2017年9月10日 主日礼拝「アダムとエバ」

本日の聖書箇所

創世記2章

説教題

「アダムとエバ」

今週の聖句

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女に彼らを創造された。

創世記1章27節
 
 
訳してみましょう。
1925 Don’t despair because of evil: God will have the last word.
(悪魔の故に絶望しないでください:神が最終的な言葉を持っています。)
1926 Care for creation honors the Creator.
(創造を喜ぶことは、創造主をたたえます。)
 
 
説教メモ

1.神のかたちとして

本朝は「アダムとエバ」というタイトルを付けましたが、先ほどお読みしました創世記2章には、その名は一度も出てきません。初めて出てくるのは次の3章です。エバに関してはさらに少し後となります。
少し不思議に思い、 ヘブル語聖書を開いてみますと、1章26節のところに、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」
(創世記1:26)

「人を造ろう」とあり、この「人」という言葉ががヘブル語で「アダム」となっています。
聖書の欄外の解説には、「人は土地(ヘブル語でアダーマー)からとられたのでアーダームと呼ばれる。」と説明されています。
エバという名前はヘブル語本文では出てきません。これも聖書の創世記3章20節の欄外の解説に、「『生命』または『生きること』の意」と説明されています。調べて見ますと「エバ」というのはギリシャ語から出ているようです。
「アダムとエバ」と言い慣れており、また聞き慣れている言葉の背景にはこのようなことがあります。
 
さて、私たちは何のために存在しているのか。考えたことはありますか。
人間は進化の過程を経て、ある日突然偶然発生したものでしょうか。これは進化論ですが、そうだとしたら人間には何の目的もないことになります。しかし聖書は、人間はある目的を持って創造されたことがはっきりと記されています。
 
大都会では夏休みが終わり学校が始まる9月1日、その日が一番自殺者が多いのだそうです。なぜ人は簡単に自分の命を絶つのでしょうか。実は私の母も自ら命を絶ったのです。当時の私は6歳ぐらいでした。複雑な事情があったのでしょうが、幼かった私は母の助けにはなれませんでした。母は私を道連れにしなかった。そのことには感謝しています。まだ30歳代でした。とても悲しい出来事でした。何か目的があったなら、きっと自分の命をもっと大切にしたのではないかと思っています。
 
先週は天地創造を見ました。最初の三つのヘブル語をご紹介しました。
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「初めに(In the beginning)」「造った(created)」「神が(God)」の三つのヘブル語です。
「神が(God)/エロヒーム」は複数形です。私たちは神は「唯一である」と聞かされているのになぜでしょうか。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
(創世記1:26)

「われわれに」と複数形が使われています。これも聖書の欄外に解説されているのですが、主に三つの解釈があるとしています。

  1. 御使いたちとの合議
  2. 威光を表す複数形
  3. 三位一体(父・子・聖霊)の本質の表れ

③の解釈は聖書信仰の立場から特に尊重されてきたとあります。私がチェーン式バイブルから示されてきたことは、②の解釈でした。威光、尊厳を表す複数形。これはヘブル語の特色でもあります。ヘブル語では尊厳を表すとき複数形を用います。そのように教えられました。ただ誤解してはなりません。神さまはあくまで唯一の方です。ヘブル語の特色、または三位一体の神さまを表す複数形「エロヒーム」であるということです。
文法的に言いますと、主語に「われわれ」であり、その主語を受ける動詞は「創造する」は単数形が用いられています。文法的にはおかしな使い方なのです。ですから私は、聖書は文法以上のものであると良く考えるのです。文法によって左右されるものではないと思うのです。
 
 
神さまは無の状態から天地万物を創造され、最後に人を創造されました。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
(創世記1:26〜27)

神は霊であって、私たちの目には見えません。では、われわれに似た「かたち」とは何でしょうか。私たちが外見から見る形ではなく、もっと内なるもの、霊である神さまに似たものとされて、神さまの「属性」に似たものとされて創造されました。自分で物事を判断する理性や人格、神や人を愛する心など、人が神の代理として正しく世界を治め、また神さまとの愛の関係を楽しんで生きるようにと、神さまのご性質を人に備えてくださいました。
私たちは時に他人と自分を比べて劣等感を持ったり、ある人を低く評価してしまったりします。しかし私たち一人ひとりは神さまに似せられて、しかも「非常に良かった」と神が仰るほど良いものに造られました。ですから神さまにとって特別な作品である自分も他人も卑下してはなりません。軽んじてはなりません。
 
2章に入りますと、1〜3節で神さまが七日目に休まれたことが記されています。後の安息日です。十戒が与えられてからのことですから、時代的に言うと出エジプトから後のことです。第7日目は特別な日です。昔のユダヤ人には安息日律法というものがありました。その日に旅をして良い距離が決められており、女性は料理することも禁じられています。神さまが6日働き1日休んだのだから、自分たちもそうしなければならないということです。それは土曜日でした。しかしイエス様が十字架に架かられ死んでよみがえられたのが日曜日でした。それで弟子たちは日曜日に集まり、神さまを礼拝するようになり安息日となりました。それが今に至っています。
私たちは重荷を持って安息日を守る必要があります。自分のやりたいことを我慢するなどして安息日を守らなければなりません。
 

