2015年8月23日 主日礼拝「キリストのからだ」
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 6章12~20節
説教題
「キリストのからだ」
今週の聖句
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
創世記1章27節
訳してみましょう。
1721 Opening your Bible can be a real eye-opener.
(聖書を開くことは、本当の目を開くことができる。)
1722 The death of Christ is the measure of God’s love for you.
(キリストの死は、あなたに対する神の愛のはかりです。)
説教メモ
アメリカの元大統領のジミー・カーター氏が肝臓がんを公表しました。
しかし彼は、その後も自身の孫が通う教会で
教会学校の教師を続けておられるそうです。
素晴らしいことだと思いませんか?
今日も教会学校教師の奉仕ををされています。
私たちのからだ
体のこと、不品行のこと。
パウロは何事をするにも赦されていると言います。
「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」(ローマ6章14節)
私たちは律法から解き放たれています。
当時、上げ足をとるために「恵みが増し加わるために 、私たちは罪の中にとどまるべき。」と言いだす者が出てきました。
聖書が言う「自由」を履き違えてはいけません。
「本当の自由」には、「規則」「規律」があります。
規則や規律がない自由は「放縦」となります。
「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(Ⅰコリント10章24節)
これもひとつの規律です。
「すべてが益になるわけではない。」
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2章3-4節)
日野原先生がいつもおっしゃっていることです。
「どんなことにも支配されてはいない。」
コリントの人々は自由を口にしていながら、「本能」の奴隷になっていました。
コリントの教会は不品行に満ちていました。
しかし本当の自由は、罪をおかす自由ではありません。
罪をおかさない自由です。
私たちは神さまの性格に似せられて造られています。
私たちの体を汚すとき、神さまを汚すこととなります。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、-あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2章4節)
「くださいました。」と過去形で書かれています。
私たちがキリストを信じた時、神さまの目から見て私たちはすでにそのような体になっています。
私たちのからだはキリストのからだの一部です。
イエス様は私たちからだの「かしら」です。
- 「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」「(エペソ1章22節)
- 「キリスト井よって、からだ全体は、ひとつひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4章16節)
- 「なぜなら、キリストは教会のかしらであって…」(エペソ5章23節)
不品行を避けなさい。
「避けなさい」=「逃げなさい」
不品行を行わないためには、避ける、また逃げることが必要となります。
私たちの内外には、様々な誘惑があります。
そういった誘惑を避ける、誘惑から逃げることが必要です。
創世記39章12節には、ヨセフが女主人から「逃げる」場面があります。
「それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」
それは私たちの手本となります。
不品行を行う者は、自分のからだに罪を犯すこととなります。
私たちのからだは、神さまから与えられた聖霊の宮です。
代価を払って、神の御子の尊い血によって買い取られ、神さまのものとなった私たちのからだを、汚してはなりません。
私たちのからだは、聖霊が宿る「神の宮」であることを強く覚えてください。
自分の体の健康のために、何か気をつけていることはありますか?
私たちは自分の体の健康のために様々なことに気をつけています。
自分たちが食べる物や運動など、たくさん気を使っていることがあると思います。
たとえば「BMI」は健康の目安になります。
医者はBMIが18~25が良いとしています。
目安から外れると、私たちは気をつけるようになります。
私たちは体の健康、そして霊的な健康に十分に管理していかなければなりません。
霊的な健康の標準は、聖書に書かれています。
健康管理に食べ物は欠かせません。
食べ物に関して言いますと、今は飽食の時代です。
日々の食べ物に困ることはほぼないでしょう。
しかし世界には、この時も飢餓によって命を落としている人々がいます。
私たちは食事の後、また持ち寄りのポトラックごとに飢餓対策として、食事代の他に献金をしてきました。
最近、それを忘れてしまってはいないでしょうか?
飢餓で苦しむ人々をおぼえていきましょう。