2025年8月10日 主日礼拝「神を知る者には愛がある?」
賛 美 新聖歌21「輝く日を仰ぐとき」
新聖歌420「雨を降り注ぎ」
前奏(黙祷)
招 詞 エレミヤ書31章31〜34節
讃 美 讃美歌15「我らのみかみは」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 204「すくいの君なる」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 11章17〜26節
説 教 「神を知る人には愛がある?」
讃 美 讃美歌502「いともかしこし」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 11章26節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 11章17〜26節
説教題
「神を知る人には愛がある?」
今週の聖句
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
コリント人への手紙 第一 11章26節
説教「神を知る人には愛がある?」
コリント人への手紙 第一 11章17〜26節
はじめに——
またまた私の朝の職場の話しになり恐縮です。しかしそこでは教えられることが本当にたくさんあるのです。夏のこの時期、大学生のスポーツの部活動かサークル活動での利用がとても多いです。先週1週間、恐らく大会か合同合宿があったのでしょう、北海道、横浜、新潟の3つの大学の男女バスケットボール部の宿泊が重なりました。おそろいのユニフォームを見ると皆さん医学部の学生のようでした。夏休み限定なのでしょう、色とりどりの髪をしていて、朝食会場はまるでパーティー会場のようになり、一般のお客様が追いやられてしまっているような状況が続きました。さらに彼らは、毎朝氷の争奪戦を始めるのです。クーラーボックス一杯に氷を詰めて持って行くのです。するとどうなるかと言うと、製氷機の氷がなくなってしまい、他の皆が困ってしまうのです。ある人はがっかりし、ある人は私たちスタッフに怒りをぶつけてくるのです。また食事を並べる台を挟んで食事作りをしたりしているのですが、ある朝、そこからこんなシーンが見られました。朝食の時間が終わろうとしている時、本当はいけないのですが、学生たちの中に持ち帰り用の弁当パックに、朝食とは別にお昼に食べる用のおかずやご飯を詰める人が出だすのです。朝食時間は9時までとなっており、今はSDGsが叫ばれている時代ですから、8時45分になったら食べ物の補充はしない決まりになっています。ですから当然、人気のおかずは早い者勝ち。その日は焼きそばがありました。学生たちはワイワイと次から次へと遠慮なく我先に焼きそばをパックに詰めていました。その後ろで外国人の小さな女の子がおかわりをしたかったのでしょう、お皿を持って焼きそばが無くなってしまわないだろうかと心配そうに学生たちの様子をうかがっているのです。幸い、無事に女の子は焼きそばを取ることができたのですが、少し残念に思ってしまう光景でした。美しくありませんでした。明らかに「トーヴ」ではなかった。トーヴと言うのは先週お話ししましたが、色々な意味がありますが、一言で言えば神の御心にかなっているということ。これは素晴らしい、美しい、良いと分かること。そのトーヴではなかった。それで一緒に食事作りをしていた人が言いました。優秀な医学生に対するやっかみ半分ではあったと思いますが、「大学で何を教わっているのだか。勉強だけできてもだめよね。あれで良いお医者さんになれるのかしら」と。そこで自分はどうかと考えてしまいました。もしかしたら同じ場面で彼らと同じ事をしてしまいかねない。もしユニフォームを着ていてそこに「長野聖書教会・教会学校」とか「I am a Christian」とか、まさか「牧師」とか背中にプリントされていたら、同じ事はできないだろうな。証しにならないよな。神の栄光を現すことにはならず、神の御名を汚すことになってしまうよな。もし学生たちと同じように、氷を必要としている他の人を顧みない、小さな女の子を顧みない行動をしてしまって、「教会で何を教わっているのだか。聖書を知っているだけ、礼拝に行っているだけではだめよね。あれで良いクリスチャンになるのかしら。良い教会になるのかしら」などという声が聞こえてきてしまったらどうしましょう。そんなことを考えさせられました。
さて、今日の箇所ですが、先ほど皆さんとともに拝読し、皆さんすでにお察しかと思いますが、ここでは「聖餐式」について教えられているところです。聖餐式について、私たちはすでに知っているところではあります。またコリントの教会の聖徒たちも知っていたことでしょう。しかしパウロは改めて聖餐式について教えるのです。
礼拝プログラムの「方向性」
