2017年9月3日 主日礼拝「天地の創造」

本日の聖書箇所

創世記1章

説教題

「天地の創造」

今週の聖句

初めに、神が天と地を創造した。

創世記1章1節
 
 
訳してみましょう。
1923 Imitate those who imitate Christ.
(キリストを模倣する者を模倣する。)
1924 Do all things for the glory of Christ.
(すべてのことをキリストの栄光のために行います。)
 
 
説教メモ
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創世記の1章から11章までは「人類の初め」について記されています。
12章からは「アブラハムの生涯」、25章からは「イサクの生涯」・・・と続いていきます。
創世記を読んでいって、1章から11章までは続く12章から後とは少し違う雰囲気があるのを感じないでしょうか。
例えばパウロの書簡において、宛先やその手紙を読む人というのがいます。読む人が手紙の中の忠告を聞き、そして従うという目的で書かれています。しかし創世記の1章から11章までは、その相手というものがいなかったではないですか。モーセは自分の体験もしなかったことを聖霊の導きによって記しています。天地創造、アダムとエバ、最初の罪、カインとアベル、レメクとセツ、ノアの箱舟、そして11章にはバベルの塔について。これらは他のところと違うと思います。
本朝は創世記の1章から11章までを見てまいりましょう。今の世界がなぜ今の世界なのかを神さまご自身が説明してくださっています。
一週間は7日あります。それは世界中の時を刻む基準がこの聖書が記している天地創造の事実から来ているということです。クリスチャンでない方々も含めて、世界中がそのことを認識しており、その影響下で生活をしています。
 
 

1.世界の創造

1章では天地の創造、世界の創造が記されています。1章1節です。次に19節あたりまでで自然界の創造が記され、20節からは人間の創造が記されています。
私たちが生きているこの世界は、なぜこのようにある面では美しく、また醜さと愚かさが入り交じったような世界なのでしょうか。私たちはどこから来てどこへ行くのか。学者は色々と説明しています。この世には「進化論」がまことしやかに論じられています。しかし進化論はあくまで「論」であり、決して確立されたものではありません。私たち日本人は小学校の頃から当たり前の様に進化論を教えられてきています。NHKでもまるですべてが進化論に基づいて語られていることに驚きます。キリスト者は「創造論」を信じます。世の中は進化論ありきの世界ですが、進化論はあくまで確立されたものではないことを念頭に置いておいて下さい。
 
なぜ人間だけには言語機能があるのでしょうか。文明があるのでしょうか。他にも道徳心とか宗教心など、なぜ人間にはそのようなものが備えられているのでしょうか。なぜ世界は存在しているのか。世界の初め、人間の初めを見て知っている者は誰もいません。人間には探究心があり、様々な「仮説」を立てます。その架設によって説明しようと努めています。創世記の冒頭には

初めに、神が天と地を創造した。
(創世記1:1)

このように記されており、そこから11章までは人間が常に抱き探求してきたこうした疑問に、神さまご自身がメッセージとして答えを与えようとしておられる箇所です。
神さまによる天地創造があり、神さまのかたちに似せて造られた人間の創造があり、人間が犯した罪と神さまの裁きがあり、文明の広がりがあり、人の罪に対する裁きとしてのあのノアの時代の大洪水があり、バベルの塔に見られる人間の高慢さがあり、神によって全世界へと散らされていく人の歴史が記されています。
 
