2026年10月29日 木曜日祈祷会「安らかだと思っている者はわざわいを侮る」
聖書箇所
ヨブ記12章
「安らかだと思っている者はわざわいを侮る」
これまでヨブ記を読み進める中で、ヨブの友人たちの言葉について考えてきました。
特に昨日の11章では、ツォファルがヨブに対して、神の知恵を語りながらも、ヨブの苦しみを理解しようとせず、罪を決めつけていることに心を留めました。
今日の12章では、今度はヨブが友人たちに対して、かなり厳しい言葉で応答します。
しかし、その言葉の奥には、単なる怒りだけではない、信仰者としての深い葛藤があるように思います。
Ⅰ.「知恵はあなたがたとともに死ぬのか」(1〜6節)
ヨブは友人たちに言います。
まさに、あなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ。
ヨブ記 12章2節
これは明らかに皮肉です。
友人たちは、まるで自分たちこそ神の真理を理解しているかのように語ってきました。しかしヨブは、「あなたがたの知っていることくらい、私も知っている」と反論します。
そして4節では、自分が友人たちの笑いものになっていると訴えます。
ここで注目したいのは、ヨブが単に友人たちの神学的知識に反論しているのではないということです。ヨブが苦しんでいるのは、自分の苦しみを理解してもらえないことだけでなく、神に誠実に歩もうとしてきた自分が、友人たちから軽んじられていることでもあるのです。
私は、自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑いものだ。”
ヨブ記 12章4節
4節でヨブは、かつて神を呼び求め、神に答えていただいた自分が笑いものになっている、と語ります。
苦しみの中にある人にとって、自分の信仰までも否定されることは、どれほどつらいことでしょうか。
Ⅱ.「獣に尋ねてみよ」(7〜12節)
ヨブは友人たちに、獣や鳥、地や海の魚に尋ねてみよ、と言います。そして10節では、すべての生き物のいのちも、人間の息も、神の御手のうちにあることを語ります。
ここでヨブは、神の主権そのものを否定しているわけではありません。むしろ、神がすべてを支配しておられることを、友人たちと同じように知っています。問題は、神がすべてを支配しておられるという真理から、友人たちがあまりにも簡単に「だからヨブは罪を犯したのだ」という結論を導いてしまったことです。
これまで何度も申し上げてきましたが、神の主権を知っていることと、神が個々の出来事において何をなさっているのかを理解していることは、同じではありません。これは、私たちが聖書を学び、人に御言葉を語るときにも、心に留めたいことだと思います。
Ⅲ.「知恵と力は神とともにある」(13〜25節)
13節でヨブは語ります。
知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。
ヨブ記 12章13節
ここからヨブは、神が王や祭司、助言者や長老、国々に対して絶対的な権威を持っておられることを語ります。神は人間の計画を覆し、権力者を低くし、国々を大きくすることも、滅ぼすこともおできになります。
ただし、ここで一つ重要なことがあります。ヨブは、神の偉大さを語ることで、自分の苦しみの理由を説明できたわけではありません。むしろ、神がこれほど大きな力を持っておられるのに、なぜ自分はこのような苦しみの中に置かれているのか、という問いが、ますます重くなっているようにも読めます。
友人たちにとって、神の主権はヨブの苦しみを説明する根拠でした。しかしヨブにとって、神の主権は、信じているからこそ、なおさら理解できずに苦しむ現実ともなっているのです。
もちろん、ヨブがここで神の主権についてどのような感情を抱いていたのか、すべてを断定することはできません。しかし、続く13章の神への訴えを考えると、そのような葛藤を読み取ることは十分に可能だと思います。
Ⅳ.「安らかだと思っている者はわざわいを侮る」(5節)
昨日の11章までを読んで、私たちは友人たちの言葉の問題を考えてきました。
しかし今日の12章では、ヨブ自身も、友人たちに対して相当に厳しい言葉を投げかけています。
ヨブが正しく、友人たちはすべて間違っている、と単純に整理することも避けたいところです。
ただ、ここには大きな違いがあります。
友人たちは、神について自分たちが知っていることから、ヨブの苦しみの理由を説明しようとしました。
一方ヨブは、神について知っていることと、自分が経験している現実との間で、激しく葛藤しています。
神について多くを知っていても、神のなさることをすべて理解できるわけではない。
このことを認める謙遜が、私たちには必要なのではないでしょうか。
そして、私が特に心に留まったのは、5節のこのみことばです。
安らかだと思っている者はわざわいを侮る。
