2024年12月22日 主日クリスマス礼拝「クリスマスの喜び」

賛  美  新聖歌75「神の御子は」
      新聖歌79「天には栄え」
前奏(黙祷)
招  詞  ミカ書6章6〜8節
讃  美  讃美歌108「いざうたえ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌107「まぶねのかたえに」
聖書朗読  ルカの福音書2章1〜20節
説  教  「クリスマスの喜び」
讃  美  讃美歌111「神の御子は」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ルカの福音書2章11節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ルカの福音書2章1〜20節

説教題

「クリスマスの喜び」

今週の聖句

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ルカの福音書2章11節

説教「クリスマスの喜び」

ルカの福音書2章1〜20節

2024年のクリスマス礼拝をこのようにして守れますことを心から嬉しく思います。私たちの救いのためにお出でくださった神のひとり子イエス・キリストのご降誕を喜び、私たちは互いに主にあって心からの挨拶を交わしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。この朝、上よりの声によって御前に招かれ、呼び集められた、神に愛され、神を愛する皆さんおひとりひとりの上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

毎年のように申し上げておりますが、この「おめでとう」は「喜べ」というものです。御使いがマリアの前に現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と挨拶をしました。この「おめでとう」は原語では「喜べ」となっています。「あなたは喜べ、喜びなさい」。どこか命令のような、命令されるのが大嫌いな人であれば「何でお前に言われて喜ばなければならないんだよ」と、一歩間違えたらそこに争いが起こりそうな響きですが、これが愛のこもった命令になると挨拶になり、「ともに喜びましょう、喜んでくれませんか」というあたたかくて平和をもたらすものになるのでしょう。しかし、神は御使いを通して「喜べ、喜びなさい」と命令されるのです。命令されて嫌な気持ちになりますか? しかし神の命令は「あなたがたは〜であろう」というものです。十戒がそうです。神はまずご自分についてこう宣言されます。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」(出201)。それに続けて神の命令が与えられます。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。云々…」(同203〜)。神がどのようなお方か。そしてその神の大きなみわざ、恵み、祝福。それらを知るあなたがたであるなら、どうしてわたし以外にほかの神があるだろうか。神の命令は人間の命令と違って、なんとあたたかく、愛と信頼や期待、平和に満ちていることでしょう。その神が今日のクリスマスに私たちに命令されるのです。「わたしは、あなたがたを愛し、あなたがたを救うために、わたしのひとり子をあなたがたのために世に降らせた、あなたの神、主である。あなたはこのようなわたしの愛を知るなら、この出来事を喜びなさい。喜ぶであろう、喜ぶでしょう」。

先週は「罰(バチ)」について触れました。旧約聖書の時代の人たちもそうですが、私たち日本人は「そんなことをしたらバチが当たる」という文化の中で普通に生きて来ました。ですから私たちの様々な苦難や悲しみ、悲惨な闇のような現状は、神のさばきなのではないかとどこかで恐れたり、神の真実の愛を疑ってしまっていたりするところがあるかもしれません。ところが神は私たちを苦しめるどころか、裁くどころか、これほどまでに愛とあわれみを注いでくださっているのです。そして私たちがその恵みに正しく応答する、つまり喜ぶ、嘘偽りなく喜んで生きて行く、光の中を歩んで行くことを望んでおられるのです。なんと感謝なことでしょうか。しかし世の多くの人たちは、この世で生きる闇、苦しみや悲しみをごまかすかのようにクリスマスを楽しんでいるかのようです。

先日、長野駅の東口の公園で開かれているクリスマスマーケットなる所に行ったのですが、沢山の人たちで賑わっていました。たくさんのクリスマスの装飾がされていたのですが、どこを見てもクリスマスの主役であるキリストのキの字もありませんでした。電飾が施された小さな家があって、そこにイエス様が寝ておられるのかと思って中を覗いてみると、サンタクロースがいました。どこもかしこもサンタクロースだらけ。キリスト不在のクリスマスです。そしてクリスマスが終われば普通に当たり前のように闇の中を歩んで行くのです。そのような世を神はあわれみ、これも先週のみことばではないですが、神は今も御手を伸ばし、それでも御手を伸ばし、御手を伸ばし、今年も変わらずにご自身の愛とあわれみを注がれ、「クリスマスを喜べ、喜びなさい、喜ぶであろう」と呼びかけてくださっています。私たちの中に飾られている家にキリストは住んでおられるでしょうか。そこにいるのはサンタクロースではないですか。どうか1人でも多くの人がこのような神を知り、クリスマスに込められた大きな神の愛を知り、闇を脱し光の中を歩み出すことができるように、私たちは祈りましょう。声を大にして「クリスマスをともに喜びましょう」と、キリスト中心のクリスマスのあいさつをしようではありませんか。昨日は駅前でキャロリングが行われ、クリスマスの賛美を通して通りすがりの人たちに「ともに喜びましょう」と挨拶をしましたが、そこに知らない4〜5人の若者が賛美に加わってくれました。ふざけてではあったでしょうが、彼らもキリスト中心のクリスマスのあいさつを通して真の神の愛を知り、光の中を歩み出すことができるようにと願っています。

