2026年9月13日 主日礼拝「迷いでる私たち、帰る道を備える神」
賛 美 新聖歌21「輝く日を仰ぐとき」
新聖歌349「移りゆく時の間も」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇4篇3節
讃 美 讃美歌66「聖なる、聖なる」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇19篇(新聖歌 交読文5)
讃 美 讃美歌18「聖なる御神は」
「主は御座におられる」
聖書朗読 民数記15章22〜31節
説 教 「迷いでる私たち、帰る道を備える神」
応答賛美 讃美歌324「主イエスは救いを」
献 金 「あなただけが我らの神」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書14章6節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記15章22〜31節
説教題
「迷いでる私たち、帰る道を備える神」
今週の聖句
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ヨハネの福音書14章6節
説教「迷いでる私たち、帰る道を備える神」
民数記15章22〜31節
はじめに
先週、私たちは民数記15章の前半から、「荒野の向こうを語られる神」という題で御言葉を聞きました。
14章でイスラエルの民は、大きな失敗をしました。主が「上って行きなさい」と言われた時には、恐れて行かなかった。ところが、主が「今は上って行ってはならない」と言われると、今度は自分たちの判断で上って行ってしまった。
主の御言葉ではなく、自分たちの思いで動き、そして敗れたのです。
その結果、20歳以上の数えられた世代は、ヨシュアとカレブを除いて、約束の地に入ることができないと告げられました。これは変わらない現実です。彼らは、約束の地に入ることはできません。けれども先週、私たちはそこで終わらない、終わらせない主を見ました。
15章に入ると主は、そのような民に、「あなたがたが、わたしがあなたがたに与えて住まわせる地に入り……」と語られました。第一世代の多くは、その地に入ることができない。それでも主は、彼らに約束の地での礼拝について語られたのです。
なぜでしょう。
彼らの残された人生は、無駄ではありません。自分自身は約束の地に入れなくても、次の世代に希望を語ることができます。「私たちは失敗した。しかし、主の約束は失敗しない。だからあなたがたは、主の御声を聞いて歩みなさい。」と伝えることができるのです。
信仰を次の世代へ手渡すという、大切な務めがまだ残されています。失敗した後の人生も、主は無駄にはなさらない。そこにも、主に従う道があります。そこにも、次の世代へ希望を渡す使命があります。
そして荒野を旅する私たちにも、イエス・キリストにある確かな約束があります。キリストの復活にあずかり、救いが完成し、神の国に入るという、決して失敗しない神の約束です。
そして今日の22節から、主はさらに語られます。けれども、その内容を読むと、少し驚かされます。
15章22節 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、
15章23節 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、
主は、いわばこう言われるのです。「あなたがたは、これからも迷い出ることがある。」
こんなに大きな失敗をしたのだから、もう二度と失敗しないだろう。約束の地に入ったら、今度こそ完全に主に従うだろう。神は、そうは考えておられないのです。
私たち人間の弱さを、主は知っておられます。何度御言葉を聞いても。何度恵みをいただいても。何度、「今度こそ」と決心しても。私たちは、なお迷い出ることがある。主は、そのことをご存じなのです。
「迷い出る」
この22節の「迷い出て」というヘブル語は、とても印象的です。羊が羊飼いから迷い出てしまう。そのような姿を思い浮かべることのできる言葉です。
羊が迷う時、最初から、「羊飼いに逆らってやろう。」と思って群れから飛び出して行くわけではありません。目の前に草がある。そこへ行く。もう少し向こうにも草がある。またそこへ行く。さらに向こうにも、おいしそうな草が見える。そこへ行く。そうして少しずつ、少しずつ羊飼いから離れていって、ふと気がつくと、帰る道が分からなくなっている。「迷い出て」という言葉は、そのような言葉です。
