2018年7月22日 主日礼拝「復活のからだ」
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一15章35〜58節
説教題
「復活のからだ」
今週の聖句
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
コリント人への手紙第一15章44節
訳してみましょう。
2005 There are no losers with Christ and no winners with devil.
(キリストに対して敗者はなく、悪魔に対して勝者はありません。)
2006 A christlike example is a Father’s greatest gift to His children.
(キリストのような振る舞いは、彼の子どもたちへの御父の最大の贈り物です。)
説教メモ
先週はコリント人への手紙第一15章前半から、キリストの二つの福音について学びました。
本朝はパウロの主題が、死者はどのようにしてよみがえらされるのか、どのようなからだで来るのかということに移っていく、その辺りのところを見てまいりましょう。
1.復活はからだの復活である
35〜41節で、パウロは「復活はからだの復活である」と強調して述べています。
あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
(Ⅰコリント15:36)
パウロは葬られたからだが、そのままの状態で息を吹き返すことが復活の有様だとは思っていません。何かの病気や事故でこの世を去らなければならないとき、死体は棺桶に入れられて焼かれますが、その体がそのままよみがえるのだと信じていた人がいました。パウロは決してそうではない、人間の体は一度死に、新しいからだが生じてくる、そのような復活なのだと言います。
あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
(Ⅰコリント15:37〜38)
つまり、人は新しいからだが与えられて復活するのです。死ねば朽ちてしまう現在の私たちの体を、新しい別のからだに変えられて私たちはよみがえらされるのです。
パウロは復活のからだが地上の体とまったく別物であるということを、人間、獣、魚など、それぞれの種によって異なるように、
天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
(Ⅰコリント15:40〜41)
と述べています。
復活のからだはこの地上の体とは違います。地上の体は罪に汚れており、死によって朽ちていく体です。しかし復活のからだはもはや罪に汚れることもなく、永久に朽ちることもない、そのようなからだによみがえらされるのです。
2.復活のからだは霊のからだである
42〜49節までは、復活のからだは「霊のからだ」であると言っています。復活について話しを続けるパウロは、次に譬えから離れて生前のからだと復活のからだとを直接比較します。現在のもの、つまり蒔かれたもの。それからやがてよみがえらされたもの。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(Ⅰコリント15:42〜44)
とはっきりと言っています。
血肉のからだとは生まれながらの体であり、それは罪にまみれ、死を免れることのできない体です。そして御霊に属するからだとは、罪のない、朽ちることのないからだ。そのようなからだによみがえらされるのです。
ここで注意したいことは、復活によって人は御霊のからだになるのであって、霊そのものになるのではないということです。復活によって人は具体的な実態のあるからだが備えられるのであって、無形の霊になるのではありません。復活のからだは目で見ることも、手で触ることもできるからだであり、今の私たちが持つ体と同じように外形を有していると思われます。それは天の御国においても同じであると思われます。それぞれがお互いに、あの人は誰それだと認識できるからだを持っているのだということです。
エホバの証人は、
血肉のからだは神の国を相続できません。
(Ⅰコリント15:50)
ここを引き合いに出してきます。彼らの考えによれば、私たちの言うからだの復活の場合のからだを、この世の朽ちる血肉の体だと思っていますが、そうではありません。私たちクリスチャンも血肉のからだは神の国を相続できないという聖書のおことばを信じているわけですから、何ら違いはありません。根本的に違うことは、聖書の主張は彼らの言うような「霊における復活」ではなく「からだの復活」であるということです。
彼らが霊を強調するのは初代教会の時代、特にコリントやアテネにおいて広まっていたグノーシスという異端の思想によります。その中心的な思想は「物質は悪である」ということでした。この思想から出た結論に「神は聖いお方であるのだから、悪の物質でできているこの世とは何の関係も持たない」ということでした。ですから聖なる神の子が、悪なる物質、肉体をまとうはずがないという、キリストの受肉を否定することとなりました。それが1世紀の「仮現説(かげんせつ)」です。それによるとキリストは実態を持たなかったことになります。