聖書だけがこの世界の創造主がおられることを言っています。聖書は神さまのことばであり、あらゆる時代のすべての人間に向けられたメッセージです。おおよそ人間の書くすべての文書がそうであるように、天地創造の記述も、その時代の読者、人々の関心に答え、あるいは人々に是非とも伝えたいことがあって記されています。
創造記事の基本的な目的は、この世界のあらゆるものは造られたものであり、神さまではないということ。礼拝の対象ではないということです。礼拝の対象である方はただおひとり、創造主なる神さまのみです。それ以外を礼拝することは偶像礼拝となります。
聖書は聖霊に導かれた人間によって書かれていますが、本来の著者は神さまです。聖書は誤りなき神のことばです。自然科学、歴史、哲学であれ、語られていることはすべて正しいのです。ただしどこが自然科学に触れているのか、歴史に触れているのか、あるいは詩や創作など文学として記されているのか、その判断を誤って私たちが勝手に読み込んで、誤読している部分にまで私たちの考える正しさを主張できるわけではありません。創造の記述を過度に聖書本文が語る以上に、自然科学的説明と対比させる必要はありません。聖書が語ろうとしている基本は、この世界をお造りになった創造主がおられるという事実です。この世界がどのような手順と材料で出来上がったのか、そのプロセスに関する自然科学の自然科学的説明の正しさを証明するのは、それぞれの自然科学の探求にに任せるべきです。それによって聖書のメッセージが崩れるようなことはありません。神は両者の主です。ですから自然科学を信じて研究している人の中にもクリスチャンは多勢います。
地球が出来て45億年と多くのメディアは主張します。まことしやかな画像を出して説明するものですから、多くの人がそうなのかと思わされています。しかし私たちは進化して今の人間になったのだとは到底考えられないことであり、聖書には神さまが初めに天と地を創造し、その中に人をご自身のかたちに似せて造られたというはっきりとした記述があります。私たちは進化して今の形になったわけではありません。
神さまは私たち一人ひとりを創造されました。私たち一人ひとりは神さまの「かたち」に似せられて造られているのです。しかし「かたち」は目に見える形ではありません。なぜなら神さまにはかたちが無いからです。神さまは霊のお方です。その神さまのかたちに創造されました。神さまのご性格に似せられたものとして私たちは創造されました。
 
 

2.自然界の創造

2〜19節には自然界の創造が記されています。
ジョン・ストットという人が著書の中で、最初の一週間についてこのように言っています。

創世記1章と現代の宇宙論、ないしは天体物理学のどちらかを選択しなければならないと考える必要はない。神は聖書を、科学の教科書として記していることなど断じてないのだから。実際、創世記1章は、高度に様式化された美しい詩の形で記述されていることは読めばすぐに分かる。科学者であれ、詩的であれ、創造の記述はどちらも正しく、ただそれぞれが違う視点で書かれ、相互に補われるものなのである。イスラエルの領土は北はバビロニア、南はエジプトという大国に挟まれた小さな地域です。この両大国は様々な形で太陽や月、星を盛んに崇拝していた。こうした偶像崇拝的背景に対峙しているものとして創世記1章は理解されなければならない。エジプト人やバビロニア人は太陽や月を拝んでいたが、そうしたものは礼拝の対象となる神などではない。そう創世記の著者は主張しているのである。

 
今は何時ですか。どうして「時間」があるのでしょうか。時はどうして生まれたのでしょうか。
一年は何日ありますか。一月は何日でしょう。それはどうしてあるのでしょうか。
それは太陽があり、月があり、地球の公転自転があるからです。その中に時という概念が生まれました。そしてそれらすべてをお造りになったのは神さまです。エジプト人やバビロニア人は造られた太陽や月を拝んでいました。それは間違いです。
太陽も、月も造られたのは神さまです。だぁら私たちは時という中に制限を受けています。過ぎ去った昨日は取り返しがつきません。また明日のことは分かりません。私たち人間は時というものを支配することはできません。しかし分かっておられる方がおられます。それは太陽も月も造られた神さまです。時間をお造りになった神さまはすべてご存知なのです。神さまは常に現在のお方です。
 
この世に存在する天体など、その他すべての被造物を神として拝するのはおかしなことです。
 
 

3.人間の創造

人間以外の動物が種類にしたがって造られたのに対し、人間だけは神のかたちとして造られことが宣言されています。この世界の創造の記述で大切なことは、創造されたものは「すべて良かった」ということです。
創世記1章を読んでいて、気になる言葉が3つあります。
一つの表現は「仰せられた」。言われた。創世記1章ではこれが多く出てきます。
言葉とはとても大切です。言葉がなければどうでしょう。言葉は自分の意志を伝えるものです。ヨハネの福音書では「ことば」を非常に強調したかたちで始まっています。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
(ヨハネ1:1)

