2025年9月28日 主日礼拝「神が組み合わされたからだ」
賛 美 新聖歌185「来たれ誰も」
新聖歌221「ああ主の瞳」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇40篇1〜3節
讃 美 讃美歌71「つくりぬしよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌196「うるわしきは」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 12章21〜31節
説 教 「キリストのからだなる教会」
讃 美 讃美歌388「みむねのまにまに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 12章12節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 12章21〜31節
説教題
「神が組み合わされたからだ」
今週の聖句
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。。
コリント人への手紙 第一 12章26節
「神が組み合わされたからだ」
コリント人への手紙 第一 12章21〜31節
○「賜物」カリスマ・χάρισμα
○あなたに与えられたどんな賜物であっても、誇ることができる理由はなんでしょうか。
賜物は「カリスマ」——
コリント人への手紙第一の講解説教を進めておりますが、12章に入ってパウロは「賜物」について述べています。12章1節から「賜物、賜物」と何度も書かれていますが、この「賜物」と訳されたギリシャ語は何だと思われるでしょうか。皆さん良くご存知の語だと思います。イエス様が言われた「タラント」でしょうか。「タラント」とはお金の単位で、現代の「タレント」の語源となった語で、少しそれらしいですが違います。イエス様は与えられた賜物がいかに豊かであるかということと、その用い方について、例えばとして実際のお金(1タラント:6000日分の賃金の額)を用いて教えてくださったのです。
正解は、「賜物」と訳されたギリシャ語は「カリスマ(χάρισμα)」です。一昔前に流行ったカリスマ美容師とか、美のカリスマの「カリスマ」です。この「カリスマ」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを抱かれるでしょうか。私などは、どこか神がかっていて、その分野の人たちに崇められていてのようなイメージがあります。そしてこのギリシャ語の「カリスマ(χάρισμα)」の中には、これまた皆さん良くご存知で大好きな語が入っているのですが、お分かりでしょうか。そうです。「カリス(χάρισ)」です。聖書の中では頻繁に「恵み」と訳されています。カリスマ(賜物)というのはこのカリス(恵み)の受け身形です。神から与えられた恵み、それが賜物です。そしてさらに、あまり知られていないと思うのですが、「カリス(χάρισ)恵み」の格を変えますと、「理由」になります。「〜の故に、〜のために、こういうわけで」となります。さらにさらに、恵みと訳す新約聖書の原語であるギリシャ語は古典ギリシャ語と呼ばれるもので、現代のギリシャ語になるとカリスというのは「車輪」となるのだそうです。どうしてそうなったのか詳しい経緯は知りませんが、車輪とは古代の戦車についていた車輪で、それは2重になっており、「重ね重ね」ということだそうです。先ほど私は「さらにさらに」と言いましたが、そのような感覚でしょうか。
まとめますと、賜物(カリスマ)というのは神から与えられた恵み(無償の贈り物)であり、知らず知らずのうちに受けている恩恵であり、その恵みによって与えられた賜物には神の重ね重ねの、いくえにも重ねられた、さらにさらにという理由とか目的があるということです。それが私たち全員にそれぞれに必ず与えられていることを知らなければなりません。私たちは父なる神が造られた神の作品ですから、当然作者である父なる神の意図、素晴らしい親心(御霊)による理由や目的がさらにさらにと何重にも込められているのです。ここはこうしよう、さらにこうしよう、さらにさらにこのためにこうしようと。
それは私たち人間の体の構造を見るとさらに明らかです。私たちの体は人間の想像をはるかに上回る、信じられないほど綿密に計画的に、そして緻密に造られています。一番小さな細胞さえ決して無駄なものはなく、そればかりか重要な役割があるのです。「岐路に立った進化論」というDVDがありますので、是非ご覧いただきたいと思います。パウロは12章で教会をからだに例えて、ちょうどぴったり同じようにとして、各部分(他の聖書箇所では「器官」)とそれぞれに神から与えられている賜物による働きがいかに重要かということを述べています。