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。
(イザヤ58:13〜14)

ここで安息日をどのように過ごしたら良いかが記されています。
 
 

2.いのちの息を吹き込まれて

2章4節から人間の創造について、もう一度、そしてもっと細かく記されています。

これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
(創世記2:4〜6)

1章で神さまは無の状態から天地万物を創造されたことが詳しく記されています。2章ではそのことを簡単に記し、それから人間の創造について詳しく記しています。

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
(創世記2:7)

ここに他の被造物とは違う、人間だけが特別な創造の方法で造られていることが記されています。他の被造物とはこの一点が違うのです。
「息」とは「聖霊」のことです。私たち「人」は神さまからいのちの息を吹き込まれて生きたものとされました。ですからこの点において私たちは神さまと似たものとして造られました。ただの生物として生きるのではなく、神さまとの交わりの中で、神さまの使命と目的を持った存在とされました。
人間の目的とは何でしょうか。
それは「神の栄光をあらわす」こと。この生きる目的があるのです。
人間の使命とは何でしょうか。

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
(創世記2:19〜20)

神さまは被造物をアダムの前に連れて来ました。アダムはそれぞれに名前を付けましたが、ふさわしい助け手が見つかりませんでした。
私たちはなぜ生きなければならないのでしょうか。生きる意味があるのだろうかと悩むときさえあります。それは神さまとの関係なしにはその意味を見出すことができません。神さまとの交わりを持ち、神さまとともに生きる時に、一人ひとりに注がれる神さまの愛と人生の目的、意味が分かってきます。
私たちは他の被造物と違っていのちの息を吹き込まれて創造されました。ですから人間には生まれながらにして「宗教心」というものが備わっています。どんな未開の地に住んでいる人たちにさえ、宗教心というものはあります。信じようとする思いです。踊ったり飛び跳ねたりしながら宗教心を体現しているではないですか。
宗教心は人にしかないものです。
 
 

3.男と女に

神さまが最初に造られたのはアダムです。神さまはアダムをエデンの園に住まわせました。そこには川が流れ土地を潤し、たくさんの木がありました。見た目も味も素晴らしい実をならせる木がありました。神さまはアダムに園を耕し守るという使命をお与えになりました。
「耕す」は英語で「cultivate」と言います。ここから「culture・文化」が出ました。
アダムはエデンの園を管理していかなければなりませんでした。大変なことです。そのためには是非とも助け手が必要でした。神さまは被造物をアダムの前に連れて来ましたが、どれも助け手とはなりませんでした。そこで神さまはアダムのあばら骨を一本取り、そこから「女」を創造しました。これが助け手となるエバの創造でした。

すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
(創世記2:23)

おそらくアダムは大変喜んだでしょう。アダムはエバを見て彼女こそ自分にぴったりのパートナーだと思いました。神さまが男と女を造られたのは、互いの足りない部分を補い、助け合っていくためです。神さまは男と女が一つとなってともに生きていくように結婚を定められました。

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
(創世記2:24)

最初に男と女が造られたということ。男と女が助け合ってエデンの園を管理していかなければならないこと。神さまから託された使命がありました。
お互いに助け手として造られている。
この世が男だけ、女だけだったらどうでしょう。この世界には70億人以上の人間がいます。おおまかに半分が男、半分が女です。神さまは深い思いの中で男と女を創造されました。
 
そして私たちは、人格的な存在としてお互いに生きていきます。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ4:24)

霊とは目に見えませんが、しかし生ける人格的な存在です。それは人間が創造された時、神さまがいのちの息を吹き込んでくださったことによります。人間は二つの感情があります。「知」・「情」(神さまは完全な感情をお持ちである)、そして「意」(神さまは堅い意志を持っておられる)です。神さまの属性の一部が、私たち人間に備えられました。「知」「情」「意」。それは神さまの属性の一部でもあります。
息とは「霊」です。私たちも霊的な存在、つまり「知」「情」「意」を持つ人格的な存在として創造されています。私たちが神さまを知り、神さまの愛に心が満たされ、神さまに従順に生きる時、私たちの人格「知」「情」「意」は豊かに満たされます。これは横山幹雄先生が仰っています。
 
今日、2章で学んだことは、私たちは神さまのかたちに似せられて創造された。そのかたちとは「知」「情」「意」である。神さまが人をご自身に似せて造られたという事実から、私たちのあり方、生き方、使命を考える必要があります。人間は何のために生きるのか。神の栄光を現すため。わたしたちはどのようにして神さまの栄光を現していけば良いのか。それは一人ひとりが問われていることです。私たちは神さまに似せられて造られたものとして、神さまに喜ばれるような生き方をしていかなければなりません。

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