2026年10月8日 木曜日祈祷会「昨日の礼拝が、今日の私たちを支える」
聖書箇所
歴代誌第二 32章1〜19節
昨日の礼拝が、今日の私たちを支える
はじめに ―
昨日、私たちは歴代誌第二31章を学びました。
ヒゼキヤ王のもとで、神殿がきよめられ、過越の祭りが祝われ、人々は主を礼拝する喜びを取り戻しました。
しかし、それは一時的な感動や興奮で終わりませんでした。
31章では、祭司やレビ人の奉仕が整えられ、ささげ物が集められ、それぞれが自分に与えられた務めを忠実に果たしていく姿が記されていました。
礼拝の喜びが、日々の生活を変えていったのです。
そして31章21節では、ヒゼキヤ王について、このように記されています。
彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め、心を尽くして行い、これを成し遂げた。
歴代誌 第二 31章21節
素晴らしいことです。
主を礼拝する熱心さだけではありません。日々の地道な務めにも、心を尽くして取り組んでいました。
ところが、今日の32章は、驚くべき言葉から始まります。
これらの真実なことが行われた後、アッシリアの王センナケリブが来てユダに入り、城壁のある町々に対して陣を敷いた。それらを攻め取ろうと考えたのである。
歴代誌 第二 32章1節
これほど忠実に主に従ってきた、その後に、強大な敵が攻めて来たのです。
今日は、この出来事を通して、私たちが普段、主を礼拝し、御言葉を聞き、主に従って歩むことが、どれほど大切なのかを考えてみたいと思います。
Ⅰ.忠実に歩んでいても、試練はやって来る(1〜2節)
まず注目したいのは、32章1節の「これらの真実なことが行われた後」という言葉です。
ヒゼキヤが主に背いた後ではありません。偶像礼拝に陥った後でもありません。
主を求め、御言葉に従い、心を尽くして忠実に歩んでいた、その後に、アッシリアが攻めて来たのです。
アッシリアは、当時の世界で非常に強大な軍事力を持つ帝国でした。ユダの国とは、到底比較にならないほどの力を持っていました。
そのアッシリアが、ユダの城壁のある町々を攻め、ついにはエルサレムをも狙って来たのです。
ヒゼキヤにとっても、民にとっても、大変な危機でした。
ここで私たちは、一つの大切なことを教えられます。
主に忠実に歩んでいれば、困難に遭わないというわけではないのです。
主日ごとに礼拝をささげ、御言葉を聞き、祈りながら生活していても、病気になることがあります。仕事で問題が起こることもあります。家族のことで心を痛めることもあるでしょう。
そんな時、「どうしてこんなことが起こるのだろう。私は主に従ってきたのに」と思うこともあるかもしれません。
しかし、ヒゼキヤの姿を見ると、困難に直面したことが、主に見捨てられた証拠ではないことが分かります。
むしろ、ここで問われるのは、困難が起こるかどうかではありません。
困難が起こった時、私たちは誰を頼りにするのか。
そのことなのです。
Ⅱ.普段から培われた信仰が、危機の中で現れる(3〜8節)
では、アッシリアが攻めて来た時、ヒゼキヤはどうしたでしょうか。
3節から見ると、彼は直ちに行動を起こしました。
高官たちや勇士たちと相談し、町の外にある水源をふさぐことにしました。敵に水を利用させないためです。
さらに、壊れた城壁を修復し、塔を築き、武器や盾を大量に用意しました。
そして、軍の指揮官を任命し、民を集めました。
興味深いのは、ここでヒゼキヤが、ただ祈って、何もしなかったわけではないということです。
できる限りの備えをしました。
そして、高官たちも勇士たちも協力し、多くの民が集まって、一致して事に当たりました。
昨日の31章では、神殿の奉仕を整えるために、人々が協力していました。
そして今日の32章では、国を守るために協力しています。
礼拝のためにともに仕えてきた人々が、今度は危機の中でともに働いているのです。
もちろん、31章での一致が、そのまま32章での一致を生んだとまでは書かれていません。
しかし、主を中心として整えられてきた共同体の姿が、ここにも現れているように思います。
そしてヒゼキヤは、民を励まして言いました。
「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。