エホバの証人が主張するキリストの「霊における復活」は、この考えによります。
またグノーシスの物質は悪であるという考え方から、「キリストは受肉したのではなく、キリストという霊なる存在が一時的に、人間イエスがバプテスマを受けた時に乗り移り、十字架の前にイエスから離れたのだ」という考え方が出来ました。これによると十字架上で死んだのはキリストではなく、人間イエスだということになります。キリストと人間イエスを区別して考えます。この思想が今の統一教会の考えでもあります。彼らによると、イエスは普通の人間であったので、死んで土に帰ったのだとされます。そして彼らの復活の理解は、罪を悔い改めて昨日の自分よりも今日の自分が少しでも善に代わるのであるならば、自分たちは復活したことになると考えます。
キリストの復活が霊の復活ではなく、実体の伴った復活であったことの最大の確証は、主イエスご自身のおことばによります。
弟子たちは復活の主イエスに出会った時、霊を見ているのだと思いました。その時主イエスは、
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。
(ルカ24:39)
そう言われました。さらにご自身が霊ではないことを証しするために、弟子たちの前で焼いた魚を一切れ食べました。
私たちはこの復活の主の姿から何を知ることができるでしょうか。
復活のからだはこの地上の体の連続でも継続ではなく、しかし少なくとも地上で持っていた人格や個性は継続して持っていると考えられます。復活のキリストは十字架で死んだキリストと同一のお方でした。
またあの疑い深いトマスとのやり取りからも、キリストが十字架での傷跡を残したままで復活されたことを表しています。
重ねて申しますが、聖書の言う復活は、あくまでもからだの復活を説いているのであり、決してギリシャの思想が言う霊魂の復活を説いているのではないということです。それと同時に、聖書の説く復活のからだは霊のからだであるということです。しかしここでいう霊のからだとは、異端の言う霊の復活とは違うということです。いわゆる幽霊のような実態のない霊の現れではないということです。復活のからだはあくまでも顔や手足など、見ることも触ることもできるものです。しかしながら復活の主が閉め切った部屋に自由に出入りできたように、物質にも自然法則にも妨げられない霊のからだによみがえらされるのです。
3.栄化と勝利
私は昨日、畑であるものを見つけました。それはアオムシです。アオムシはやがて蝶になりますが、アオムシ自体は自分が蝶に変化するなどとは思っていないでしょう。私たちの復活もそれと同じなのではないでしょうか。
聖書は「御霊のからだがある」と言います。私たちは復活のだからだ、霊的なからだとしてよみがえらされると言います。私たちにはそのことが良く分かりません。たとえてアオムシの例を出しましたが、それも多少の参考となるくらいでしょう。私たちは、朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされる。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされる。弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされる。 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる。キリストが再臨されて私たちが天に行ったときに私たちは変えられるのです。あそこに誰々がいると認識できるかたちでよみがえらされます。それは素晴らしいことです。さらに病気などもない素晴らしいものに変えられるのです。
私たちはやがて、素晴らしい栄光のからだによみがえらされるのだと言うことを分かってください。そのことが分かると、死に対する備えも出来たことになるでしょう。まだ準備が出来ていないという方もおられるかもしれません。ただこのことは知っておいてください。イエス・キリストを救い主として信じている人は、すでに死に対する備えは出来ています。やがて栄光のからだに変えられるその時が来るということが分かっています。
今日見てまいりましたとおり、復活のからだ、御霊のからだが私たちのために備えられています。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
(エペソ2:4〜6)
神さまの目から見て、私たちはすでに、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらされ、ともに天の所にすわらせられた者となっています。このような素晴らしい福音があります。
ですからそのことを是非覚えていただきたいと思います。
復活の福音を説いてきたパウロは、15章の最後で復活の奥義を私たちに伝えています。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
(Ⅰコリント15:50)
パウロは復活についてもう一つの重要な真理を告げています。