ところで、礼拝には「方向性」があることを感じておられるでしょうか。確かに礼拝には方向性があります。神から人へ、人から神へという方向性です。私たちの礼拝のプログラムで言えば、まず神から人へ招きのことばが与えられます。そしてその応答として、人から神へ賛美が献げられます。人から神へ罪の告白がなされ、神から人へ赦しの宣言が与えられる。人から神へ信仰が告白され、祈りと賛美が献げられ、神から人へみことばと説教が与えられる。人から神へ感謝の応答を献げ、神から人へ祝福が与えられる。そのように、主への礼拝というのはどちらか一方的なものではなく、双方向であり、真に親密な交わりなのです。今も私たちは主との親密な交わりの真っ只中にいます。主との親密な交わりを通して、私たちは主から祝福をいただき、私たちはますます主に似た者へと造りかえられて行きます。美しく整えられ、主にここから遣わされるそれぞれの所で力あるわざをなし、主の栄光を現すことのできる幸いな者とされるのです。そして神は「全世界に出て行き福音を宣べ伝えよ。証しせよ。見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」とのご命令と約束をもって、ここから一人ひとりをそれぞれの場所へと再び派遣されるのです。
では、聖餐式は神から人、人から神、どちらの方向だと思われますか。実はこの質問は、私が神学生の時の学びの中でなされた質問です。皆さんはどう思われますか。私は当然のように神から人に与えられるものだと思いましたが、実は逆で、聖餐式は人から神に献げられるものなのです。
聖餐式
初代教会においては、聖餐式は皆が持ち寄った食べ物を、今で言うこところの聖餐台(聖餐卓)に全部並べ、感謝をもって主に献げ、それを皆で分け合う形で行われました。また、聖餐式が行われるときは、それとともに愛餐(交わりの食事)が聖餐の前に行われていました。それで今でも愛餐(交わりの食事)には、ただの食事会だけではなく、とても重要な意味があるのだと言われるのです。
持ち寄り献げられた食べ物の中には、用意されたパンもぶどう酒もありました。それを愛餐の中で「はい、では皆さん注目してください」とでも声をかけたのでしょうか、おもむろにパンとぶどう酒を手に取り、主イエスが十字架に渡される夜の厳粛な出来事と、主の命じられたことを覚えて、パンを裂き、そしてパンと杯にあずかったのです。そのように聖餐式と愛餐は、事実上ひとつの儀式と申しますか、式典と見なされていました。愛餐の中で、主の犠牲を繰り返し覚えるという目的に合わせて厳かな雰囲気が演出され、皆の前でパンが裂かれ、イエス様の実際のお言葉が語られ、パンと杯にあずかった。主の犠牲を覚え、主の十字架のみわざを覚え、罪の赦しを覚え、そして心からの感謝、心からの愛を主にお献げしたのです。神から与えられたものに感謝し、そして感謝を神にお返し、お献げしたのです。
返しきれないほどの神への感謝、それは神への愛となるのです。その神への愛は、実際的にどのような形で現されるかというと、兄弟姉妹が互いに愛し合うところに現れます。聖書はこのように言います。
【ヨハネの手紙第一】
4章7節 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4章8節 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4章9節 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4章10節 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4章11節 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです(あなたがたは互いに愛し合うでしょう)。
4章12節 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4章20節 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4章21節 神を愛する者は兄弟も愛すべきです(愛するでしょう)。私たちはこの命令を神(別訳「キリスト」)から受けています。
神を愛する。それは兄弟姉妹が互いに愛し合うところに現れる。この点において、パウロは正直なところ、コリントの聖徒たちの聖餐式(愛餐と聖餐)に対する態度に失望感を感じていました。
コリント教会の聖餐に対するパウロの評価
11章17節 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。
新共同訳では「あなたがたの集まりが、良い結果ではなく、悪い結果を招いているからです」と訳されています。礼拝、そして愛餐、聖餐式が益にはならず、かえって害になっている。良い結果をもたらすのではなく、悪い結果を招いている。
