2025年4月13日 主日礼拝「イエスは私のために十字架に向かわれた」

賛  美  新聖歌2「たたえよ救い主イエスを」
      「輝け主の栄光」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇130篇1〜5節
讃  美  讃美歌67「よろずのもの」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌136「血しおしたたる」
聖書朗読  ルカの福音書22章24~38節
説  教  「イエスは私のために十字架に向かわれた」
讃  美  讃美歌138「ああ主は誰がため」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ルカの福音書22章38節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ルカの福音書22章24~38節

説教題

「イエスは私のために十字架に向かわれた」

今週の聖句

彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。

ルカの福音書22章38節

説教「イエスは私のために十字架に向かわれた」

ルカの福音書22章24〜38節

  • 「それで十分」と答えられたイエス様は、どのような思いで十字架に向かわれたと思いますか。
  • 今週の受難週を、どのように過ごしたいですか。

はじめに—「コリント人への手紙」から気づかされること

先週までコリント人への手紙の講解を進めてまいりました。6章までが終わり、7章からは少し段落が変わるのですが、そのタイミングで受難週を迎えました。そこで、今日から受難週に入るというところで気づかされることがあります。それは、コリント人への手紙の時代から今の時代に至るまで、人間の愚かさは何も変わっていないのだということです。

コリント人への手紙は、コリントの教会からパウロのもとに届けられた質問状に答えるものとして書かれた手紙でした。しかしパウロは質問状の質問に答えるよりも先に、まずその質問状を届けに来た人の口から聞いた話し、また、世のあちらこちらから聞こえて来ていたコリントの教会の中の悪い噂(それは噂ではなく本当のことだったのですが)、由々しき事態(放置しておくと重大な悪い結果を引き起こすであろう状況)について1章から先週の6章まで長々と扱ってきました。最初に最も由々しき事態として扱われたのは、教会内の紛争についてでした。そしてその紛争の問題は、6章までの間にあちらこちら顔を出しています。その紛争の原因は何だったのでしょうか。それは「だれが一番偉いか」というものでした。実はこの問題は、イエス様の十字架以前のイエス様の12弟子の間でも起こっていた争いでした。たびたび「だれが一番偉いか」議論が起こり、ひとたび議論が起こるならば、皆熱くなったのです。だれが一番偉いかという競争と、またそのことについての口論が大好きだったのです。その弟子たちの姿は、なんとイエス様の十字架以降のコリント教会の中にもありました。現代の教会の中にもあります。そして「だれが一番偉いか」という競争は、何も教会に限ったものではありません。世のどこにでも当たり前のようにあります。各家庭の中にもありますし、会社や学校、近所付き合いなど社会のどこにでもあります。車が目の前に割り込んできたら、バカヤロー!と叫んでしまう・・・。だれが一番偉いか、どっちが偉いか、そういった争いは人間関係の中では身近にあり、絶えず起こり、その争いは世界を巻き込んでの戦争にまで発展しています。神がはじめに創造された素晴らしい良い世界、神の国。それはこのような「だれが一番偉いか」と争う人間の愚かさ、罪によって破壊されてしまっていると言って良いでしょう。神の国とはほど遠い、いや真逆の現実。そのような現実が世のみならず、神の教会の中にあって良いものだろうか。罪によって破壊されてしまった神の国、喜びに満ちた世界を回復したいと願われる神がおられるのに、現実は争いに満ちた世界。「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザ591-2)。イザヤが預言しているとおり、人間の愚かさ、頑なさ、罪深さというのは、昔も今も何一つ変わっていないのだと思わされます。イエス様はどのような思いでおられるのでしょう。

一番偉い人は誰か

受難週に入る今日、与えられましたみことばはルカの福音書22章24〜38節です。この場面は、いよいよイエス様が十字架に向かわれようとする直前に設けられた過越の食事の席でのことです。