ことばはなぜ大切か。それは神さまの意思を私たちが知るためです。
 
もう一つは、創造されたものをご覧になり「良しとされた」と仰ったことばです。
最後には「非常に良かった」となっています。言い換えれば、神さまがお造りになったすべては「完全であった」ということです。非の打ち所がありませんでした。
 
また「こうして夕があり、朝があった」。
これは私たちの感覚とは少し違っています。私たちの現在の時間は朝から始まりますが、ユダヤのカレンダーでは夕方、夕日が沈んだ時から新しい一日が始まりました。昔は時計などありませんでしたから、太陽の動きで時を知りました。夕日が沈むと新しい一日が始まったことを知りました。それが「こうして夕があり、朝があった」という表現です。
 
神さまは創造の完成に伴い、7日目を祝福し聖とされました。これが後の「安息日」の制定につながるわけです。
神さまは創造の完成をご覧になり、すべてのわざを休まれました。
 
神さまはこの世を完全なかたちとして創造されました。神さまは世界を「甚だ良かった」とされました。
道ばたに咲く名も知られていない花。その花も神さまがお造りになった花だと思うと、それに対する思いが変わります。その雑草のような花も神さまに創造されたもの。そして神さまに見られたくてそこで一生懸命、命をつないで花を咲かせているのだと考えると、ものの見方が変わります。いとも小さき取るに足らないような花。その花は神さまに見られたくて咲いている。誰が見なくても神さまがそれを見て喜んでいてくださっている。そう思って見ていくと、私たちは変わってきます。そういう習慣が自分の身に付くと、自分自身の生き方にも反映されてきます。「私は誰に見られなくても、誰に知られなくても、私を誕生させ、ご自身のかたちに似せて造られ、生かし、愛してくださっている神さまに見られ、知られ、尊ばれているのだ」という思いになるではないでしょうか。神さまはその花を見て「良い」と仰られる。同じように私たち一人ひとりに対しても言えます。いと小さい、取るに足らない者である私たち一人ひとりをも神さまはその目を注いで下さっている。神さまに愛されている存在なのだと気付くならば私たちの思いや生き方は変わってくるでしょう。
 
 
もう一つ、「区別された」という言葉も出てきます。
以前、福音がギリシャ文化全盛の時代に広められたことを見ました。ギリシャ語の文法はとても厳しく、それが用いられて福音が正しく伝えられました。もし文法的に曖昧さのある日本語が世界の標準語であった時代にイエス様が来られていたらどうだっただろうか。ギリシャ文化全盛の時代にイエス様が来られたことは、やはり神さまのみこころであったのだというところを見ました。
曖昧さを愛する国民性が日本にはありますが、信仰生活においてはその曖昧さを持ち込んではいけません。
旧約の時代のソロモンは、神さまに「あなたに何を与えようか」と問われ、「善悪を見分ける知恵と知識を私に下さい」と願い、神さまに喜ばれました。私たちも日々、この見分ける力、善悪を判断する心を求めて生きていく必要があります。
 

「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
(イザヤ45:7)

神さまは良いものだけではなく、悪いものも創造されたことが分かります。平和をつくり、わざわいをも創造する。私たちの前を阻む「悪いもの」も、神さまの何かのご目的があるのでしょう。そう思って慰めを得て下さい。自分の力でそれを乗り越えていくというよりも、神さまに委ねて、そして神さまに祈り求めつつ歩んで行く。それが私たちクリスチャンの歩み方だと思います。災いをも神さまが備えてくださっているのだとするならば、感謝ではないでしょうか。
私たちは神さまから光だけを期待し、平和だけを得たいと願います。しかし知恵に満ち、愛に富まれる神さまは、闇、災いをも人間に必要であると考えられます。多くの人々は人生の夜、災いの日に宝を見出してきました。夜に自分の無力さ、罪深さ、頼りなさを知り、だからこそ神の愛の温かさ、キリストの恵みの真実に触れ、神を信じる者とされました。絶望はまた神さまの時でもありました。そのように考えて、神さまのみこころを求めつつ歩んでいただきたいと願います。

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