さて、随分前のことになりますが、テレビでお笑い芸人の奥さんがこんなことを話していました。お笑い芸人のご主人はどうやら潔癖症のようで、他人が入った後のお風呂に入れなかったり、素足で他人の家に入れなかったり、トイレのウォシュレットなんてもってほかで、絶対に使えないのだそうです。それでその奥さんはこう言い放ちました。「もう、どれだけ自分がきれいだと思っているの?」。

聖書、また讃美歌でも罪は身に染みついた汚れとして扱われますが、世の人々はどれだけ自分が汚れ、罪の悲惨の中にいるのか分かっていないのかもしれません。分かろうとしていないのかもしれません。

私たちは先週、イザヤ書9章でイザヤの預言に聞きました。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいたものたちの上に光が輝く」(イザ92)。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(同96-7)。

「苦しみ」その語の元々の意味は「鋳造金属」でしたね。「超高温で溶かされた金属を型に流し込んで造られた」というもの。そこから「苦悩、困難、悩み、苦しみ、嘆き悲しみ、痛み、悲惨、憂い」といった意味を持つものとなりました。そして人々は闇の中にいる。この「闇」という語も、暗闇、薄暗さといった意味の他に、「陰気、憂鬱、気分が沈んで塞ぎ込んでいる、意気消沈、沈んだ表情」といった意味をも持つものです。まさに世であったり、罪であったり、そのような中に当たり前のように押し込められ、支配され、圧迫され、そして意気消沈し、沈んだ表情をしている今の世を表現する「苦しみ、闇」の意味ではないでしょうか。そのような苦しみ、闇の世に、罪、汚れに満ちた世に、神でありキリストであるイエス様が降られた。そのことを「喜べ、喜びなさい」と言われて素直に喜べるのは誰でしょうか。真の光を見いだすのは誰でしょうか。それは羊飼いたちのように、自分が罪、汚れの中に、苦しみ、闇の中にいることを知っている人ではないでしょうか。

2章1節        そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2章2節        これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

イエス・キリストの誕生についてルカは、まずその年代から記しています。ルカはいつ、どこで、だれが、何をしたか、この4つのことを克明に記していますが、しかしルカはそのような歴史的な記録を述べるためにこの福音書を記したわけではありません。アウグストゥスが皇帝の座に就いたとか、あるいは人口調査が行われたとか、そういう具体的な政治や社会、そこには間違いや醜いこと、権力がはびこるなど色々な事がある。そのような中へイエス・キリストが生まれた、神が介入されたということを語っているのです。

2章3節        人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

当時、皇帝の勅令が出れば、世の人々は一糸乱れず動きました。逆らえなかった。人々は皇帝の強い権力の下で縮こまっていました。メシア・救い主が来て自分たちを救ってくれることを望みながらも、それは夢に過ぎず、現実は皇帝の命令に従わざるを得ない無力な征服された民にすぎませんでした。

ヨセフもこの権力に逆らうことができず、まもなく子が生まれようとしている大きなお腹のマリアを連れて、険しく長い道のりを歩き、ベツレヘムへと行きました。しかしこれは「真の救い主はベツレヘムに生まれる」という預言の成就となりました。その預言はミカ書5章2節に記されています。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」(ミカ52)。

ベツレヘム・エフラテ。ここにはユダヤの民であるなら覚えておくべきこと、いや決して忘れることのできない記念がありました。記念というのは、忘れずに心に留めておく特別なこと。また、それらを思い出して心を新たにせよというものです。それは創世記35章16〜20節に記されています。

「彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている」(創3516-20)。

ラケルは目的地に向かう途中で難産の末に死にました。彼女は生まれた子を「ベン・オニ」と名づけました。その意味は「私の苦しみの子」です。彼女は死に行こうとする中でこれまでの人生を思い起こし、それは苦しみであったと言うのです。もう嫌だと。確かに彼女は主人であるヤコブの愛、そして子を巡って実の姉と死に物狂いの争いをした。幸せであるはずの結婚生活、人生のほぼすべてが争いや苦しみであったと。なんと悲しいことではないでしょうか。しかし、いよいよ彼女のたましいが離れ去ろうとしたとき、その子の父は「ベン・オニ(苦しみの子)」という名を「ベニヤミン(右手の子)」と呼び直しました。愛とあわれみによって、その名を呼び直し、苦しむラケルに言い聞かせたのです。その子の父とはヤコブのことですが、聖書はヤコブと言わず「その子の父」と記すのです。それはその子の真の父、天の父である神ということでしょう。神が「ベニヤミン(右手の子)」と呼び直してくださった。ラケルの傷ついた心を癒やされた。嘆き悲しむラケルを慰めてくださった。すべての労を労い、ラケルの上に神が栄光を現してくださったのです。ラケルは救われたことでしょう。苦しみ悲しみから解放されたことでしょう。そして聖書は記します。「こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている」と。ベツレヘムで真の慰め主、救い主が生まれる。その途中にラケルの墓が設けられ、その上に石の柱を立てた。記念として残された。忘れずに心に留めておく特別なこととして、それを思い出して心を新たにせよとして、その記念は今日に至っている。こんな所に救いはあるのか。本当に慰めはあるのか。希望を失い、苦しみ、闇の中にいる者に対する記念として今日に至っているのです。

今日は私の母が来てくれていますが、私の父が亡くなった時のことを思い起こします。また今年、大切な方を天に見送られた方もおられますが、私の父の人生を思うと、本当に苦しい戦いであったことを思わされます。その人生の最後も病気で苦しみました。心に闇があったことでしょう。その中でイエス様を信じることができました。そのような父は、それから数日後から意識がなくなり間もなく召されて行きましたが、あの時イエス様を信じ、神の御声を聞き、苦しい人生が神の恵みによってすべて報われ、塗り替えられ、救われて、安心して天の御国へと旅立ったのだと思っています。

2章6節        ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2章7節        男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

苦しみ、闇の世。そのような現実の中で、メシアが馬に乗って君主として来られるのではなく、幼子としてお生まれになったので注目する人はいませんでした。神の子の誕生が記されているのに、こんなにも短い言葉で書かれているところにも、それが感じられるようです。幼子に後光が差したとか、天が開かれたとかいう飾りは少しもありません。普通の子どもが生まれるのと同じ、いやそれ以下でした。そして救い主の誕生は普通の人、いやそれ以下の人によって知られたのです。ルカは普通の人、あるいは貧しい人、数に足らないような人、そういう人たちに対して神の目と、万軍の主の熱心が注がれたということを繰り返し語っているのです。私たちにとってそれは大きな喜び、そして記念となるのではないでしょうか。私たちすべての人間が忘れずに心に留めておく特別なこと。また、それらを思い出して心を新たにすべきこととなるのではないでしょうか。

イエス様がお生まれになるとき、マリアたちが泊まる場所はどこにもありませんでした。人々は皆、自分たちのことばかり考えていました。私たちはどうでしょう。今日、私たちの心に主を迎える空き部屋があるでしょうか。長野駅前のクリスマスマーケットのようではないでしょうか。

ある教会の教会学校で「空き部屋はありますか」という劇をしたそうです。その中で宿の主人を、知的障がいのある子が任されることになりました。その子は涙ぐましい練習を続け、準備は万端でした。ところが、公演当日、その子は「空き部屋はない」と言わなければならないのに、「いくら劇でも、イエス様を家畜小屋で産ませることはできない」と言い張り、台詞を変えて自分の言葉で「僕の部屋を空にして掃除して温めておきましょう」と言ったのだそうです。なんと純粋な、これこそ私たちが告白するべき言葉ではないでしょうか。イエス・キリストは苦しみ、闇の世に来てくださいました。しかもその中でさらに虐げられている者たちに会うために、真の救い主、王、キリストにはまったくふさわしくない場所でお生まれになりました。何の希望もない、慰めもない、まるでそのような所に救い主がお生まれになったということです。それを「喜べ、喜びなさい、あなたは喜ぶでしょう」と聖書は言うのです。

2章8節        さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2章9節        すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2章10節      御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2章11節      今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2章12節      あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2章13節      すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した
2章14節      「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
2章15節      御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
2章16節      そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