ところで、先ほど「タレント」と申しましたが、タレント、芸能人、俳優や歌手などのアーティストの方々は、まさにカリスマ(賜物、恵みの受け身形、神からの無償の贈り物)の代表と言えるのではないでしょうか。「ルッキズム(外見至上主義)はダメ!」という最近の世の風潮ですが、美しい容姿。演技力。人を感動させる歌声や歌詞などの創造性の素晴らしさ。それらはどれもカリスマでしょう。神からの無償の贈り物でしょう。それなのに、全員がそうではありませんが、神から無償で与えられた贈り物、賜物を自らの功績のように誇り高ぶり、神が与えられた理由(人を幸せにするとか?)を無視して、ただ自らを誇って自己アピールばかりする。そして幸運にも成功すると、何か自分が偉くなったような気になり、わがままな態度を取り、周囲を困らせたりしているという話しも良く聞きます。そしてそのようなカリスマを見て、素敵だな、うらやましいなと思いそこを目指す人もいれば、特に迷惑をかけられた人など、憎たらしく思う人もいることでしょう。
パウロが手紙を送ったコリントの教会があるコリントの町(大都市)は、自分を誇ってアピールするという文化が広がっていました。ですからそこに住む人々は、自然とできるだけ際立つ派手な賜物を求めていました。そして素晴らしい賜物を持っている人を尊び、またそのような賜物を持っている人々は自らをますます誇ったのでしょう。そして他人を軽んじていたことでしょう。そのようなことが当たり前の世に存在するコリントの教会ですから、そのような世からの影響が色濃くあったようです。教会が形成されて行くにあたり、コリントの教会では多様な賜物が現れてきました。それぞれが教会を愛し、教会のために奉仕しようと自分が出来ることをして行く中で、自然とそれぞれに違った多様な得意分野が明らかになり、賜物がおもてに現れてきたのです。自分を誇ってアピールするという文化の影響の中で、これまたコリントの聖徒は自然とできるだけ際立つ派手な賜物を求めていました。コリント教会で偏重された異言は、際立つ派手な賜物の代表のようなものだったようです。そのような賜物を持っている人を尊び、またそのような賜物を持っている人は自らを誇っていました。そして、際立つ派手な賜物、表舞台に立てるような賜物に比べたら、あまり重要に見えない賜物を軽んじ、またそのような賜物を持っている人たちを軽んじるところがありました。パウロはそのようなコリントの聖徒たちにからだのたとえを用いて、すべての部分はそれ自体が重要であり、理由や目的があって重要な役割が与えられており、だからこそキリストのからだである教会は形成されて行くのだと説明します。また、兄弟姉妹の賜物に対してどんな態度を取るべきかに対しても語って行きます。
からだのたとえ
12章21節 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12章22節 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
際立つ派手な賜物を持つ人が他を見下して「あなたは教会に不要だ」と言うべきではないこと。それは教会が弱い者を含めて一つにされているということを否定することになる。逆に際立つ派手な賜物を持たない人が、自分のような者はからだに属していないのだと考えるべきではないこと。そのように考えてしまうのは、神が知恵深く備えてくださった各部分、各器官の多様性を否定することだと聖書は教えています。
どんな部分も他の部分に「私にはあなたが必要ではない」とは言えません。前回も触れましたが、頭が食べ物を欲しても、口がなければ食べることができません。またその口が食べ物を食べるのにも、手がなければ口に食べ物を運ぶ事ができないのです。また口は食べること以外にも話すことや息をするという役割があります。手も触る、掴む、持ち上げる、危険な温度を察知するなど複数の役割があります。まさに重ね重ねの理由や、さらにさらにの目的があるのです。ですから、ある1つの部分に対してあなたはいらない、必要ないとするならば、からだ全体を壊すことになります。死に至らせてしまう。人の体とちょうど同じように、一つからだとされている教会のすべての部分には、それぞれの部分との間に互いに足りない点を補って完全にするという目的や理由があるのだと、1つの教会に連なる者は皆そのことに気付き、「あぁ、確かにそうだよね」と理解し認めなければならないのです。そしてそれはカリスマなのです。神から与えられた恵み(無償の贈り物)であり、知らず知らずのうちに受けている恩恵なのです。恵みによって各部分に与えられたそれぞれの賜物、それがどのような賜物であっても、神の重ね重ね、さらにさらにの御心があり、どれも重要で、必要で、神が綿密に配慮され、緻密に組み合わされて造られ支えておられる。それが1つからだなる教会なのだということを、神に選ばれ1つの教会に組み合わされた者(導かれた者)ははっきりと理解し認めなければなりません。自分に対しても、他人に対してもです。
賜物を誇るとは、賜物を与えられた神を誇ることでなければなりません。賜物を蔑むことは、神を蔑むことなので、それはあってはならないのです。神の愛、支えや配慮、目的や理由を拒むこと。それはもう背信の罪でしょう。神に背を向けるという、罪の最も基本的なところを犯すことです。そこには私たちを愛してくださっている神に対する愛や尊敬はありません。