22章24節    また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。

イエス様が十字架に向かわれる覚悟をもって設けられた弟子たちとの最後の食事の席で、ここでも弟子たちの間に「だれが一番偉いのか」議論が起こり、イエス様を前にして皆熱くなっていました。どうしてここでこのような議論が起こり、皆熱くなったのでしょうか。それは過越の食事の席順を巡ってでした。当時、と言いますか今もそうなのかもしれませんが、この席順というのはとても重要な意味を持っていました。だとしても、ご自分を低くされ、世と人々に仕えてこられたイエス様と寝食を共にし、いつもイエス様の仕える姿勢を見て、イエス様に教えられ、イエス様に従ってきた弟子たちにとって、席順を巡ってだれが一番偉いかと口論することは、やはり愚かなことでした。しかしイエス様はたびたび同じ議論を繰り返す愚かな弟子たちをずっと愛してこられました。そして十字架を目前にした今、神の国での幸いな食卓の交わりの前味として設けられたこの席で、だれが一番偉いかとお互いが争っているという、残念ながら相変わらず何も変化を遂げていない弟子たちを、それでもイエス様は「最後まで愛され」ました(ヨハ131)。そして諭されるのです。

22章25節    すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

この世の王たちは、力をもって人々を支配します。力をもって抑え付けようとします。従わせます。自分が一番偉いのだとします。そして「守護者」、つまり自分は神だとか、皇帝だとかと自称し、またそう呼ばれることを好みました。自分を高くし、人々から崇められ、恐れられることを好みました。

22章26節    しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
22章27節    食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

イエス様が言われた「一番偉い」、「一番若い」、「どちらが偉い」。全部比較級です。他者と比較するものです。この世は比較相対の世界です。常に他者と比較して評価する世界です。そしてそこに争いがある世界。しかしイエス様は、そのようなこの世の価値観を否定し、仕えることの偉大さ、仕えることがいかに優れているかを愛する弟子たちに教えられます。

イエス様はこの過越の食事の席で上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭かれました。主であるイエス様が自らを低くし弟子たちに仕えられた、そのお姿を弟子たちに見せられたのです。そして言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1334)と。互いに愛し合うというのは、互いに相手を大切にしなさいということです。「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことです(ピリ23)。「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みる」ことです(ピリ24)。それはイエス様のうちにある思いでもありました。そしてイエス様は実際にそのように生きられた、本当に素晴らしい、偉大なお方です。このお方が私たちの主、私たちが信じて従う主です。

22章28節    あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。

本当に素晴らしい、偉大なお方、イエス様の「様々な試練の時」とは、一体どのような時だったのでしょう。恐らくと言いますか、間違いなくイエス様も「神としてのあり方を捨てて、仕える者の姿をとられた」そのご生涯の中で、宣教・伝道の旅の中で多く試みられたのでしょう。パリサイ人や律法学者たち、自分に敵対し、争いを挑んでくる者を愛する時、その相手を自分よりもすぐれた者と思う時、その相手に仕える時。イエス様も試みられたのでしょう。そこにどうしても起こってくる悩み、苦しみ、悲しみを覚えられたのでしょう。しかし試みられたけれども、イエス様は一切罪は犯されませんでした。罪を犯さなかったというのは、罵られても罵り返さなかった。相手をいつまでも憎み赦さなかった。苦難の故に真の神以外の何かに目と心を移さなかった、などということでしょう。そのイエス様が、弟子たちがそれでもご自分と一緒に踏みとどまってくれた、一緒に耐えてくれたと評価してくださっています。本当にそうでしょうか。

イエス様を信じて従いますと言いながら、時には試みの中、迫害が起こりそうな危険の中、自分にとってイエス様の弟子であることが不都合に感じる時に。自分を捨て、敵を愛する、相手を自分よりもすぐれた者と思う、仕える時に。そこで起こってくる悩み、苦しみ、悲しみ、怒りに負け、罵り返し、剣で向かって来るものに剣をもって立ち向かってしまう、赦されているのに赦せない思い。「イエス、そんな人は知らない」というような態度を取ってしまう弟子たちであったでしょう。イエス様から少し距離を置いてしまう弟子たちであったでしょう。そのような弱い弟子たちのすべてをご存知の上で、「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と認めてくださる。人が自分を捨て、自分を低くするところにある試みに対する弱さをご存知で、ご存知だからこそ試みに負け、罪を犯してしまう弱い弟子たちをあわれみ、認めてくださり、そして信仰を励ましてくださるのです。ご自分を信じ、自分を捨て、敵を愛し、人に仕える者の幸い。ご自分と一緒に踏みとどまり、試みに耐え、自分を捨て、敵を愛し、人に仕えるその先に、この世の栄光、栄誉、平安とはくらべものにならないほどの栄光、栄誉、平安が与えられるのだと、弱く繰り返し罪を犯す弟子たちを、「だれが一番偉いか」と繰り返し争う愚かな弟子たちを最後まで愛され、信仰を励まし、そして食卓を前にして約束してくださるのです。

