2015年8月2日 主日礼拝「主の祈りに学ぶ(1)」
聖書箇所
マタイの福音書6章9~13節
説教題
「主の祈りに学ぶ」(1)
今週の聖句
「わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば与えられます。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
ルカの福音書11章9~10節
説教メモ
前回に続き、主の祈りより祈り方を学びましょう。
戸を閉めて、隠れたところで隠れたところにおられる神さまに祈りなさい。
奥まった部屋で、神さまにのみ思いを向け、神さまがどのようなお方であるかを思いながら祈りなさい。
そして、心から信じて祈りなさい。神さまは私たちのすべてをご存じだから、信じて祈りなさい。「自分勝手な答え・結論」を持って祈ってはいけません。
素直な気持ちで、神様は私たちに必要なものはすべて与えてくださる。そのように信じて祈りましょう。
9節 だからこう祈りなさい。
祈りは訓練を受ける、学ばなければなりません。
ルカ11章1~4節 ここには、弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」とお願いしました。
弟子たちは祈りの熟練者です。その弟子たちが祈りを教えてほしいとイエス様に申し出ています。
そこでイエス様は、主の祈りを教えられました。
このように祈りなさいと、祈り方を教えられました。
それは、神さまが喜んでくださるような祈りです。
私たちの祈りは、自然にできるようになるようなものではなく、教えられ、訓練されなければなりません。
「御名があがめられますように」
名は体を表すと日本人は言います。
ここでは「主の御名が」と言います。
ユダヤ人にとって神さまの名前というのはとても気になる問題でした。「みだりに主の御名を唱えてはならない」という戒めがあったので、彼らは御名を呼び求めていませんでした。
「あがめられる」=「聖くされる」という意味です。
神さまの御名が聖なるものとされますようにとの意味です。
「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしがあ彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル36章23節)
私たちが神さまを聖なる方であると認め、従い、誰の目から見ても神さまが聖なるお方であるとわかるようにしてください、と願います。
「天にいます私たちの父よ。」
私たちの父なる神さまは「天におられ」ます。
「御国がきますように。」
御国はどこにあるでしょうか。
それは、「信じる者のただ中にあり」ます。
「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17章20-21節)
すべて悔い改めて、神さまを信じる者の中にあります。
今の世はサタンが支配する世界です。世の終わりに、神が支配する世「神の国」が到来します。
「みこころが天で行われるように、地にも行われますように。」
ここでは、神さまのみこころは天では100%行われていることが分かります。
召された者は完全に聖められ、100%みこころが行われている完全な天にいます。
御使いとともに神さまを賛美しています。
「だから、あなたがあたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5章48節)
祈るべきことがらは、自分のことではない、ということを、今日は主の祈りの前半から学びました。
求めても与えられないのは、快楽やそのようなものの為の求めです。
また、そのような祈りではなく、本当に必要な祈りが聞かれないとしたら、神さまの御こころを求めていないのかもしれません。
順序を間違えていはいけません。
まず、神さまのために祈ります。
そして自分のため(日ごとの糧をお与えください…」に祈ります。
自分の祈りを紙に書き出してみることも良いです。
自分の祈りを省みることができるからです。
自分の祈りが、みこころにかなったものであるかチェックできるからです。