歴代誌 第二 32章7節
続いて、その理由を語ります。
彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」
歴代誌 第二 32章8節
これは、実に力強い言葉です。
ヒゼキヤは、自分たちの軍事力がアッシリアより優れているから、安心しなさいと言ったのではありません。
これだけ準備したのだから、絶対に勝てるとも言っていません。
「私たちとともにおられるのは、私たちの神、主である。」
これが、ヒゼキヤの確信だったのです。
彼は、目の前にいる敵の大きさを知らなかったわけではありません。
アッシリアの恐ろしさも、十分に分かっていたでしょう。
だからこそ、できる限りの備えをしました。
しかし、彼が最終的に頼りにしていたのは、自分たちの備えでも、軍事力でもありませんでした。
主ご自身だったのです。
そして8節の最後には、
民はユダの王ヒゼキヤのことばによって力づけられた。
と記されています。
私は、ここに、昨日の31章との大切なつながりを見るのです。
ヒゼキヤは、突然、信仰深い王になったのではありません。
これまで主を礼拝し、御言葉に従い、心を尽くして主を求めてきました。
そのような日々の歩みがあったからこそ、いざという時にも、主に信頼することができたのではないでしょうか。
私たちも同じだと思います。
普段から礼拝をささげ、御言葉を聞き、主の真実を教えられ、祈りながら歩んでいます。
その一回一回は、特別なことには感じられないかもしれません。
毎週、同じように礼拝に集い、讃美歌を歌い、御言葉を聞く。
しかし、その積み重ねの中で、私たちの信仰は少しずつ養われ、整えられていくのです。
そして、思いがけない困難に直面した時、かつて聞いた御言葉が心によみがえってくることがあります。
「ああ、そうだった。主は私とともにいてくださるのだった。」
「主は、決して私を見捨てないと約束してくださった。」
そのようにして、私たちはもう一度、主に信頼して立ち上がることができるのです。
普段の礼拝で培われた信仰が、いざという時に、私たちを支えるのです。
Ⅲ.敵の言葉よりも、主の御言葉に信頼する(9〜19節)
しかし、アッシリアの王センナケリブも、黙ってはいませんでした。
9節以降を見ると、彼は使者を遣わして、エルサレムの人々に語りかけます。
その内容は、実に高慢で、神を冒瀆するものでした。
10節では、「おまえたちは、何を頼りにしているのか」と問いかけます。
そして、ヒゼキヤにだまされるな、と警告するのです。
12節では、ヒゼキヤが高き所や祭壇を取り除いたことまで持ち出しています。
これは、ヒゼキヤが主への礼拝を正しく整えたことを指しています。
しかし、センナケリブは、それを逆手に取って、まるでヒゼキヤが神への礼拝を妨げたかのように語ったのです。
さらに、これまでアッシリアに滅ぼされた国々の神々が、その国を救えなかったことを持ち出します。
だから、おまえたちの神も、おまえたちを救うことなどできない。
そのように言って、人々の心を揺さぶろうとしたのです。
18節を見ると、敵はわざわざエルサレムの人々が分かる言葉で、大声で叫びました。
何のためでしょうか。
人々を恐れさせ、おびえさせ、町を攻め取るためでした。
これは単なる軍事的な攻撃ではありません。
人々の心を攻撃し、信仰を揺さぶろうとする攻撃でした。
ここで考えたいのです。
民は、いったい誰の言葉を信じるのでしょうか。
ヒゼキヤは、「私たちとともにおられるのは、私たちの神、主である」と語りました。
しかしセンナケリブは、「おまえたちの神など、頼りにならない」と叫びます。
正反対の言葉が、民に向かって語られています。
そして、19節には、センナケリブの根本的な間違いが記されています。
彼は、エルサレムの神について、ほかの国々の民の神々と同じように語ったのです。
しかし、ほかの国々の神々は、人間の手によって造られたものにすぎません。
それに対して、イスラエルの神、主は、天地を造られた生ける神です。
この違いを、センナケリブは知りませんでした。
しかし、ヒゼキヤと民は、知っていたのです。
彼らが礼拝してきた主は、どのようなお方なのか。
