2015年8月30日 主日礼拝「神に栄光を」
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 10章14~11章1節
説教題
「神に栄光を」
今週の聖句
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」
(Ⅰコリント10章31節)
訳してみましょう
1723 Our hope is anchored in Jesus.
(私たちの希望は、イエス様に錨をおろす(根ざしている)ことです。)
1724 Paul was in earnest over one thing only, and that was his relationship to Jesus Christ.—Oswald Chambers
(パウロは一つのことのみに執着した。それはキリストとの関係においてであった。—オズワルド・チェンバー)
説教メモ
クリスチャン・トゥデイは、先週ナイジェリアで起きた悲惨な事件を報じています。
イエス様は山上の垂訓で「平和をつくる者は幸いです。」と教えられました。
平和は作りだす努力が必要です。
私たちも祈って、平和のために出来ることをしていきましょう。
偶像にささげた肉の扱い
当時のコリントの教会には、これは偶像にささげた肉である。」ということが多くあり、それを食べても良いのか、食べてはいけないのかという問題がありました。
それに対するパウロの結論は、偶像には何の力もなく実態のないものなので、
「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」(Ⅰコリント8章4節)
「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115篇3~8節)
食べてもかまわない。
しかし、もしだれかが「これは偶像にささげた肉です」と知らせた人のために、また、他の人の良心のために食べてはいけない、というものでした。
日本では、クリスチャンはタバコも酒も飲まないということが、ある意味常識になっています。
聖書は「すべてのことは、してもよいのです。」(Ⅰコリント10章23節)とあります。
同時に「しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」(同)と言います。
「クリスチャンはタバコも酒も飲まない」そう主張する人がいるその場で、そのような振る舞いをすることは良くないことです。
知らせた人のため、そして他の人の良心のために良くないこととなります。
神さまは私たちをご自身の似たかたちに造られました。
私たちはそのからだを以って、聖霊が宿るからだを以って神さまに栄光を帰していかなければなりません。
先週は健康管理について少しお話ししました。
栄光を帰するためのこのからだを、ベストのコンディションに保つことが必要です。
私は一日に二度、体重計に乗ります。私は私なりに体重のコントロールに気を使っています。それはベストコンディションを保つためです。
「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」
神さまが嫌うのは「偶像礼拝」です。
まことの神さまを礼拝することを喜ばれます。
パウロは2つのことを言っています。
- だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。(Ⅰコリント10章24節)
- こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(同31節)
私たちクリスチャンの目的とは、「神に栄光を帰する」ことです。
「偶像にささげられた肉」の場合であるなら、それが本当に自分のからだをベストコンディションにし、神さまに栄光を帰するために必要であるなら、食べれば良いのではないでしょうか。
何かをすることによって、どういう結果をもたらすか。その結果は神さまに栄光を帰することが出来るか。それが判断の基準になると思います。
パウロは、偶像にささげられた肉の扱いについて、
「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(Ⅰコリント11章1節)
と言っています。
パウロはキリストをどのように見習っているのでしょうか。
- 「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2章7~8節)
- 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15章3節)
- 「愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5章2節)
イエス様の姿が、私たちの模範です。
私たちは何をしても良いのです。
しかし、私たちの選択が、結果的に神さまに栄光を帰することができるかどうか、人の徳を高めることができるかどうか。
それが判断の基準となります。