神が組み合わされたからだ
12章23節 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
分かるような分からないようなところですが、原文を直訳するとこうなります。「そして神は、体の中であまり尊ばれていないと思う部分にはもっと多くの名誉を与え、見苦しく見える部分にはもっと多くの礼儀を与えるのです」。
神は教会という1つの体の中で、あまり尊ばれていない(尊敬されるに値しない)と思う部分(賜物)には、もっと多くの名誉を与えられる。それを尊いものとされる。そして、見苦しく見える部分(「見苦しく見える」のギリシャ語の持つ意味は、上流社会に受け入れられてもらえないようなみすぼらしい部分、馬鹿にされ蔑まれている)には、もっと多くの礼儀を与えられる。それを敬い、敬う気持ちを形にされる。なんと神がそれに敬意を表し膝をおられる姿がここに見られるのです。神が際立つ派手さもなければ、人からみすぼらしくみられる小さな賜物に、礼儀を尽くされるのです。またご自分と同じように礼儀を尽くすように求められるのです。「愛は礼儀に反することをせず」というみことばがあります。
コリントの教会では際立つ派手な賜物(特に異言)を持つ者が自らを誇り、また周囲からももてはやされていました。彼らばかりが礼儀正しく接せられていました。反対に、際立つ派手な賜物を持たない者は皆から尊ばれず、自分で自分を尊ばず、礼儀に反する態度で接せられていました。それで主にある喜びに満ちた信仰生活であるはずなのに、元気なく、喜びのない信仰生活を送っている人たちがいたのです。「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです」(1130)と聖書は言っています。
そして神はむしろ弱いところ、見栄えのしないところこそが必要な部分であり、尊ばれるべき部分であると言われます。また、周囲から尊ばれず、礼儀に反することをされ、傷つき元気をなくしている部分をこそ尊んでくださり、かばってくださいます。良い医者でもあられるイエス様はそのようなお方だったでしょう。ですから、もし自分には目立つ際だった賜物がないとがっかりし、元気をなくしている人がおられるならば、そのような自分こそ主の目が注がれており、教会にとってなくてはならない存在とされていることを覚えなければなりません。神の重ね重ねの理由は隠されていて分からないかもしれませんが、神がそう言われるのですから自信を持って良いのです。自信をもって、持てる賜物を喜んで主と教会に献げるなら、主が想像をはるかに超えて用いてくださいます。主から無償でいただいた賜物は放っておかず用いるものです。イエス様がタラントのたとえをもって教えてくださったとおりです。からだのすべての部分、教会の全員が喜んで、元気を出して、生き生きと賜物を用いるならば、教会は建て上げられて行くのです。終わりの時代の世に神の栄光があらわされ、ここに神の国があらわれるのです。
神が組み合わされたからだ
12章24節 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
ここを直訳するとこうなります。「私たちの見栄えのよい部分は、その必要はありません。しかし神は、欠けている部分に栄誉を与え、体を豊かにしてくださったのです」。新共同訳ではこのように訳されています。「しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました」。
見栄えの良い部分、人々から称賛されるような素晴らしい賜物は、もう十分素晴らしいし、神もその素晴らしさを認めておられるところです。神が認めてくださっておられるのですから、もうそれ以上にもてはやされる必要はないのです。必要以上にもてはやされると、どこかの芸能人のように勘違いをし、誇り高ぶり、罪を犯してしまうことになりかねません。周囲の人たちは愛をもってそれを防いであげなければならないのです。
また神は、体の中でより弱く、あまり尊ばれず、見栄えが劣っている部分をことさらに尊ぶように命じられます。その理由は、神が体を「組み合わせられた」からです。重ね重ねの理由や目的があって、すべての部分を神が組み合わされ、一つの体、教会としてくださっているからです。
「組み合わせられた」、このギリシャ語には「構成する、混ぜ合わせる、団結させる、和らげる」という意味があります。神は一人ひとりを自由に選ばれ、混ぜ合わせ、団結させ、一つの体、教会とされているのです。そして「和らげる」という意味に注目したいのです。混ぜ合わせられ、団結され、一つの体、教会とされている私たちは、苦難を分け合って痛みを和らげるためにも召されているのです。一人ひとりにその役割も与えられているのです。逆に喜びを分け合うなら、その喜びは倍増するのです。
12章26節 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
