2017年6月18日 主日礼拝「ステパノ」
本日の聖書箇所
使徒の働き6章〜8章4節
説教題
「ステパノ」
今週の聖句
みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
テモテへの手紙第二4章2節
訳してみましょう。
1903 As we trust God to rule our hearts our feet can walk His way.
(私たちの心を支配するために神を信じるとき、私たちの足は彼の道を歩むことができます)
1904 Christ meets our needs now and for eternity.
(キリストは今も、そして永遠に私たちの必要を満たしています。)
説教メモ
今日の代は「ステパノ」です。彼の名を聞いて、皆さんはまず最初に何を思われるでしょうか。彼は最初の殉教者。今の時代に合って迫害に遭っている教会はどこにあるでしょうか。中国もそうです。地下の教会がもの凄い勢いで進んでいます。他にはスーダンがあります。8月には南スーダンが独立しました。そこは今、クリスチャン同士の戦いがあります。そして多くの難民が出ています。他にもインドや様々な国でクリスチャンの迫害があります。
1.執事の選任と教会の拡大
6章1〜7節までで、教会で初めての役員会、執事の制度が始まったことが書かれています。
そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
(使徒6:1)
ギリシャ語を使うユダヤ人を「ヘレニスト」、ヘブル語を使うユダヤ人を「ヘブライスト」と言います。ヘレニストに対する差別がありました。教会も数を増すと様々な問題が起こります。パウロは書簡を沢山書いていますが、なぜ書いたかというと、その教会に問題が生じたからでした。例えばテサロニケへの手紙では、パウロが宣べ伝えた一番大切な「主の再臨」について、間違った理解をしてしまっていました。それではいけないということでパウロは手紙を書きました。コリントの教会に対しては「不品行」といった問題があり、しかもクリスチャンの中にもその不品行があり、パウロはそれではいけないということでやはり手紙を書きました。
教会員が増えるに従って問題が起きてきます。ここでは食事の配給に関しての問題でした。
そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
(使徒6:2〜4)
ここで執事という制度が始まりました。
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
(使徒6:5〜6)
7人を執事の職に就かせました。彼らはギリシャ語を話していました。断定はできませんが名前から判断しますとヘレニストのクリスチャンでした。彼らは何も給食のことだけに専念していたわけではありません。彼らも聖霊に満たされた評判の良い人たちでしたから、伝道をし、また迫害にも遭いました。彼らは執事として教会の内面的な問題にあたるだけでなく、教会全般の仕事に携わっていたことが分かります。
ここで「食卓のことに仕える」と訳されている語ですが、「配給」「仕える」「奉仕」と訳されたギリシャ語は同じ語根から派生している言葉です。ですから単なる食事係だけでなくステパノやピリポに見られるとおり、活動範囲はかなり広がっていたと考えられます。
彼らが選ばれた条件。それは「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」でした。外部から招くのではなく、神さまを信じる同じ群れの中の、公私ともに生活のすべてをささげて主の御支配のもとに生き、誰からも尊敬される者が選ばれました。
2.ステパノの信仰と殉教
6章8節から7章終わりの方まで、ステパノの信仰と殉教について記されています。
ステパノはとても長いメッセージを語りました。おおまかなことは次のとおりです。
- 1〜8節 神さまの選びと信仰の父祖アブラハムとの契約について
アブラハム、イサク、ヤコブに対する選びと契約のことが書かれています。アブラハムがハランで神さまの臨在に触れ、相続財産をわずかしか手にしなかったけれども約束のみことばを信じる信仰に生きたと告げています。アブラハムの子孫が異教の地で400年間奴隷としての苦難の道を通るけれども、神によって救い出されました。その所でご自身を礼拝すると神さまが約束してくださいました。ステパノはエルサレムの神殿が絶対とする彼らに対し、神さまがご自身をあらわされる場所が礼拝の場であると言っています。神さまはどこにでもおられます。台所にもおられます。そこが私たちの礼拝の場です。