私たちの信仰生活にも、同じことがあるのではないでしょうか。最初から「神様に逆らおう」「御言葉など聞くものか」と決めたわけではない。目の前に良さそうなものがあり、「悪いことではない」「みんなもそうしている」「この方が人のため、教会のためになる」と一歩進む。また次の一歩を進む。一つ一つは大きな反逆には見えず、むしろ正しいことのように思える。けれども気づけば、羊飼いの御声が遠くなり、御言葉から離れ、主の御心とは違うところに立っていた。そこで初めて、「ああ、私は迷い出ていたのだ」と気づかされる。そういうことが、私たちにはあるのです。
ですから今日の箇所は、そのような罪について、24節では「気づかずになされたのなら。」と、また27節では「気づかずに罪に陥ってしまったのなら。」と語っています。
罪はいつも、「今から神に背きます」と意識して始まるとは限りません。少しずつずれ、離れていく。その時には気づかず、むしろ正しいと思っていることさえある。けれども後になって、御言葉の光と聖霊の導きによって、「これは主の御心から外れていた」と気づかされる。聖書は、そのようなことが個人にも、神の民の共同体にも起こり得ると語っているのです。
気づかなかったなら、罪ではないのか
では、気づかずになされたことなら、それほど大きな問題ではないのでしょうか。「悪気はありませんでした。」「そんなつもりではありませんでした。」「良かれと思ってしたのです。」私たちは、そう言うことがあります。
それがもし、人と人との間であれば、「悪気がなかったのなら仕方がないね。」と言ってもらえることもあるでしょう。しかし今日の御言葉では、気づかずに犯した罪にも、「贖い」が必要だと言われています。
ここで言う「贖い」は、少し難しい言葉です。簡単に言えば、罪によって壊れた神との関係が、神ご自身の定めた犠牲によって回復され、再び神の御前に受け入れられるようにされることです。
それで罪を「なかったことにしてしまう」のではありません。罪をきちんと罪として扱い、その罪が解決されて、神との交わりが回復される。それが、ここで言われる贖いです。
では、なぜそこまで必要なのでしょうか。それは、神が聖なるお方だからです。
この民数記を読み始めた頃、1章の最後でレビ人について学びました。イスラエルの宿営の真ん中には幕屋がありました。そこに主が臨在しておられました。そして幕屋の周囲に、レビ人たちが宿営していました。
なぜだったでしょうか。
誰でも、自分の好きなように神の御前へ近づくことができたわけではなかったからです。主は、資格なく(ふさわしくないままで)そこへ近づく者は死ななければならないと言われました。そしてレビ人たちは、主の御怒りがイスラエルの会衆の上に臨まないように、幕屋と民との間に置かれました。これは、とても厳しい御言葉です。
しかし、神が意地悪だからではありません。神は聖なるお方だからです。罪も汚れも一切ない。完全に正しく、完全にきよいお方。罪と妥協することのできないお方です。ですから、本来、罪ある人間がそのまま神に近づくなら、その聖さの前に立つことはできないのです。
けれども民数記1章で本当に驚くべきことは、それほど聖なる神が、なお罪深い民のただ中に住もうとなさったことです。「罪深いから遠く離れていよう」とは言われず、宿営の真ん中に幕屋を置かれた。聖なる神が、愛と恵みをもって罪人との交わりを願ってくださったのです。
しかし、そのためには罪が解決されなければなりません。神がご自身の聖さを少し弱められたのではありません。「今回は見なかったことにしよう。」と罪を曖昧になさったのでもありません。罪は罪として、完全に解決されなければならない。だから贖いが必要なのです。
贖いがあるから罪は軽いのではありません。反対です。罪が深刻だから、贖いが必要なのです。「悪気はなかった」「みんなやっている」「これくらいは仕方がない」と、そのままにすることはできません。
それでも「赦される」
しかし、その聖なる神が、25節で言われます。「彼らは赦される。」26節にも、「赦される。」そして28節にも、「その人は赦される。」とあります。
この「赦される」という言葉を、私たちは急いで通り過ぎてはいけないと思います。
神は聖なるお方で、罪は深刻です。その神が「赦される」「あなたは生きなさい」と言われるのです。
これは、「罪なんて大したことではありません。」という意味ではありません。罪が本当に重大だからこそ、神ご自身が赦されるための道を備えてくださった。ということです。
考えてみたいのです。そこに、どれほどの愛があるのでしょうか。どれほどのあわれみがあるのでしょうか。どれほどの犠牲があるのでしょうか。
聖なる神が、罪人を切り捨ててしまわれなかった。「あなたがたは迷い出る。」その弱さまでご存じでありながら、それでも、「帰って来る道を、わたしが備える。」と言ってくださった。何という愛でしょうか。何というあわれみでしょうか。
私たちは、自分自身の失敗を見て驚くことがあります。「またやってしまった。」「もう少し成長したと思っていたのに。」「どうしてまた同じところで失敗してしまうのだろう。」自分自身に失望することがあります。