22章29節    わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。
22章30節    そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。

弟子たちのために祈るイエス

そして実は、愚かで弱い弟子たちのすべてをご存知で、イエス様はずっと祈ってくださっていました。

22章31節    シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

過越の食事の時、席順を巡ってだれが一番偉いか論争に熱くなっていた弟子たちに、イエス様は「サタンがあなたがたの信仰に揺さぶりをかけることが聞き届けられた」と告げられました。この時、サタンの魔の手、試みは、イスカリオテ・ユダのみならずシモンに、そして「あなたがた」全員に伸ばされていました。

ところで昨年のこの時期に、この時の席順についてヨハネの福音書の記述からお分かち合いしたことを覚えておられるでしょうか。それによると、一番良い席、イエス様の右隣にいて、しかもイエス様の胸のところで横になっていたのが一番年の若いヨハネでした。そして「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」と言われたイエス様の言葉を聞いて、シモンはだれのことを言われたのか尋ねるように、ヨハネに目でだったのか顎でだったのか分かりませんが、何か合図しました。その合図を見て気づいたヨハネは、慌ててイエス様の胸元に寄りかかったまま「主よ、それはだれのことですか」と質問しました。つまり、シモンはヨハネの反対側、イエス様から一番遠く離れたところ、入り口に近いところ、仕える者の席につかせられていたということです。その席順を巡って熱い議論が起こっていたのです。幸いな神の国の食卓の交わりの前味としてイエス様が設けられたこの席で、その席順を巡って争いがあったのです。一番年の若いヨハネが一番良い席で、一番年長者でリーダー格のシモンがなぜ末席なのだろうかと。それでは誰が一番偉いのかと。シモンは「いやいや、そんなことはどうでも良い。私はこの席で良い」とでも言ったでしょうか。しかしその心の内は決して穏やかではなかったことでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵をご存知だと思いますが、今さらながらとても奥深い作品だと思わされます。その絵によると、イエス様に近い人ほど動きが少なく、イエス様から離れている人ほど身振り手振りが大きく描かれています。この動きの差によって、弟子たちのざわめく様子、また心の内の穏やかではない様子が表現されているのです。実際そのとおりだったのでしょう。弟子たちは誰が一番偉いのかで試みられ、また仕える者の席に着かせられていたシモンは弟子たちの内の誰よりも試みられていたのでしょう。イエス様に対する信仰が揺さぶられていたのでしょう。実は最も幸いな価値ある席に座らされているシモンであったのに、そのことが分からずに試みられる彼に、イエス様は言われました。

22章32節    しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

シモンは試みられました。他の弟子たちも試みられました。そしてコリントの教会も、また現代の教会も試みられます。イエス様が宣教・伝道を開始された公生涯のはじめ、荒野でイエス様を非常に高い山につれて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」と試みた悪魔は、イエス様に対する試みに失敗し、今度はイエス様の弟子たちに、また教会に対して、現代のイエス様の弟子である私たちに、それはもう執拗なほどまでに挑んでくるのです。長い歴史の中で、それは何も変わっていないことを思わされます。しかし、イエス様もまた変わらずに、弟子たちのために、試みに負けそうになる弱い私たちのために祈ってくださっていた。祈ってくださっている。祈って今も私たちのためにサタンと戦っておられるのです。

イエス様は祈っておられるのです。試みがなくなるようにではなく、信仰がなくならないようにと祈っておられるのです。愚かで頑なで弱い人間の心から、誰が一番偉いか、誰が一番得をするか、対立し、争おうとする姿勢はなくなることはなく、サタンはそこを攻撃し続けるのでしょう。イエス様は人間の愚かさ、頑なさ、弱さをご存知の上であわれんでくださり、信仰がなくならないようにと祈ってくださっているのです。それでも変わらずに愛してくださり、最後まで愛とあわれみをもって、弱い私たちと一緒に祈ってくださるのです。私たちと一緒に踏みとどまろう、一緒に耐えて欲しいと、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と毎日一緒に祈り、毎日一緒に戦ってくださっているのです。その恵みと幸いを、私たちは毎日味わっているでしょうか。