期待される良い結果というのは、各自が食事するための食べ物を持ち寄り、互いに分け合い、そして厳粛にパンと杯にあずかることによって、そこに主によって呼び集められた兄弟姉妹それぞれの兄弟愛が促進され、高められ、深められ、またキリストの犠牲の死を皆で覚えて互いの信仰を励まし合う。あなたがたの愛餐、聖餐式は、そのような益、良い結果を招くものではなく、かえって害、悪い結果を招くものとなっていると、パウロは失望感をあらわにしています。
「私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点でわたしを覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。しかし、あなたがたの愛餐に対する態度はほめるわけにはいかない。そこで私はあなたがたに次のことを命じます」。パウロの直近の命令を見ると、28節に「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」とあります。33節に「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい」とあります。ここにパウロを失望させたコリント教会の愛餐に対する態度の問題点があります。
11章18節 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。
パウロはこの手紙の冒頭でも、教会の中にあった仲間割れ、対立の問題について言及しました。18節にある「分裂」というギリシャ語は、その「仲間割れ、対立」と同じ語です。手紙の冒頭ではパウロ派、アポロ派、ペテロ派、キリスト派といった派閥争いによる仲間割れ、対立、分裂が扱われていましたが、ここでは金持ちと貧しい人との間にある仲間割れ、対立、分裂が扱われています。以前にもお話ししましたが、コリント教会の構成メンバーは、ほんのわずかな富裕層、富裕層を狙う中間層、そして構成メンバーのほとんどを占める貧しい人たち、そしてそのほとんどが奴隷でした。キリストの教会は様々な身分の人たちがキリストの十字架を通して、その身分を越えて同じ兄弟姉妹として神を愛し、互いに愛し合うために集められるところです。ところがそこに身分を越えられない分裂があった。そしてそれは愛餐、聖餐において顕著に現れていました。
聖餐・愛餐の場で発生した問題「分裂」
次の19節は翻訳と解釈が困難なところなのですが、恐らくコリント教会の金持ちグループの言い訳として実際に言われていたことだと思われます。
11章19節 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。
(実際、あなたがたの間で「本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ない」と言われている。)
何とも冷たく、自己中心で高慢で、愛のない言い訳ではないでしょうか。
愛餐、そして聖餐式は、コリントの教会の集まりで世話役のような役割をしていた聖徒が取り仕切っていたようです。私が思うに、それは富裕層を狙う中間層の信徒だったのではないかと思います。その信徒が、気を利かせてなのか、金持ちばかりに気を使ってなのか、金持ちと奴隷など、地位によって分けて食事するようにしていたとも考えられます。もし私たちがその場にいて、彼らのそのような姿を見たなら「教会で何を教わっていたのだか。主のお姿から何を学んだのか」と言いたくなってしまうのではないでしょうか。イエス様は世の貧しい人、弱い人、病人、罪人を招かれ、食事をともにされたではありませんか。彼らにこそ愛を注がれ、救われたのではなかったでしょうか。そのイエス様の愛の御姿に感動し、自らも自らを貧しい者、弱い者、病人、罪人として重ね合わせ、そのような者に注がれる主の愛を魂の飢え渇きをもって慕い求め、そして求める者にはえこひいきされることなく、惜しみなく注がれる主の愛によって救われたのではなかったでしょうか。それなのに彼らの中には貧しい人たち(そのほとんどは奴隷、社会的に、また教会の中で弱い立場の人たち)を蔑み、差別する心があった。自分たちは特別だという高慢があった。私たちは「彼らは主からどのような恵みをいただいたのか。主のどれほどの救いにあずかったのか。字が読めて、聖書のみことばを知っていて、礼拝に行っているだけではだめだ」と言いたくなってしまうのではないでしょうか。
11章20節 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
「そういうわけで」というのは、「それでは、そんなことでは」ということです。「しかし、それでは、そんなことでは、たとえあなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならない」と、パウロは厳しく批判します。パウロにとっても当然、彼らのこの態度は愛餐の精神に反することでした。
聖餐・愛餐の場で発生した問題「無秩序」
さらに加えていくつかの問題もありました。
11章21節 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