けれども神は驚かれません。私たち以上に私たちの弱さをご存じです。それでも愛し、ご自分の民とし、交わりの中に置こうとして、贖いの道を備えてくださる。ここに深い慰めがあります。
しかし今日の御言葉は、ここで終わりません。ここから、私たちの心を刺すような警告が語られます。
「しかし、高い手で」
15章30節 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。
ここまで、「気づかずに罪に陥ってしまっても、贖いがある。」「赦される。」と語られてきました。ところが30節では、全く違う姿が語られます。
新改訳で「故意に違反する」と訳されているところは、直訳すると「高い手で」罪を犯すという表現です。神に向かって拳を振り上げるような姿です。これは単に、「悪いと分かっていたのに、誘惑に負けてしてしまった」という意味ではありません。それだけなら、私たちは誰一人立つことができないでしょう。私たちは、言ってはいけないと分かっていて言い、赦さなければと分かっていて赦せないことがあるからです。
ですから、30節が語っているのは、ただ「分かっていて罪を犯した」ということ以上のものです。
主がどのようなお方かを知っている。主の御言葉も聞いている。それでも、「主が何と言われようと、私はこうする。」と、御言葉そのものを退ける。それが「高い手で」罪を犯すということです。
31節が、その本質をはっきりと言っています。
15章31節 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」
「主のことばを侮り」。ここで今朝、私たちは問われます。「あなたは、神の御言葉をどのように扱っていますか。」
「神は愛なり」と「神は愛だから」
私たちは、神が愛なるお方であることを知っています。
「神は愛です。」何と素晴らしい御言葉でしょうか。私たちは、その愛によって今日まで生かされてきました。ですから、「神は愛なり。」と喜んで告白します。
けれども、ここに非常に微妙な誘惑があります。
「神は愛なり。」と褒め称えながら、いつの間にか、「神は愛だから。」となってしまう。
「神は愛だから、このくらい大丈夫。」「神は愛だから、また赦してくださる。」「神様はそんなに厳しいことを言われないだろう。」
「神は愛なり。」という信仰告白が、「神は愛だから。」という、自分への言い訳に変わってしまう。
これは、私自身も問われるところです。神の恵みを信じているつもりで、その恵みに甘えてはいないだろうか。神の赦しを喜んでいるつもりで、「どうせ赦してくださる。」と、罪を軽く扱ってはいないだろうか。
それは本当に、神の愛を信じていることなのでしょうか。
イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを愛しているなら、わたしの戒めを守るはずです。」と。愛と従順は、反対ではありません。「愛の神だから、従わなくてもよい。」のではない。愛してくださっているからこそ、その方のことばを大切にするのです。
ですから、もう一度問いたいと思います。「あなたは、神の御言葉をどのように扱っていますか。」
もしかすると、御言葉を知らないこと以上に恐ろしいのは、御言葉を知りながら、「でも。」と言うことかもしれません。その「でも」の後ろに、私たちは何を置いているでしょう。自分の感情でしょうか。自分の経験でしょうか。自分の正しさでしょうか。世の中の常識でしょうか。それらを、御言葉よりも上に置いてはいないでしょうか。
「主が何と言われるか。」ではなく、「私はどう思うか。」で決める。そこまで行くと、問題は一つの罪だけではありません。「神の御言葉を、どの位置に置いているのか。」という問題なのです。
恵みに慣れてしまう
私が教会に来たばかりの頃は、一つ一つのことが新鮮でした。聖書を開くことも。御言葉を聞くことも。祈ることも。賛美することも。「神様が私を愛してくださっている。」と聞くことも、新鮮でした。一つ一つに感動しました。
けれども、信仰生活が長くなると、いつの間にか慣れてしまうことがあります。聖書に慣れる。礼拝に慣れる。祈りに慣れる。「神様はあなたを愛しておられる。」という言葉にも慣れる。
考えてみれば、私たちは何度罪を犯し、何度「主よ、赦してください」と祈り、何度赦され、起こしていただいたでしょう。その恵みがあったから、今の私たちがあります。神の忍耐、あわれみ、犠牲、赦し。その積み重ねの中で今日まで生かされてきたのです。
だからこそ問われます。その恵みに慣れ、赦されることも今生きていることも当たり前にしてはいないか。聖なるものを当たり前に扱い、「神は愛だから」と神を侮ってはいないでしょうか。