試練の中での信仰、試練をくぐり抜けて立ち直った信仰こそ、練られ、不純物が取り除かれた価値ある信仰です。「立ち直ったら」とは、弱いシモンへの信頼を込めた愛の励ましです。それは私たちにも向けられているのです。

しかしシモンは言うのです。弟子たちの中で率先して言うのです。

22章33節    シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

確かにシモンのこの言葉は、信仰、覚悟、勇ましさ、イエス様への愛にあふれています。しかしシモンは、自分の中にある「俺は他の奴らより強い、俺が一番偉いだろう、偉大だだろう」という隠れた思い、愚かな競争心、そしてサタンの試みの強さや執拗さ、それに対する本当の自分の弱さも認識していません。他の弟子たちも皆「そうだ、そうだ」とシモンに負けじと主張しました。他の弟子たちも皆、シモンと同じでした。そこでイエス様はシモンを弟子たちの代表として取り扱われ、シモンに対して言われました。

22章34節    しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

イエス様は、ペテロの信仰がなくならないように祈ったと言われました。ペテロと同じようにサタンの試みによって信仰がゆさぶられる他の弟子たちを力づけるように勧められました。しかしペテロは、イエス様のことばを受け入れません。自分は他の奴らとは違う。失敗などしない。そのようなペテロに、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と告げられました。

ルカの福音書では、イエス様がシモンのことを「ペテロ」と呼ぶのはここだけです。ペテロは「岩、石」の意味です。33節の岩のような固い決意を述べた故に、こう呼ばれたのでしょう。しかし、人間的な強さとか、情熱とかも、サタンの力の前には無力であることを知らなければなりません。これから数時間後、ペテロは世が明ける前に3度もイエス様を否定するのです。

「わたしを知らないと言います」を直訳すると、「私を知っているということを否定するだろう」です。ペテロはイエス様そのものを否定するのではないのです。イエス様を信じていながらも「知らない」と言ってしまうのです。私たちは何か自分の身に起こる危険を察知すると、イエス様を信じていながらも、人々の前では「知らない」と言ってしまう弱くて愚かな者たちです。イエス様に対する世の評価が高い時は、自分がイエス様を信じ、イエス様の弟子であることを鼻高々に自慢しながらも、イエス様に対する世の評価が低くなるならば、イエス様を信じていながらも「知らない」と言ってしまう。

最後のことば

22章35節    それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。

イエス様は弟子たちを訓練されました。以前70人の弟子を宣教へと遣わされました。その時の彼らには、足りない物は何もありませんでした。すべて順風満帆。満たされていました。それは世の中のイエス様に対する評判が良かったからです。

22章36節    すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。
22章37節    あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」

しかし「今は」、弟子たちの前途には危険と困難が待ち受けているとイエス様は言われます。それは彼らの主イエス様が「罪人たちの中に数えられ」、この世から捨てられるからです。イエス様は預言どおりに罪人たちとともに十字架に架けられ、殺されるからです。すると弟子たちもこの世から憎まれ、迫害されることになる。それは今、現実となっています。過越の食事の最後に、イエス様は弟子たちにこれから降りかかる危険と困難に備えるように教えました。財布も袋も剣も、迫害と旅に備えて、自活するための備えをしなさいという意味です。

22章38節    彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。

弟子たちはまだ十字架のことを理解していません。弟子たちはイエス様の死が神の御心であることが理解できず、迫り来る危機に「剣」をもって戦おうとします。しかもこの剣というのは、過越の小羊をほふる大型のナイフのことで、戦争の道具ではありません。神に罪をゆるしていただくために、小羊をほふるために用いる剣。礼拝で祭司が民の罪の赦しのために動物を切り刻んで殺すという、神と人とに奉仕するための剣をもって敵を殺そうと言うのです。