コリントの教会は裕福で身分の高いわずかな聖徒たちの家を礼拝の場としていました。そしてわずかな裕福な聖徒(おもに教会の支援者)たちが、おもに聖餐式と愛餐での食べ物と飲み物を用意していたようです。彼らはそれらを主に献げたと言うのなら、その後には自分のものだと言うべきではないはずです。しかし彼らはその食べ物を「自分の食事、自分のための晩餐」だと考え、聖餐式が行われる間、あるいは行われる前の愛餐の時に、それぞれが他の人、特に貧しい人、身分の低い人を顧みず、「我先にと」食べてしまっていました。
先ほども申しましたが、「貧しい人」というのはおもに社会的身分の低い奴隷の人たちのことです。彼らは貧しく、弱く、何も持たない者で、聖餐式、愛餐に何も持ってこられないか、持って来られたとしても粗末な物しか持ってこられませんでした。また奴隷という弱い身分のために、遅く来るしかなかったということもありました。そこにも差別がありました。
裕福な聖徒たちは自分たちが持ち寄った贅沢で栄養たっぷりの美味しい食べ物を「自分の食事、自分のための晩餐」だと考え、我先にと腹一杯食べて、しかも酔っ払い、遅く来るしかなかった貧しく弱い聖徒たちは、ほとんど食べる物もなく、空腹のまま帰って行くという有様。無秩序でまったくトーヴではない(美しくない)愛餐と聖餐式。それに対して聖書は、貧しい聖徒たちを蔑み、彼らの必要を顧みようとせず、腹一杯食べ酔っ払うあなたがたは「愛餐のしみ、傷」だと言って叱責するのです(Ⅱペテ213、ユダ112)。食べ物飲み物を用意した彼らを褒めるどころか、「しみだ、傷だ」と叱るのです。「しみ」と言うギリシャ語は、「道徳上の汚点、欠点」という意味であり、「傷」というのは、「(主、教会の)名声や評判などを汚すもの、(主、教会の)美とか完全を損なうような傷」という意味の語です。彼らの飲み食いは、神の栄光を現すどころではなかった。パウロは実に厳しい注意をし、そして彼らに指導を入れるのです。
11章22節 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
パウロは彼らの主の晩餐、愛餐、聖餐式に対する態度は、決して褒められるものではない。神の教会を軽んじることだと言って叱ります。なぜならば、神の教会を構成する他の聖徒皆に、恥ずかしい思いをさせたからです。「恥ずかしい」というギリシャ語は、「侮辱する、恥をかかせる、失望させる、混乱させる」という意味の語です。教会の中の一部の裕福な人たちがキリストの教会を軽んじ、それはつまりイエス・キリストがなさった栄光のみわざを侮ったということでしょう。そして教会を構成するほとんどが貧しい者たちに恥ずかしい思いをさせた。失望させた。混乱させた。つまり、教会をつまずかせた。
「この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです」(Ⅰコリ811-12)。
コリント教会の愛餐、聖餐式に見られるみっともなく、恥ずべき様子は、本来の主の晩餐の意義と精神を踏みにじる行為でした。そこでパウロは、一部の信徒の心から消え失せてしまっていた真の主の晩餐の順序やそこに込められている精神を教え示し、彼らの反省を促そうとします。パウロはこれを機に、コリントの聖徒に愛餐、聖餐式の正しい教えを与えようとします。
パウロはエルサレム教会から受けた主の晩餐についての伝承を伝えます。それは主イエス・キリストが十字架に渡される夜の厳粛な出来事です。イエス様が弟子たちとの最後の晩餐の時になされたことを、ほぼそのまま踏襲しています。それがそのまま伝えられ、守られて来た。主の晩餐、愛餐、聖餐式はそれほどまでにトーヴであり、秩序があり、本当に美しいものでなければならず、そして私たち救われた者にとって厳粛で重要なものであるということを示し、キリスト者の愛餐(交わりの食事)、聖餐式に対する態度、そのあり方を正します。
実は今日の箇所は、先週の聖餐式に合わせて語る計画でしたが、どこかでズレてしまいました。ですので、来週持たれる愛餐がより素晴らしく恵み深いものとなることを願い、いつもは聖餐式の式文の中で語られる箇所を改めてともに味わいたいと思います。
愛餐、聖餐を通して主の栄光を証しする
11章23節 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11章24節 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11章25節 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
