それらを信じて、すがって、私たちは自分の力に頼ろうとせず、主に導かれ、共に歩んでいくことこそ、正しい知恵ではないでしょうか。霊の故郷、信仰の原点に戻らされることは、決して後退や敗北ではなく、前進であり勝利です。
しかし、もしかしたら距離的な問題などもあり、なかなか実際に霊の故郷に行くことができないなんてこともあるかもしれません。しかし、数々の主との思い出、恵みを「覚える(思い起こす)」なら、主に対して罪を犯してしまった。その主ご自身が私の罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださった。そしてよみがえってくださった。変わらず導いてくださろうとしておられる。そのことを「覚えて(思い起こす、奮い立たせる)」、信じて、すがって、主の前に悔い改めるなら、罪の赦しの恵みを確信してもう一度立ち上がることができます。
何度でも主は赦してくださる。だからと言って、何度も罪を犯しても良いのだと平気で言われるでしょうか。イエス・キリストの十字架の苦しみに対して何も感じないとしたら、イエス・キリストの私に対する真実の愛に応えたいとこれっぽっちも思わないのだとしたら、その人はまだ本当にイエス・キリストと出会っていないのかもしれません。救われていないのかもしれません。どうか是非、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストに触れていただきたいと願います。そして本当に幸いな、生きているという実感が伴った人生、羊飼いなるイエス様とともに、天の御国にいたる永遠のいのちの道を歩んで行って欲しいと心から願います。