血肉のからだとは私たちの生まれながらの体です。パウロはこの血肉のからだは朽ちるものであり、神の国を相続できないと言っています。この世の人間の思想や理論によれば、人間には神と等しくなり得るだけの性質があり、努力と精進によって徐々に進歩向上してやがて理想的な人間になれる、理想社会を作り上げられる。人間にはそれだけの使命と資質があるというのが、生まれながらの人間一般を支配する人間観であり、ユートピア観です。その典型的な思想は統一教会の地上天国の建設です。統一教会を信じている人たちは地上天国建設、つまり一つの大家族、理想世界、一つの民族、一つの世界のために躍起になっています。しかしたとえ現実となったとしてもそのような国家は言語の統一や思想の統一、宗教の統一などが強制される、最も悪質で最も自由のない独裁国家になるのではないかと思います。
しかしパウロは50節で、人間中心の反キリスト的思想に真っ向から反対し、生まれながらの人間は神の国を相続できないと断言しました。ではどこを見たら私たちは救いの完成を確かめることができるのでしょうか。パウロは復活によってそれが実現されると言っています。これが救いの奥義です。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
(Ⅰコリント15:51〜52)
キリストの再臨の時まで生きているクリスチャンは、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに、朽ちない霊のからだに変えられます。しかしその栄華の前に、キリストにある死者がはじめによみがえります(Ⅰテサロニケ4:16)。ここにも死者の復活についての言及があります。
キリストの再臨の時にすでにキリスト者として死んだ者はこのように霊のからだに復活し、その時まで生き残っているキリスト者は、死を見ずに瞬間的に朽ちない霊のからだに変えられ、栄光に変えられるのです。これを「携挙」と言います。これはキリストの再臨の時に起こります。キリストの再臨がなければ復活はありません。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
(Ⅰコリント15:55〜56)
復活と栄光に変えられることは、死を征服する道に他なりません。復活がなければクリスチャンの救いの完成もあり得ません。
パウロはここで罪と律法との関係について、死のとげは罪、罪の力は律法であると要約しています。死のとげとは死の毒牙のことであり、それは罪です。罪から来る報酬は死(ローマ6:23)。すなわち罪は永遠の死をもたらす忌まわしいものです。死という事実の持つ恐ろしさはきわまるものです。しかしキリストの十字架によって罪から贖われた者にとって、死は永遠のいのちへの入口、門となります。またこの身が死んだとしてもキリストの再臨の時に栄光のからだに変えられる、そのように復活するのであるから、究極的に死は、クリスチャンに対する何の害も力も及ぼすことができません。
では、罪の力は律法ですということの意味は何でしょうか。それは律法がなかったならば罪もなかったからだとパウロが言っているとおりです(ローマ4:15)。罪とは盗みや殺人云々よりも以前に、神さまの聖なる律法に違反することです。神に背いている人間は神の律法を守り行うことが出来ず、その行き着く先は永遠の死です。パウロは
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(Ⅰコリント15:57)
と言います。神がキリストによって私たちに勝利を与えられたのは、キリストが律法の要求をすべて満たされたからです。それゆえキリストを信じる者はキリストがその者に代わって律法の要求を満たしたことによって、罪のない者と認められ、こうしてキリストにある者が罪に定められることは決してない(ローマ8:1)ことが実現しました。
クリスチャンはキリストによって罪が除かれ、未来を先取りするかたちで栄光と復活と栄光に変えられる、勝利の栄光に属する約束が与えられています。それらすべては神の無代価の恵みによってなされることであり、私たちはただそれを知り神に感謝するのみです。パウロの感謝はローマ人への手紙7章7〜25節にある神への感謝とよく似ています。ローマ人への手紙の方が、十字架による罪の贖いに関する感謝であるのに対し、ここでは復活と栄光に変えられる罪と死に対する完全な勝利、救いの完成への感謝です。私たちクリスチャンは一切のことをイエス様に任せて、今や何の不安も不足もない、パウロはこの奥義の信仰に生きるクリスチャンが行うべき実際生活を掲げて彼らを激励しました。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
(Ⅰコリント15:58)
パウロはこのように言っています。
色々と間違いの多いコリントの教会に対してこの手紙のはじめで、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた方々」という呼びかけをもって始めましたが、またここで「私の愛する兄弟たちよ」と親しく呼びかけていますが、私たちはこのような何気ない表現に牧会者としての愛の深いパウロの姿を見ることが出来ます。同時にこの書簡は神さまがパウロを通して現代の私たち一人ひとりに宛てた励ましの手紙でもあります。死に対して、希望と自身が湧いてきたでしょうか。