イエス様は「だれが一番偉いか」論争をしている弟子たちの理解が、ご自分の思いと全くかけ離れていたために、「それで十分」と言ってこの話しを打ち切られました。弟子たちの無理解に対してうんざりして「もういいよ」と言われたのでしょうか・・・。

しかしイエス様は、そのような愚かな弟子たちを愛してこられ、そして最後まで愛されたのです。無理解の者、頑なで自分の考えを曲げられない者、罪から離れられない弱い者のために、「それで十分」と言いながら、それでもイエス様は十字架に向かわれるのです。愚かな弟子たちのために、ただひとり、十字架に向かわれるのです。どのような思いで十字架に向かわれ歩まれたのでしょうか。そしてイエス様は最後まで弟子たちを愛し、十字架の上で祈られるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。この愛に満ち溢れた偉大なお方が、私たちの主なのです。

私にとってイエス・キリストとは

私にとって、イエス・キリストとはどういうお方なのだろうか。

ある先生は一人の青年に言いました。「もしあなたにとってイエス・キリストがただの偉人でしかないのであれば、イエス様はあなたとは何の関係もありませんよ」と。

イエス様はある時、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられたと聖書に記されています。そして今、これから十字架に架けられ、苦しまれ、死なれようとするイエス様は私たちに問われるのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。

かつてこの私は、礼拝に集い始めて間もない頃に、礼拝の中で問われました。「イエス・キリストをあなたの救い主として信じ、受け入れる方は手を上げてください」と。私は何かに促されるようにして手を挙げました。すると不思議な平安が心に満ちて、喜びが溢れ出てくるのを感じました。その日の帰り道が、そして次の日の会社へ向かういつもの曲がり角が、私の目にいつもと違った、光輝いた風景に映りました。スキップしたくなりました。空がいつもより青くて高く見えました。何が自分に起こったのか分からなかったのですが、ただわけもなくひたすら嬉しかったのです。どうして自分はこんなにも喜んでいるのだろうか。そう思った時に、ああ、これが「救い」なのかと分かりました。

「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」。あの時、弟子のペテロは答えました。「あなたは生ける神の子キリストです」。イエス様はペテロにこう答えて言われました。「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」。私も心からこのみことばに「アーメン」と言いたいと思います。

イエス様は、変わらずに愚かな弟子たちを愛してこられ、そして最後まで愛されたのです。無理解の者、頑なで自分の考えを曲げられない者、罪から離れられない弱い者のために、「それで十分」と言いながら、それでもイエス様は十字架に向かわれるのです。愚かな弟子たちのために、ただひとり、十字架に向かわれるのです。どのような思いで十字架に向かわれ歩まれたのでしょうか。そしてイエス様は最後まで弟子たちを愛し、十字架の上で祈られるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。このお方が、私たちの主なのです。

受難週を過ごすにあたり

今日から私たちは受難週を過ごしてまいります。実は今日の聖書箇所は、今日のみことばの光の箇所でした。今日からみことばの光も、イエス様の十字架に向かって行きます。皆さんも、どうぞみことばの光に従ってみことばをたどり、十字架に向かわれるイエス様とともに受難週を歩まれてはどうでしょうか。愛に溢れ、私たちを愛してこられ、そして最後まで私たちを愛される主イエス様は、頑なで無理解な私たちのために、「それで十分」と言われながらも、それでも私たちを見放さず、私たちのためにひとり十字架に向かって歩まれます。そして私たちのために十字架に架けられ死なれます。どのような思いで十字架に向かわれ歩まれたのでしょうか。このお方が、私たちの主であることを、この受難週を過ごして行く中で、主を見上げ、主の御思いに私たちの思いを向け、再確認させていただきましょう。そして受難週を過ごして行く中で、ひとり十字架に向かい歩まれる主、十字架に架けられ、苦しまれ、死なれたイエス様に、私たちは問うていただくのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。そして主と私たちとの関係を認め、はっきりと告白し、救いの喜びを再び味わわせていただきましょう。そこから信仰を励ましていただき、信仰に溢れ、主の約束を信じ、神の国を治めるにふさわしい者に、それはイエス様に倣い、神と人とに仕えて行くという、本当に幸いな者へと整えていただきたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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