- 9〜16節 ヨセフによる民の救いについて
いわゆるヨセフ物語です。アブラハム、イサク、ヤコブの神。ヤコブの時代にヨセフが生まれました。父ヤコブはヨセフを非常にかわいがられたために、ヨセフは兄たちの妬みを買い、エジプトに売られてしまいました。しかしエジプトで用いられ大臣にもなり、そのことによってやがてアブラハムの家族はひどい飢饉から救われました。
- 17〜22節 モーセの誕生について
モーセはヘブル人の家庭に生まれながらエジプトの王族の一員として育てられました。ある日、自分がヘブル人であることに気付きました。同族の彼らがひどい奴隷状態で働かされていました。あるときヘブル人を痛めつけているエジプト人を殺してしまいました。そして後日、今度はヘブル人同士の争いを仲裁しようとしたところ、彼らは先日のことを覚えていました。「あの時エジプト人を殺したように、私たちをも殺すのか」と言われ、モーセは驚きミデヤンの地に逃れました。40年の間、ミデヤンの地でその地の祭司とともに生活しました。23〜29節までに書いてありますが、それはモーセに神のしもべとしての謙遜を学ばせるためでした。それからモーセはエジプトに戻り、出エジプトをするわけです。ユダヤ人を導き約束の地に帰ろうとしました。シナイ山におけるモーセの召命と派遣のことが30〜35節に書かれています。荒野での40年の生活の後、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち選びと契約の神がモーセをシナイ山に導き、燃える柴の中からご自身をあらわされました。これは神さまがご自身をあらわされる地が聖なるエルサレムだけでないことを私たちに告げていると思います。神さまは苦難にあえぐご自分の民を救うための解放者としてモーセを招き、そして派遣するためにご自身をあらわされました。
ステパノは民が拒んだモーセを神さまが解放者、贖い主としてお遣わしになったのだと語ることによって、救い主イエス様のあらかじめの型であることを、モーセを通して示したのだとステパノは言っています。
- 36〜38節 荒野での集会とみことばへの従順について
出エジプトの時のことを荒野での40年間のみわざとしるしについて簡単に述べ、モーセが預言した一人の預言者こそイエスであると告げています。ステパノはエルサレム神殿に固執するユダヤ人に対し、神はシナイ山での荒野の集会において生けるみことばを授け、ご自身をあらわされたのだと語りました。
- 39〜43節 民の偶像礼拝と裁きについて
神さまはこのようにご自身を明確にあらわしておられるのに、民は神さまの命令に背き、目に見える偶像を作り礼拝しました。やがて神さまはそれら背信の罪を裁き、ユダヤ人はバビロンへと捕らえ移されてしまいました。
このように、訴えられたステパノはその訴えに対し、アブラハムバビロン捕囚までのイスラエルの歴史全体を一気に語りました。ユダヤ人はイエスの一派が聖なるエルサレムを汚していると考えていました。しかしステパノはエルサレムの神殿が絶対であるとする彼らこそ偶像礼拝者であると糾弾しました。
- 44〜47節 あかしの幕屋とエルサレムの神殿について
ステパノは聖所を否定していません。神さまはユダヤ人の主張する場所だけにご自身をあらわされるお方ではないと語りました。荒野ではあかしの幕屋、至聖所には契約の箱、神さまの先導によって移動し続けた幕屋。ダビデはエルサレムの神殿を建てたいと願いましたが神さまはそれを許さず、ソロモンによってそれが成し遂げられました。そして神殿は神の臨在と栄光が満ち溢れる神の民の礼拝の場として復権されていきました。
- 48〜50節 その神殿の偶像化について
イスラエルの民は神ご自身から心が離れ、神殿そのものが偶像化してしまいました。それがエルサレム神殿が絶対であるという考えに引き継がれていってしまいました。ステパノはイザヤ書66章1〜2節を引用して、神を人の造った建物に封じ込めた彼らの罪を責めました。
- 51〜53節 頑なな民への迫り