救い主誕生の出来事をいち早く目撃したのは、政治権力者でも宗教指導者でもなく、夜番をしていた羊飼いたちでした。最初、夜の闇の中にいた羊飼いたちは、周りを照らす光を見て恐れました。その光の正体は、主の使いによる主の栄光でした。人は闇を恐れるのですが、その闇を圧倒する光も恐れるものなのですね。それが喜びの知らせであっても、自分を変えること、変えられることを恐れてしまう。「恐れるな」。これも神の命令です。神の命令とはどのようなものだったでしょうか。皇帝の勅令のようだったでしょうか。違いますね。「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。そのしるしをあなたがた見るならば、あなたがたは恐れることはないであろう」という、愛とあわれみに満ちた命令です。そしてその知らせは闇を知っている人たちに知らされ、本当に自分の闇を知っている人たちがそれを聞き、みことばに従い、救いをいただいたのです。「しるしを求めよ」と言われる主。どこかの王様のように「私は求めません。主を試みません」(イザ710-12)などと偽物の信仰ではなく、ごまかして今の自分に満足するのではなく、自分の罪や汚れを認め、苦しみ悲しみを認識し、心から神の祝福を求めて、恐れずに、後回しにせずに、今日、掴み取りに行くべきでしょう。他人ではなく、この世の何かでもなく、主のもとに掴み取りに行くのです。羊飼いたちは急いで行きました。近いからいつでも行けるとか、行動を先延ばしにはしませんでした。自分たちの貧しい身なりを気にせずに行きました。そこに神との間を遮るプライドなどはありませんでした。すべて遮るものをかなぐり捨てて、急いで行きました。イエス・キリストはすべて遮るものをかなぐり捨ててこの世に来られたのです。そしてこんな所にと思われる絶望的な所でも、どんな罪や困難や苦しみの中にある者に対しても、どこまでも救い主であられます。これほどまでに私たちに熱心な主は、私たちの熱心を求めておられます。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。「救い主」と聞いて、私たちはすぐにイエス・キリストのことを思いますが、ここで言われている救い主はそうではありません。ここで言われている救い主の意味は、実は「力ある人々、治世者、古代の神々」などを意味する語です。そしてこの語は皇帝アウグストゥスに対する称号でした。しかしクリスマスにダビデの町でお生まれになった方は、あなたがた、羊飼いたち、この世と罪の支配の中で苦しみ、闇の中を生きているものたちのための真の救い主、この方こそ主。「主」とは旧約聖書以来一貫して神ご自身を表すことばで、天地万物の創造主であり、すべての権威を持つお方を指します。そしてキリストである。「キリスト」とはヘブル語の「メシア(油注がれたもの)」です。旧約聖書の時代に神に油注がれたのは誰だったでしょうか。それは預言者、祭司、王でした。イエス様が真の預言者、祭司、王であるということです。イエス様は真の預言者としてこの地上での生涯を生き抜かれ、真の預言者として神のみこころ(愛)とご計画(十字架による救い)を明らかにされました。そして真の祭司としてご自身を十字架でいけにえとしてささげられ、神と和解する救いの道を開かれました。「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザ96)。さらにイエス様は真の王として愛によって神の民を治め、天の御国に至るまで、神の国完成にいたるまで敵であるサタンから杖と鞭をもって守ってくださいます。

2章17節      それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
2章18節      聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
2章19節      しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2章20節      羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

マリアは羊飼いの証言を信じて、心の中に納めました。恐らくマリアは御使いガブリエルのお告げから、これまでに自分の身に起こったことを思い巡らしたのではないでしょうか。また旧約聖書からも神のみことば、約束、御心に静かに思いを留め、自分の人生に一つ一つ重ねるようにして思い巡らせたことと思います。これを私たちはデボーションと言います。この時点でマリアはすべてを理解したわけではないでしょう。しかし、分からないことは詮索せず、また疑わず、今わかる範囲で主をあがめ、神を大いに喜ぶ。このマリアの姿勢を私たちは見習うべきではないでしょうか。

また羊飼いたちもこの後、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったとあります。彼らの実際の生活に劇的な変化はなかったことでしょう。しかし霊的に、心に、魂には劇的な変化がありました。彼らの苦しみ、闇の中に賛美が響くようになったのですから。神が与えてくださったしるしの中に神の愛、顧みを見いだし、このような自分にも、このような所にも救いが与えられた。神との平和を確信し、魂に平安をいただいて、恐れずに安心して真の神を信じて今日からの自分の人生を歩んで行く。目の前の1つ1つに向き合って行くことができる。もうこの世が言う「救い主(助けや救いを期待する相手、この世の支配者、権力者、真の神以外の神々、偶像)」の支配の中に生きるのではない。死を目指して生きて行くのではない。永遠のいのちを生きて行く。インマヌエル(神われらとともにおられる)の真の神、私たちのすべてをご存知で、すべて慰め、労い、報いてくださる神、真の愛によって完全な支えと配慮をもって確実に天の御国へと導かれる主とともに、天の御国を目指して神を褒め称え、喜んで、安心して歩んで行ける人生。これこそが救いではないでしょうか。

「今日ダビデの町で、ベツレヘム・エフラテで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。クリスマスおめでとうございます。改めてこの朝、上よりの声によって御前に招かれ、呼び集められた、神に愛され、神を愛する皆さんおひとりひとりの上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

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