体の一つの部分が肉体的・精神的に苦しみ、苦痛を感じ、不快な経験をするばらば、すべての部分がともに苦しむことになるのです。体の細胞の一つが病原菌に冒されたらどうなるでしょうか。その細胞一つのために体全体が悩み、そこに力を集中し、治癒されるために体全体が作動するのです。
逆に、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。随分前の修養会で、講師の先生が語られたことを思い出します。「奏楽者のピアノが上手だと褒められたら、みんな自分が褒められたと思って大喜びするのです」と。からだ全体、教会全体が幸福に包まれ、喜びを感じる。素晴らしい教会ですね。
理想的な関係は、一つの部分の苦難がすべての部分の苦難となり、一つの部分の栄光がすべての部分の喜びとなること。苦楽を共にすること。苦楽を共にするというのは、愛による深い関係性を表現する言葉です。苦楽を共にする、愛による深い関係性によって教会が構築されていく。それが神が教会に求められていることなのです。私たちも今一度、今年度の教会聖句を覚えたいところです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ロマ1215)。
神の多様な働き
27節でパウロは、教会がキリストの体であることを再確認します。そして最後にもう一度、体のたとえの各部分の一致と多様性を、コリントの教会と聖徒に適用します。その後で、パウロは28節で多様性を現す務めや賜物をあげています。しかし前回の8〜11節と同様、これらが奉仕や賜物のすべてではありません。神は教会の中に実に多様な務めとそのための賜物を与えておられます。神が与えておられるのです。神に与えられているのです。
さて、私たちはお互いの賜物や奉仕に対して関心を持っておられるでしょうか。愛があるでしょうか。特に人目につかない、隠れた地味な奉仕に対してどうでしょうか。会堂の掃除がされているのは当たり前だと思われますか。庭の草がきれいに刈られているのはどうでしょうか。夏の暑い時期に、毎日植物に水を与えてくださる方に感謝し、労をねぎらったことはありますか。もしそれらに無関心であるならば、私たちの教会には愛がないということになります。それぞれのご家庭ではどうでしょう。毎日洗濯がされて畳まれている。掃除されている。当たり前のように食事が出て来る。力仕事がされている。この賜物や奉仕に対して愛はありますか。
はるかにまさる道
12章31節 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
パウロは多様性と一致を教えた後に、より優れた賜物を熱心に求めるように教えます。「熱心に求める」とは、「熱烈にねたむ」という意味があります。切望するのです。偉くなること、尊ばれることを熱烈にねたむほどに求めなさいということではありません。別のもっと優れた、際だって目立つ賜物をねたむほどに欲しがりなさいということでもありません。すでに神の重ね重ねの理由や目的によって与えられている恵み、カリスマ、現状の賜物に感謝しつつ、その賜物でさらに何ができるか、神の御心を求め、愛をもって神のために、教会のために何ができるかを求めるということです。より優れた賜物とは、愛によって相手の徳を高める賜物のこと。自分の誇りではなく、皆の益となるという面から見ての賜物のことです。
しかし、どんなに優れた賜物よりも、大切なものがあります。それはこれまでのお話しの中でたびたび顔を出してきていた「愛」です。しかし、パウロが進めるより優れた賜物は、愛を指しているのではありません。愛そのものは御霊の賜物ではなく、私たちに与えられている様々な賜物をより優れたものにしてくれるものです。愛なしには、優れた賜物が何か分かりません。また愛なしには、どんな賜物も無益なのです。そこでパウロは「さらにまさる道を示しましょう」と言って、13章の愛の賛歌へと進んで行くのです。
御霊によって与えられた賜物・カリスマを、一人ひとりが愛をもって用いることで教会が強められて行きます。しかし、その賜物も、自分の信念や理想のためにもの凄い熱量をもって用いるということは、一見良いことのように見えますが、その方向性を間違ってしまうと人を苦しめることになってしまいます。たとえそれがどんなに良いものだとしても、それで人は救われないのだと、パウロは13章からのところで語って行きます。
私たち神の愛によって与えられている賜物を用い、愛によってそれぞれの使命を求め、果たしてまいりましょう。そうして教会を建て上げてまいりましょう。愛と平和な一致、幸福や喜びによって教会を建て上げるところに、神の美しさ、御心があり、そこに神の栄光があらわされて行くのです。栄光とは何でしょうか。非常に重いものです。世の人々がそれを見て、思わず膝が折られてひれ伏してしまうほどのものです。思わず神の御名をほめたたえてしまうものです。そして罪人を救うものです。神は一人ひとりが喜んで教会のため、お互いのために賜物用いるところに、愛による平和と一致を与え、神の栄光をあらわしてくださいます。私たちに与えられているどんな賜物にも、神の重ね重ねの理由、目的があることを信じ、平安と喜びをもって用いてまいりましょう。