これは私たち大人にも起こります。そして、幼い頃から教会で育った方々には、また別の形で、この危険があるのかもしれません。物心ついた頃から、「神様はあなたを愛しておられる。」と聞いてきた。日曜日には教会へ行く。聖書のお話も知っている。祈りも知っている。クリスマスもイースターも知っている。それは、本当に大きな祝福です。私などから言わせると、幼い頃から福音を聞くことができる。これほど大きな恵みはありません。
けれども、大きな恵みだからこそ、その恵みが当たり前になってしまう危険もあります。「神様は愛してくださる。」「神様は赦してくださる。」それがいつしか、「どうせ神様は赦してくださる。」になってしまうことがある。
もちろん、若い人だけの問題ではありません。まず私たち大人が、「聖書は神のことばです」と語りながら、本当に従っているかを問われます。子どもたちは、私たちが御言葉を実際にどう扱っているかを見ています。世代を問わず、「私は恵みに慣れていないだろうか」と問いましょう。
主よ、私が迷い出ているところを示してください
ここで、誰かのことを考えるのをやめたいと思います。「あの人が聞けばよい。」「あの人こそ御言葉を軽く扱っている。」そうではありません。私自身はどうでしょうか。
私も、言ってはいけないと思いながら、悪い言葉を口にしてしまうことがあります。後で、「あんなことを言わなければよかった。」と思う。それなのに、また同じようなことを言ってしまう。
そして、もっと恐ろしいのは、繰り返しているうちに、自分を正当化し始めることです。「あの人にも問題があるから。」「事実を言っているだけだから。」「みんなも同じように思っているから。」最初は心が痛んでいたのに、だんだん痛まなくなる。御言葉に、「それはいけない。」と示されても、「でも。」と言うようになる。
迷い出ること自体も恐ろしいことです。しかし、さらに恐ろしいのは、迷い出ていることを主から示されても、帰ろうとしなくなることです。
だから祈りましょう。「主よ、私が迷い出ているところを示してください。御言葉の光を当ててください。」自分にも見えないところ、見ないようにしているところ、隠している思い、正しいと思い込んでいるところ、慣れて何も感じなくなっているところまで照らしてください。
そして示されたなら、御言葉と議論しない。言い訳をしない。「でも。」と言わない。「主よ、あなたが正しいです。」と認める。それが悔い改めなのです。
教会も迷い出る
そして今日の箇所には、もう一つ大切なことがあります。
22節から26節までは、会衆全体について語られています。27節から29節は、一人の人についてです。個人が迷い出ることもある。そして、共同体全体が迷い出ることもある。教会も迷うことがあるのです。
私たちの教会が属している日本同盟基督教団の信仰告白には、教会について、このような告白があります。「羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである。」今回、この言葉がとても心に留まりました。
今日の22節には、羊が羊飼いから「迷い出る」姿があります。では、迷い出ない教会とは何か。それは、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う教会です。「みんなが言うから」「昔からそうだから」「世の中では普通だから」ではなく、「羊飼いなる主は何と言っておられるのか」と耳を澄まし、今生きて語られる主の御声に従う。それが教会なのです。
そして信仰告白は続けて、「教会は聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える」と告白します。主の御声に聴き従うことと、福音を携えて出て行くことは一つです。主は私たちに「行きなさい」と言われます。
この礼拝を終えたら、私たちは出て行く
今週の土曜日には、この教会でゴスペルコンサートが行われます。そしてこの礼拝を終えた後、私たちは近隣の皆さんのところへチラシを配りに出て行く予定です。
何のためでしょう。多くの方に来ていただき、教会を身近に感じていただきたい。初めての方に届く方法を考えること自体は、世に調子を合わせることではありません。方法は変えてよい。しかし、目的まで変えてはならない。
目的は、一人でも多くの方にイエス・キリストを知っていただき、福音に触れていただくことです。主が愛しておられる一人の方が、羊飼いなる主の御声を聞くきっかけとなってほしいのです。
ですから礼拝が終わったら、ただイベントを宣伝するのではなく、一枚のチラシの向こうに主が愛しておられる一人の人を見て、その方に福音が届くよう祈りながら届けましょう。羊飼いなる主の御声に従って出て行くのです。
迷い出たなら、帰ればよい
今日の30、31節を聞いて、「同じ罪を何度も犯す私は、神に拳を振り上げているのだろうか。もう赦されないのだろうか」と不安になる方もいるかもしれません。