ヨブ記 12章5節
とても鋭い言葉だと思います。
この言葉には、ヨブが友人たちに対して抱いていた悲しみと憤りが表れているように感じます。
友人たちは今、ヨブのような苦難の中にはいません。生活が守られ、健康も保たれ、自分たちの信仰や人生について、ある程度の確信を持っているのでしょう。そのような立場から、苦しんでいるヨブを見ています。そして、ヨブの苦難には何か原因があるはずだ、悔い改めるべき罪があるはずだと考えています。
しかしヨブは、まさにその態度を問題にしているのではないでしょうか。
ここで興味深いのは、ヨブが単に「安らかな者」と言っているのではなく、「安らかだと思っている者」と語っていることです。
原文には「安らかだと思っている」という心理状態まで明示されているわけではなく、基本的には「安逸のうちにいる者」「安泰に暮らす者」という意味です。ただ、新改訳2017の訳は、自分が安全な場所にいるという立場から苦難を見ている人の姿を考えさせます。
苦しみを経験していない人には、苦しんでいる人のことが分からないのでしょうか。必ずしもそうではありません。自分が経験していなくても、他者の痛みを想像し、寄り添うことはできます。
しかし、自分が安らかなところにいるとき、他者の苦しみを軽く見てしまう危険があることは確かでしょう。特に、自分の人生が順調であることを、自分の正しさや信仰の健全さの証拠だと考えるなら、その危険はいっそう大きくなります。
ここで「侮る」と訳されているヘブル語には、「軽蔑」「軽視」という意味があります。
友人たちはヨブを慰めようとして訪ねてきました。最初の七日七夜は、何も言わず、彼とともに座っていたのです(2章13節)。ところが、ヨブが苦しみを口にし始めると、彼らはヨブを諭そうとしました。そのうちに、ヨブの苦しみを理解することより、自分たちが正しいと考えている神についての理解を守ることのほうが前面に出てきたように見えます。
ここには、私たちにとっても厳しい問いがあります。
私たちは、苦しんでいる人を前にしたとき、その人の苦しみに目を向けているのでしょうか。それとも、その人の苦しみについて自分がどう考えるかに目を向けているのでしょうか。
この二つは似ているようで、ずいぶん違います。
この5節は、苦難の中にいるヨブが、安らかに暮らしている友人たちに語った言葉です。
しかし、私たちも立場が変われば、ヨブにも友人たちにもなり得ます。
苦しみの中では、理解してほしい、寄り添ってほしいと願います。けれども、安らかな日々を過ごしているときには、他者の苦しみに対して、どれほど敏感でいられるでしょうか。
そして、さらに考えたいのは、安らかに過ごせること自体は、決して悪いことではないということです。それも神の恵みです。問題は、その恵みに生かされている自分が、苦しみの中にいる人をどのように見ているか、ということなのでしょう。
今日の「みことばの光」の内容です。
「安らかだと思っている者はわざわいを侮る。わざわいは、足がよろめく者に用意されている。」(5)
12〜14章は、友人たちに対するヨブの反論である。「私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか」(123、92、131-2参照)。ヨブは友人たちに腹を立てていた。彼らはヨブの苦しみを聞いて慰めるために来て、7日もの間黙って寄り添ってくれた(211-13)。そういう友の思いやりにヨブはどれほど慰められたことだろう。だがひとたびヨブが口を開いて自身の苦しみを語り始めると、彼らはその激しさが理解できず、受け止められない。黙っていられなくなり、ヨブをたしなめ始める。一方、友人たちに幾度反発されてもヨブの反論は止まず、かえって高じてゆく。
同じ苦しみを味わったことがないなら、分かったように振る舞わないほうがよい。安らかだと思っている者、不条理を味わっていない人は、「わざわいを侮る」(5)。
「荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。」(6)
そのようにヨブは反論している。友人たちの語ることは事の一面で、物事には別の面もある。世の中で起きていることは、彼らのように因果応報の原理だけでは説明できず、現実はそう単純ではない(6節以降)。悪しき者が安らかでいる。世の中の現実はむしろそういうことの方が多いように見える。神がそんな世界の存在を許しておられる。友人たちの考え方は、こういう神のご支配を否定することでもあり、納得も肯定もできない。自分の苦しみも何かの罪の結果だとは思わない。以上がヨブの主張である。
物事や人のありようをもう分かっているかのように考えず、じっと見つめ、深く思い巡らし、神に教えていただかなくては、正しい対処の仕方も見えてこない。
【祈り】 主よ、この世界と人々の現実を、あなたがご覧になっているように見られますように。