その主が、これまでどのようにご自分の民を導き、守ってこられたのか。
彼らは、礼拝と御言葉を通して、そのことを繰り返し教えられてきたのです。
そして今、その信仰が問われています。
私たちも、人生の中で、さまざまな声を聞きます。
「本当に神は助けてくれるのか。」
「祈ったところで、何が変わるのか。」
「現実を見なさい。そんなことを信じていても仕方がない。」
時には、誰かに言われるのではなく、自分自身の心の中から、そのような疑いが湧き上がってくることもあるでしょう。
しかし、そのような時にこそ、私たちが繰り返し聞いてきた御言葉が大切になるのです。
もちろん、信仰があれば、恐れなくなるというわけではありません。
ヒゼキヤも、民も、恐れを感じたことでしょう。
だからこそ、励ましの言葉が必要だったのです。
けれども、恐れの中でなお、主に信頼することはできます。
自分の力ではなく、ともにいてくださる主を頼りにすることができるのです。
そして、今回の箇所のすぐ後、20節では、ヒゼキヤ王と預言者イザヤが、このことで祈り、天に向かって叫び求めたと記されています。
彼らが最後に頼ったのは、やはり主ご自身でした。
おわりに ― 礼拝で知った主とともに、日常を歩む
さて、この歴代誌が書かれたのは、バビロン捕囚から帰還した民の時代だと考えられています。
帰還した人々は、神殿を再建し、礼拝を回復しました。
しかし、彼らを取り巻く現実は、決して楽なものではありませんでした。
外国の支配のもとにあり、かつてのダビデやソロモンの時代のような力もありません。
国としての力は小さく、先行きにも不安があったでしょう。
そのような彼らにとって、ヒゼキヤの物語は、どれほど大きな励ましになったことでしょうか。
かつてのヒゼキヤも、強大な敵を前にして、自分たちの力ではどうすることもできない状況に置かれました。
しかし、彼は主を信頼しました。
そして民を励まして言ったのです。
「私たちとともにおられるのは、私たちの神、主である。」
それは、帰還民にとっても、変わることのない真理でした。
そして、現代に生きる私たちにとっても、同じです。
私たちは、毎週のように礼拝に集います。
讃美歌を歌い、御言葉を聞き、祈ります。
時には、いつもと変わらない、ごく普通の礼拝だと感じることもあるでしょう。
しかし、その一回一回の礼拝を通して、主は私たちを養い、整え、信仰を育ててくださっています。
そして、やがて困難に直面した時、その御言葉によって、私たちは支えられるのです。
考えてみれば、私たちがこれまで歩んできた信仰生活にも、そのような経験があるのではないでしょうか。
苦しい時に、以前聞いた御言葉を思い出したこと。
不安な時に、讃美歌の一節が心に浮かんだこと。
あるいは、教会の兄弟姉妹の祈りや励ましによって、もう一度、主を見上げることができたこと。
普段の礼拝は、決して無駄にはなっていないのです。
そして、何よりも覚えたいのは、私たちを支えてくださるのは、私たち自身の信仰の強さではない、ということです。
私たちの信仰は揺らぐことがあります。しかし、私たちが信じている主は、決して揺らぐことのないお方です。
その主は、御子イエス・キリストを通して、私たちにご自身の愛を示してくださいました。
私たちの罪のために十字架にかかり、死からよみがえられた主イエスは、今も生きておられます。
そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださいました。
この主が、私たちとともにいてくださるのです。
だからこそ、私たちはこれからも礼拝を大切にしたいと思います。
そして、礼拝で聞いた御言葉を心に蓄えながら、日々の小さな務めにも忠実に歩んでいきたいと思います。
やがて思いがけない困難が訪れたとしても、その時に、私たちが礼拝してきた主を思い起こすことができるように。
「私たちとともにおられるのは、私たちの神、主である。」
この御言葉を心に留め、今週も主に信頼して歩んでまいりましょう。
【みことばの光】より、祈り
どうか主であるあなたへの信頼を失わせ、引き離すものから私たちを守ってください。
ヒゼキヤのようにあなたに信頼し続ける者であるように導いてください。
兄弟姉妹と力を合わせて歩む、日ごとの信仰生活を祝してください。