ここまで述べてきたステパノは、真実な神のみことばに心と耳を閉ざして聞こうとしないユダヤ人の頑なさを責めました。彼らは神がお遣わしになった預言者たちを殺し、最後に捕らえたイエス・キリストを殺した。モーセの律法を冒涜しているのは彼らであると激しく糾弾しました。
アブラハムから始まりエジプト下り、出エジプト、バビロン捕囚と、イスラエルの歴史を簡単にではありますが述べています。私たちも旧約聖書に書かれている出来事をいつでも弁明できるように用意しておかなければなりません。イスラエルの歴史を頭に入れておき、いつでも説明できるようにしておかなければなりません。
ステパノに迫られたユダヤ人たちは非常に困りました。ステパノは強い口調で語りました。「心と耳に割礼を受けていない者たち」。肉体の割礼を尊ぶユダヤ人たちにとっては耳の痛い侮辱でした。そしてさらにこの正しい方、イエス・キリストを十字架につけた罪を明らかにし、「律法を受けたが、それを守ったことはありません。」と糾弾しました。人々の怒りは頂点に達しました。
人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
(使徒7:54〜60)
こうしてステパノは教会史上、最初の殉教者となりました。彼は最後の最後までイエス様にならう者でした。
3.迫害によって進む宣教
ステパノの殉教を契機に教会の弾圧が始まりました。
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
(使徒8:1〜3)
当時のサウロ。ステパノを殺害することに飽き足らず、このように教会を弾圧しました。彼は生粋のユダヤ人で熱心なユダヤ教徒であり、そうすることが何よりも神に従う道であると信じて疑いませんでした。
一方、信じた者たちはエルサレムを離れて地方に散らされました。非難しました。
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
(使徒8:4)
十二使徒だけがエルサレムにとどまりました。散らされた人々はただ逃げていったのではなく、行く先々でみことばを宣べ伝えました。迫害は異邦人への宣教という驚くべき結果となりました。
人は死に直面した時にこそその人の人間性が表れます。
イエス様が再臨されるまで、教会は多くの苦しみを受けます。殉教者が出ます。教会はキリストのからだです。キリストが迫害されたように当然迫害されます。キリストの愛を慕って教会に加えられる人が増えれば、教会を憎む人も増えます。教会の福音宣教が広がれば広がるほど両方の数がそれぞれ増えていきます。
ステパノは恵みと力とによって不思議なわざとしるしを行いました。しかし知恵と御霊によって語るステパノのような人間は、律法主義者にとっては目障りとなりました。彼らはステパノを妬み、妬みは憎悪となり、憎悪は迫害となりました。それでもステパノは臆することなく彼らの罪を指摘し、ついには石打ちで殺されてしまいました。
今の日本には迫害はありません。生温かさの中に私たちの信仰が馴染んでしまってはいけません。もし私たちが真剣に福音を宣べ伝えるなら、そこに迫害が起こるはずです。
教会は迫害を受けてからなお拡大していきました。迫害に荷担していたパウロもダマスコへの途上で回心しました。そしてパウロも迫害されました。瀕死状態にもなりました。そのパウロは言いました。
「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」
(使徒14:22)
平和で自由な日本。しかし私たちも殉教の覚悟をしておかなければなりません。しかし、今から殉教を恐れる必要はありません。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)
このような生活を日常化していく。その日が来れば心配せずとも聖霊が平安のうちに殉教へと導いてくださいます。天が開き、御子が神の右の座に座しておられるのが見えるでしょう。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」ときっと私たちも言えるのではないでしょうか。
クリスチャンは祝福と同時に、迫害の歴史も書き加えられなければなりません。私たちは苦しみに遭います。それを通して神の国が拡大されていきます。その時こそ私たちがそれまで何を信じて生きてきたのか、それが問われるでしょう。