イエス・キリストは実際にこのように言われてから、弟子たちのために、私たちのためにご自分のからだを与え、血を流され、私たちのために死なれました。私たちの罪を赦すために、私たちの神に対する背きの罪が赦され、神と和解させていただくために、イエス・キリストは十字架につけられ、苦しまれ、私たちが受けるべき刑罰、それは永遠の死、肉体の死、霊的な死をその身に負われ死んでくださいました。私たちが善い人間だったからではありません。私たちがまだ罪人であった時に、罪の真っ只中にいて、罪から来る悩み苦しみの真っ只中にいて、まるで希望もなく、まるで死んだように生きていた私たちのために、ご自分のからだを与え、血を流され、死んでくださった。そしてよみがえられ、今も生きておられる。死の先に、確かに永遠のいのちがあることを示してくださっている。ここに主の大きな愛、ご自分のいのちを犠牲にしてまでもの本物の愛があるのです。聖書は証しします。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、これほどまでの愛を学び、そして深く知る者であるならば、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いや、あなたがたは愛し合うであろう。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできないでしょう」(Ⅰヨハ47-12,20)。
ところで、私たちは、私たちのことを片時もお忘れにならないお方を、実に忘れがちな者たちではないでしょうか。それでイエス様は言われるのでしょう。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを『覚えて』、これを行いなさい」。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを『覚えて』、これを行いなさい」、「わたしを覚えなさい」と。
私たちが聖餐式でキリストの十字架の苦難と死を記念するのは、その死によって救われたからです。ですから私たちは覚えるのです。聖餐式を通して、愛餐を通して覚えるのです。愛餐に参加し、聖餐式に参加し、ともに食し、杯を飲むことによって、私たちはそのたびに主を覚え、主が私のような罪人のために十字架にかかられたことを覚えるのです。主の愛を覚えるのです。覚えるというのは、ただ思い起こすとか、記憶するということではありません。忘れた場合の用意をしておきなさい。自分に念押ししなさい。それを思い起こして自分の心を奮い立たせなさい、気を取り直しなさい、そこから再び立ち上がりなさい、復活しなさいというものです。私がどのようにして救われたのか、どのような主の愛を受けたのか、その愛を思い起こし、その愛によって立ち上がり、復活し、神を愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛し、神の栄光を現して行くのです。
11章26節 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
26節はイエス様のおことばではなく、パウロの説明です。私たちは聖餐式、また愛餐のたびに、主の死を覚え、聖餐式、愛餐に込められた真の意義を覚え、主が再びこられる日まで、世の終わりまで、正しく聖餐式を守り続け、美しい愛餐をし続け、その姿をもって素晴らしい神の栄光を現して行くのです。現代の教会では、聖餐に対してキリストを通して与えられた救いを思うことばかりが強調されているように思えますが、しかし聖書には、愛餐や聖餐式には教会と未信者に対する福音の証しという意味があることも記されていることに注目したいと思います。自分の救いを覚えるだけでなく、世の人々に福音を証しするという使命を改めて確認したいと思います。そして心を新たにしてそのことに励んでまいりましょう。私たちの聖餐式、そしてキリスト者の会食、愛餐は、証しでもある。私たちの美しい、秩序ある聖餐式、愛餐の姿をもって主の栄光を現すものでもあるのだということを。もしそこに他人に対する愛や顧みが見られず、自己中心があるならば、世の人々の声が聞こえてきてしまうでしょう。「クリスチャンって何なの? 教会で何を教わっているのだか。礼拝に行っているだけ、聖書のみことばを知っているだけではだめよね」。教会の中でも同じような声が聞こえて来てしまったらどうしましょう。そうではなく、主は素晴らしいという声が聞こえてこなくてはならないのです。いや、きっと聞こえてくるでしょう。
現代の個人主義、自分さえ良ければという傾向は、実に聖餐式の意味とはかけ離れています。だからこそ、自分さえ良ければというのが当たり前の世で絶望し、疲れ切っている人たちは、私たちの中に見る本来の人間のあるべき姿、神の御心にかなった姿、神を愛し、隣人を愛するその姿の中に、主の栄光、主の素晴らしさ、本物の救いを見るのではないでしょうか。そしてその救いを求めて来られることでしょう。教会は主にあって一つであり、救いの確信に満たされて、互いに愛し合い、励まし合う主の共同体です。聖餐式、愛餐を通して今一度そのことを覚え、そして世の人々に主の栄光を現してまいりましょう。一人、また一人と、私たちの愛餐、聖餐の輪に招き入れてまいりましょう。