そうではありません。少なくとも、この30節、31節を、そのように読んではならないと思います。
罪を犯して「主よ、またやってしまいました。このままではいけない。帰りたい」と心を痛める人に、「もう帰る道はない」と言っているのではありません。
「高い手で」罪を犯すとは、「主が何と言われようと、私は関係ない。」と、御言葉そのものを退けることです。だから今、「自分は迷い出ていたのではないか。」と心を刺されているなら。「御言葉を軽く扱っていたのではないか。」と悲しんでいるなら。その痛みを、絶望へ持って行かないでください。帰りましょう。
「わたしが道です」
では、どうやって帰るのでしょう。
迷い出た羊に、「自分で帰り道を探して来なさい。」と神は言われるのでしょうか。そうではありません。イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
神は帰る道を教えただけではありません。御子ご自身が、私たちの帰る道となってくださいました。罪あるままでは近づけないほど聖なる神なのに、その神が帰る道を備えてくださったのです。
しかし、その神が、「遠くへ行ってしまえ。」とは言われなかった。ご自身のもとへ帰る道を備えてくださった。そしてイエス様は、「わたしが道です。」と言ってくださったのです。
だから、逃げなくてよい。隠れなくてよい。自分を正当化しなくてよい。「でも。」と言わなくてよい。ただ、「主よ、私は迷っていました。」と帰ればよいのです。帰る道は、もう備えられています。
迷いを示し、帰る道を示し、もう一度遣わされる主
今朝の御言葉から、最後に三つのことを覚えたいと思います。
第一に、主は、私たちの迷いを示してくださいます。「主よ、私が迷い出ているところを示してください。」と祈りましょう。御言葉の光で、心の奥深くまで照らしていただきましょう。
第二に、主は、帰る道を示してくださいます。いいえ、帰る道そのものを与えてくださいました。イエス様が、「わたしが道です。」と言ってくださいます。だから、迷いに気づいたなら、その道を通ってまっすぐ帰ればよいのです。
第三に、主は帰って来た私たちを、その愛のゆえに、両腕を力一杯広げて迎え入れてくださいます。そしてもう一度遣わしてくださいます。失敗したイスラエルにも、御言葉を聞き、次の世代へ信仰と主の真実を渡す歩みが残されていました。私たちにも、今、主に従う道があります。
この礼拝を終えたら、私たちは出て行きます。そして明日からも、それぞれの家庭へ、職場へ、学校へ、地域へ遣わされて行きます。羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れとして。主の御言葉を愛して。主の御言葉を慕い求めて。そして、その御言葉に喜んで従って歩みたいのです。
この後、私たちは応答の賛美として、「主イエスは救いを」を歌います。そこに、「いよいよわが主を、愛せしめたまえ。」という祈りがあります。本当に、これが今朝の私たちの祈りではないでしょうか。
私たちは何度も迷い、背き、それでも何度も赦していただきました。だから「どうせ赦される」ではなく、「これほど愛してくださった主を、もっと愛したい」と願いたいのです。
主を愛したい。主の御声を愛したい。主の御言葉を慕い求めたい。そして、その御言葉に従って歩みたい。
迷い出る私たちです。しかし、帰る道を備えてくださる神がおられます。その主を見上げて、羊飼いなる主の御声に聴き従い、主をますます愛し、御言葉をますます愛し、そして喜んで従う者として、今週も歩んでまいりましょう。
【祈り】
天の父なる神様。
今朝も、あなたの御言葉をありがとうございます。
私たちは、自分では正しい道を歩いているつもりで、いつの間にかあなたの御心から迷い出てしまう者です。
主よ、どうか私たちを探ってください。心の奥深くに御言葉の光を当て、私たち自身にも見えていないところ、見ようとしていないところを示してください。
あなたは聖なるお方です。それなのに、何度も迷い、背いてきた私たちを見捨てず、あわれみ、帰る道を備えてくださったことを感謝いたします。
御言葉を軽く扱い、「でも私は」と、自分の思いをあなたより上に置いてきたことを赦してください。
そして、迷い出ていることに気づかされた時には、素直にあなたのもとへ帰らせてください。「わたしが道です」と言ってくださるイエス様に信頼させてください。
主よ、いよいよあなたを愛する者としてください。あなたの御声を愛し、御言葉を慕い求め、喜んで従う者としてください。
そして私たちの教会を、羊飼いなる主の御声に聴き従い、福音を携えて出て行く群れとしてください。
私たちの主、救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

